第六話 魔術師の夜

(零)


 生まれたときから、男には神の聖別を受けたものとしての兆候しるしがあった。


 件の司祭から生後すぐに洗礼の秘蹟ひせきを受けたものの、その美しい嬰児は遠い先祖伝来の黒い髪と浅黒い肌を持っていたので、誰とはなしにこの星唯一の鳥類である大鴉、レィヴンと呼ぶようになった。ありきたりの洗礼名よりも畏怖と偏見を含んだこの愛称が彼の生涯の通り名となった。


 レィヴンは無口な少年だったが、利発で、単調な労働を苦もなくこなす優れた身体能力と器用な指先を持っていた。

 父親は早くからこの末の息子の聡明さに気がついていた。このまま彼を自らと同じように地を這うような生涯を歩ませるよりも、高等教育を受けさせて、高級エンジニアに、願わくば本国と宇宙港の間を往来するシャトルパイロットにしたいと考えた。

 父親には為す術は何もなかったが、チャンスは向こうから転がってきた。クムクンタルという土地の領主が、毛色の変わった少年の噂を聞きつけて、館の下働きに出すようにと使いを寄越したのだ。

 父親はその使者を相手に少年がどんなに賢くて前途有望かを語った。使いのものは、彼の主には少年に教育を与える気などさらさら無いこと、主の目を楽しませて、いずれは別の形の奉仕が待っていることを熟知していたが、あえて父親の切なる願いを否定したりはしなかった。


 故郷を後にした少年は、陰鬱いんうつな館で主の意味ありげな目つきを見た瞬間、自らの運命を悟った。少年の心はあくまで平静だった。この星に生まれた以上の絶望などなかった。ただ、父の希望に添えないことに心が痛んだ。


(壱)


 野辺送りの行列が、村はずれの岩の森まで続いた。

 

 ネルヴァトは、他の二十人余りの戦士たちとともに、アルムントの遺体を乗せた輿こしの長柄を肩に担いでいた。炬火トーチを掲げた赤毛の兄妹を筆頭とする王の一族たちがその後に続く。そのなかにルー・シャディラも加わっていた。血縁関係のある他部族の弔問者たちや貴族である戦士階級が後を追う。村人たちの一群が、そのあとに距離をとって続いていた。


円環状の岩柱に取り囲まれた広場が葬送の舞台だった。


 さくの一晩目。

 惑星の自転に遅れて周回する月は、四日間その姿を現さない。


 ラ・ウの右目に見立てた魔法円の中心に野辺が設営されていた。葬儀を執り行うのは死者と長年の付き合いがあった老巫女で、一方のイムナン・サ・リは、死者への弔意を表明するために、この時ばかりは蛮族の魔術師らしく一枚皮の熊の毛皮を頭から被ってひっそりと控えていた。

 粗朶そだ泥炭でいたんで設えられた火葬堆かそうたいに輿が置かれた。老巫女が香油をふりかけ、炎のあがった炬火トーチをファディシャが投げ入れた。


 遺体は神聖な炎に包まれた。


 肉体は地に帰り、魂は個人の識別を失い、精霊たちのエネルギーの集合体に取り込まれるだろう。


 野辺のべの煙を見送るネルヴァトは、厳しい目でイムナン・サ・リを睨みつけた。ファディシャ様はよそ者を取り立てすぎる。女主人然としたルー・シャディラの存在がさらなる不快感をいや増す。


 何故あんな妖しげな他国者ばかりをファディシャ様が重用するのか。


 岩の円陣のなかで、ファディシャがイムナン・サ・リを振り返りなにごとか囁いた。ネルヴァトは、おのれの顔が上気していくのを感じた。


(弐)


 父の葬儀のあと、ゲイルはジャコウ牛の世話に専念した。といっても、近くの湿地帯に放しにいくだけだが。

 喪の最中ということで舞踊の稽古もなく、どこへ行くにもスーラの監視の目が厳しく、なによりも父の死が受け入れ難かった。側にいる幼いカリンの無邪気さが気休めになった。ザックものんびりと寝そべり、そのしっぽで虻を追っていた。


 「朔の最後の晩、か」

 月なき空を見上げる。


 あの若者との約束はいまや夢のように遠い。


 父の死に対するぼんやりとした疑惑。ファディシャたちが見舞った直後だったという。ファディシャは父の見舞いになど決していかなかった。ましてや、あの女と。何故、急にあの女はファディシャに接近したのか。いや、ファディシャがどんな女を選ぼうが勝手だが、サ・リまでも手玉に取って……。

