第九話 夜の子ら(上)

(零)


 「仔馬はもういい。仔馬のかわりにお前をもらうことに決めた」


 その時になって、少年はその高慢な少女が銅貨に鋳造ちゅうぞうされた横顔の持ち主であることにやっと気がついた。もはや疑うべくも無い。彼女はこの滅び行く星の統治者のおそらく最後の末裔だった。

 立身の足がかりは向こうからやって来たのだ。少年はおのれの強運になかばおののき、なかば勝ち誇りながら、おずおずとひざまずいた。拍子抜けするほどあっさりと神の祝福は与えられた。若い女王は、仔馬の背を愛撫するように少年の黒い巻き毛をなぜた。


 名を尋ねられたので、少年はその通り名を名乗った。

 「(大鴉)か。なるほどおまえらしい。だが、宮廷には相応しくなかろう」

 少女はゆっくりと少年の瞳を覗き込んだ。


 「決めた。お前の名は六翼のえる天使、セラフィムだ。同じく翼ある者の名ゆえ、異論はないな」


 (聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ)

 (聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者)


 歌うように少女は唱えた。


(壱)


 仮の宿と定めた鍾乳洞しょうにゅうどうの入り口近くで、イムナン・サ・リは岩壁に背中をあずけながら足を投げ出して座っていた。世界のすべてをこばむかのように堅く腕を組んで。そのおもてはあらぬ方向を向いていた。


 再び、夜が明けようとしている。


 この手負いの男は自ら不寝番ねずばんを買って出たのだが、その瞳はぞっとするほど冷ややかな輝きを帯びていて、なによりもその精神の荒廃ぶりは他者を寄せつけなかった。

 微かな水の匂いを頼りに、獣道をたどって探し当てた洞窟は、人と馬が休むのに十分な広さだった。

 洞窟の奥では、虚ろな目の女たちがしどけない様子で休んでいる。その手前では、ゲイルと子どもたちが分捕り品の見立てを始めていた。

 ナビヌーンは彼らからも少し離れて、ちらちらとイムナン・サ・リの様子を窺っていた。


 つい一刻ほどまえ、未明に彼らの目前でギム・ア・ポトスが耳をろうする爆音とともに猛火に包まれたとき、ゲイルは手がつけられないくらい泣き叫んだが、ナビヌーンはこの男が戻ってくると確信していた。

 炎上する砦を為すすべもなく見つめていると、やがて炎を背にひとつの影が現れた。すかさずゲイルが駆け寄ったが、イムナン・サ・リはすすに汚れ、ひどく傷ついていた。魔術師は少女の胸のなかに倒れ込んだ。慌ててナビヌーンが抱きあげたが、その身体は女のように軽かった。


 「まだぐずぐずしていたんですか。女たちの足を考えたら、退却の頃合いが遅すぎます。あなたはとてもご自分の部隊を率いる将とは思えない」

 腕のなかで、男はぐったりとしながらそう毒づいた。

 (すべて成り行き任せのお前に言われちゃお終いだ)

 ナビヌーンは、魔術師に解らぬようにやりと笑った。この万事はったりめいた男をいつのまにか信頼していることに若者は気がついていた。


 今、すべてを呑み込む貪欲なる太母の胎内にも似た窟のとば口で、誰よりも光を希求しながら光に背いて生きる男は、この世のものとは思われぬ青ざめた曙陽しょようが世界に滲んでいくを感じていた。この奇跡の一時が過ぎれば、空は再び赤く染まるだろう。


 いつのまにか火が焚かれ、洞窟のなかに温かい煮炊きの匂いが満ちてきた。分捕り品の兜を鍋代わりにして、ゲイルたちが干し肉に乾燥したベリー類を加えて煮込み、平等に分配している。

 食欲のある者はごく少数だったが、少なくとも子どもたちは生気を取り戻しつつあった。ひとえにリーダー役のシノロンの手柄によるところが大きかった。この救いようのない戦いのなかで、このような優れた資質をもつものに出会えたことは、まさに天の配剤だった。


 彼女なりに頃合いをみて、ゲイルが沸かした湯と粗布をもってイムナン・サ・リのそばへ近づいてきた。男は少女をぎろりと見たが、その拙い手がそっと彼の傷つき汚れた肌膚はだえを清めていくのを拒まなかった。男の目の光は少しだけ穏やかさを取り戻したようだった。ゲイルもまた胸の想いを吐き出したいのを堪えて、彼の傷ついた魂がただよう沈黙しじまを乱さなかった。


