第八話 潜入

(零)


 レィヴンの新生活は、意外なことに館の敷地のはずれの厩舎きゅうしゃから始まった。あるじの趣味に合うには彼は幼すぎたのだ。

 ここでは終日馬の世話をして過ごした。クムクンタルの馬道楽は有名だった。王家の主催するレースで彼の所有する駿馬しゅんめは何度も栄冠をさらっていた。

 農村育ちの彼にとっては気楽な仕事だった。古株の馬丁ばていたちも彼の飲み込みの良さを認めてくれたので、しばらくはここでやり過ごせそうだった。いずれ、不快な出来事が起こるだろう。だが、運命とやらに負ける気はしなかった。彼はなんとしてでも勝ち残るのだ。誕生以来の人生の相棒であるぬぐいがたい惨めさから這い上がるためには、手に届くすべてを、凶運すら利用してやるつもりだった。


 ちいさな胸にありったけの野心を押し込んだ少年が馬房ばぼうで仔馬たちにブラシをかけてやっているとき、厩舎にふわりとした風が吹いた。


 「クムクンタル卿は、一番良い仔馬を譲ってくれると言ったのだ。この目で確かめさせろ」


 ふり向くと、馬術服姿の痩せた少女が神聖なる厩舎の境界を侵していた。その衣装の仕立ての良さや愛らしさの裏に透けて見える高慢で鼻持ちならない物腰から、一目で貴人と分かった。なにしろ機密管理に厳しいこの厩舎におくすることなく足を踏み入れることができる身分なのだから。小柄であどけなさを残していたが、おそらくレィヴンより年上だろう。


 クムクンタルの秘書が渋い顔で後からついてきた。レィヴンを数枚の銅貨と交換して、この屋敷につれてきた男だった。

 「おい、馬丁頭ばていがしらはいないのか」

 「はい。あいにくレースの準備で出払っています。クムクンタル卿もご一緒のはずですが」

 レィヴンはそつなく答えた。

 「ああ、そうだったな」

 決まり悪そうに秘書は答えると、そそくさと命じた。

 「とにかくこのお方にひととおり仔馬をお見せしてくれ」

 「お前はもういい。あちらへゆけ」

 あからさまに肩の荷がおりたような表情をみせた秘書は、少女を口取りの少年に任せて戸口の外で待機した。


 「今年生まれたのはこの四頭です。牝馬ひんばはこの月毛と……」

 レィヴンが説明を始めるやいなや、少女はさえぎった。


 「ずいぶんと変わった毛並みだな」

 「……月毛はこの地ではそれほど珍しくはありませんが。もともとはハーラン星系によく見られます。弱い日照がこちらと似ているのです」

 「そうではなくて、つややかな青毛のお前のことだ。見事な若駒だが、この辺りでは見かけない顔つきをしている。どこぞの星からでも売られてきたのか。どうせお前のあるじに物珍しさ故に買われたのだろう」

 まっすぐに顔を覗き込まれて内心どぎまぎしながら、レィヴンはそっけなく否定の言葉を返した。少女はかまわずに続けた。

 「どちらにしても同じだ。クムクンタル卿のもうひとつの道楽を知らないのか」

 「私は馬の話をするように命じられました。それ以外はお答えできません」

 「近隣のものなら親に売られたのだな。哀れなことだ」

 違う。と、おもわず叫びかけて、レィヴンはあの数枚の銅貨を思い出した。父は薄々気がついていたのではないか。すぐに、だからどうなのだ。と思い返した。彼らにあの銅貨は必要だったし、あの家で彼は余分な存在だった。

 不遜なまでに冷静沈着な少年の頬にわずかな動揺のしるしを見て、少女は満足した。


 「仔馬はもういい。仔馬のかわりにお前をもらうことに決めた」


(壱)


 一路、ギム・ア・ポトスへ。

 眠たげだったラ・ウの瞳は少しずつ見開き始めていた。今宵の見物みものを値千金と確信しているかのように。

 馬上、さきほどいい雰囲気だとおもっていたふたりがもう馬のことなどで仲違いしていることにナビヌーンはあきれ果てていた。そもそも、イムナン・サ・リがゲイルの黒駒にケチをつけたのが発端だった。自分の馬に同乗するように、という少女の親切な申し出を男は無下むげに断った。

 満身に痛手を負いながら、とてもそのような荒々しい悍馬かんばには乗れない、と、魔術師は例の皮肉な調子ですげなく辞退したのだ。

 男の言葉は、とうとう日頃の調教不足にまでおよび、少女がへそを曲げると、今度は涼しい顔で、

 「忠言は耳にさからうものです」

と言ってのけた。

 その結果、側杖そばづえを食らったかたちで、ナビヌーンは鞍前くらまえに傷ついた男を乗せることになった。二頭に分乗した奇妙な組み合わせの三人は、ひたすらギム・ア・ポトスを目指した。

 「ずいぶん、自信を喪失されたようですね」

 鞍の前にいる男は、そういうと肩越しにふり返った。ナビヌーンの鼻先に、美しい翳りをおびた横顔が浮かびあがった。

 「……。まあな」

 若者はしぶしぶ認めた。

 「ここまでは私の闘いで、あなたは門外漢です。私はあなたのように部隊を率いて騎上で指揮を執るようなことに慣れていません」

 男の目は穏やかで、その口調は外連身けれんみなく柔らかな響きをもっていた。

 「私は人の手を借りることに慣れていませんので、いろいろといたらぬところがあったかとおもいますが、どうかお許しください」

 「おい、お前がそう改まるとなんだか気持ちが悪い」

 今までの言動に十分無礼さを感じていたが、改めてそう言われるとなんだかこそばゆかった。

 「素直に気持ちを述べたまでです。そして、このあともあなたたちの力を借りなければなりません」

 魔術師は薄い唇をつり上げてうっすらと笑った。

 「ギム・ア・ポトスになにがあるんだ。詳しく話してくれ」

 魔術師は、背中を反らせナビヌーンの胸板に寄りかかると、その耳許に口を寄せた。男のあだめいた仕草に内心どきりとしたが、その口から次々と告げられる内容に若者は戦慄を覚えた。


