きこえる (6)

***


 外は夜色の静かな空気に満ちていた。ゆっくりと店の扉を閉めると、亜衣はそっと靜を仰ぐ。

 春先とはいえ、夜は冷える。靜が寒そうに唇を噛みしめるのを見て、彼女は慌てて顔を真正面へと戻した。


「――それで、お嬢さん。これからどこに行くつもりだ?」


 靜の問いに、亜衣はゆっくりと頷く。


「市名町の、あの交差点」


 病院ではないのか、とすぐに聞き返されたが、亜衣ははっきりとした口調で続けた。どうしても確かめたいことがある、と。その自信に満ち溢れた表情に、靜も納得したようだ。肩を竦めながらも、


「お供いたします。お姫様」

 と、優しく微笑んだのだった。


 亜衣にはなぜか、そんな靜の一言がためらう彼女の背中を押してくれているように思えてならなかった。こんなにお世話になっておきながら、今更引き下がることなんてできない。なんとしても、私は『あのひと』に会うのだ。会わなくてはならない。


 ――それにしても。


(私には、どんな魔法がかかったのだろう――?)


 恐る恐る、亜衣は最初の一歩を踏み出した。


 突如吹きつける、風。


 そのとき、彼女はなぜか、特に根拠もないが「世界」が変わったように感じた。

 今、己の前を吹き抜けていった風の音。随分遠くから聞こえる車のクラクション。雑踏のノイズ。街路樹の葉が擦れ合うざわめき。己の周りに溢れる音と言う音が、こんなにもクリアに聞こえてくる。初めはそこまで気にも留めなかったが、次第に彼女は『違和感』を覚えていった。街全体のヴォリュームが上がってゆくのだ。あっと言う間に、音の波はクリアを通り越し、爆音となった。容易く言葉に置き換えることができぬほど、その感覚は強烈すぎる。あまりの刺激の強さに、亜衣は思わずくらりとよろめいてしまった。


 その表情を見て、靜も何かを察したらしい。すぐに彼女の手を引き、そっと耳元で囁いた。消え入りそうなくらいに小さな声。


「大丈夫。すぐに慣れる」


 だが、そんな彼の声も今の亜衣には大きすぎる。短い悲鳴ののち、空いている右手で自身の耳を塞いでしまった。己の拍動すら、がんがんと乱暴に叩きつける鐘のように聞こえる。自分の身に何が起こったのかさっぱり分からず、亜衣は混乱したまま両目を瞑った。

 暗闇の中、沢山の音が波のように押し寄せてくる。犬の遠吠え。人間の話し声。テレビ番組の笑い声。あらゆるものが彼女の脳内をせめぎ合う。


 しばらく身をこわばらせたまま黙っていると、ピィン、と突然音叉を弾くような音が耳に飛び込んできた。


「あっ……?」


 亜衣はのろのろと目を開けた。うるさいほどに鳴り響いていたたくさんの音が、音叉の音色を境に霧散したのである。

 辺りは静寂に包まれていた。首だけを動かし街並みを見渡すも、あれだけの音が溢れていたとは思えないほどにしんと静まり返っている。


「大丈夫か?」


 頭上から降ってきた靜の声も、先程の轟音ではなく、通常の音量に戻っていた。見上げると、心配そうに黒の光彩が細められている。


「は、はい……ごめんなさい。びっくりしちゃって」

「よかった。あいつの魔法、時々効きすぎるんだ」


 亜衣の身体に起こった異変も、おそらく効きすぎたせいなのだろう。一度慣れてしまえば問題ないと靜が言うので、亜衣もようやく安心してほっと息をついたのだった。


 ふたりは夜の街に足を踏み入れる。

 先程のように轟音が聞こえることはなくなったが、亜衣の耳は依然必要以上の音を拾い続けていた。家の前を通るたびに聞こえる、住人の話し声。車が横切ると、その車内で流れているカーステの音がはっきりと聴こえた。ついには誰もいない開けた道でぼそぼそとした声を拾い始めたので、「幽霊の声は、ちょっと……」とつい溜息をもらしてしまった。


 亜衣の横を黙々と歩き続ける靜には、そんな声は全く聞こえていないらしい。ということは、やはりこれが『魔法』の効果なのだ。


「あの、新井さん」


 あたりは充分過ぎるほどの音に満ちていたが、ふたりの間の沈黙には耐えかねた亜衣がそっと話しかけた。彼はちらりと横目で亜衣を見たが、すぐに目線を真正面に戻す。


「靜でいいよ。俺はあまり名字で呼ばれないから、その方がいい」

「じゃあ、靜さん」

 訂正。そして続ける。「靜さんは、あのお店で働いているんですよね?」

「ああ。正式な従業員ではある」

「じゃあ、あなたも魔法使いなんですか?」


 靜が困惑した表情を浮かべた。その反応に、もしや聞いてはいけなかったのだろうかと後悔する亜衣である。もしかしたら、魔法使いの間ではその類の質問は禁句なのかもしれない。自分の知らない世界なのをいいことに、彼女の頭の中ではあれこれと要らない妄想が繰り広げられている。


「魔法使い、ねぇ」


 確かに、靜は言葉に窮していた。――というよりは、適切な言葉を選んでいる、と言った方が正しいか。


「いや、違う」

 でも、と彼は続けた。「シンデレラで言うところのネズミかなにかだとは思う」

「正宗さんは靜さんのケーキでも魔法がかかるって言っていましたが……?」


 厳密に言うと違う、と靜は否定した。そして再び、どう説明すべきかと頭を抱える。


「ええと、お嬢さんは『触媒』って知ってる?」


 しょくばい? と亜衣が首を傾げた。


「触媒っていうのは、『それ自体は変化しないまま、接触する周りの物質の化学反応を促進・あるいは抑制する物質のこと』。俺のケーキと正宗のコーヒーの関係はそれと同じ。実際魔法をかけているのは正宗だけだが、俺のケーキとセットにすると何故か魔法の効力が強くなる」


 ふぅん、と亜衣は頷いた。分かったようなそうでないような、ひどく曖昧な反応である。まぁ、そんなことを懇切丁寧に説明しても、どうせ彼女は夜中の十二時になれば全部忘れてしまうのだ。そういう意味を込めて、「分からなくてもいいよ、別に」と付け加えておいた。


 だが、亜衣はすぐに顔を上げ、口を開く。


「それでも、魔法使いですよね」


 そして言い放った一言。靜は驚いて、思わず目が点になってしまった。彼女が真顔だったので、尚更心配になる。正宗の魔法が効きすぎて、頭がどうかなってしまったのではないかと。そういう考え自体が失礼だということに、気が動転している靜は全く気がついていなかった。


「今の話、聞いていたか?」

「ええ」

 彼女ははっきりと頷いた。「魔法使いのお助け役は、やっぱり魔法使いですよ」


 そうですか、と靜は呆れたように肩を竦め、それからは暫し無言で歩いた。

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