 ふたりを垣間見ながら、ナビヌーンは胸のざわつきを押さえた。少女に対するほのかな恋心にはすでにさっぱりと折り合いをつけたつもりだった。所詮、明日は敵かもしれぬ奴らだ。深入りするなと自分に言い聞かせた。


 ゲイルはくすねてきた毛皮を一枚かけてやった。それから、男が鍋の上澄みを少しだけ口にしたことに満足した様子で、子どもたちの群れに戻っていった。


 少女の後ろ姿を見送ったあと、イムナン・サ・リは、大佐カーネルが自死の瞬間に自らの思考の封印を解いたときのことを思い起こしていた。大佐は、彼の最後の問いに明確な答えを与えたのだ。

 それは、浅黒い鋭利な顔つきのひとりの若い男の面影だった。

 その男の名をイムナン・サ・リは承知していた。

 サーマス。ダール・ヴィエーラで暗躍するタルクノエムの武器商人だ。そして、卓越した手腕で鳴らすタルクノエムの執政官であり、最近は急速に軍事色を強めているという異母兄イルラギースの懐刀ふところがたなであることも聞き及んでいた。


 遠い、追憶の川を一葉の船はく。


 記憶のなかで、タルクノエムと荘園をつなぐ地下の水路をゴンドラ船がたゆたう。

 船先では船頭がものうげに櫂を操っている。乗客は、いまだ人生の倦怠けんたいを知らぬ優美な青年と彼とはまるで別個の翳りある美貌を持った幼い少年のふたりだった。


 青年時代のイルラギースは、他人におもねることのない潔癖な気性の持ち主だった。もっともその頃は、父の庇護のもと修業の身で、難解さを極めるタルクノエムの法体系の研鑽けんざん、特に矛盾を孕みつつも補完しあう商法典と慣習法の構造化に没頭しており、何ものにも追従する必要はなかった。ガルムの法学院では将来の学長と噂される秀才だった。

 そして、もうひとつ、彼が精魂を込めて取り組んでいるものがあった。新しい農園の経営がそれだった。灌漑かんがい、土壌改良、育種といった畑違いの学問を独学で探求し、時に自らの手で作付けをおこなった。その彼が、どんな気まぐれかわからなかったが、その時イルラギースは末弟をつれて、彼の自慢の果樹園に向かっていた。


 少年は外の世界に怯えていた。ゴンドラ船はやがて暗い地下の川をぬけて、光渦巻く世界に到着した。

 濁り硝子製の偏光ドームによって、呪われたような赤い世界が柔らかな色彩に塗り替えられていた。

 送風装置の柔らかな風が頬をなぜるたび、川面がさざ波立ち、下草のカーペットがさわさわとそよいだ。良く手入れされた樹木は、約束された世界の見本市のように誇らしげに繁茂していた。

 「どうだ、サ・リ」

 イルラギースが振り返ると、穏やかな陽射しを背に鈍い真鍮色かないろの髪がちらちらときらめいた。

 「うつくしいだろう。どれほどの犠牲を払おうとも、タルクノエムはいずれ本当の光を取り戻す。光は我々を良き方向に導く。そのとき、お前の苦しみも終わる。お前は陽に焼かれたから、そのときを恐れているかもしれない。だが、お前を救うのは、清らかに世界を満たす光明だけだ」


 淡くつもる雪のごとく冷ややかな男は、珍しく少年に笑いかけた。少年は、硝子越しの陽光が、緑の木々の反照が、敬愛する兄の言葉とともに、彼の心の隅々まで沁み渡るのを感じた。


 記憶のなかで、イルラギースはいつも雪のような清廉せいれんさで現れる。それはもはや幻影でしかないことをイムナン・サ・リは知っていた。彼はタルクノエムの汚濁おだくに呑み込まれたのだ。おそらくは自らの意志で。あの時の少年が見る間に闇に染まっていったように。


(弐)


