きこえる (7)

 さて、そうしているうちにふたりは市名町のバイパスに辿り着いた。夕方から夜にかけての時間ということもあり、バイパスは沢山の車が列を成していた。赤のテール・ランプがふたりを照らし出し、長い影を落とす。


 亜衣は一瞬足が竦んでしまった。だが、先程――店に入る前だ――のようにひどく動揺することは決してなかった。代わりに、彼女は首を激しく横に振り、己の頭の中に浮かぶ妄念を振り払う。魔法があるから大丈夫、と強く言い聞かせているようにも見えた。


「このあたりか?」


 うん、と彼女は頷く。バイパスに通じる十字路。街頭も少なく、見晴らしもあまりよくない。ふと足元に目を移すと、まだ事故の傷跡が生々しく残っていた。深く傷ついたアスファルトに、タイヤのスリップした痕。今は工事中となっている柵も、おそらく事故で破損したものなのだろう。


 すると突然、亜衣はその柵を乗り越えてしまった。大人しそうな外見からは想像もつかない、かなり大胆な行動だ。さすがの靜もこれには目を剥いた。


「お嬢さん、危ないだろ」


 窘める口調で話しかけると、亜衣は己のスクールバッグを彼に押し付ける。


「確かめたいことがあるんです。ちょっと、持っていてもらってもいいですか」


 そういえば、店を出た時もそんなことを言っていた。彼女の真剣な面持ちは、靜の暗褐色の瞳をじっと見つめている。止めてくれるなと、強く主張しているようにも見えた。


 結果的に折れたのは靜の方だった。ふぅ、と短くため息をつくと、彼もまた柵を乗り越え、向こう側の草むらに足を降ろす。


「なにをお探しで?」

「靴です。私の、ローファー」


 そう、事故が起こった時に脱げてしまったらしい、彼女のローファー。片方だけ行方不明のまま未だ見つからない。ただ落としただけならば、おそらくこのあたりに落ちているのではないかと思ったのだ。


 もし、見つからなければ。


「三枝という人が、多分持っているんだと思うんです」

 きょとんとした靜に対し、亜衣は続ける。「新しくローファーを持ってきた人が、私を助けてくれたひとと関係があるんじゃないかなって。だって、そうでなければ私に靴を贈る理由がない」

「それなら靴の大きさが合わないのは変だ。靴のかた割れを持っているなら、サイズだって当然分かるだろうが」


 彼の指摘に、はた、と動きを止める亜衣。それもそうだ。どうしてそんな単純なことに気がつかなかったのか。自分の考えの至らなさに、亜衣は呆然としゃがみこむしかできなかった。結構いいアイデアだと思ったのだが……。がっくりとうなだれた亜衣は、そのまましばらく草むらを見つめていた。


 がさり、と草が揺れる音。靜が動いたのだ。

 のろのろと顔を上げると、彼はぼうぼうに伸びた草をかき分けている。


「探すんだろ、お嬢さん。急がないと、親御さんも心配する。これ以上心配させたら駄目じゃないか」


 靜はそれだけ言って、亜衣に背を向ける。中腰のまま、見つかるかどうかも分からない片方だけの靴を。黙々と草をかき分ける彼の背中を見つめたまま、亜衣はしばらく呆けてしまった。――否、自分が動かないでどうする。はっとし、彼女も低姿勢のまま草をかき分けてゆく。さらりと頬を掠める己の黒髪が邪魔だったので、ブレザーに入れっぱなしにしていたゴムで結んだ。


 しばらく、二人はそうしていた。一向に見つからず、靜が「ちょっと休憩しようか」と言い出すまで、亜衣も黙々と探し続けていた。彼の呼びかけに、亜衣は首を横に振る。


「もうちょっと、」


 ふと腕時計を見る。時刻は二十時を回っていた。かれこれ二時間近く探していたことになる。ふぅ、と短く息を吐き出し、亜衣は額の汗を拭った。


(……ここで、私は死にかけた)


 一度立ち上がり、亜衣はあたりを見回した。視界の端の方で、靜が袖口で顔を拭っている。


(そう、ここで)


 今でも瞳を閉じればはっきりと思い出すことができる。皆、あれは不慮の事故だという。だが、私は忘れたくない。私のために傷ついた人がいるということを。だから、お願い。本当に、魔法がかかっているのなら。


 どうか、なくした靴が見つかりますように。それがあれば、なんとなく、『あのひと』に会える気がする。謝れる気がする。ありがとう、って、言える気がする。


(だから、)


 私の声を、『あのひと』に届けてください――


「……あ……っ、」


 その時だった。亜衣の耳にノイズがかった音が飛び込んできたのは。

 初めはテレビの砂嵐のような音だった。そのノイズは次第に消え失せ、代わりにざらりと背中を撫で上げるような、低い音が混ざる。それが誰かの『音声』だと分かるのに、さほど時間はかからなかった。


(きこえる)


 亜衣はそっと耳に手を当てた。今はノイズよりも音声の方がより大きく聞こえてくる。人間の、男性の声。


「どうした?」


 亜衣の表情に、靜が心配そうに声をかけた。


「声が……声が、きこえる」


 初めは靜の声かもしれない、と思った。今この場所にいるのは彼女と靜の二人だけだからだ。だが、靜は亜衣の様子を見てきょとんとしていたので、おそらく声の主は彼ではない。聞こえてすらもいないのだろう。


(私だけに聞こえるの?)