 操られた人狼、捕囚となった女たち。

 すべては仇敵きゅうてきの東タルー族の仕業で、その指南役がコーダだというのか。

 

 ナビヌーンは、今まで彼が認識していた調和に満ちた世界が崩壊していくのを感じた。

 「よろしいですか、ナビヌーン殿」

 イムナン・サ・リに呼び掛けられて、ナビヌーンは我に返った。

 「俘虜ふりょのほとんどはあなたの民です。私たちがみはりを引きつけている間に、あなたに救出してもらいます」

 「私たちって。おい、まさか」

 「ええ、彼女にも手伝ってもらいます。というよりも、そうしていただくほかないでしょう。あの方が指をくわえておとなしくされている訳はないので、せめて私の目の届くところで動いてもらいます」

 イムナン・サ・リはそう言い終えるとため息をついた。

 「俘虜救出後に彼女を脱出させますので、合流してください。私はそのあと彼らを殲滅せんめつします」

 「殲滅ってお前、ギ・イェクの陥落といいさっきの妖鳥退治といい、いったいどこでそんな芸当を覚えてきたんだ」

 魔術師は、ひとりの女の切れ長の瞳を思い出した。

 「おひとりで、惑星ひとつを制圧できるお方の許で……」

 謎めいた笑みがそれ以上の問い掛けを拒んだ。


 夜半過ぎまで走ると、やがて赤く燃え立つギム・ア・ポトスの砦が一望できるまでになった。砦は圧倒的な揺るぎなさで夜の静寂を支配し、峻烈しゅんれつな面構えで世界を睥睨へいげいしている。

 魔術師に促されて、ナビヌーンは馬を止めた。すぐに少女の馬が追いついてきた。

 男はすべるように馬から降りた。低く口笛を吹くと、闇のなかから鼻筋に白線が走った青毛のすらりとした馬が姿を現した。

 「月影、待たせたな」

 男はうれしそうに言うと、馬の背をやさしくなぜて、荷鞍パニエからなにやら取りだした。


 ひとつは、細長い筒状の袋のなかにはうつくしく象眼された横笛。


 ひとつは、束ねられた索条ロープ。タルクノエムでつくられたものなのか、しなかやで軽く、一方の先端には金属のかぎがついている。


 魔術師は、この装備だけで二十人余りの俘虜を救出すると断言した。ナビヌーンは、魔術師の指示を受けてこれからなにが起きるか理解したとき、この男についてきたことをはげしく後悔した。

 繊細そうな顔をしているくせに、この男のいうことはなにもかもが大雑把すぎた。ほぼ徒手空拳としゅくうけんで敵陣に乗りこむなんて無謀もいいところだ。いっそのこと、国にとんぼ返りして、本隊をひきいた方が……。

 そこまで考えて、彼はその精鋭部隊が彼らの王や民を救えなかったことを苦々しく思い起こした。


 イムナン・サ・リは月影の手綱を引いていた。月影の背には、ゲイルが横座りに足をそろえておぼつかなげに乗っている。

 「いいですか。普通に娘らしくしていてください」

 くどくどと言い含められて、少女は不機嫌そうに頬を膨らませている。ふたりを見送りながら、ナビヌーンは先ほどの魔術師とのやりとりを思い出していた。

 「私たちは、先に潜入して敵を惹きつけますので、あなたはその隙に俘虜を誘導してください」

 「潜入って、どこから入るつもりなんだ」

 「どこからって、正面からに決まってます。正々堂々と、ね」

 どこまでも、人を小馬鹿にしている。


 「おい、あれは誰だ」

 南側の総門の左右にいかめしく立つ二人の門衛は、蕭然しょうぜんたる廃道を歩む旅人の姿をみると眉をひそめた。この砦のむこうは、東タルー族の支配地に通じる。

 人々の記憶からも、商都タルクノエムのうつくしく装飾された円筒図法の地図からも、このいまわしい経路はひとしく抹消されていたため、この地まで迷い込こんだものは彼らが初めてだった。


 草臥くたびれたマントのフードを目深に被った細身の男が、やや愛想に欠けるがうつくしい若い娘を乗せた馬の口をいていた。門衛たちはやや安堵あんどした。こんなところでこのような女にありつけるとは、願ってもないことだ。男なぞ即刻切り捨ててしまえばよい。

 彼らが誰何すいかする前に、優男やさおとこはよく通る声で呼びかけてきた。

 「これは東タルー族のお方か」

 「そういうお前こそ、何やつだ」

 「我らは、この谷を請われるまま流れ歩く楽人の一座のものです。グルーガにてガスキール様のお目にとまり、皆さまのすさぶ心をお慰めするよう拝命いたしましたが、一座のもの十名ほどでこちらの砦にむかう途中、オルドスの峠を越えようというまさにそのときに山賊どもの襲撃を受け、生き残ったのは我々のみでございました。安全のためおおきく迂回して南へ廻り込んだ経路を取ったことが、かえって仇となったのでございます。それはそれはたいそう恐ろしい心持ちをいたしまして、こちらの明かりを目にして心底ほっとした次第でございます」


 門衛たちは顔を見合わせた。ガスキール様だと。あの無骨ぶこつな方がそんな粋な計らいをされるのだろうか。

 そもそもこの地での出来事は残してきた家族のものにも明かせぬ第一級の機密だ。旅回りの芸人風情に漏らすことなどありえようか。


 旅回りの男は年嵩としかさのほうの門衛、サルダスの胸に手を当てると、その不審げな顔を覗き込んだ。

 「それにしても、こちらはなんと心強いのでしょう。わけても、あなた様のような猛き武人にお会いできて、光栄でございます」

 男は思いがけないほどの美貌の持ち主で、フードのしたからのぞく双眸には、女衒ぜげんのような太々ふてぶてしさと得も言われぬ色気が同居していた。胸許からは白い肌に受けた生々しい傷がのぞいている。よく見ると、外套マントにはところどころ血しぶきが付着していた。