 現実の世界にも光が満ちてきた。

 さきほどまで腕相撲をしていた子どもたちとゲイルも寝ついてしまった。


 ナビヌーンは、意を決してイムナン・サ・リのもとへ近づくと、見張りを交代するよう声をかけた。

 「大丈夫です。頭が冴えて寝つけませんので」

 その端正な面貌から猛々しさは消えていたが、その双眸は凄々せいせいたる夜色そのもの。すげないことには変わりなかった。 

 「お前、その瞳で闇がみえるのか」

 その蒼黒の瞳に魅せられて、おもわずナビヌーンはたずねた。

 「ええ、不自由はないですよ。むしろ、あなた方よりも必要のない情報は入ってこないかもしれない」

 イムナン・サ・リは、ナビヌーンの瞳の奥の輝板を覗き込んで続けた。

 「あなた方の血潮にながれるちいさな荒ぶる神は、気まぐれでたいへん好戦的です」

 「悪いが、お前の話は難しすぎて良く解らん」

 「では、適当に聞き流してください。解る部分だけお気に留めればよろしい」

 これ以上、聞き手のために話をかみ砕くつもりはないようだ。

 「夜目が効くのは、別に進化ではありません。遠い地球テラで、我々が進化の途上にあったころ、やはり夜を生きていました。地球テラでは、気が遠くなるほどながい年月、大いなる竜の時代がつづいていました。私たちは片手に乗るほどのあわれでちいさな動物で、彼らの影に脅えて夜の闇をひっそりと生き抜いてきたのです。

 皮肉なことに、我々が迎えた大災厄と似たような事象が竜の支配を終わらせました。そして、我らの祖先たちはふたたび光と色を得たのです」


 「要は、俺たちは先祖がえりっていう訳か」

 「ちいさき神々は、悪意に満ちています。我々の過去の歴史と意識の奥そこにある闇への恐れを読み解きます。かつての進化の道程や、我々が闇のなかでおそれた想像上の怪物たちを体現しようとしているのです」

 「おい、本当なのか」

 話のあまりの飛躍ぶりに面食らいながらも、ナビヌーンはおもわず尋ねた。

 「信じようと信じまいとご自由に。ただ、そうとしか私にはおもえません」

 男は、遠い何かをみつめるように、はかなげな笑みをただよわせた。

 「光が、ただ光だけが、荒ぶる神々の気まぐれを、逆しまな進化を遮るのです」

 「では、何故サイラスの皇帝は我々から光を奪い、谷に封じたのだ」

 「さあ、解りません」

 「おい、最後に聞かせてくれ。お前は何ものなんだ。ここで何をしたいんだ」


 (あなたの一族は、ひとの手によって造られた、ひとならざるもの。超絶なる力とあまりの邪悪さゆえに滅ぼされた……)


 記憶の底で、なつかしい琥珀色アンバーの瞳が、あまやかな声が彼を責め立てた。


男は最初の問いかけには答えなかった。

 「一度失った光を見つけたかったのです」

 ナビヌーンの次の問いを待たずに、言葉を続けた。

 「そして、もう見つけました。今私のお仕えしている方々、あのふたりの兄妹です」

 あの娘はともかく、あの暴虐ぼうぎゃくぶりで知られるファディシャがこの男の光明なのか。

 イムナン・サ・リは、ナビヌーンの心を見透かすかのように笑った。

 「同じですよ。あのふたりは。ファディシャ様には彼が十六の頃からお仕えしています。ふたりが違うとすれば、ただ気ままに野をさすらうお方とダール・ヴィエーラのすべてを背負うべきお方との違いです。もし、かの姫君が万軍の指揮をお取りになれば、兄君よりはるかに冷静沈着かつ無慈悲な武将となり、その凱旋路がいせんろにはおびただしい死屍ししが累々と道なすことでしょう」


 結局、見張りを交代せずにナビヌーンは奥に下がると横たわった。考えることが多すぎて眠れないかとおもったが、ほどなく鉛のような疲れが四肢を縛りつけた。眠りにつきながら、あの男は満身を苛む苦痛で眠ることも出来ないのだと気がついた。


 桎梏しっこくのごとき眠りに捕らわれながら、ナビヌーンは夢見た。

 世界のおわりの決戦場バトルフィールド

 狂ったように激しく打ち鳴らされる銅鑼どらの音。慟哭どうこくとも咆哮ほうこくともつかぬ鯨波ときと人馬の轟きが大地をたわませ、世界を歪めながら、ある終極点へとむかう。母なる胎内にも似た薄明はくめいのなかで、惑星ニュクスのあらゆる民が、闇の輩ですら、この戦いを逃れることはできない。