 結局なにを考えようと想いは堂々巡りして、必死に考えまいとしているところに落ち着くのだ。


 「あっ、サ・リ様だ」

 カリンがわっと歓声をあげたので、ゲイルはどきりとした。

 カリンがもっと幼い頃だった。命定めの熱病で苦しみ、お婆の呪物でも手の施しようがなかったところをイムナン・サ・リの調合した薬草に助けられてから、この男はスーラ親子から絶大な信頼を得ていた。

 騎上のイムナン・サ・リは、ふたりの前で静かに馬を止めた。彼の月影はすらりとした四肢の青毛の牝馬ひんばで、ゲイルの黒駒とよく似ていたが、鼻にひとすじ新月のごとき白線が走ったところが異なっていた。


 「こんなところで何をしているんです。あなたの黒駒を返してもらうんでしょう」

 口許の覆いも解かずに、とがめるように男はいった。

 「お前が貸したのだから、お前が取り返してくればいい」

 少女はそっぽを向いたままだ。

 「私はあいにくと用事があるのです。近くまでお送りしますから」


 天のあるじなき星月夜。


 エアロゾルの向こうでぼんやり霞む星の光の下、駿馬はなめらかな足で進んだ。快い速歩トロットのリズムを身体で感じながら、男の背にしがみついた少女は、「サ・リのばか」と心のうちで百回唱えて、百一回目でどうでも良くなった。

 頬を切る風の冷たさと男の背の温かさとを受け取ると、暗雲に支配された心のきれぎれに光が射しこんで、少女は少しずつ爽快さを取り戻していった。


 カリンは、ジャコウ牛の仔をザックとともに連れて帰るというイムナン・サ・リの命令を重大な決意でもって引き受けていたが、後でスーラにさぞかし叱られることだろう。


 「この辺りだったんですか」

 イムナン・サ・リが馬の歩みを緩めた。いつのまにかタルー族の聖地の近くまで到達していた。

 「そうだ」

 夢から醒めたような心持ちでゲイルは答えた。

 男は先に鞍からおりると、少女に手を貸した。

 「では、ここで失礼します。私は数夜留守にします。この道は安全ですが、また騒ぎになるとまずいので、早めにお帰りください」

 覆面の男はもう一度鞍上に飛び乗ると、あっという間に行ってしまった。

 「サ・リ」

 ゲイルは男の行き先や目的を何も聞いていなかったことを思い出した。

 「どこへ行くんだ。なにかまた危ないことをするのか」

 遠くで男が少しだけふり向いたような気がした。


 魔術師は疾駆しっくする。

 あらたなる殺戮さつりくの場をもとめて。


 今宵の獲物は人狼ウルフマンだった。

 闇の血に感化されたあわれな生き物。闇を彷徨さまよう孤児たち。金目や銀目を持つ種族、ヌークのなれの果て。

 用心深く、旅人を待ち伏せて餌食にすることはあっても、滅多に人里を襲うことはないはずだったが、ここのところウズリン族のいくつかの集落がすでに強襲されていた。明るい月夜のみならず、朔の晩ですら。


 影のごとき襲撃者は闇に完全にまぎれて正体を明かさなかったが、イムナン・サ・リはほふられた犠牲者に残された特有の咬傷こうしょう凍土いてつち跣行せんこうする半人半獣の足跡からすぐに彼らの眷属けんぞくと見て取った。彼らは北から流れてきていた。北部の部族たちの被害はもっと甚大だと見ていいだろう。