 こいつの言っていることは、まんざら嘘ではなさそうだ。

 サルダスはそう自身を納得させた。

 それに、この男はどうみても玄人だ。一方の娘のほうはとても娼妓うかれめにはみえないが。だが、この綺麗首きれいくびふたつ、貴人のごとき趣すらある。さらってきた村娘を陵辱りょうじょくするのとはまた違った趣向となろう。むしろ、赤毛の娘よりもこの男の方がなぶり甲斐があるかもしれない。この城砦一帯はもとより無法地帯。どう料理しようと、はなから俺たちの勝手だ。ガスキール様の命であろうとなかろうと、なかにいれて構わんだろう。

 「よし、入れ。案内しよう」

 断末魔のごとき軋み声をあげながら、伏魔殿に通じる岩戸が重々しく開いた。


(弐)


 「ねえ、そんなに鋭い目付きをしないでください。あなたは余計なことはせず、ただただうつむいていればいいです」

 この男らしい巧みな話術で相手の劣情をあおり砦の内部にあっけなく潜入すると、イムナン・サ・リは、あきれて不機嫌さを増しているゲイルにこっそり囁いた。


  総門を入ってすぐのところにうまやがあり、月影がつながれた。

 その隣が食料庫。後方の兵站部隊へいたんぶたいから補給された荷がそのままになっている。

 「補給担当の輜重隊しちょうたいに道案内をお願いしたかったのですが、すでに今月分は運ばれたばかりとのことで断念しました。いつ頃お見えになったのですか」

 魔術師は、さりげなく尋ねた。

 「ああ、五夜ほど前だ」

 そう不審にもおもわず、サルダスは答えた。

 では、昨日と人員の入れ替わりはないはずだ。敵の数は廃人となったはずのバルムの脳裏から読み取っていた。彼をのぞいて全部で二十八人。


 男は横笛を取りだすと、まるで吹き遊ぶようにこの男にはいささかも似合わぬ素朴で飾り気のない旋律を奏でた。郷愁をそそる調べが夜風に乗って四辺あたりを漂った。


 一行が馬とともに砦のなかに消え、総門がふたたび閉じられると、それまで身を隠していたナビヌーンは砦の断崖を見上げた。


 (笛の音が合図です。私が奏するあいだにすべてを終わらせてください)


 なんて、いい加減な指示なんだ。だが、監獄で待っているのはほかの誰でもない彼の民だった。もはや後戻りはできなかった。


 (かれらが閉じこめられているのは、下から二層目。東の一番端の部屋です)


 魔術師から渡されたロープの輪を肩にかけ、ナビヌーンはゆっくりと岩壁をのぼり始めた。


 一方、難なく敵陣への正面突破を果たしたイムナン・サ・リらが墓道はかみちのごとき隧道ずいどうのきざはしを登り切ると、その先には東タルー族の衛士たちの雑然とした詰め所があった。

 砦の一層目は衛士たちの居住区や炊事場で占められており、異形の怪物の姿は見当たらなかった。ただ、ときおり不吉な咆哮ほうこうが上階からくぐもるように聞こえてきた。イムナン・サ・リの目配せも空しく、ゲイルの眼光は魔獣の呻き声を聞きつける度に鋭さを増した。


 「おい、ちょっとした余興だ。ガスキール様のお目を喜ばせた雅な楽人たちがわざわざ俺たちをなぐさめに来たそうだ」


 重い扉をあけて門衛サルダスがそう告げると、粗野な目つきをした男たちが卑しい歓声をあげた。一見して十七人。魔術師はすばやく数えあげた。すでに酩酊めいていしているものもあった。思ったとおり、この不快な任務に対する志気は低かった。


 笛の音はつづく。

 吸い寄せられるように、他のみはりたちも二人、三人と詰め所に集まり始めた。五人。さらに、六人。しめて二十八人。これでこの地に派遣された小隊はそろった。気の毒なバルムをのぞいて。だが、サイラス人はどこに消えた。魔術師はかすかに不安を覚えた。


 ナビヌーンは、屹然きつぜんたる岩壁を登る。

 すべてが運任せの綱渡りのような計画のなかで、若者は魔術師が起こすだろう奇跡を信じるほかなかった。

 やわらかな笛の音は、ナビヌーンを導いてゆく。

 そのしなやかで強靱な肉体を活かして、若者は満身の力をこめてよじ登っていった。やがて立ち向かうべき相手が、ごつごつした岩肌から石積みの城壁にかわった。

 調べに混じって、いつのまにやら獣めいた咆哮がきこえる。そのあさましいうなり声はナビヌーンの心と身体を揺さぶり、叔父を、多くの民を奪われた怒りでわななかせる


 (人狼ウルフマンのことは忘れてください。あなたがやるべきことは俘虜となったものたちの救出です)


 魔術師の言葉を思い出す。


 旋律に導かれるままに、西タルー族の若武者はようやく第二層の窓辺までたどりついた。その空間は若者の身体が入るのがやっとの狭間だった。

 みはりの姿がないのを確認してすばやく窓をすり抜けると、鉄格子の扉のついた小部屋がいくつも続いているのが解った。死臭、腐敗臭、そして不浄臭———あらゆる不快な匂いが鼻をつく。黒い影の集団が若者の姿をめざとくみつけると、獣めいたおぞましい叫び声をあげた。その叫びに応じるかのように、一番端の部屋で女たちが乾いた悲鳴をあげた。

 いたずらに恐るべき毛むくじゃらの囚人たちを刺激しないよう身をかがめながら、若者は問題の部屋にゆっくり近づくと、鉄格子をのぞき込んだ。


 「安心しろ。俺だ。ナビヌーンだ」

 「……ナビヌーン様」


 驚いたことに、俘虜たちのなかにはナビヌーンの知った顔もあった。彼女たちはみな一様にあまりの恐怖のために感覚が麻痺した様子で、表情のない女たちが無言で押し合いながら、戸口の近くに次々と集まってきた。子どもたちは部屋のすみで気力なくうずくまったままだ。鉄格子のむこうから女たちの幽鬼のような手が伸びてくる。


 「お前たちは待っていろ。すぐ鍵を取ってくる」


 長く幽囚ゆうしゅうの身にあったためか、他の者たちのにぶく物憂い反応のなかで、十二歳の少年、シノロンの心だけが沸き立った。ここから脱出できるとは。我らがナビヌーン様が救いにきてくれた。こんな夢のようなことがあるだろうか。