 狂乱の旋風のただなかには、ひとりの少女がいた。少女は、白鳥のごとき真白ましろの双翼をもち、異形の怪物たちが象眼された聖なる赤銅しゃくどうの甲冑を身につけていた。その破魔の大剣を振るうと、旧き世界のすべてが薙ぎ払われる。


 その戦士の名は、レッド・スワン。


 戦うことが少女の宿命だった。超絶なる意思と虚空にも似た絶望を胸に、燃えたつ赤毛をなびかせて、その純白の翼を無惨に血に染めて。

 やがて、空にはひかりの幕が、紅のオーロラがたなびく。合戦で失われた魂の最期のきらめきが、天につらなる虚無へと吸いあげられる瞬間にこの星を覆うかのような壮麗さで。

 凱歌のなかで、聖なる少女、血染めの白鳥(レツド・スワン)は剣を天にかざして突きあげた。痛ましいほどの叫号がそらに発せられた。


 魂を揺り動かすほどの壮大な絵がナビヌーンの前に現れた。その残酷なうつくしさはあまりにも彼の意識の奥深くに沈み込んだので、彼は夢見たことすら忘れた。


(参)


 日没とともに一行は洞窟を後にした。

 二刻ほど移動して、国境くにざかいの西タルー族のちいさな村落にたどり着いた。村長むらおさに解放されたものたちを預けて、ナビヌーンはウズリン族のふたりをフィポスメリアの彼らの居住地まで送り届けることにした。イムナン・サ・リの消耗ぶりが気がかりだった。彼は出立したときからナビヌーンの腕のなかで横抱きに支えられていた。

 乗り手のない月影の手綱を牽きながら、ゲイルはくつわを並べたり離したりして、心配顔で男の様子をうかがっていた。


 今、男は腕のなかで微睡まどろんでいた。その面差しは柔和で、妖艶さや冷酷さの仮面ははげ落ちていた。男の素顔は、育ちの良いタルクノエムの貴人そのままだった。

 ウズリン族の居住区が近づいてきた。

 やがて、人馬は霊場のごとき岩の森に分け入った。


 ふいに、イムナン・サ・リが目を見開いた。その目はナビヌーンには見えない黒い影を追っていた。

 「これは、少しまずいですね」

 ゆっくりと黒い瞳がふり返り、ナビヌーンの顔をのぞき込んだ。

 「斥候が放たれています。おそらく、我が君自ら、我らの到来をいまや遅しとお待ちかねでしょう」

 白い手がナビヌーンの頬をなぜた。ぞっとするほど冷たかった。

 「姫君を巻きこんだことがよろしくなかったようです。もはや引き返すことはかないません。嫉妬深き方なれば、あまり多くを語らなきよう」


 やがて、岩の森が終わりに近づくと、あたかも夜の闇を昼の色に赤々と染めあげるかのように、あまたの篝火が焚かれているのがみえてきた。

 揺らめく火影は、長剣と丸楯をもった長身のウズリン族の戦士の軍団が往来の両端に砦柵もがりのごとく立ち並んでいるのを照らした。

 そしてその行く手の先には、人の背丈ほどもある岩のうえに、ひとりの若者が腕を組んで座していた。火群ほむらといかばかりも違わぬ燃え立つ緋色の髪をみれば、彼が何ものであるか誰何せずとも明らかだった。


 なるほど、たいした歓待ぶりだ。


 ゲイルは、兄のもとへまっすぐ駆けていった。

 その後につづいて、ナビヌーンはゆっくりと馬を進めた。

 ゲイルが馬からおりるのと同じタイミングで、ウズリンの新王はひらりと地面に舞い降りた。その身ごなしのしなやかさは妹とまったく変わらなかった。ただ、彼女よりもずっと背が高く、その肢体はよく鍛えられて力強かった。


 毛皮で縁取られた、裏革をなめした柔らかな地の上下に、艶のある滑革ぬめがわ長靴ブーツ。王位を誇示するものはその赤毛のみ。

 他の戦士たちと違って、鎖帷子きごめさえ身につけておらず、身を守るものは左胸にあてられた厚い皮革の胸当てひとつ。歩を進めるごとに、左肩の胸当てのうえに留められた髪の色と同じ緋色が裏打ちされたマントがたなびく。

