第五話 異母兄

(零)


 惑星テオティワカン。


 この惑星の自転と公転は同期しているため、陸地は永遠の昼半球にあり、夜半球はドライアイスの海でできていた。


 この人類が住むには苛酷すぎる環境は、可能な限り人為的に改造されていた。

 昼半球にかつて存在した原初の硫酸りゅうさんの海は、化学弾の大量投下によって水と酸素に分解された。この地に立ちこめる地の獄を連想させる硫黄臭はかつての死の海の置き土産だった。

 やがて世界の中心には、核融合の巨大な炬火トーチが地上の太陽として灯された。空には人工衛星が複雑なプログラムによって飛び交い、花容かようのように広がった反射鏡で効率よく太陽光を地上に照射していた。生まれ変わった海には光合成工場が設置された。プラントでは大量の藍藻が失われた酸素を供給して、乏しい植生を補っていた。


 惑星の住民達は、かつてすべての肌色が入り混じった美しいカフェオレ色の肌をしていたが、千年紀を幾度もやり過ごすうちに白色矮星の弱々しい陽射しの許で抜けるような白さに退色していった。

 たとえ荷担ぎ夫であったとしても、宇宙港に職を得ることができた者は幸運だった。住民たちの生業なりわいは、少数のエンジニア階級を除いて、たとえ氷点下の露地でも収穫できるよう改良された穀物を育てる農民か、化学プラントで収穫した作物を輸出用のアミノ酸に加工する労働者のどちらかだった。土地と富はすべて王家とその取り巻きに属していた。

 王家と第六太陽は、くなき貪欲どんよくさで塗炭とたんの民の血を欲して、際限なくむさぼり飲んだ。


 男が産声をあげたのは、この土地ではありきたりの、廃材と切り出した石でできた陋居バラックのひとつだった。


 男は、昨日のことのように思い起こすことができる。

 農園沿いに立てられた小屋の内外にただよう人畜の糞尿と口をつける前から臭気を放つ食物との入りまじった匂いを。

 寒々しい陽射しと凍れる大地に溶け込みそうな灰色の合成繊維の防寒服を身につけた村人たちの囚人のごとき姿を。

 あらゆるハイテクノロジーに囲まれながら、中世のまま留め置かれた世界を。

 途切れることのない絶望の陽のもとで仮想の夜の到来を告げる晩鐘アンジェラスと終末の訪れを希求する人々の祈りを。


 空の中心を占める白くはかない太陽。永遠につづく昼。だが、地平近くには星々が透けてみえた。永遠の昼は永遠の夜でもあった。光と闇はしかく逆転する。そこにあるのは、白い白い闇。薄明はくめい薄闇うすやみのあいだの混沌たる世界。


 男は知らない。彼の同胞に世界がどのように見えたかを。

 灰色の光にさらされた汚濁に満ちた日常が、弱視と色覚欠損を宇宙船の祖先から引き継いだ者たちにとって、ホワイトアウトにも近い、攪乱こうらんする光に満ちたこのうえなくうつくしい世界であることを。


 ジャガイモの絞り滓とプラント製のパサパサした米、数種類の豆と少しの野菜が彼らの主食だった。

 住民の栄養状態の改善のため、年に数回ソイミートと合成ビタミンの瓶が配給されていたが、病はこの星の風土病だった。正規の教育を受けた医者は村にはおらず、アスピリン程度の医薬品すら決して手に入らなかったが、輸出用に製造された合成アルコールや代替カフェイン、シャトルパイロットの覚醒用のアンフェタミンまでが魂のペインキラーとして安易に横流しされていた。


 ある飢饉の年に、彼の唯一の友人だった農耕馬が飢えた一家の胃袋をみたすため屠られた。その小さな年老いた馬は運命を悟っており、別れを告げる時には聡明な瞳で彼を見返した。この時命拾いした兄弟の面影はやがて薄れていったが、その馬の記憶は心に焼きついて離れなかった。


