きこえる (4)
***
「一カ月前、交差点で交通事故があったのをご存知ですか」
きょとんとした正宗の横で、ドアにもたれかかりじっと耳を傾けていた靜がゆっくりと首を動かした。
「ああ、
「そうなの?」
尋ねる正宗に、靜は肯定の意を示す。
「ああ。買い出しの時にちょうど通りかかったからよく覚えている。なんでも軽トラックの積荷の紐が外れかけていたのに気がつかず、運転手がそのまま走り出してしまったらしい。道を曲がるときに、その荷物が崩れたんだと」
なるほどね、とようやく正宗が頷いた。彼はそんな話はまったく知らなかった、とでも言わんばかりに新鮮な反応を示す。この世間知らずめ、と悪態をついた靜だが、亜衣はそんなことは全く気にも留めていないらしい。ただ、自分の話をうまく伝えようと必死になっていた。
「それで?」
正宗が続きを促す。
「――その事故に巻き込まれたのは、私なんです。私と、もう一人」
彼女はその日、交差点の横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。時刻は夕方、黄昏の朱が次第に夜色のヴェールを纏い始める時間だった。亜衣は、基本的に寄り道をせずまっすぐに帰宅する。この日も、いつも通り自宅に帰るつもりでいた。
細い路地を一台の軽トラックが走ってくるのが見えた。大きな家電製品を積んでおり、それをゴムの紐で縛り固定しているのが見えた。通り過ぎるほんの一瞬の出来事だったので、残像と言っても過言ではない。事実上、縛っていたのは彼女が見たその一瞬までだったのだから。
トラックがカーブを曲がった瞬間、ぐらりと大きな塊が傾いた。そしてそのままバランスを失い、彼女に向かって倒れて来たのだ。あまりに突然で、避けることもままならなかった。潰される、と直感する時間すらなかった。
しかし、そんな彼女の耳に、「危ない!」という声が飛び込んできた。
頭を強かに打った。全身がずっしりと重い何かに押し潰され、息ができない。やや離れたところで甲高い悲鳴がぼんやりする思考の片隅で小さくこだましていた。
(ああ、私、死んだのか)
彼女はそう思っていた。ひゅ、と喉から乾いた空気が洩れる。同時に、己の頬に何か生ぬるい感触がつぅっ、と走っていった。次第に鮮明になる、嗅覚。どこか生臭いような、鉄の臭いがした。
(違う、生きてる)
呆然としているうちに、その家電は通りがかりの人にどけてもらうことができた。その時、彼女は初めて知ったのだ。
彼女の上に覆いかぶさるようにして、一人の男性が下敷きになっていた。彼女の頬を濡らしたのは、紛れもなく、彼が流した血液だった。彼は瞳を閉じたまま、亜衣にその身を預けるようにしてぐったりと倒れている。ぴくりとも動かない。
亜衣が覚えているのは、そこまでである。
次に目を覚ましたときには、彼女は病院のベッドに横になっていた。随分長く気を失っていたらしい。後から駆けつけてきた両親が顔を綻ばせながら涙するのを、亜衣はどこか他人事のように感じていた。そう、この時、彼女はまだ状況を把握できていなかったのである。
事故の詳細を聞かされたのは、亜衣が目覚めてから大分経ってからのことだった。彼女自身は幸い大した怪我もなく、医者からもすぐに退院できるだろうと言われていた。
あの時その男性に助けてもらわなかったら、もっとひどいことになっていただろう。そこで彼女は、医師にその男性のことを尋ねてみた。もしも同じ病院に搬送されたのなら、直接会って礼を言うくらいできるだろうと思ったのだ。
しかし、医師は首を横に振り、残念そうに言った。
――彼は別の病院にいるんだ。
初めは亜衣と共にこの病院に搬送されたのだが、その状態があまりにひどかった。緊急手術はしたが、後にもっと設備が整った病院に転院したのだそうだ。手術は一応成功したが、それ以降の話は患者のプライバシーの問題もあるので、詳細は教えることができない、とも言われた。
せめて名前だけでも、と亜衣は食い下がったが、医師は頑として口を割らない。結局、彼女はその男性についてなにひとつ知ることができなかったのである。
がっかりして自分の病室に戻ってくると、そこには亜衣の母親がいた。その手には、横に長いクリーム色をした箱がひとつ。母親は戻ってきたばかりできょとんとしている亜衣に、その箱を渡した。
なんでも、亜衣が検査に行っている間に、
一体誰だったのかしらね? と首を傾げる母親を横目に、亜衣はその箱を開けた。
中に入っていたのは、黒い色をした一足の革のローファーだった。
丁寧に取り出してみると、亜衣の靴の大きさよりもほんの少し大きい。しかし、新品のそれは実に質のいいものである。右足、左足と取り出すと、箱の中からひらりと紙きれがこぼれ落ちた。
『もしご迷惑でなければ、お使いください。三枝』
紙切れにはそのように書かれていた。
震えるか細い筆跡に、亜衣ははっとする。これはまさか、あの男性のものではなかろうか。確かにあの日以来、亜衣の履いていた靴は片方行方不明になっている。もしもその男性のものだったのなら、――あのひとは、生きている?