 左右に侍る年若い従者は他の戦士たちに比べてひときわ長身美麗だったが、あくまでこの赤毛の若者の引き立て役に過ぎなかった。


 ナビヌーンより幾分年上のはずだったが、その不敵な顔立ちは幼さを残して実際よりも若くみえた。口許には嘲笑が張りついていたが、屈託なく笑うことがあるとすれば、申し分のない好青年だろう。ただ、その目だけが、若くして老境にあるもののように衰微の光を帯びていた。


 「おい、ファディシャ。この大仰さはなんなのだ」

 ゲイルが駆け寄ったが、若き王は荒々しく手で振り払った。


 若者は、まっすぐナビヌーンの許へやって来た。

 ナビヌーンが名乗りをあげるまえに、ファディシャは馬上で西タルー族の若者に支えられているイムナン・サ・リをみつめた。

 「イムナン・サ・リよ、今回はずいぶん暴れたようだな」

 冷ややかに言うと、彼の魔術師を見知らぬ若者の腕から奪い返すように抱きあげた。

 「あなたのお手をわずらわせなくとも大丈夫です」

 魔術師は妖しく笑い、ファディシャの胸を借りて、ふらつきながらも立ち上がった。

 慌ててナビヌーンも馬から降りた。


 「ファディシャ殿」

 ナビヌーンが声を掛けると、ファディシャは彼の存在に初めて気づいたそぶりで煩わしそうに彼を見据えた。

 「貴様は何ものだ」

 咆哮に似た野太い声は、初めて言葉を交わすものを畏怖させるに十分だった。彼の麾下の魔術師は、先ほどまでナビヌーンの腕のなかにいた男は、もはや味方でないことは明らかだった。澄ました顔でその黒い目を伏せている。


 「西タルー族のナビヌーン。わたしの連れだ。ほんの行きがかりでサ・リに同行したまでだ」

 ゲイルが叫んだ。

 「ふん。お前が行方しれずになったお陰で、こちらはたいへんな騒ぎだったぞ。俺は放っておいて一向に構わんと言ったのだがな。それにしても、サ・リの尻ばかり追いかけているとおもっていたら、このようなどこの馬の骨ともわからぬ男とつるむとは。まったく腰の浮ついた女だな」

 「なんだと、ふざけるな」

 少女は気色ばんだ。

 「おい、そいつは暴れ出すと手がつけられんから、ガリィ、ドルド、取り押さえておけ」

 ファディシャが従者にそう命ずると、ゲイルは両脇からふたりがかりで押さえ込まれた。


 「ファディシャ殿。妹君のいうとおり、私は西タルー族のナビヌーンだ。このふたりには、我らが仇敵から西タルー族の民を救っていただきたいへん世話になった。礼を言おう」

 ナビヌーンは柔らかく切り出した。


 「どういうことだ、サ・リ。お前は人狼ウルフマンの巣を叩きにいったのではなかったか。ゲルムダールの街道沿いの娼館の女どもよりも性悪なお前が、北の蛮族の内紛に手を出したり、よりによって人助けとはどういう風の吹き回しだ」

 赤毛の王は、魔術師の面をするどく捉えながら問いかけた。

 「ご拝命どおり、人狼の巣は根こそぎつぶしました。彼らの拠点は、北の蛮族ゆかりの地、ギム・ア・ポトスの砦。人狼は脅威の一端に過ぎず、かの地はサイラス人や東タルー族がたむろする伏魔殿の様相を呈していました。あとのことはほんの成り行きです」

