第十話 夜の子ら(下)

(壱)


 ファディシャは、阿片オピウムの眠りのなかにいた。

 傍らには、誰よりも彼をよく知っている妾妃ドゥルサーラがひっそりと付き添っている。

 眠りにつくまえに、彼の魔術師が甘い眠りを誘う阿片丁幾ローダナムを飲ませていった。彼は静かにしたがった。今はまだ目覚める時期ではない。目覚めは彼にとって死よりもあらがいがたい屈辱だった。


 眠りに落ちるまで、魔術師の白い手が彼の頬や髪をなぜた。彼を眠りへと誘う阿片オピウムとおなじように、苦しみを麻痺まひさせる柔らかな感触だった。彼は癒し手のその優美な手を憎んだ。少しずつ神経を麻痺させるような緩慢な死など彼は求めていなかった。


 俺がお前に望むのは、そんなその場しのぎの子供だましじゃない。


 強いられた眠りは、彼を記憶のなかの印象的な場面に誘い込んだ。

 それはいつも幻聴から始まる。兵士たちのさざめきと吹き荒ぶ風の音が入り混じった響きが、ざわざわと耳を掠める。


 淡く積もった白い雪が地上を清めていた。

 ラ・ウの瞳は中点で満ち、日没直後から谷のすみずみまで明るく照らしていた。


 あれは、いつの冬の始まりだったか。

 ファディシャは戦場いくさばにいた。少年はもう初陣を済ませていた。

 それは、ウズリン族の南方回帰に合わせたなかば儀礼的な戦闘だった。父から初めて指揮をまかされたが、ほんの手合わせに過ぎない戦だった。ほどほどに戦い、ほどほどに犠牲をきょうするための。そして、その相互にささげた犠牲をもって、天空にすまうラ・ウに厳しい冬の安寧あんねいを祈願するのだ。


 「イムナン・サ・リ」

 彼は、仏頂面の新参の魔術師に声をかけた。

 新参者は、女のような顔をした痩せた若い男だった。

 偉丈夫いじょうぶばかりがそろったファディシャ直下の戦士たちとは比べると、とても戦力になりそうもなかった。ただ、その異端めいた黒い瞳が人を恐れさせた。

 折角この戦の重要な役を任せてやったというのに、男は不服そうだった。少年は彼に術者のしるしの漆黒の羽冠を被せてやった。


 「こんな目立つものを被ったら、真っ先に射殺いころされてしまいますよ」

 「安心しろ。術者を射殺すなど、そんな不祥ふしょうなことは誰もせん。ぶつぶつ言わないで、さっさと仕事をこなせ。これではなかなか戦が始まらぬ」

 少年はまったくやる気をみせない魔術師をうながした。

 「お婆にやらせればいいでしょう。こういうの得意そうじゃないですか」

 そういいながらも、魔術師ははげしく暴れるにえを籠から取りだした。

 「あれは、冬は神経痛がひどくてな」

 あれこれと不平を言い連ねながらも、魔術師は暴れる水鳥の脚をこともなげに片手で握って持ち上げると、喉を短剣で勢いよく切り裂いた。鮮血が白い雪を染めあげた。


 「さあ、やりましたよ。どうです」

 血しぶきが雪を染めた模様から吉凶を読むつもりはないらしい。まったく持って職務怠慢だった。

 その真紅の模様は、鳥がつばさを広げたようなかたちをしていた。

 「これは、なかなかの瑞徴ずいちょうだ」

 にやにや笑いながら、ファディシャはまだぴくりと痙攣まひをおこしている水鳥を魔術師から取り上げると、滴る血をもうひとつの手に受けて、魔術師の両頬に塗りつけた。あっと思う間もなく、若者の白くうつくしい顔に鮮血の戦化粧いくさげしょうがほどこされた。

 「これでお前もいっぱしの蛮族の魔術師だ」

 少年は無邪気に笑った。そんなふうに笑うのは久しぶりだった。戦いとは無関係に気持ちが高揚していくのを感じた。魔術師は血生臭さに顔をしかめながら、思いきり彼のあるじを睨みつけた。