(壱)


 商都タルクノエム。

 文明化した金目、銀目の種族、ヌークの都。


 巨大な樹木のごとき天空都市は、ダール・ヴィエーラを見下ろす天然のジグラットである切り立った広大な残丘モナドノックの上空にあった。

 円錐状の城塞都市シタデルの螺旋によじれて傾いた層には、幅広のメインストリートを挟んで段丘状に市街が連なり、秘密の小径や階段路、猫走りの通路が入りくんで恐るべき迷宮を為し、無秩序な建築物の集積体からは、蔦に覆われたねじれた塔が奇怪な樹の枝のように、あるいはまことの樹木が天を衝く尖塔のように突き出していた。

 壮麗で複雑な重層構造はそのまま住人たちの社会階層と重なり、調和と不調和を交互に奏でながら、超俗の様式美のなかで猥雑カオスがひしめいていた。


 このひとつの都市を成す壮大な構造物のそもそもの基壇は、大災厄を免れたこの星に残るもっとも古い遺跡のひとつであり、過ぎ来し方の文明の置き土産でもあった。


 時の流れは中世さながらだったが、その都市としての機能は高度なテクノロジーによって支えられていた。

 ひさかたの遙かなる天空を振り仰げば、致死的な太陽風を防ぐプラズマの天幕が仄かに揺らめく姿を目にすることができるだろう。

 そして、城砦の中心に視線を向けると、機械仕掛けの都市の心臓部である組鐘塔ベルフリーが変わることなく優美に佇立ちょりつしているはずだ。その先端の巨大な蛍石レンズの太陽炉から送られた熱源は、大小の歯車がきしめく塔の内部の蒸気タービンを絶え間なく廻すのだ。そこから排出される温水は、動脈のように市中をくまなく循環している。

 さらには、都市を取り巻くエアシールドの見えない城府じょうふが吹きすさぶ風を防いでいたので、氷河期にあってこの地は穏やかな暖かさに包まれていた。


 この世俗的な自由都市は、プラズマと水と風と大地に堅固に守られていた。

 その地下深くには、かつての坑道と地下工場跡であり、大災厄の時代には巨大なシェルターとして機能した冥府サイラスの都が広がる。巨木を支える根の国として。


 混血の融合都市。

 惑星夜(ニユクス)の闇を取りまくすべてのくびきから解きはなたれたこの奇跡の箱庭のなかで、ヌークの野蛮さがコーダの文明によってほどよく中和されていた。ここでは、停滞と退廃という二振りの香料で味付けされた、商工業者を中心とする中世的な社会が形成されていた。

 時の淀みのなかを、実り多き葡萄棚のように吊り下げられた組鐘カリヨンがうっとりとした音色を奏でながら暮合くれあいを告げる。


 この地では、いつもどこかで饗宴きょうえんが催され、おびただしい財が消費される。


 さて、タルクノエムの名だたる牙商がしょうたちが、ギルドの参事として市の中心にあるホールにつどう夕べ。

 彼らのあいだでは、新しい年の毛皮猟のゆくえから、公然とおこなわれる人身売買、サイラスの機嫌をうかがいながらダール・ヴィエーラの蛮族たちに彼らにふさわしい野蛮な武器をどのように売り込むべきか、といった話題にことかかない。


 その中心にタルクノエムの市政をつかさどる若き執政官、イルラギースがいた。

 もちろん、この毛並みのよい男にはそのような下卑げびた話題はふさわしくない。せいぜい、タルクノエムの郊外に広がるドーム型の人工果樹園の収穫の見込みやワインの熟成具合にとどめたほうがよかろう。


 イルラギースは、よく精練された練絹ねりぎぬのように優美なかがやきを持つ長身の男だった。

 小ぶりな円塔帽に爪先まで覆うゆったりとしたローブがよく似合う。

 権力のダイナミクスのなかでは、低俗だが残酷なほど冷めやすい衆望に応えることもまた為政者いせいしゃの資質のひとつと心得ている様子で、このような場では壮年に相応しい色気と思わせぶりな笑顔を惜しげもなく振りまいて、彼を取り巻く信奉者たちをうっとりとした心持ちにさせるのが常だった。