 北方のどこかに、大規模な巣があるはずだ。


 人馬が疾風しっぷうとなって魔境を駆け抜けていくと、闇がささやいた。

 「みて、あれがウズリンの妖術使いよ」

 「奸計をもって、我らが王ヤ・バル・クーン様を陥れた男」

 「おいたわしや、ヤ・バル・クーン様。非情なる殺戮の大君タイクーン。我らが救い主」

 「それをあんな優男やさおとこが……」

 「そうよ。ただの人間なんかにヤ・バル・クーン様はられたりしない。おとなしそうにみえるけど、きっと妖魔の類よ。我らと同じ輩のくせに、この裏切り者」

 「裏切り者、裏切り者」

 小さな有翼のあやかし、妖鳥ハーピィたちが彼を遠巻きに取り囲んだ。

 ギ・イェクの残党どもだったか。

 魔術師は舌打ちした。だが、あやかしたちはそれ以上近づいてくる勇気はなさそうだ。


 ええい、うるさい奴らだ。


 イムナン・サ・リは、不用心にも彼に近づきすぎた一匹の妖鳥ハーピィの鈎爪の生えた脚をひょいとつかまえると、逆さに持ち上げた。

 「は、放せえ」

 キィキィ声であやかしはもがいた。

 アーモンド型の吊り上がった目と赤ん坊のようにつぶれた鼻、赤くぬれた大きな口には牙のような歯が光っている。愛嬌のある顔といえなくもないが、バタバタと翼が不快な音をたてて、そのたびに粉っぽい羽毛が舞い散るのには閉口した。


 男は首を傾げて手綱を肩の間で押さえ込むと、左手で妖鳥を逆さ吊りにしたまま、右手で喉元に短剣を押し当てて命じた。

 「人狼ウルフマンの巣まで案内しろ」

 「われらは、奴らとは何の関わりがない」

 甲高い声が答えた。

 「嘘をつくな。姿は違えども闇のものどもはみなつながっているはずだ」

 刃の角度をかえて切っ先を喉に当てた。馬の背が揺れるたびにそれはちくりとむき出しの喉に突き当たる。

 「本当だ。やつらは闇の掟の埒外らちがいにあるもの」

 しゅうしゅうと腥い息を吐きながら、妖鳥は妖術使いの手酷い扱いにおののききつつ答えた。

 「……」

 男はその言葉の含むものについて考えながら、短剣の切っ先を喉の窪みにそってやわらかく走らせた。

 浅い切り口をたどるように血がひとすじ流れた。

 「場所くらい知っているだろう」

 捉えられ、逆さまに吊された妖鳥の恐怖は絶頂に達していた。

 「ギム・ア・ポトスの砦跡だ」

 その言葉を聞き出すと、

 「礼だ」

 と言って、無情にも片脚を膝から一気に切り離した。

 「ひぃ!」

 呻き声をあげる妖鳥を切り捨てた脚ごと無造作に投げ捨てると、血の滴る短剣を外套マントの裾で無造作にぬぐって鞘に収めた。虫も殺さぬ風情の優男のあまりの冷酷さに闇に潜むものたちは沈黙したが、男は気にも留めずに馬の腹を軽く蹴って拍車をかけると、あとはひたすら闇のなかを疾走していった。


 ギム・ア・ポトス。


 百年ほど前、タルー族がまだひとつだったころの彼らの砦の跡地だ。部族の分裂とともに遺棄されて久しい。

 なぜ人狼と関わりがある。やつらは単なる闇の輩ではないのか。あの若者、ナビヌーンといったが、なにか知っているのか。

 危険はないと思ったが、あの娘をあの場所に置いてきたのは間違いだったのか。


 フィポスメリア平原を抜けて、迷宮のごときイムズ・アルラ峡谷群への裏街道にあたる狭隘きょうあいな谷間。

 かつては、ゲルムダール街道の支線、北の地への捷径しょうけいとして栄えた径路も長年にわたる同族同士による抗争から荒廃し、いまではこの間道を通るものもない。この隘路あいろをふさぐ関門のようにそびえる天然の要塞が、ギム・ア・ポトスであった。


 魔術師の目前には今、流れをせき止める堰堤えんていのように切り立った岩壁が横にひろがっていた。

 最下部にはアーチ状の総門が岩壁の前後を突き抜けており、上階にのぼる隧道が穿たれているはずであった。総門の扉は隻眼せきがんの狼、ラ・ウを象った奇怪な紋様がきざまれた岩戸で、今は固く閉ざされていた。その左右には長い柄のほこを手にした門衛、おそらくは東タルー族の戦士が、辺りを睥睨へいげいしている。

 岩壁の上部には天然の岩のテラスと混じり合うように石積みの砦が築かれている。顧みられなかった星霜を物語るように砦はところどころ崩落しており、どこまでが自然の造化の妙で、どこまでが人の手によるものなのか、今となっては分かつことは難しかった。


 イムナン・サ・リがたどり着いたときには、砦の内部には篝火が焚かれていた。その焔(ほむら)は、砦ごと焼き尽くすかのようにすべてを赤く染めている。まさに地獄の関門そのものであった。