 月明かりのなか、両軍ともに陣が組まれた。

 魔術師は少年に約束していた。条件が合ったならば、この戦で目もくらむほどの魔法をみせてくれると。

 「おい、どうなのだ」

 少年は待ちきれずに不機嫌な若者に訊いた。

 「いいでしょう」

 魔術師は風を読んだ。時間と気温は想定どおりだった。


 やがて、羽冠に戦化粧のすがたの魔術師が陣の先鋒さきぞなえに現れて、その痩躯の手に余るほどの大型のクロスボウに焔硝えんしょうを仕込んだ火矢をつがえた。

 直前に火縄に着火するとバチバチと火薬の音がした。魔術師は、敵陣の本隊からやや逸れたある一点をねらった。その呪術的な行為を両陣が見守るなか、矢が放たれた。

 火矢は唸りながら、薄ら雪をかぶった凍土を突き刺した。


 次の瞬間、大地がおおきく爆ぜた。


 爆音とともに、人馬が吹き飛ばされ、叫喚がとどろいた。強大な魔術を目のあたりにして、敵も味方も戦き、相互の陣営は形為さずちりぢりに散っていった。


 ファディシャは、その奇跡に目を見張った。

 魔術師によると、ちょうど合戦場の辺りはもともと沼地で、絶え間なく燃える空気、沼気メタンが発生しているのだという。冬も本格的になれば沼気メタンも凍りつくが、今の時期、この時間帯は気体のまま氷の下に閉じこめられている、と。

 魔術師はよく廻る舌で説明したが、少年の耳には入らなかった。

 ただ、その月と雪のひかりに照らされた残酷な光景だけが、少年の心にうつくしく記憶された。


 繰り返し、夢見ている。今も阿片オピウムの眠りのなかで。


(弐)


 魔術師は、石切場の跡地にある大岩のうえで空を見あげていた。身を切るような寒さが心地よかった。未明が近づいてくる。もうすぐ長かった夜が終わる。叶うことなら、このまま黎明の明けゆく空を眺めてみたかった。

 庵へいったん戻り、消炎作用の高い乳香オリバナムの精油でさっぱりと身を清めるとやっと人心地ついた。

 刺繍の入ったシャツは故郷のもので、この地の風習にあわせるつもりはないようだった。ウズリン族のなかで長く暮らしているというのに、土地の人間にはまずみえなかった。


 傷の治りは遅いほうだった。身体の奥の鈍い疼痛や表層の傷口の引攣ひきつれが、しばらく彼を悩ますだろう。苦痛に耐えることには慣れていた。痛みを鎮めるいかなる手段も彼の超能力者サイキックとしての感覚を狂わせた。なにかに酩酊しておのれの制御がつかなくなることは、身の破滅を意味した。そう、阿片オピウムなどもってのほかだが、誘惑にられそうになることもあった。今宵などまさにそんな気分だった。

 少し食欲は戻ってきたが、お婆が差し入れにサラマンダーのスープを持ってきたのには閉口した。ギ・イェクでは、あの娘のとらえた怪しげなサラマンダーの生焼きから逃れたというのに。


 「おーい、サ・リ。やはりここだったか」

 当の本人が両手になにやら抱えてやって来た。イムナン・サ・リはくすりと笑った。

 「何が、おかしい」

 ゲイルは問いただした。

 「いえ、ちょうどあなたのことを想っていたので」

 その言葉に少女はどきりとしたが、男の皮肉っぽい表情を見てからかわれていると悟った。包みを先に置くと、ひらりと岩のうえに飛び乗って、切り出しのきわに腰をおろすと身体をひねって男の方を向いた。

 「どうせ、ろくでもないことなんだろう。そんなことより、差し入れだ。スーラ自慢の雷鳥の包み焼きだ。スーラいわくタルクノエムの食卓にあがってもおかしくない一品だそうだ」


 ゲイルは包みを開いた。円い平鍋のうえに焼き上がったパイが切り分けてあった。ここまで一散に駆けつけてきたのか、白い湯気がまだ残っている。

 「それはお気遣いを。乳母殿にはよろしくお伝えください」

 そう言うと、唐突にイムナン・サ・リの手が少女の髪に触れた。かすかに香草の匂いがした。

 「なんだかさっぱりされましたね」

 「ああ、帰るなりスーラに石風呂に押し込まれた」

 言い終わらないうちに、男の両掌が少女の頬を包みこみ、ちいさく唇が重ねられた。

 「あなたを無事に帰すことができて、本当によかった」

 またくどくどと繰り言が始まるのかとおもったら、そのまま抱き寄せられた。しばらくそうしていた。少女は空を見あげた。子どもの頃、この男の傍らでみたものと変わらぬ光景だった。