 その面長の顔立ちには、彼の精神構造の複雑さをあらわすかのように異質なうつくしさが混在していた。

 聡明そうな額と奥まった眼差し。瞳の色は青、それも暗い髪色の持ち主に良くみられるような青金石ラズライトの深い深い青だった。力強いが目立ち過ぎない鼻梁。それらに相反する頬骨から顎にかけての官能美。そして、強靱な意志を現す強く結ばれた口許。輪郭の下端を縁取る顎髭は、元来の繊細さを隠すとともに男ぶりの良さをかえって際立たせていた。


 肩まで覆うダークブロンドの髪は、サイラスの血をひく母から受け継いだもので、くすんだ金色の巻き毛はふるびた真鍮のように光の加減でちらちらと燦めいた。

 夜の民ヌーク特有の青ざめた肌は、父親譲りのオリーブの肌色に隠されていた。


 サイラスの血がやや勝っているとはいえ、彼もまた交雑者ハイブリッド、ヌークの民のひとり。その深青色の瞳も闇に潜めば銀となろう。


 男は、身につけるもの、口にするもの、侍らせるもののすべてが上質だった。


 家業である宝石商としてもなかなかの目利きで、相手の懐具合をみすえた駆け引きの巧さも際だっていた。

 タルクノエムの草創期からつづく旧家、リザイツェオーン家の出身でありながらも、亡き妻エフェルメの生家は新興の銀行家であり、いまだ良好な交際の続く岳父がくふアルムロスは彼の後ろ盾のひとりだった。

 成人した同腹の弟のひとりは、天空都市の周辺で拡張をつづけるリザイツェオーン家の化学プランテーションの領主となり、もうひとりは学問の徒としてガルムの法学院でタルクノエムの新しい法典を編纂へんさんしている。血族を重要視しないことは、かえって彼の評価を高めていた。もっとも、弟ふたりを旧来のギルド社会の外に置いたのは、彼らしい思惑も絡んでのことだったが。


 そして政治の世界でも、控えめに、だが確実に、男はその地歩を固めてゆき、若くしてタルクノエムの権力の中枢までしなやかに登りつめていった。

 彼が執政官に選ばれるにあたって、したたかなギルドの構成員から満場一致の賛同をえたことは奇跡に等しかった。彼は気位が高く、理知的で内省的な本来の属性すべてを脱ぎ捨てて、野心的で跳ね上がりの、だが、政治的には全く以て無害な若者を見事に演じきった。

 そして、お飾りとはいえその座についてからは、硬軟取り混ぜた交渉力で、時に公然たる恫喝どうかつを、時に密やかな媚態びたいを秘めながら、権力の海原を巧みに泳ぎ渡った。

 気がつけば、名誉職に近かったその地位は本来の実権を取り戻していた。

 社会の改革者としてはゆるやかな導き手だったが、彼が執政官の地位についてからタルクノエムの都市国家としての有りようは確実に変化をとげていた。

 とりわけ、軍事面では著しい変革があった。有力者の師弟をあつめた竜騎兵ドラグーンは友愛組織だった自警団を正規軍化したもので、それまでの傭兵からなる大商人たちの私兵に代わってタルクノエムの独立色と自尊心をおおいに強めた。


 「失礼」

 イルラギースは取巻きとの歓談をやめて、暗がりにひっそりとたたずむ男のもとに近づいた。翳りを帯びて深青色ダークブルーの瞳が銀に光る。

 「ファーセル、戻ったのか」

 このタルクノエムの最高実力者は、髭面の初老の男に声をかけた。社交の仮面を脱ぎ捨てると、素っ気なく不遜な素顔が露わになった。ファーセルと呼ばれる男は、まだ旅支度も解いておらず、すべてにおいてこの場には似つかわしくない風情を醸しだしていた。