 (南の岩壁から登り切ると、手前には通路があります。鍵は監禁場所の近く、通路の東の突き当たりにかけてあります)


 笛の音とともに、例の男の指示がまるで耳許で語りかけてくるように頭に響いた。


 ナビヌーンは身をかがめながら、イムナン・サ・リにいわれたとおりの場所にゆっくりと進み、鍵の在処ありかを捜した。


 男の奏でる曲調は、村祭りの方舞のごとき単調さから始まり、やがて複雑さと繊細さを増していった。

 転調する調べ。速まる旋律。

 節回しが変わると、曲想が一変した。いにしえの英雄たちが闇を駆ける。麗しき姫君とのロマンス。


 現実においても、黒い影が再び咆哮した。


 ナビヌーンはとうとう鍵を手に入れた。が、鉄の輪に鍵が二十本以上束ねられている。

 「あせるな」

 自分に言いきかせる。

 ふたたび、ナビヌーンが鍵の束をもって鉄格子のまえに姿を現すと、そのときになって初めて救出されることを実感した女たちが動揺し始めた。錯乱さくらん騒擾そうじょうが狭い獄の隅々まで伝染していく。最悪の事態だった。我さきにと救出を求める多くの囚人たちが前面に押し寄せてきた。

 「おい、慌てるな」

 ナビヌーンは低い声でとがめたが、興奮状態にある女たちに抑制は利かなかった。枯れ枝のような無数の手が格子の向こうから伸びてくる。もはや、ナビヌーンは次の鍵を試すことすらかなわなかった。


 囚人たちの恐慌が若者の心にまで押し寄せようとしたそのとき、少年の引き締まった声が獄の奥から響いた。


 「この部屋の鍵は、三つ歯の真ん中に大きな切れ込みがある、真鍮製しんちゅうせいのかなり大型のものです。なによりも鍵の頭にあるラ・ウの目の刻印が目印です」


 その的確な指摘と言葉自体の持つ凛とした響きと落着きに励まされて、ナビヌーンはようやく目指すものをみつけた。錠前にゆっくりと差し込むと、かちりと音がした。

 「よし、出てこい。ひとりずつだ」

 解放された囚人たちが次々と押し寄せてきて、見る間に狭い通路にあふれかえった。


 獣たちが気配を察して、闇の奥でうごめき始めた。


 ナビヌーンは窓辺の桟にロープをしっかりと固定したが、眼下を覗き見た女たちは外界に渦巻く陰風とロープの先の底なしの闇におののいた。新たな絶望が波紋のように広がっていく。


 「私が行きます。先に降りて皆さんを誘導します」


 絶妙のタイミングで、先ほどの凛とした声が響いた。

 女たちを掻き分けて姿を現した少年をみて、ナビヌーンは心底驚いた。まだほんの子どもではないか。狼狽を隠しきれないナビヌーンににっこりと笑い掛けると、その少年、シノロンはあっという間に窓の外へ消えた。

 続いて五人ほどの身軽な年少のものたちを先に行かせた。その次に若者はやや落ち着きを取り戻した女たちを送り出した。


 笛の音がはげしい速さに変わった。

 嵐のなか、疾走する人馬。

 襲いかかる魔物のむれ。

 絶叫が闇をつんざく。

 澄み渡る笛の音は、頑是無き日々に冬の炉端で語られつづけた物語の情景をあざやかに描き出す。


 現実の世界でも、猛り狂った人狼ウルフマンどもが鉄格子に身体を打ちつけ始めた。

 あと、八人。なんとか持つか。

 女のひとりがこれ以上耐えられないとばかりに窓から身を投げようとした。ナビヌーンは女をつかまえると偃月刀えんげつとうを抜いた。

 「身を投げるまでもない。俺に従わぬものは即刻切る」

 刃を女の喉頸に当てながらそういうと、女は魂が抜けたようにおとなしくなりへたりと座り込んだ。

 あと五人。

 ナビヌーンの精神は著しく疲労していた。


 一方のイムナン・サ・リは、即興めいた曲を吹き遊びながらも、窓辺に背をもたせかけて外の気配をうかがっていた。

 ゲイルは酔漢を介抱しているかにみせて、実際はしつこくからむ男の鳩尾みぞおちに拳を打ち込んで失神させていた。

 男は二の句がつげなかったが、そのようなことになるのは分かっていた。姫君の堪忍袋の緒がきれて本格的に暴れ出す前にこの場を引き上げたかったが、肝心の上階の雲行きがあやしかった。

 獣どもが騒ぎ始めている。

 物騒な物音にさすがの酔いどれたちも気がついた様子だ。


 イムナン・サ・リはこれ以上待つことをやめた。

 今は、この少女を逃してやることがなによりも優先すべきことだった。

 笛の音がとまった。

 「お寛ぎのところ申し訳ございませんが、この娘、慣れぬ酒を口にしすぎたようでございます。どなたか風の当たるところへ連れて行って休ませていただけませんか」

 男はさりげなくそういうと、少女に反論する隙をあたえず、その腕を取り、立ち上がらせた。

 「よし、案内してやる」

 赤ら顔の男が立ち上がった。イムナン・サ・リは少女を抱きかかえるかたちで詰め所を後にした。

 薄暗い通路をしばらく進むと、窓辺に通じる小部屋を案内された。

 「ここでどうだ」

 にやにや笑いながら男がふり返ろうとしたとき、細い腕がうしろから廻ってきて、隠し持っていた短剣のやいばが喉許を突いた。赤ら顔の男は言葉もなくそのまま崩れ落ちた。息絶えようとする男の身体を魔術師は足で転がすと部屋の隅に押しやった。


 魔術師は青ざめて呆然としている少女の手を牽いて、そのまま隧道を駆け下りた。やがて厩まで辿りつくと月影を呼んだ。柵を軽々と乗り越えて、月影はあるじのもとへ駆けつけた。