 亜衣はあたりを見回しながら、その声の正体を探ろうとする。もっとはっきりと聞こえる場所があるのではないか。そう思い、目線を四方に散らす。暗闇の中、街頭の明かりだけがぽっかりと浮かび上がっている。人の気配は、ない。


「あなた……は、」


 ふと、靜が亜衣の肩を叩いた。


「お嬢さん。そこじゃないか」


 彼が指差したのは、交差点の一角。ひときわ破損が大きい所だ。それを見て、亜衣は目を瞠る。その場所に顔を向けた刹那、耳に届くノイズもひときわ大きくなった。その目にはなにも映らない。だが、亜衣はなんとなく、探しているひとがそこにいるんじゃないかと思ったのだった。


「あなたは、そこに……いるの……?」


 ゆっくりとしゃがみこみ、そっと声をかけてみる。もしかしたら、自分の声が届くかもしれない。そう思ったのだった。


 ピィン、ときつい耳鳴りが亜衣の耳を貫いた。


 ――きみ、は。


 突然ラジオの周波数が合ったかのように、クリアな男性の声が聞こえてきた。亜衣ははっと息を飲み、それから確かめるような口調で言った。


「私の声が……聞こえますか?」


 ――きこえる。


 空気の波を介している訳ではなく、ただその感情が直に伝わってくるようだった。不思議な気持ちだった。先程までうるさく感じていた周囲の音も、この声の前では些細なもの。それくらい、彼女にははっきりと聞こえていた。


 ――きみは、あの時の子かな。


 男性の声が、ためらいがちに訊ねる。お互い、姿は見えていないのだ。亜衣は「うん」と声を洩らしながら、首を縦に動かした。もっと、彼の声が聞きたかった。これが夢でも構わない。もしかしたら、あの店に行った時点で夢なのかもしれないけれど。


「私は、もう大丈夫です……」

 ――そう、か。よかった。


 声に微かな震えが混ざった。笑った時のそれととてもよく似ている。彼は、亜衣の目には決して見えないけれど、今確かに笑ったのだ。彼女の前で。


 ぶるりと背筋が震え、感情の昂りを感じた。ああ、まただ。また泣いてしまうかもしれない。こんなとき、泣いている場合じゃないのに。泣きたい訳じゃないのに!


 その時、ふわりと亜衣の肩に何かがかけられた。靜の着ていたモスグリーンのジャケットだ。振り返ると、靜が優しい面持ちでこちらを見下ろしている。まるで、頑張れと背中を押してくれているようだった。


 ……そうだ、私は今、沢山の人に支えられている。

 この気持ちを伝えればいいんだ。

 そう思うと、なんだか心の中がすっと軽くなった。


「私、あなたに会いたかったんです」

 自然とこぼれ落ちる、言葉。「ありがとう、それから、ごめんなさい……何度も何度も、伝えたくて。それだけを伝えたくて私はここに来たの。あなたがひどい怪我をしたと聞いたから。私のせいで、」


 ――ちがうよ。


 しばらく黙って聞いていた『彼』だったが、亜衣が自分を責め始めたとき、突然口を開いた。驚いて、亜衣の唇がぴたりと止まる。

『彼』は、変わらずに亜衣の前にいた。言葉に窮して、それ以上話せないでいただけなのかもしれない。


 ――おれが勝手に飛び出しただけだ。


「でもそれだと、あなたが!」


 その時、亜衣の頬に何かが触れた。温かいような、するりと滑らかな感触。それはただの風だったのかもしれないし、そうではなかったかもしれない。ただ、亜衣には、『あのひと』が優しく微笑みながら頬を撫でてくれているように感じていた。目には見えない、その掌で。


 ――きみは優しい子だね。


 その一言に、亜衣は覚えがあった。脳裏を掠めていくのは、先程不思議な店で知り合ったばかりの、あの若いマスターだ。あのひとも、そう言って自分を励ましてくれた。


(ああ)


 どうして、皆優しいのだろう。優しいのは私ではなく、あなたたちの方なのに。


 ――きみみたいなかわいい女の子を助けることができた。かっこいいだろう? それで、満足だから。一生の自慢にできるよ。


「でも……」


 ――どうしてもと言うのなら、おれのことをほんの少しだけ、覚えていてほしい。


 自然と、亜衣の瞳から涙がこぼれ落ちていた。そして、それ以上の言葉が紡ぎ出せないでいる。その沈黙を察してか、男性の声も困ったようなおどけたような声色へ変わる。


 ――泣かないで。笑ってほしいな。ええと、名前……。


「亜衣」

 ようやく言葉を吐き出した。「私は、神楽亜衣」


 ――あいちゃん、か。覚えておくよ。きみが覚えていれば、必ずまた会える。


 どんどん『声』が溶けてゆく。氷のように、掴めないものへと変わってゆく。待って、と亜衣が顔を上げるも、その『声』にはどんどんノイズが混ざってゆく。


 ――硝子の靴じゃないけれど、を持って迎えに行く。



 そこで、『声』が完全に途切れた。

 バイパスを走る車の音。夜の静けさを引き裂いて走り抜ける。俯いたままの亜衣に、かける言葉を探して靜はただ突っ立っていた。


 二人の間を、風が吹き抜けてゆく。その感触はあたかも、誰かに優しく包み込まれているかのようだった。

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