 「はい、今回は長い旅でした」

 男は、イルラギースにやっと聞き取れるほどの小声で答えた。その目はまっすぐで誠実さがあふれており、欲深いギルドの構成員たちの標準よりよほど人品が勝っていた。

 「アズールの、皇妃の行方はつかめたのか」

 労をねぎらうこともせずに、若き執政官はいきなり核心にふれた。

 「いいえ、ただ、北へむかう漂泊の楽人の一行にそれと思われる女がまじっていたという話がありました」

 ファーセルは、慎重に言葉をえらんだ。

 「北か」

 イルラギースは、考えこむように顎に指をそえて首をかしげた。

 「イムナン・サ・リはまだ谷で魔術師のまねごとをしているのか」

 「はい、今回はお会いできませんでしたが、そのようでございます」


 数年前にお会いしたときは、ずいぶんとダール・ヴィエーラの水がお合いになっているように感じたが。それにしても、イルラギース様がイムナン・サ・リ様の名前を口にするとは驚きだ。


 「ファーセルよ。悪いが、また早々に発ってもらう。サ・リに会ってこい。奴にはいいかげん意地をはらずに帰ってこいと伝えろ」

 思いもかけないことを執政官は口にした。


 ファーセルは、彼らの父ギランの時代から仕えてきたが、イルラギースがその腹違いの末弟に対して愛情を持っていると感じたことはなかった。もっとも、彼自身、ギランとともに旅に出ていることが多かったので、実際のところは解らなかったが。


 なによりも、この時期にイムナン・サ・リを呼びもどすことにどんな利益があるのかも解らなかった。


 出ていかれてせいせいしたのではなかったのか。

 彼の言葉の裏、あるいはその裏の裏を読み解こうとしたが、面妖にして複雑怪奇なタルクノエムの精神の権化たるこの男の本心など皆目見当がつかなかった。そのようなことを推し量るのはそもそも愚かしいことなのだと思い起こして、ゆっくりとその件に関する自らの考えを述べるにとどめた。


 「しかし、イムナン・サ・リ様はタルクノエムの禁を犯したお身の上。ご本人もお戻りにはなりますまい」

 亡きギラン様がご存命中はともかく、この兄の代になって戻ってくることはなかろう。

 「かまわんさ。本来ならば二代続けて執政官の任にはつけぬ。先代の急死を利用して、慣例をやぶって金で位を買ったなどと、陰でそしられているのは重々承知だ。わたしの手にかかれば、法なぞどのようにでもなるさ」

 自嘲気味にそう述べると、ふと思い出したように付け加えた。

 「それに、あの娘も谷に放たれた」

 「あの娘といいますと」

 「サ・リとともにただ二人生き残った片割れだ。お前も覚えているだろう。皇妃があいつらを拾った帰りに、タルクノエムに連れてきたのだ。ケスの王ズールムンデの娘。サ・リとは従兄妹同士だ。生まれながらにしてやつの許嫁だった」

 遠い記憶をたどりながら、若き執政官は言葉をつづけた。

 彼は、成人したルー・シャディラの悪魔的なまでに神憑った眼差しを思い起こした。数年前に再会した彼女は、すでに皇妃の許から離れて、サイラスの反乱者、司教ビショップにぴたりと寄り添っていた。

 イムナン・サ・リとは似て異なる強い光を帯びた黒い瞳は、神々しく揺るぎない力に満ちあふれ、少女のようにほっそりとした容姿に見合わないたしやかな悪意と大いなる野望を秘めていた。純真なる悪というものが世に存在するのなら、まさに彼女こそがその化身だった。


 彼らは、第三の種族として人に有らざる力を持っていたため、無残に虐殺された。直接手を下したのはダール・ヴィエーラの諸部族の連合体だったが、密かにサイラスの一部の勢力も手を貸していた。蜜月と裏切りを繰り返す戦法は、宇宙大航海時代から伝わる三者対戦型の六角盤チェスでは定跡だったが、タルクノエムはこの仇敵同士のつかの間の同盟関係に戦慄しただろう。