 「さあ、お行きなさい。最悪の場合、あなたが解放されたものたちを導くのです」

 そういうと、イムナン・サ・リは総門の扉を満身の力をこめて押し開いた。


 俘囚たちの脱出劇を目の当たりにした人狼ウルフマンの呻り声は次第に増幅し、いまや砦を揺るがすほどになっていた。


 「これはどうされました?」

 イムナン・サ・リが詰め所に戻ると、例の門衛が立ち上がって不審げに天井をにらんでいた。

 「いや、上の様子がおかしいので見てこようとおもってな」

 サルダスはそれほど酔っていないようすだ。


 「行かれてはいやです」

 魔術師は門衛の胸にはらりと取りすがった。

 「わたしも疲れました。どうか一緒に休んでください」

 そういいながら顔を胸板に押しつけると、腕をしどけなく腰に廻してきた。

 「あ、あぁ」

 下心がなかった訳ではないのに、サルダスは楽人の誘いかけの大胆さに動揺した。

 「ひとつお伺いしたいことがあります。コーダもこの砦にいると聞いていましたが、お見かけしません。どうされたのですが」

 甘い響きが門衛の舌を軽くする。

 「やつらか。実は昨日おかしな病人がでてな。それから、サイラス人がいなくなった。残っているのは、大佐カーネルと呼ばれている男だけだ」

 そういえば、バルムのやつ、上階の独房に閉じ込めておいたが、大丈夫なのか。やつもこの騒ぎでおびえているだろう。サルダスは我に返って、あたりに声をかけた。

 「誰かうえを見てきてくれ」

 「それには及びません」

 イムナン・サ・リはぱっと顔をあげた。その暗い色の目は燃え立つほどの殺気を孕み、赤い唇の端は禍々しく吊り上がっていた。その手にはいつのまにか門衛が腰に帯びていた偃月刀えんげつとうを握っている。

 「貴様」

 サルダスは、色欲にかられてこの美しい死に神を自らの陣地に引き入れてしまったことをようやく悟った。

 「剣舞の技を皆さまに披露するのをすっかり忘れていました」

 死に神はうっとりと笑った。

 「さて、今宵は最後まで楽しまれよ」

 言い終わらぬうちに、門衛の胴はほぼ断ち斬られていた。酔いどれどもがあわてて刀を抜く。虚をつかれて、兵士たちは形勢を立て直すこともままならなかった。

 完全なる不意打ち。これだけの数をまえに、この優男がたったひとりで牙をむくとは思いも寄らなかった。鍛えられた軍隊も、いったん統制を失えばなんの戦略ももたぬ烏合の衆である。


 力で押し斬るのは男の流儀ではなかったが、曲がり刀の特性をいかして反動をつけながら撫でるように斬りつけていく。優雅で無駄のない動きは、一見速さに欠けるようにも見えた。だが、実際この男の身のこなしについてくることは、素面でも至難のわざであった。

 まともに剣戟けんげきを交わすいとまも与えられずに、酔漢たちは次々斃されていった。


 魔術師は、もはや醒めた面持ちで殺戮の地獄絵を創り上げていく。


 倒した男からもうひと振りの刀を奪うと、相手の恐怖心を煽るように両手で双刀を巧みに振り回した。出口から遠い一方の隅に彼らは追い込まれていった。人は恐慌をおこすと、もっとも愚かな選択肢を選ぶ。兵士たちは互いが重いかせとなるように無様に重なり合い、永遠に逃げ場を失った。


 (我らが流す血を浴びるほど、貴様は闇に染まる……)


 それもいいだろう。

 

ここ数日に受けた拷問と戦傷の痛みに耐えながら、生死の境界が曖昧になっていくなかで、魔術師は大妖鳥の最期の言葉を思い起こした。


 際限なく繰り返される孤独な死闘こそが彼の人生だった。その奇襲のあざやかな手並みの報酬として、あざむかれたものの憤りと絶望をその身に受けてきた。


(我らが流す血を浴びるほど、貴様は……)


それもいいだろう。

 一縷の光すら届かない冥暗めいあんの最深部で、ねっとりとした腥気せいきをはなつ血の泥濘でいねいのなかで、人知れず果てるのも良かろう。

 裏切りと流血の先にあるものなど、ろくな物ではないに決まっている。救済など初めから存在しないことも解っているさ。


 それでも、魔術師は死の誘惑を振り払った。

 出口無き闇迷宮の、まだ、ほんの序の口に過ぎない。これから、人狼の群れとコーダの親玉が彼を待っている。本丸はそちらだ。それに加えて、他者を巻き込むのは本意ではなかった。ゲイルとナビヌーン、彼らを確実に帰還させねばならない。


 「ここが片づくまで、どうか持ち堪えてくれないか」


 イムナン・サ・リの願いもむなしく、頭上では檻を突き破る音がとどろき響いた。

 魔術師は最後の敵を討つと、べっとりと血糊がつき刃のこぼれたふたつの刀を捨て、死人の山から切れ味のよさそうな刀をもぎ取った。


 一気にきざはしを駆けあがる。

 そこでは、ナビヌーンが三頭の人狼ウルフマンに囲まれていた。

 その奥には女がまだふたり残っていた。

 背中をおおきく湾曲させ、その鋭い爪をひろげた人狼はいやらしい咆吼をあげている。

 イムナン・サ・リは失速することなく疾走したまま、その左右から一歩下がったところにいる正面中央の、向かう側からは一番手近の人狼ウルフマンに斬りかかった。

 怪物は気配を察してふり向くと、頭上まで跳躍した。


 魔物狩りはこの男の本分である。

 彼らの動きなぞ先刻承知、予測するまでもない。刃を左脇に流し構えると、すばやく回転させて上空にむけてふり斬った。

 ずしりと音をたてて毛むくじゃらの胴が床に落ちた。切りはなされた首はやや遅れて転がっていった。

 「ナビヌーン殿、ここは私が惹きつけますからその隙にお逃げください」

 先刻の一撃と同時に、魔術師はナビヌーンの左側にすばやく回り込んでいた。

 「そんな訳にはいくまい。これは俺の戦いだ」

 「それでは、ご自由に。並外れた俊敏さと腕力に加えて、人狼ウルフマンは常人よりもはるかに縦横無尽に動きます。跳びあがって上から襲いかかるか、四つ足になって下から掠めるか。どうかご注意ください」