そう思ったら、なんだか亜衣は己が恥ずかしくなった。
「あの時、『あのひと』は私を助けてくれました。怪我だって、あんなに血を流していたのに……私は『あのひと』にもらってばっかり。私はまだ『あのひと』に何もしてあげられていない!」
本当に辛いのは、まさしく彼のはずだ。自分をかばったりしなければ、彼は怪我をしないで済んだはず。しかも大きな病院に移らなければならないほどの大怪我なのだ。そんな状態になっても尚、亜衣のことを気づかっている。もう何と表現したらいいのか、亜衣は分からない。恥ずかしくて、申し訳なくて、何もできなかった自分が嫌でしょうがなくて。
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。溢れ出て止まらない。紺色の制服のスカートに、ぼつぼつと水の染みがつく。
許されるはずなんか、ない。皆があれは「事故だ」と言うけれど、本当にそうだろうか。もしも自分できちんと避けていたら、きっとあの男性は巻き込まれなかった。夜、眠りにつくと必ず夢を見る。あの日の出来事が、何度も何度も繰り返す。崩れる荷物。下敷きになる男性。何度も何度も、彼は亜衣の夢の中で倒れて行く。夢の中で繰り返し、彼は怪我をし、大量の血液を流す。泣いてもどうしようもないということは分かっている。だが、亜衣の心はもう限界だった。
その時、ふわりと、泣きじゃくる彼女の頭に何かが乗せられた。――正宗の掌だった。優しい手つきでやや短い亜衣の頭を撫でると、そっと囁くような口調で彼は問う。
「君の、願いは?」
「――謝りたい。謝って済む問題じゃないのは、分かってる……。だけど、怪我をするべきだったのはあの人じゃない、私なの! だから、あの人に会いたい。会って、ごめんなさい、って……もう、遅いけど」
そうか、と彼が言うと、正宗の右手が彼女の頭を離れた。そして、確認するような口ぶりで問う。
「時間を戻して、じゃないんだね」
「時間を戻しても事故は絶対起こる。私だけが怪我をするならそれでいいの。だけど、そうなるとは限らないもの。『あのひと』がもっとひどい怪我をするかもしれない。それは嫌。他の人が怪我をするのは、絶対、嫌」
我儘だと思うけれど、と亜衣ははっきりと言った。
そうだ、結局は自分の我儘で、自己満足でしかない。分かっているけれど、黙っているのは嫌だった。名前も、転院したという病院も、住所も、電話番号も分からない。それでも亜衣は彼に会いたかった。諦めたくなかったのだ。
――ちりぃん。
その時、涼やかで、そして他に混ざり気のない純粋な音が彼女の聴覚を刺激した。亜衣が顔を上げると、正宗が胸元で小さなハンド・ベルを鳴らしたところだった。
「靜、オーダーだ。どうか彼女にぴったりなスイーツを」
「正宗はどうする?」
「察しろ」
「……りょー、かい」
そう言うと、むすっとした表情で靜は奥の厨房へと入って行ってしまった。
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