きこえる (5)

 やたらさっぱりとした態度に、思わずぽかんとしてしまったのは亜衣の方である。


 さて、と正宗はおもむろに奥からコーヒー・ミル、それから豆が入った袋を取り出し、慎重にそれらをミルの中へと投入する。細長い指先がミルの回転部を掴み、そのままゆっくりとした手つきでハンドルを回し始めた。


 こりこり、と心地良い音と苦みの利いた香りが亜衣の鼻をくすぐる。店に入った時に感じたあの香りは、このようにして生み出されているのだ。


「豆から挽くんですね」

「うちは見ての通り、滅多にお客様は来ません。だからその都度挽いているんです。スイーツの準備も他に比べると大分時間がかかりますからね」

「そうなの……」


 豆を挽き終わり、エスプレッソ・マシンにそれを詰める。九気圧の圧力と、約九〇度の湯温。抽出時間は二〇秒ほど。この時間に、正宗は全てをかけていると言っても過言ではない。それから抽出された約一オンスのコーヒーが全てを左右する。だからそれに集中するのみだ。


 その様子を、亜衣はじっと見つめていた。先程にこにこと笑いかけ、頭を撫でてくれていた人とは思えないくらい緊迫した表情を浮かべていた。正直、怖いと思うほどに。しかし、ふんわりと漂ってくるコーヒーの良い香りに、その思考は断ち切られた。


 憂いにも似た正宗の表情が、その瞬間とてもきれいだなと亜衣は思ったのだった。


「――亜衣さん。カップッチョって知っていますか?」


 唐突に正宗が口を開いた。


「え? いいえ……」

「カプチーノは、元来カトリック教会の一派であるカプチン会の修道士のことを指すんです。その修道士たちが着るフードのついた修道服がカップッチョ。それが所謂カプチーノの語源です。イタリアでは、カプチーノはカップッチョとも呼ばれています」


 より具体的に言うと、「カプチーノの優しい茶色が修道服の色と似ていたから」という説、「白い泡がコーヒーを囲む様が、頭頂部のみを剃髪した修道士の頭にそっくりだから」という説、さらには「エスプレッソに浮かんだミルクの泡を蓋に見立てた――そもそもカプチーノには「蓋」の意味もある――から」という説などもあるらしい。


 そんな蘊蓄うんちくを実に楽しそうに語られ、亜衣は少々、否、かなり引いていた。


「おや、亜衣さん。今『この人ちょっと頭の中が残念だ』とか思いましたね?」

「え、いや、そんなことは……」

「いいんですよ。おれを知る人は大抵そう言います。おれの場合、ちょっと知識に偏りがありまして……。それでもね、物事にはきちんとした意味があるということを、なんとなくでいいので分かって欲しいな、と。そう思うのです」


 別に用意していた温いミルクを、正宗はホイッパーで泡立て始める。軽やかな金属音が、静かな空間に響き渡る。


 音楽もなにもかかっていない、不思議な喫茶店。しかしそれがとても心地良く感じられた。瞳を閉じてその音に耳を傾けると、規則正しい細やかなリズムを刻んでいる。


 だから、と正宗の声がホイッパーの音と同時に耳に入りこむ。


「ひとつだけ言わせて下さい。余計なお世話だと、聞き流して頂いてかまいません」


 正宗は口を動かしながらもホイッパーを回し続ける。かしゃかしゃ、と軽快な音。


「物事には意味がある。あなたが気に病んでいる方の気持ちも、考えてみてはいかがでしょう」

「え……?」


 亜衣は瞳を開けた。彼は先程同様、優しい表情を浮かべている。


「きっと、その方はあなたのことを守りたかった。ものすごく勇気がいることですね、だって自分が怪我をすることを厭わずにあなたを助けたんだ。普通緊急時は、自分のことでいっぱいいっぱいになりますよ。それでも彼はあなたを助けた。彼にとって、あなたには生きる価値があると思ってもらえたんです。だからね、」

 微笑みを湛えながら彼は言う。「自分の命を『その程度』のものだなんて、思ってはいけません。その方の行動の意味を無下に扱うのと同じことになりますから。……嫌な思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい」


 亜衣ははっとした。同時に、ただ自分を責めてばかりいたことを、ひどく恥ずかしく思った。謝りたいだなんて、実にひとりよがりな考えではないか。そしてその理由も。「どうして彼がそのような行動をとったのか」――そこまで考えられなかった自分を恥じ、未熟さにまた涙が出てきた。ただ泣くことしかできない自分がもどかしい。


「――あなたは優しいひとだ、とても」

 だから泣かないで、と正宗は言う。「誰かのために泣けることは、あなたのいいところだ」


 目を擦ると、すぐに正宗が「腫れるから」と引き出しからハンカチを取り出した。桜の色をしたタオルハンカチは、微かに花の甘い匂いがした。


 長門さん、と名を呼ぶ亜衣の声は見事に鼻声だった。


「ご、ごめんね。おれ、言いすぎちゃったよね」


 さすがに慌てたのか、今度は正宗がおろおろし始める。

 しかし彼女は正宗の心配をよそに、首を勢いよく横に振る。違うのだということを、彼女は拙いながらも彼に伝えようとしていた。むしろ、はっきりと指摘してくれたことが嬉しいのだ、と。