 お互いの背中を合わせるように半身に構えると、ふたりの男は忌まわしい敵に刀を向けた。


 地上では、ゲイルが俘虜たちと合流していた。

 「おい、全員集まったのか」

 少女が尋ねると、

 「あとおふたり。それにナビヌーン様がまだです」

 凛とした声がこたえた。

 「ふたり、か……。まだ少し時間がある訳だ。少年、私につき合え」

 少女は少年にそう誘いかけ、もと来た道を戻りはじめた。


 うなり声は続く。

 まだ、拘束の解けていない獣たちにも興奮が波及していた。

 獄舎全体が生き物のようにうねる。

 背後では、女たちが壁を背にして凍りついたように固まっている。

 魔術師は目の前の人狼に意識を集中させた。だが、もはや個々の意思は判別できず、すべては大いなる狂気のうねりのなかで融合していた。捕囚やナビヌーンの精神ですら、この狂気の渦に同調してしまっている。

 なによりも、圧倒的な対象のまえにその力を使えば、おのれの力を制御することすら難しくなろう。すでに魔術師の知覚はねじれ、歪み始めていた。

 今はみずからの、そしてナビヌーンの腕を信じるほかなかった。


 それにしても、ナビヌーンの隣に割り込むほかはなかったが、最悪の陣形だった。躍りかかって先手を取るべき相手だが、そうすると女たちのいる背後が手薄になる。消耗戦となれば、この袋小路にじりじりと追いつめられて、若者や女たちがはたしてどこまで持つのか。


 魔術師はすばやく決断した。

 迷いは致命傷になる。

 この男は、このような窮地では決して迷わない。

 「右側は頼みましたよ。確実に斬ってください」

 ナビヌーンにそう耳打ちした。


 動くのか。

 若者がそう理解した瞬間に、魔術師はすでに機先を制していた。

 一分の躊躇ためらいもなく、背後の女の腕を取って強い力で引き寄せると、人狼ウルフマンの目前に放り出した。

 女は訳も分からず、のごとく人狼ウルフマンのまえに投げ出された。

 二頭の人狼ウルフマンが相次いでその女に喰らいつこうとした刹那、イムナン・サ・リは目の前の怪物の頭上に躍り上がると、刀を一気に振り下ろしてその首を分断した。

 ナビヌーンも身を低くしてもう一頭の怪物の懐に入り込み、その腹にざっくりと斬りつけ、身を二つに両断した。

 元来断ち斬る技には自信がある。彼にとっても、その愛刀にとっても、雲霞うんかのごとき妖鳥ハーピィよりはずっと闘いやすい敵だった。それに、若者のなかで何かが鈍磨どんまして、もはや魔術師の非情さにいちいち反応する心も失せてしまったようだ。

 その証拠に、女が差し出された瞬間、ほとんど無心のうちに身体が動いた。


 俺もとうとうやつに感化されたのか。


 おとりの女は逃げ出すこともせず、横座りに足を投げ出すと両手をついてその上身を支えていた。甲虫の擬死ぎしにも似た虚脱がそこにあった。


 だが、女にとって災厄はまだ終わらない。

 まず、魔術師がねた首を女は無意識に両のかいなで受け止めた。

 次に、若者が断ち切った上半身が降りかかってきた。

 やがて、女の感情がゆっくりと戻ってきた。

 血の海のなかで絶叫する女の悲鳴は、二度と平静さを取り戻すことはあるまいと思えるほど壮絶な恐怖に満ちていた。


 ふたたび夜明けが近づいてきた。

 「みはりはすべて倒しました。こちらの階段から降りてください」

 イムナン・サ・リは、ナビヌーンに退路を案内した。

 「お前はどうするんだ」

 「人狼どもを始末します。それと、ちょっとした用事があるのです。私にはかまわず、はやく行ってください」

 イムナン・サ・リの表情にかすかに疲れが滲んでいる。一瞬、この男が本来持っているはかなさが露わになったような気がした。

 「もうすぐ夜があけますし、突然消えたサイラス人がなにかよからぬ仕掛けをしていないともかぎりません。手頃な洞窟に彼女たちをお連れください。なによりも、あの方を野放しにしておくと、なにをしでかすことか」

 「では、頼む」

 ナビヌーンは、座り込んだ女の手を引き上げた。先ほど飛び降りようとした女だった。血にまみれて震えつづける女の身体を抱き上げると、もうひとりについてくるよう促した。


 最後の俘虜をつれて若者が暗い隧道の最後の曲線を降りていくと、入り口ちかくに人の気配がした。一瞬ぎくりとして身構えたが、聞き覚えのある声に安堵した。

 「あいつら、何やっているんだ」

 厩ではゲイルとシノロンが貯蔵庫から厳選した食料を何頭もの馬の背に括りつけていた。

 「ああ、ナビヌーン。さきほどひどい悲鳴が聞こえたが、やっと終わったのか」

 少女が悪びれもせず声をかけた。

 「ナビヌーン様、ご無事でなによりです」

 例の勇気ある少年の声だった。

 「おい、とにかく急げ」

 放心した女たちを馬の背に乗せながら、ナビヌーンは一方で逆境をものともしない、したたかさで満ちた二人組を促した。


(参)


 獄舎全体に広がる狂気は、融合してひとつの大きな呻り声をあげた。男の歩みに合わせて、鉄格子のあいだから獣のような爪甲そうこうが現れて、男に纏わる空気をかすめ取ろうとしていた。