 なるほど、これは確かに単なる闇の輩という訳ではないようだ。


 人狼ウルフマンの軍。おそらく裏で糸をひいているのは、……。

 イムナン・サ・リは、想像を絶する光景にたじろぐことなく、門番の衛士の目に触れぬようさっと下馬した。あえて馬はつながずに自由にしておいた。

 砦のまわりをしばらく窺うと、やがて、物見から死角となっている傾斜をみつけた。


 「ここしかないか」


 はるか頭上を見上げた。ほぼ垂直に近かった。

 本丸のある岩壁の中腹めざして、岩の割れ目を読みながら、魔術師はその岩肌をおどろくほど身軽に登っていった。

 砦本体にたどりついてからは、小石ひとつ落とさぬよう細心の注意を払ってゆっくりと水平に移動した。やがて手頃な矢狭間やはざまをみつけると、内部の様子をうかがった。


 魔術師はあり得ない光景に目を見開いた。そこは、巨大な獄舎だった。


 人狼たちの集団がそれぞれの小部屋に押し込められていた。看守役の見張り番たちの風体は、あきらかに東タルー族の戦士特有のものだった。

 「来い」

 魔術師は、一番近くにいた番人にうちなる声で呼びかけた。

 男がふらふらと矢狭間に近づいてくる。やがて身を低くして狭間を覗き込んだ。魔術師は男の額を指で触れた。


 「貴様の視界をよこせ」


 いまや男の目は彼のものになった。やがて男は来たときと同じようにふらふらと獄舎のなかを彷徨さまよいだした。

 「おい、どうした、バルム」

 仲間の番人が声をかけたが、男は腑抜ふぬけたようににやりと笑うばかりだった。

 イムナン・サ・リはた。強大な力で魂を奪われた男の目を通して、醜悪な囚人たちの真の姿を。

 総じて二百にやや欠けるほどであろうか。

 あるものは頭部に電極を埋めこまれ、あるものはあきらかに薬物で調教されていた。

 想像どおり、クロムスーツに身をつつんだサイラス人の姿もあった。彼らは、先端から放電する電子杖を携えていた。

 砦には別の囚人たちがいた。獄舎の下働きをさせられ、やがて人狼の餌食となる運命の捕らわれた女や子どもたちだった。


 「これは、……」


 イムナン・サ・リの意識は、男の身体を離れておのれの肉体の器に戻ると、ふたたびその両の目を見開いた。魔術師に乗っ取られていた男は口の角から泡を吹いたまま倒れた。


 そのとき、魔術師の背後から今まで息を潜めていた大きな影が飛び出してきた。


 巨大な翼が空を切る。


 風が唸り声をあげた。


 魔術師はおのれの不覚に気づき、長剣の柄に手を伸ばしながらふり返った。だが次の瞬間に、男の両肩にざっくりと太い鈎爪が食い込んだ。


 「なるほど、さきほどの妖鳥ハーピィの親玉か」


 身体が引き千切られるような激痛のなかで男の意識は薄れていった。魔術師を襲った怪異は、さきほどの妖鳥たちの何十倍もあるかという大きさの妖鳥だった。

 その巨大な翼で空を覆いつつ、仕留めた男の身体を宙吊りにすると、大妖鳥は歓喜にあふれながら空の闇に溶け込んでいった。


(参)


 イムナン・サ・リは夢見ていた。幼い頃の夢を。


 彼は小さな少年になって、夕闇に包まれたタルクノエムの居住区をつなぐ入り組んだ路地を走り続けていた。彼は生まれつき、人の心を読み、うちなる声で他者に話しかける力を持っていた。ここは人が多すぎた。少年の脆弱ぜいじゃくな心のなかに、どんどん他人の雑念が侵入してくる。街は恐ろしい悪意に満ちていて、少年は自分がここでは異端者であることを認識していた。


 彼のような能力を持つものはこの地には他にいなかった。なぜなら、異端者はただちに狩られるのだ。


 どこまでも逃げた。

 逃げ続けて、やがてまるで知らない場所についた。そこは一区画全てが巨大な貯水タンクで、パイプが何本も張りめぐらされていた。少年は猫走りの通路から眼下を覗き込んだ。ゴボゴボという水音だけがした。この水のなかに落ちてしまえば楽になるのだろうか。