「私からしてみれば、正宗さんが優しいひとです……っ」


 彼女の一言。それが彼の気持ちを不思議と和らげていく。

 泡立てたミルクを淹れたてのエスプレッソへ浮かべ、ココアパウダーをほどよくかけた。ふんわりとした湯気が甘い香りと共に立ち上り、亜衣の気持ちまでもふわふわと高揚させてゆく。先程までの感情の昂りとは方向が違う。真綿のような優しさの中に、わくわくする不思議な気持ちが包まれたような気持ちだった。


(落ち着く、って、こういうことを言うのかな)


 そうしているうちに、厨房から靜も出てきた。白を基調としたアンティーク風の皿に、シフォンケーキが乗っている。添えられた真っ白なホイップとチャーピルが、爽やかな色彩を放つ。


「うげっ。被ったか」


 靜が一瞬顔をしかめたが、正宗は満足そうに首を縦に振るばかりだった。


「何も言わなくても分かってくれる人がいて、幸せだよ。おれは」


 そしてその皿を亜衣の前へ静かに置いた。ことん、と軽い音がする。


「お待たせいたしました。こちら当店自慢のシフォンケーキでございます」

 その綺麗な装飾デコレーションといったらない。まるでどこかの高級レストランにでも行ったかのような繊細かつ美しいものだった。思わず亜衣は口に手を当てつつ「わあ……」と感嘆の声を上げている。


「こちらはカプチーノです。説明はまあ……先程言いましたから、不要ですね。よろしければシナモンスティックもどうぞ」


 今度は正宗が差し出す。


「いい香り」


 そりゃあ、と正宗が笑う。


「ケーキに至っては、彼はプロですからね。この人、三ツ星レストランでパティシエをやっていたこともありますし」


 言うな、と靜が小突いたので、それ以上正宗は何も言わなかった。代わりに、亜衣に対して最後の確認をすべく重い口を開いたのだった。

 そう、この店における『ルール』を、彼女に理解してもらうための。


「――亜衣さん、よく聞いてください。この二つを食べ終え、この店を出た時からあなたに魔法がかかります。どんな効果が現れるかは、おれたちにも予測しかねます。しかし、その魔法が、きっとあなたの願いを叶えてくれる」

 ただし、と正宗が言う。「この魔法には制限時間があります。日付が変わるまで――すなわち夜中の十二時になるとこの魔法は解けてしまいます。それと同時に、あなたはおれたちに対価を支払わなくてはならなくなる」

「対価? お代ではなく?」


 正宗は小さく頷いた。


「お金は一切頂戴しておりません。そのかわり、あなたの記憶の一部を頂きます。おれたちに関わったこと……、そうだな、例えば、おれや靜にこの場所で出会ったこと、ここで口にしたもの。そういったものを忘れてしまう。それが、この魔法の対価です。それでもよろしければ、どうぞ召し上がれ」


 亜衣はしばらく俯いたままじっと黙りこんでいたが、その震えを帯びた右の指がカップの取手に触れた。

 カップが静かに持ち上げられ、ゆっくりと口へと運ばれる。温かな湯気とふわふわの香りが鼻をくすぐる。


 そんな彼女を、暖かな目で正宗と靜は見つめていた。

 魔法がかかる瞬間を己の目で確かめるために。


「……おいしい」


 彼女の口からこぼれたのは、たった一言、それだけである。しかしその幸せそうな表情が、この二人を喜ばせたのは事実だ。

 しばらく観察していると、あっという間に皿の上のケーキもカプチーノも彼女のお腹へと収まってしまい、彼女はいたくご機嫌の様子だった。


「さて、制限時間まであと六時間くらいか」

 正宗がふと時計を見て言う。「亜衣さん、行ってらっしゃい。きっとあなたの望みは叶う」


 そして靜を呼ぶ。


「亜衣さんを送ってあげてくれるかな」

「ああ。まあ、この時間じゃあな。高校生の女の子をひとりで歩かせるには可哀そうだ」


 亜衣は初め遠慮していたが、そののちに正宗が言った「正直なところどんな魔法がかかったか分からないから」という一言で決心がついたらしい。靜に送ってもらうことにした。


 それじゃあ、と二人は玄関口に立つ。靜がエプロンを解き、モスグリーンのジャケットを羽織っている。その時、亜衣はふと正宗に振り返った。


「正宗さん」


 彼女はなにか言いたいことがある素振りを見せているが、なかなか決心がつかないらしい。どのみち忘れてしまうのだから、覚えているうちに話した方がいい。正宗がそういった旨を告げると、亜衣は囁くような口調で尋ねた。


「このお店の名前が『シンデレラ』であることも、なにか理由があるんですか」


 その問いに、ぴたり、と正宗が一瞬手を止めた。それから、ゆるゆるとそのはしばみ色の瞳を閉じ、再び手を動かし始める。


「……そうですね。この店には『灰かぶり』がちょうどいいんです」


 そして、ぱっと顔を上げる。彼はその後の彼女の言葉を遮るように満面の笑みで言った。


「さぁ、いってらっしゃい。シンデレラ」

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