 いずれにしても、覚醒者はタルクノエムでは受け入れられない定めだった。瀕死の少年は、秘密裏にリザイツェオーン家に引き取られた。


 老商人は記憶を呼び起こした。ギランとともにケスの里を訪ねた日のことを。

 若き王ズールムンデに向けられた熱狂。

 イムナン・サ・リの母、王姉ファラミスのはかない雪のような美しさを。


 「ファーセル、お前には谷にいくつかの手土産を持っていってもらうことになる。詳しいことは後だ。夜半過ぎに屋敷に来い。それまで、せいぜい寛ぐがいい。といっても、お前にとっては落ち着かぬ場所だろうがな」


 遠い記憶の底に沈み込んでいる男に別れをつげると、イルラギースは彼の領分である虚実渦巻く社交の舞台へ溶け込んでいった。


 「イルラギース殿」

 毛皮商のカーマインが声をかけてきた。

 保守派の有力者であるこの男は、でっぶりとみにくい腹にあらゆる策謀を詰め込んでいた。禿上がった頭に、きっちりと巻いたターバンがトレードマークだ。隣にはその幇間たいこもちのハランダール。痩せた曲がりくねった身体と目の下の陰気な隈が特徴的な男だ。彼らを振り返ると、若き執政官は冷徹な素顔を覆い隠すように愛想良く微笑んだ。


 彼の真の支持者は青年部の改革派に属するメンバーだったが、旧世代に属するものに対しても表面上礼を失することはなかった。

 テーブルの向こうでは、改革派の急先鋒で、刀剣商ギルドに属するサーマスが三者の密談を不愉快そうにらんでいる。


 この鋭利な顔立ちをした、目の暗さばかりが印象に残るこの若い男は、イルラギースの信奉者のなかでも攻守ともにすぐれた利き駒だった。求道者のような一本気な風貌に似ず、その生業から様々な闇社会と繋がりを持っていた。何よりも、未来の英雄のためには、汚濁に手を染めることも厭わない潔さがあった。


 「実は、谷で面妖な動きがありましてな」

 奸商カーマインのあまりにも勿体ぶった囁き声のために、執政官は長躯をかがめて、そのいやらしい口許に耳を近づけなければならなかった。

 「ここだけの話、貴殿のお耳に入れておくべきと思いまして」


(弐)


沈みゆくラ・ウの瞳が、巨大な螺旋構造の隙間から、退廃の腐臭をはなちながら繁栄するオーロラの商都を密やかに覗き込んでいる。やがて、その青白き破鏡はきょうはメインストリートを優雅に走るイリジウムの御召馬車おめしばしゃを捉えると、好奇心を満たしたかのように瞬いた。


 イルラギースもまた、車窓から螺旋の層を支える龍の肋骨のようなはりに区切られた夜空を眺めやり、また車輪の軋みに合わせてカタカタと鳴るセラミックの石畳の向こうに無辺の大地を感じようとした。


 彼が誰よりも愛し憎んでいる都は死にかけていた。永遠の繁栄のただなかにあるかのようにみえるタルクノエムは、無から巨万の富を産み出す錬金術に長けた牙商がしょうという千のうじが蠢く爛熟らんじゅくの果実であり、彼らの精神は飽食のなかで膿んで腫れあがり、その実ともども朽ちて墜ちるのを待つばかりだった。


 帰邸すると、イルラギースは私邸の中庭に面したテラスで自らが呼びつけた男を待った。全身を覆っていたゆるやかな儀礼用のローブを脱ぎ捨てると、その鍛錬された肉体が青年期から変わらない美しさをたもち、ぜいをきわめた生活にいっさい浸食されていないことに驚かされる。