 魔術師は、よどみなく答えた。


 「気にいらんな。誰がお前のあるじであるか、お前は良く忘れるようだが、俺以外の者のもとで動くことは許さん」

 ファディシャは憮然とした表情で、魔術師を鋭く睨めつけた。

 「……」

 イムナン・サ・リは、ただ冷笑めいた笑みを浮かべるのみ。若い主君の心を翻弄ほんろうすることを楽しんでいる印象すらあった。

 なるほど、嫉妬深いとはそういうことか。ナビヌーンは、このふたりの男の歪んだつながりを理解した。

 「まあ、いい」

 やがてファディシャは鼻で笑うと、今度はナビヌーンに鋭い一瞥を投げた。

 「貴様は、カムール・ギジェの甥だったな。あの老いぼれの跡目はもう継いだのか」

 「叔父の喪があければ、そうなろう」

 ナビヌーンは、動揺を悟られぬよう静かに応じた。

 「では、ちょうど良い。俺が貴様の門出を祝ってやる。剣を取って俺と闘え。ただし、その曲がり刀は俺は好かぬ」

 配下のひとりにちらりと目を走らせた。

 「やつにお前の剣と楯を貸してやれ」

 片手で操るには重厚すぎる長剣とラ・ウの目が中央に刻印された丸楯が、ナビヌーンの目前に突き出された。

 別の長身の戦士が、ファディシャ自身の得物を運んできた。

 「ファディシャ、やめろ」

 ゲイルが叫んだ。


 イムナン・サ・リは、いつのまにか岩の柱に寄りかかって、面白そうに顔をゆがめている。この勝負を止める気はさらさらないようだ。


 ちっ、高見の見物を決め込むってわけか。


 ナビヌーンは、突き渡された抜き身の長剣を手にすると楯を構えた。

 最初の一撃でもう勝敗はみえていた。

 赤毛の王の剣は、猛き獣が哀れな小獣をなぶるような動きをみせた。

 構えることもせず、ふところを開いて隙をつくりナビヌーンを誘いかける。罠だと知りつつも与えられた空隙を攻めざるをえない。突き入れると、強いばねで手痛く返される。ナビヌーンの剣を軽く受け流しているようにしかみえなかったが、打ち込むたびに手が痺れるほど強い衝撃を受けた。そうかとおもうと、さっといなされて、ナビヌーンの剣は虚しく空を切り、ただでさえ動揺している身構えが崩れそうになる。


 使う道具えものはダール・ヴィエーラの正統スタンダードだったが、剣そのものは我流もいいところだ。ごろつきの喧嘩殺法に近い。もっとも、この若者はごろつきにしてもとびきり凄腕のごろつきだったが。

 技法わざの優劣よりも速さや瞬発力、それに腕力ちからそのものがまるで違うのだとナビヌーンは痛感した。人間離れした、天性の獣めいた力だった。

 それでもファディシャは、あくまで受け身の体勢をつらぬき、からかうような動きをやめない。

 少しずつナビヌーンをいたぶり、消耗させるつもりなのだろう。


 「どうした。北方の雄とは誰のことをいうのだ」

 赤毛の若者があざ笑った。

 「来い。北の蛮族としての勇猛さを俺にみせてみろ」

 ほしいままにナビヌーンを蹂躙する若き王は、別の見方をすれば、文字どおり捨て身だった。自分の肉体を餌にナビヌーンを誘き寄せる。

 そして、その瞳の虚ろさから、彼の別の思惑を、ただ相手をなぶることだけが目的ではないことをナビヌーンは直感した。王は、彼自身が意識しているかどうかは明白ではなかったが、死地しにどころを求めていた。戦いのなかでの死を。


 ナビヌーンは、この勝負を冷静に見定めている男をちらりとみやった。


 とんだお笑いぐさだ。こいつのお前へのすがり方は尋常じゃない。

 主従は逆だ。お前がこの化け物を育てたんだろう。こいつのがらんどうの心にお前の毒の息吹を吹き込んで。

 こいつは、そう、空っぽの器だ。そして、お前の持ち得ないもの、強大な権力と強靱な肉体を持ったお前の分身であり、人形だ。違うなら違うと言ってみろ。


 「集中できないようだな。攻めるのみはつまらぬか。では、俺の剣を受けてみろ」

 男は型すら踏まず突き進んできた。型を踏まないというのは、次の手を読めないということだった。相変わらず胸の辺りの守りはがら空きで、左手の楯で身を庇うこともない。暴戻さの陰にどこかやるせない痛ましさがあった。その一点のみ、妹のゲイルと同じだった。

 かずかに巻き起こる風が篝火を一斉に揺らすたびに、景色はたわみねじれて、ファディシャの髪の明るい緋色がうつくしく照り映えた。彼もまた魔術師とは別種の美貌の持ち主であった。その端正な面を憎悪に歪めても、なお凄艶たる風情があった。

 完璧すぎる肉体と病んだ精神が結実した異形の美。

 瞳の辺りに漂う恋した少女の面影。

 そのすべてが、ナビヌーンを幻惑した。


 ぐだぐたやっていても始まらぬ。当たって砕けるままよ。


 ナビヌーンは、攻守の入れ替わりをむしろ好機しおどきと捉えた。踏み込んだ足で思い切り凍土いてつちを蹴り上げると、神速果敢じんそくかかんな素早さで跳躍した。そして、鋭い気合いを発すると同時に、楯を振りかざしながら満身の力を込めて身体ごと打突した。