 ギース。助けて、ギース。


 とうとう少年は禁じられた力を使って、ただひとり彼の心の声が届く人間に呼びかけた。


 どのくらい時間がたったのだろう。少年はうずくまり、泣き腫らしていた。やがて泣くことにも疲れてしまったころ、十歳年上の兄、イルラギースが彼を迎えにきてくれた。


 少年はその冷酷な異母兄の姿を認めると、いつものように殴られると身構えたが、イルラギースは手巾ハンカチを投げ与えて涙を拭くように言っただけだった。

 「帰るぞ」

 少年が落ちついたとみると、イルラギースはそう言ってどんどん先を歩いていった。少年の歩調に合わせてくれなかったので、イムナン・サ・リはなんども走らねばならなかった。


 

 イムナン・サ・リは、第二の夢をみた。夢のなかで彼はとても眠たかった。


 魔術師はそのまま寝入ってしまいたかったが、相手の男はそれを許そうとはしなかった。彼の使命もまた眠ることを許さなかった。

 毛皮が幾重にも敷かれたしとねの上で、その男は麝香じゃこうの匂いとともに、心地よい疲労をもたらした。この伊達男の短い髭を首筋に感じたとき、さきほど受けた執拗しつようで熟達した愛撫の記憶がよみがえり、身体のうちに微かに火がともるのを感じた。


 そろそろ潮時だ。


 イムナン・サ・リは、振り返ると殺気を押し隠した眼差しを相手の男、匪賊ひぞくの若き首領ヤ・バル・クーンにむけた。


(四)


 イムナン・サ・リは、肉体の苦痛が彼を夢の世界から引き離すのを感じた。重い瞼を開くと壁に並んだ炬火トーチの灯が霞んでみえた。ぼんやりとした視界のなかで、そこがまさに今まで夢にみていた場所、ヤ・バル・クーンが最期をむかえた部屋であることが分かった。

ギ・イェクの山砦。匪賊ひぞくどものかつての牙城がじょう


 「ちっ、夢の方がまだましだったか」


 魔術師は、両肩に焼きつけるような激しい痛みを感じ、次に腕がしびれて、まったく自由がきかないことを知った。試しに脚をわずかに動かすと、むなしく空を蹴るのみで身体が宙に浮いており、その動きと連動して、捕らわれた手首がぎりぎりと軋んだ。彼は自分の置かれた状況を理解した。


 部屋のなかには、死者を悼むもの悲しい想いが満ちていた。その想いの中心に彼の捕獲者ほかくしゃがいた。


 それは、魔術師の意識が戻ったことに気がついた様子で、物憂げに顔をあげると、もつれた黒髪に縁取られた浅黒い小さな造作の顔に大きな金色の瞳が輝いた。その目の美しさを強調するようにきつい化粧がほどこされていた。

 銀色の額飾りから瀧のようにこぼれるティアドロップの透明なビーズが眉間でゆらめき、めくれ気味の唇は赤くぬらぬらと濡れている。その細く長い首には銀の輪が幾重にもまかれていた。


 「わらわの名は、ジルガ・ロンガナンナ。夜の闇を飛翔せしものの女王」


 名乗りの口上は鈴を転がしたかのよう。その声音を裏切らない愛らしくもなまめかしい美女だったが、首からしたは異形そのものであった。


 人面鳥身の妖鳥。あのチビどもにこんな親玉がいたのか。


 イムナン・サ・リは、ギム・ア・ポトスの砦から連れ去られて、夏の初めに彼が掃討した匪賊ひぞくどもの根城ねじろの一室で捕縛されていた。あろうことか、天井からさがる大鉤に革の拘束具できつく縛られた手首を吊り下げられるという屈辱的な姿で。まさしく、絶体絶命の窮地だった。

 これまで悪名をほしいままとしてきたウズリンの妖術使いが、なんたる失態だろうか。


 部屋はヤ・バル・クーンが絶命したときのままだった。

 あまたの炬火トーチの灯りが壁にかけられた鉈刀なたがたなをはじめ今は亡きあるじの得物の数々を照らす。毛皮のしとねはいまだ黒ずんだ血に染まっていた。

 異形の妖女は、鈎爪のついた大きな翼を腕組みするようにふたつに折ったまま近づいてきた。風切り羽の瑠璃から紫へのグラデーションが身体をおおう豪奢ごうしゃなケープのようだった。