 ただ、倦怠の翳りだけが、かつては忌み嫌っていた権力の腐蝕ふしょくに身を晒してからの年月を物語っていた。


 大きなうねりがダール・ヴィエーラへ向かっているのをイルラギースは感じていた。それは彼のかねてからの思惑と一致する流れであった。


 サイラスの近代兵器がタルクノエムを通さずに直接谷へ、特に北部の部族に流れているというカーマインからの報告は、彼にとって驚くべきことではなかった。実のところ、彼が仕掛けたのだから。

その影響を局地的な争乱に止めるよう、くれぐれも部族間の力学の変動に波及せぬ程度にと、影で策動するサーマスには釘を刺してある。


 炙(あぶ)り出すのだ。この星に仕掛けられた計画を。


 答えは、サイラスでも最果ての離宮に蟄居する皇帝のもとでもない。谷にあるはずだ。

 まず、ウズリン族のファディシャという若者が表舞台に現れた。その天才的な采配で、すでにいくつもの部族をその配下に治めている。そして、全てが彼の周りの一点に集まっている。ケスの生き残りのふたりすらも。


 イムナン・サ・リとルー・シャディラ。かれらはほの暗い運命さだめのもと引き合う。


 まだ、未知の要素があるはず。イルラギースが渇望する空の封印を解く鍵も、おそらくは谷にあるのだ。ならばこそ、あの魔女、アズールは彼の地へその身を潜ませたのだ。


 ダール・ヴィエーラにおける数々の兆し。

 これらは、タルクノエムにとってどのような禍福かふくをもたらすのか。

 イムナン・サ・リよ。

 お前は、今もあの頃と変わらずに光を希求しているのか。それとも、とうの昔にお前が生みだされた闇の淵に沈んだのか。


 イルラギースは、十年以上前に別れたきりの母親違いの弟の記憶を呼び起こした。


 思い出すのだ。お前にとって、タルクノエムは常に善きものであるということを。傷ついたお前を救い、死に値する罪を犯したお前を逃してやった。その恩義を忘れるな。ゆめゆめ、タルクノエムにその牙をかぬように。

 根無し草のお前にとって、タルクノエムは唯一の愛だ。そしてお前の野望がついえたとき、頼るべき最後のよすがとして、お前はここに戻ってくるだろう。そのときこそ……。


 つらつらとしたとめどない物思いは、客の到来で中断された。


 「お待たせいたしました」

ファーセルは至るところに散りばめられた調度のかがやきに圧倒され、薄衣をまとった美女に取りつがれると、先代の頃とずいぶん館の雰囲気が変わったものだとかすかに眉をひそめた。執政官はその様子をひそかに苦笑しながら、中庭に出るように呼び掛けた。


 変わったといえば、館のあるじもずいぶんと化けたものだ。

 蒼白い顔をした陰気な秀才が、なんのてらいもなく大衆に媚びる扇情的な為政者になろうとは。ガルムの法院では神童と謳われていたが、かつての順法精神がこの男に針の先ほどでも残されているのだろうか。