 すさまじい衝撃音が響いて、ナビヌーンの楯が王の剣を弾いた。機を逃すことなくナビヌーンの渾身のひと太刀が続いた。横ざまに王の左腕を斬りつける算段だったが、すばやく翳された王の楯に激しくねつけられた。

 剣はかろうじてナビヌーンの手のなかに残った。そして、赤毛の王は一瞬目を見張った。胸が高鳴った。


 そうだ、この高揚感だ。俺が待っていたものは。


 「若造、その調子だ。来い」

 ファディシャは、楯を投げ捨てて両手に剣を握り替えると、両足を水平に構えた。

 いつのまにか、その目に澄んだひかりが浮かび、口許からは嘲笑が消えていた。王の表情は、もはや倦怠とは遠いところにあり激情すら感じられた。計らずしも垣間見せたその直向きさは、愛すべき少女の面差しをそのまま映したかのようであった。

 ウズリンの戦士たちは、もはや物見高い見物人と化して息を呑んだ。

 わけても、イムナン・サ・リは、口の端に笑みを浮かべながら、黒い瞳をかがやかせて欣然きんぜんたる面持ちで勝負の行方を眺めていたのだが、その姿をナビヌーンは振り返る余裕もなかった。


 ナビヌーンも楯を投げ捨てた。

 ファディシャの足が地を蹴った。ナビヌーンは、真っ向から斬り込んでくる一撃を目前でなんとか受け止めた。

 何合か打ち合いながら、ぎりぎりと相手を圧殺するかのような力の勝負がしばらく続いた。

 どちらかと言えば、ナビヌーンの得意とする正統な手合わせに近い場面であった。だが、対する男ははるかに狡猾だった。


 ナビヌーンは相手がふいに力を抜いたのを感じた。弾みで前方にのめり込むと、すかさずファディシャは剣を左に持ち替えてそのまま横ざまに振り切った。ナビヌーンの体軸がよろけ傾いた。次の瞬間、ファディシャがナビヌーンの視野から消えた。


 赤毛の若者は、反り返って仰向けに倒れ込むと右手で大地をつかんでいた。その腕に目一杯の重心をかける。自由になった両足がひらりと空を切り、したたかにナビヌーンの脇腹を蹴撃しゅうげきした。ナビヌーンは強烈な痛みで一瞬息が止まった。

 若き王は追撃の手を休めなかった。そのまますくっと立ち上がって、今度は剣をざっくりと凍土に突き差して軸にした。その軸で右手を支えて大きく足を廻して、ナビヌーンの顎を蹴り上げた。ナビヌーンは避ける間もなく勢いよく後ろに倒れ込んだ。


 全身のばねが重力の制約をかるく凌駕りょうがしていた。

 どうやら徒手空拳としゅくうけんの格闘戦が、この若者の兵法の神髄らしい。頸からうえを吹き飛ばされたかのような衝撃に失神しかけながら、相手にとって楯や剣はもはや間怠まだろこしいのみということをナビヌーンは全身で了解した。おのれの肉体が最良の武器なのだ。

 めったやたらに攻め込んでくる山賊風情でもこんな破天荒はてんこうな動きはしないだろう。この男はなんという喧嘩師なのだろう。


 「どうだ。負け犬らしくいじましく許しを請え。そうすれば生かして帰してやる」

 赤毛の王は、再び手にした剣の先をナビヌーンに向けながら迫ってきた。

「……。まだだ。こんな剣術ともおもえぬ外道な技に負けるわけにはいかない。ダール・ヴィエーラの覇者を気取るなら、潔く剣で勝負しろ」

 口中に滲む血を唾棄すると、ナビヌーンは倒れ込んだまま剣を突き出し、降伏勧告をきっぱりと撥ねつけた。

 「よかろう。だが真剣で勝敗を決めるとなると貴様は命をなくすぞ。せっかく退路を与えてやったというのに馬鹿な男だ」


 ナビヌーンは跳ね起きるとまっすぐ斬りかかっていった。

 手痛く返された。

 ファディシャはにやりと笑うと、たたみかけるように打ちこんできた。圧倒的な力を解放するだけでなく、天性の狡猾さもいや増している。薙ぐとみせて突いてくる。またその逆の仕掛けもあった。