 圧倒的な敵意に満たされた空間のなかで、イムナン・サ・リは通路の隅に無造作においてあるタールの大樽を次々と倒して、中身を床にぶちまけた。

 黒く、粘度のある、かすかに沼池臭をふくんだ液体がゆっくりと流れていく。やがて通路に行き渡った。

 それを見届けると、魔術師は壁の炬火トーチを一本引き抜いて、その火先ほさきを一面に広がる黒い滲みに落とした。


 あっという間に紅い火焔かえんの舌が黒いタールの溜まりを舐めていく。

 紅蓮ぐれんの海が絶叫と新たな恐慌を引き起こした。いつ止むともしれぬ阿鼻叫喚。やがて、炎と煙がすべてを終わらせるだろう。

 魔術師は、大佐カーネルが待つという最上階を目指した。

 その男との対決にそれほど時間をかけるつもりはなかった。すでに血にまみれた偃月刀を手にすると、きざはしを一気に駆け上がった。


 その男は、最上階のほとんどを占める広間にいた。


 背もたれのついた革張りの椅子は、わざわざサイラスから運んだものか。

 小暗おぐらい闇に溶け込みながら、銀光を放つクロムスーツにマントをはおった男がゆったりと座っていた。

 イムナン・サ・リは、伏魔殿のごとき要塞の本陣へ飛び込んだ。煙を少しでも防ぐために開け放たれていた扉を閉めると、銀色の男は顔をあげた。


 「ケスの生き残りは、あの小娘、ルー・シャディラのみと聞いていたが。ほう、貴様は、ズールムンデによく似ている。あいつには娘だけで、息子はいなかったはずだがな。そうか、ファラミスの息子か。ケスの未来の王と王妃が、そろって生き延びていたとは驚きだ」

 大佐は赤く光るナイトヴィジョンの眼球をはずし、銀色のマスクを剥いだ。

 思ったより年配の男の顔が現れた。白銀の髪に淡い水色の瞳は、死にゆく星テノティワカンを逃れた初期の移民の特徴を引き継いでいた。

 「そう、私は少々長く生きすぎた。昨日は人形遣い(マニピユレーター)に魂をわれた男を久しぶりに見たよ」

大佐はイムナン・サ・リを検分するかのように見つめた。


 「ファラミスとズールムンデ、ケスから送られてきたこの双子の姉弟は別格だった。超能力者サイキックとして生まれる前から強化されていたからな。他には、ポーメリアンの予言者キシアン・ナージ、サイラスの指導者 司祭ビショップ、皆幼なじみだ」


 「皇妃があつめた神童たちは、特別な訓練を受けた。お前には想像がつくだろう。それがどんなに悲惨で過酷なものだか。あとに残ったのは狂気のみだ。私は凡庸だったが、彼らは魂の臨界域りんかいいきでそれぞれの神を見た。私はもっともまともだった男と運命を共にしてきたつもりだ」

 大佐は、乾いた声で続けた。

 「これで納得したか。貴様の正体が見破られたことを。それを知りたくてわざわざ来たのだろう」


 「私が知りたいのは、そんなことではない」

 イムナン・サ・リの目が強く光った。


 「無駄だ。訓練を受けていると言ったはずだ。才能はなかったが、お前のような読心術者マインドリーダーに対する防御術くらい身につけている」

 大佐は声を立てずに笑った。

 「階下はすでに始末したようだな、人形遣いよ。私の目前で、まずは貴様の技量を拝見させてもらおうか」


 大佐が掌のなかの遠隔キーを操ると、奥の小部屋に通じる電子鍵があいた。


 「特別に調教した人狼だ。貴様のために取っておいた。やつの心はすでに錯乱し、殺気で満ちている。外界からの制御はもはや利かない。貴様の力を持ってしても」


 黒い大きな影が放たれた。


 通常の人狼ウルフマンの倍ほどもある剛毛に覆われた巨躯をゆらしながら。


 見るものを射殺すようなよこしまな眼光。


 突きだした鼻先とはみ出した黄色い牙。


 異常に発達した上腕と弓のように反りあがった大腿骨。


 それは、異形の怪人だった。

 ひと息ごとに呻き声をあげて猛りながら、全身を戦慄おののかせている。

 おのれの存在自身をいとうかのように。


 イムナン・サ・リはその狂気の奥底にある恐怖を見てとった。

 おのれ自身を制御できないという恐怖。

 タルクノエムでただ震えていたあの時の少年と同じ……。


 「来い。楽にしてやる」

 男はその狂気に満ちた心に静かに呼びかけた。

 沁み渡るように言葉は響いていく。


 人狼ウルフマンはゆっくりと男に近づき、ひざまづくと腕をひろげた。

 イムナン・サ・リはその開いた胸を斜めに斬りつけた。

 怪物はもはや苦痛すら感じずに、静かに崩れおちた。


 「ほう、憐れみのこころか。同じ顔をしていても、貴様はズールムンデとはだいぶ違うようだな。では、人形遣いよ、貴様は何を知りたいのか」


 扉を閉じていても、死の煙がすでにこの階まで登ってきたことがわかる。

 もはや、それほど猶予はない。

 「……手を組むことはできないのか。空の封印を開けば、谷の者たちは闇の生物に変化することはなくなるはずだ。コーダもヌークも元々同じ人間のはずだ。何故解り合えぬのか」

 イムナン・サ・リは核心に触れた。

 「無駄だ。空の鍵を握っているのは我々ではない。それに、ここで何か行われたか、貴様は解っているだろう。同じヌーク同士なのに、やつらは人狼ウルフマンを人殺しの道具にした。そして、餌として同族の女たちを捕まえてきて楽しみながら与えていたのだ。女たちの身体が引き千切ちぎられる様を喜々として眺めながら。これはひとつの試練だった。そして、結論はすでに出た。ヌークたちは生き延びるに値しない。我々は、遠からず表舞台を去る。やつらを道連れに」

 「お前たちが煽っておいて、よく言うものだ」

 「やつらが望んだことだ」


 原始の地球に似た環境を持ちながら、この星の生命は、あらゆる物質を溶かす王水おうすいのごとき酸性の海を出ることがなかった。惑星磁力の乏しい世界では、昼間の吹き荒ぶ太陽風が彼らの進化を拒んだ。バクテリアに相当するちいさな生命は、代謝たいしゃによって重金属を浄化しながら、気の遠くなるような年月を夜のなかで過ごした。ふたつの月をみつめながら。


 遠い軌道をゆっくりと巡る巨大な月。

 太陽とは逆方向に、高速で上空を周回するひしゃげたちいさな楕円体の月。


 産み出される潮汐ちょうせきの複雑なリズム。


 ちいさな生命は、昼のあいだ原始的な生命として海中を漂い、夜の訪れとともに月光に導かれるまま浮上した。やがて、みずから放出した膠原コラーゲンの浮島のなかで、彼女たちは互いに結びついた。