 「サ・リ、冷めるぞ」

 少女は、男の口にひと切れ運んだ。なかば強制されて、男はふた口ほどついばむように口にした。

 「口に合わぬのか」

 少女が尋ねると、かぶりを振ったがそれ以上手をつけようとしなかった。

 「お前はいつまでここにいるのだ」

 少女が尋ねた。

 「いつまでって、そんなに私を追い出したいのですか」

 「お前がいつまでたってもここに馴染まないからだ。国に帰りたいのか」

 「どこでも一緒です。タルクノエムでも浮いた存在でしたから。家族もみな私を避けていました。そもそも、私はあの地に人生の半分もいません」

 少女はイムナン・サ・リの望郷の念を強く感じていたし、素直に真実を語るとも思えなかったが、それについてこれ以上問うのはやめた。

「それにしても、本当に行き当たりばったりの無計画な男なのだな。今度のことで良く解った」

 少女は、差し入れだったはずのパイをほおばった。

 「臨機応変りんきおうへんと言ってください。だいたいあなたに言われる筋合いはない。あなたこそ無鉄砲にもほどがある」

 「もういい。黙れ」

 ゲイルは男の口に食べかけのパイを押し込もうとした。男は少女の手を押さえようとしたが、少女の方が速かった。にらむような顔をして口のなかのものを呑み込むと、その唇はそのまま少女の口をふさいだ。いずれにしても、無邪気に戯れる時は終わろうとしていた。少女は、夜明けが近づいてくるのが切なかった。


 結局半分以上中身の残った平鍋を抱えて、少女は明け方の道を急いだ。

 「結局、ファディシャはどうだったのだ」

 躊躇いがちに、ゲイルは傍らの男に問いかけた。

 「……。よく眠られています」

 言葉少なにイムナン・サ・リは答えた。

 「なぜふたりを最初からとめなかったのだ」

 男がまともに応じるとは思わなかったが、食い下がってみた。

 「私なぞが口出しすれば、あの人はかえって逆上されるでしょう」

 案の定、男の目に意地の悪いひかりが灯った。

 「それになかなかの見物だったでしょう」

 「お前は人が悪いな。あいつは心の奥底ではお前に見捨てられることが不安なのだ。それなのに、お前はいつも人を試す。なぜ人の心を弄ぶ。それが都会の流儀なのか」

 足を速めるのをさえぎるように、少女は男の前に立つとその胸に手を当てた。

 「私だって、」

 長い沈黙のあと、男は静かに言った。

 「彼を救いたかった。そして高慢にも救えると思っていた。彼にこの野蛮でうつくしい世界を託したかった。けれども、違ったのです。私は他者を救うことなどできないし、彼はそもそも救済など望んではいない」

 イムナン・サ・リはゲイルの目をまっすぐ見つめた。

 「私があなたを傷つけてきたことは解っています。もう少し鈍感であればいいのにと思うくらい、人の心の痛みは私に流れこんできます。でも、私は他人の心に沿うことは苦手です。肝心なときになぜだかうまく振る舞えない。別に試している訳ではないのです」

 ゲイルの手から平鍋が落ちて、地に転がっていった。少女は男の胸に飛び込むと強く抱きしめた。

 「ただ、自分があまりにも無力だから、目を閉じ耳をふさぎたくなるのです。私はあなたから逃げていました。いつかあなたが私を憎むことが怖くて」

 そう、愛はたやすく終わる。言い知れぬ喪失感と埋み火のような憎しみだけを残して。

 「お前は私が目覚めるとおもうか。別の生き物に変化すると」

 「わかりません。ただ、あなたが闇に墜ちる運命だとすれば……」

 イムナン・サ・リは少女の顔を起こした。

 「私もともに闇の世界を生きましょう」

 暁光が闇を溶かすその時、地上には光を纏った少女と闇に染まった男のふたりがいた。そのふたつの影が完全に重なった。



 夜の到来を待たずに、目覚めた魔術師は傍らの少女の寝顔をながめていた。結局彼女をそのまま帰すことは出来なかった。ただ、愛おしかった。この愛がいつか終わることなど思いもよらなかった。


魔術師は、自分でもおもいがけないほどの優しさで少女を愛した。おずおずと。少女の痛みすら引き受けるかのように、秘めやかに。

 禁欲にも似た自制で、柔らかな愛撫で、少女をそっと包んだ。そのすべてが、未知なる官能となって魔術師に押し返された。さざなみのように幾重にも。男は、いまだ知悉ちしつしえぬ愛の領域がおのれに残されていたことを知った。


 初めから、喜びよりも苦悩がまさる恋だった。おそらく、この胸の痛みはこれからもはつづくだろう。


 やがて少女が眠りから覚めた。まだ微睡まどろみのなかにあるようにぼんやりと男の顔をみつめると、急にはっとした様子でしとねのなかに潜った。

 男の手が夜具のなかをすべっていき、少女の身体をとらえた。

 「サ・リ」

 少女がまた顔をみせた。

 「お前を知って、私はどこか変わったか」

 「何が変わるというんです。あなたは、すぐ泣いたりわめいたりふくれたりして面倒くさいけど……」

 男はいじわるく笑って、もうひとつの手が少女の髪をなぜた。

 「そんなところがとても可愛らしいから、是非そのまま変わらないでいてください」

 少女の頬がわずかに上気した。

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