 ファーセルは、先代ギランがその正しき血統と超然孤高たる人格ゆえに人々に敬愛されていたことを懐かしく思い起こした。

 もっとも、目の前にいる傲慢不遜な男がその心中を知れば、父なぞ形式ばかりの良くできた彫像に過ぎぬと鼻で嗤うことだろう。


 「お前は、暗がりのほうが落ちつくのか」

 イルラギースは静かに尋ねた。

 「さあ、どうでしょう」

  イルラギースの目も、暗闇に慣れてきた。文明人の真似事をしていても、われらも所詮ヌークなのだということを思い知らすために闇は存在するのかと思う。


 暗闇に魂が捕らわれそうになることはあるのか、という問いは呑み込み、執政官は今宵の本題に触れた。

 「イムナン・サ・リの例の力はどうなのだ。魔術師をかたるほどだ。自在に操れるようになったのか」

 「さあ、むしろその力を押し殺しているようにお見受けしましたが」

 「それでは、ここにいたときと変わらんな。一欠片の制約もないであろう谷で、あれほどの力を利用せずに捨ておくとは愚かな男だ。昔から不器用で臆病な性質たちだったが」

 イルラギースが、呟きに似た言葉を吐いた。


 はて、とファーセルの心に何かがひっかかった。

 サ・リ様をそのように見ていたとは。この鼻持ちならない高慢な男について、なにか見過ごしていた点があっただろうか。

 そういえば、幼いサ・リ様はいくらこの長兄に冷たくあしらわれ、時には打擲ちょうちゃくされてもずっと後をついてまわっていた。たしかに、他のご兄弟たちとの関係とは違っていた。なにかおふたりにしか解らぬ繋がりがあったのか。


 「これを持っていけ」


 イルラギースは両手にかかえるほどの美しく飾られた櫃を取りだした。なかには細長い天鵞絨びろうどの包みがふたつ。


 そのうちのひとつを解くと、それは一条の宝剣だった。

 鞘には、日輪を擬した紋章。

 その中心には、かつて(永遠のエクリプス)と呼ばれた大玉のブラック・オパールが象眼されていた。

 その黒い太陽そのものの深い闇色のなかで、七彩の幻惑の光線がちらちらと輝く。

 もうひとつの包みには、やはり宝石が嵌め込まれた銀の鎖帷子くさりかたびらが収められていた。それは良い細工物で、まるで糸のような細鎖がしなやかに編み込まれて、おどろくほど軽かった。

 古色をおびて沈み込むような色合いの銀鎖に散らされた宝玉の見事な眩耀げんよう

 ファーセルは知る故もなかったが、それらは遠くフィポスメリアの石切場でルー・シャデラがファディシャにみせた幻影において少年王が身につけていたレガリアだった。

 老商人は、おもわず感嘆の声をあげた。


 「お前ならこれらが何であるか解るだろう。かつてタルクノエムの宝飾工が贅を尽くして鋳造し、親父自らがケス王ズールムンデに献納した王位の象徴みしるしだ。一門が滅んだのち、戦禍の跡から回収して親父が預かっていたものだ」

 「これをサ・リ様にお渡しするのですか」

 「いや、やつには宝の持ち腐れだ。そもそも見向きもしないだろう」

 そう、あいつはケスの血を呪っていた。その一切を記憶のなかから消し去らねばならないくらいに。


 ギース、助けて。ギース。


 少年の叫びが頭のなかにひびく。直接脳に侵入してくる不快感は今も消えない。あいつの声を受けとめられるのは、家族のなかでわたしだけだった。

 「生き残りの娘の方だ。今はウズリン族の王位継承者、ファディシャの妻となったズールムンデの娘、ルー・シャディラに届けよ」

 有無を言わさぬ強い調子でイルラギースは命じた。

 「それと、この冬の物資の補給については、サ・リの要望を聞いてこい。奴もファディシャのもとに身を寄せているのだろう。採算は考えなくて良い。この件ではすでに資金面で義父アルムロスの内諾をえている。谷の要求をできるだけ叶えてやれ」

 善意など欠片もないであろう男が何を言い出すのかと、彼の密使はしばらく言葉がでなかった。どのような深謀遠慮がそこにあるのだろうか。


 そのとき、ちいさな影が中庭にあらわれた。


 「父上、あまり夜気にふれますと、お風邪を召しますよ。お客人も部屋の中にどうぞ。今あたたかい飲み物を用意しています」

 かわいらしい声がそう呼びかけた。

 イルラギースのただひとりの息子、十二歳になるサディウスだった。父親譲りの暗い金髪のしたで母親から引き継いだ琥珀色アンバーの瞳がゆらめく。タルクノエムの名花と謳われた、亡きエフェルメの忘れ形見。

 ファーセルは、その六花雪紋、スノウクリスタルの守りの短剣を腰に帯びた少年に、かつてのイムナン・サ・リと同じ繊細さをみたような気がした。

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