 そのやわらかな鞭毛フラジェラムはパルスとフェロモンのシグナルを交換しあい、潮の満ち引きにあわせた接合によって愛を交わした。そのしなやかな生命のネットワークは、やがて複雑な思考回路を構築した。

 昼間とはまったく異なる夜の顔。的確にプログラムされた自己分裂と細胞死アポトーシスによって自律し完結した生命。彼女たちは、他者に脅かされることはなく、捕食や生殖にエネルギーを割く必要はなかった。

 ふたつの月に照らされながら、同胞への愛を、見果てぬ宇宙の秘奥ひおうを共に語らい、夢見るように生きた。

 地球とは異なる進化の道程。彼女たちは、この星を支配する夜の女神として荘厳に生まれ変わった。


 この地を探索した最初の人類は、この未知の生命体と出会い、やがて彼女たちとその高度な知性に感銘をうけた。


 惑星夜(ニユクス)の名の由来。

 夜を廻るふたつの衛星は、死(タナトス)と眠り(ヒュプノス)と名付けられた。


 だが、蜜月はながく続かなかった。

 人類にとって、この星は征服すべき未開の処女地にすぎなかった。

 やがて、人類は亜光速船の磁気バリアを応用して、惑星の両極に磁力を与え、太陽風を遮る電離層を創出した。次に酸と重金属の海を一瞬のうちに中和してちいさな生命に壊滅的な打撃を与え、酸素供給のためのバクテリアが彼らの生存域に置き換えられた。数世紀を経て、浄化された土壌に多くのテラ起源の生物が移植された。

 人類が夢見た驚異の生存圏。複雑で多様な植物群フローラ動物群ファウナがもたらす豊穣。あまたの生物がひしめき、生命の歓びと輝きにあふれる地上の楽園。

 だが、ながい惑星改造テラフォーミングのあいだに開拓者たちの文明は衰退し、移住計画は最終段階で頓挫とんざした。


 その一方で、ちいさき神々のわずかな生き残りは、その性質を変えつつ深海や地下深くへと逃げ延びた。


 やがて、ふたたび人類がやって来た。

 ならず者の王レィヴンに率いられた、衰微すいびの星テオティワカンからの亡命者たちが。

 そして彼らに続くように、ひしゃげた楕円体の月、ヒュプノスが無数の火の玉となって天から降り注いだ。

 三つの災いが、大災厄が訪れる。

 熱風が形あるものを消失させ、あふれる大海がすべてを洗い流し、やがて空はダストの闇に覆われた。長く峻烈なフィンブルの冬がやって来たのだ。そして、再び地上は重金属に曝露ばくろされた。


 やがて、闇の絶え間に現れたのは赤い空と蒼い太陽の呪われた世界。


 長い冬の時代、後にサイラスと呼ばれる地下鉱山へ逃れえたのは一部の人間たちだった。地上に留まるほかなかった大多数のものは死に絶えたが、奇跡的に生き残ったものたちがいた。


 彼らは、過酷な世界を生き抜くためにちいさき神々と契約をむすんだ。太古よりこの星の海に生きてきた、ちいさな生命をその血潮に受け容れて、彼らからあたらしい熱量源を得たのだ。かくして、パラサイトはオルガネラとなった。かつて、うつくしいテラの海を彩ったサンゴ虫の細胞内で光合成するゾーザンテラのように。

 ただし、彼女たちは、光合成ではなく宿主の体内に取り込まれる余剰で有害な重金属を代謝して、エネルギーを宿主に引き渡すのだ。 


 あらたに得た代謝系。


 あらゆる環境に適合していく強靱な生命力。


 だが、その血潮に飼っているちいさき神々は、ミームとしてホストのDNAに直接働きかけ、人としての成り立ちそのものを変えていく。次々と産み出されてゆくモンスターたち。


 それは、かつて赤の女王仮説として知られた軍拡競争アームズレース


 (ここではね、同じ場所にとどまるためには、思いっきり走らなければならないの。どこか別の場所に行きたいなら、少なくともその二倍速く走らなきゃ。)

 

 闇のなかで全力で繰り広げられる進化のチェイス。

 ホストとパラサイトの永遠の童戯。


 あの壊れかけた機械の脳をもった皇帝は決断した。

 惑星改造テラフォーミングと逆の手順で、惑星の磁界を消失させ、絶え間なく太陽風の降りそそぐ死の星に戻し、感染者を夜と谷に封じることを。


 そう、鍵を握るのは、決して手の届かないところに眠るあの男だ。


 「大災厄以降、計画はことごとく失敗した。我々幼き訓練生に課せられた使命はあまりにも重く、ある者は狂信者となり、ある者は世捨て人となり、またある者は革命家になった。救世主などもはやあらわれぬ。ゲームはすでに終わったのだ。だが、皇妃はお前たちを生かし、何事かを企てている。そう、すべてを投げ出した皇帝に代わり、いまだ世界の修復を試みている。だから、代わりに我々がすべてを終わらせるのだ。オメガの神の御名のもとに」


 「では最後にきく。お前らと東タルー族を仲立ちしたのは誰だ」


 「ふっ、ずいぶんと些末さまつなことを知りたがるものだ」


 手を組む、か。その言葉がズールムンデから出ていれば、この星の歴史はかわっていたかもしれん。人生の半分を大佐カーネルと呼ばれている男は、過去をそのように振り返ることは初めてだった。


 もしや、ファラミスの息子であれば、司祭の心を開かせることができるやもしれぬ。


 だがもう遅すぎる。すべては終末へむけて動いている。我らが最終計画で氷河は融解し、ありとあらゆるものを呑み込むだろう。すべては、オメガ神の御心のままに。


 せめて、貴様をいまこの瞬間に迫る破滅から逃がしてやろう。


 「いずれこのような忌まわしい実験は終わらせるつもりだった。貴様の手を借りずとも跡形もなく消失させる予定だった。まもなくこの砦は自壊する」

 地響きに似た振動を感じたとき、大佐は腰のホルダーから拳銃を取り出すと自らの額に向けた。

 「ここまでだ、若造。運がよければ逃げ出せるだろう」


 無窮むきゅうともおもえる深い闇のなかで銃声が響いた。

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