 ナビヌーンは翻弄された。しなやかな長い四肢を縦横無尽にあやつる男の剣が、どちらから降りかかってくるのか見極めることにまず消耗した。

 ナビヌーンはまるで異質の動きだがやはり彼を翻弄した女の剣を思い出した。あの女も氷のような白刃で弧を描き彼を幻惑した。だが、相手を惑わす術策の向こうには必ず本質があるはずだ。


 見切るのだ。無軌道にみえてこの男の動きには一連の流れがあるはずだ。見かけの複雑さは泡影にすぎない。


 「そこだ」

 ファディシャの剣が左右に揺れて最後におおきく右に払われる直前、ナビヌーンの剣がわずかな間隙にすべり込んだ。剣先はそのまま躊躇ちゅうちょせずに左胸に向かった。

 ファディシャはすばやく後ろに飛びすさると、おもわず剣をもたぬ左腕でその身をかばった。

 ナビヌーンの切っ先が上腕を斬りつけた。ファディシャの革の上衣を破って鮮血が飛びちった。

思いもかけぬ展開に、見る者すべてが息を呑んだ。声もなくただ凝視する。


 そのとき、異変が起こった。


 流血が引き金となって、ファディシャの脳裏でかちっと火花が散った。稲妻のような衝撃がそこから剣を持つ右手に突き抜けていった。そのあとをゆるいうねりがつづき、ファディシャは茫漠ぼうばくたる表情を浮かべながら、首をかしげるような動作をした。

 ふたたび意識が明瞭になったとき、彼の一部はどこか違っていた。狡猾な野獣めいた印象が強まり、今まで感じられなかった危険な艶めかしさが加わった。

 ほんの一瞬のうちの変化だった。気づかないものが多数だったろう。

 ファディシャは、左腕の血を舐め取ると、妖しく舌なめずりして剣を構えなおした。今までにない圧倒的な殺気が漲り、彼の身体を包んだ。


 ナビヌーンは、この男の得体のしれなさに心底ぞっとした。

 「ファディシャ」

 ゲイルが切迫した叫びをあげたのと、黒い影がひらりと飛びだしてきたのは同時だった。ファディシャの変貌、それは好ましくない変化の前兆だった。


 「お戯れは、そこまでです」

 イムナン・サ・リは、ふたりの剣士の間にすっと身を割り入れた。

 「もうここまでで十分でしょう。ファディシャ……」

 魔術師は、剣を持つ手を制して王の懐に入り込むと、まっすぐその瞳をみつめて意識の奥深くに語りかけるようにささやいた。


 しばしの沈黙ののち、ファディシャは忘我の境域に達したときと同じように唐突に我に返った。彼は我が身に起きたことを理解すると、なかば自嘲するように鼻で笑った。

 「よかろう。余興はここまでだ。西タルー族のナビヌーン、貴様の名前は覚えておいてやる。今度剣を交えることがあるとすれば、それが貴様の最期の日だ」


 その声はかすれて聞き取りにくかった。目にはすさまじい憎悪の光があった。

 「サ・リ、行くぞ」

 ファディシャは背をむけて歩きはじめると、配下にむかって片手をあげた。引き上げの合図だった。影のように魔術師がそのあとにつづいた。


 「面倒に巻きこんで悪かった。今のうちに帰れ」

 拘束をとかれたゲイルが駆け寄ってきて、ナビヌーンにささやいた。なにが起きたのかナビヌーンは訊いてみたかったが、少女はそのことについて語るような雰囲気ではなかった。ただ、少女がその表情を蒼白にゆがめていることから、兄の変化を我がこととしてとらえていることはあきらかだった。

 ナビヌーンは、ウズリンの王家に流れる暗い血の秘密を否応なく嗅ぎとった。彼の生活とはまるで異質な世界、闇のなかのきらめきに似たはかない世界を彼らは生きているのだ。

 ナビヌーンは、赤毛の兄妹や彼らに仕える魔術師になぜか痛ましさを感じながら、少女に別れをつげた。


 今回の王の気まぐれは、下手すれば部族間のあらたな火種になりかねなかった。その決闘の突然の中断にきょうが醒めたような、ほっとしたような心持ちで残されたものたちは散会した。そのなかで、生え抜きの戦士の筆頭でもあるネルヴァドは苦々しい思いでいっぱいだった。


 妖術使いめ、騒動の原因はいつも貴様だ。奸臣とはまさに貴様のことだ。いつか必ず斬って捨ててやる。

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