 妖女は、男の前までくるとその翼をひらいた。

 小ぶりな形のよい乳房があらわになった。その乳嘴にゅうしほぞには銀色のアクセサリーがはめこまれており、先端には額飾りとおなじビーズがゆれていた。

 腰からしたは、虹色に輝く天然の羽衣ういをまとい、エメラルドグリーンの長い飾り羽根を裳裾もすそのようになびかせている。だが、優美さはそこまでで、膝からしたは猛禽類のごとき鱗脚りんきゃくがはえており、その先にあるのは、巨大な鈎爪のある足指と脚の後ろに上向きにはえた長いナイフのような距爪きょそう


 「おい、ずいぶんと楽しませてくれるじゃないか。そのように無様な体躯でこのように拘束するとはなかなか器用なまねをする」

 魔術師がにやりと笑うと、妖女は翼の先の鈎爪で手際よく男の上衣の胸許をひらき、肩に刻まれた無惨な傷口のひとつをその爪でなぞった。

 「軽口はやめろ」

 男の呻き声を満足げにききながら、ジルガ・ロンガナンナはゆっくりと尋ねた。

 「教えろ。ヤ・バル・クーンがなぜ死なねばならなかったのか。貴様のごとき外道になぜ殺されねばならなかったのか」


 凄艶さをました女の顔が間近に迫り、男の苦痛に歪む面を見上げる。ティアドロップのビーズが四方の壁に並べられたあまたの炬火トーチの灯できらめく。男はふと違和感を感じた。


 灯が多すぎる。何故こんなに明るいのか。


 「まずは、このいましめをほどいてからだ」

 イムナン・サ・リはかるく身体を揺らした。

 「だめだ。貴様は信用ならない」

 「ほう、信用ならない相手から真実を聞き出そうとするのか」

 「聞き出す手だてはいくらでもある」

 鈎爪がべつの傷痕をなぞった。

 「貴様をつかまえたとき、心の臓を貫かぬようにするのにずいぶん苦労したぞ」

 妖女は背中側にまわって鈎爪で上衣を切り裂くと、両翼で男の身体を包みこみ、するどい爪の痕を検分しながら愛でるようにその舌で舐めた。


 「思い出したぞ。男を咥えこんで、その精が尽きるときにその蹴爪けづめでぐさりと息の根をとめる妖鳥の怪異譚を。本当のことだったとはな」


 体幹をぞくりと駆け抜けるおぞましさに耐えながらも、魔術師はいけしゃあしゃあと下卑げびた冗談ごとを言ってのけた。囚われ人とは到底おもわれない太々しさ、軽佻浮薄けいちょうふはくはむしろこの男の天性なのか。

 もはや貴公子然とした面影はなく、男妾ジゴロめいた妖しい媚びも消え失せ、この圧倒的不利な状況にあって、魔術師は女衒ぜげん博徒ばくとのようなしたたかで不敵な笑みを浮かべていた。


 「なるほど、語るに落ちたな。それが貴様の本性か。噂通り恥知らずで下世話な男だ。それに、たとえそのはなしが本当だとしても、貴様にはそんなまだるっこしいことはしないから安心しろ」

 ジルガ・ロンガナンナはゆっくりと右脚を男に絡ませてから、そのやわらかい膝の裏をその距爪きょそうで一気に突き刺した。


 イムナン・サ・リは、おもわず意識を失いかけた。女の顔がまた前に迫り、鈎爪で男の顎をあげさせた。

 「この程度で気を失われては困る」

 「お前、ヤ・バル・クーンの情女いろだったのか。なるほど仇討ちという訳か」

 我に返ると、鼻で笑いながら魔術師は尋ねた。


 妖女のまわりには、悲痛な想いが幾重にも纏いついていた。その喪失感が障壁となり、女の内面に踏み込む気を起こさせなかった。むしろ溢れ出る悲しみがさざ波となって、魔術師の思考に逆流してくる。

 「貴様のような下劣な男には解るまい」

 男の胸にぬらぬらとした唇とざらついた舌を這わせながら、翼の先の鈎爪で容赦なくその皮膚を切り裂いた。

 「ヤ・バル・クーンの夢も。わらわの夢も」


 こちらの挑発には乗ろうとしない女の冷然たる責め苦に抗いながら、男は夢の続きを思い起こしていた。


 イムナン・サ・リが振り返ると、若き匪賊ひぞくの首領、ヤ・バル・クーンの精悍さと繊細さが入りまじった顔立ちが間近にあった。色とりどりのビーズで編み込まれた波うつ黒髪は、今は下ろされて肩を覆っていた。

 目許の辺りをただよう冷たい驕慢きょうまんさとその漆黒の肌のはなつ熱に吸いこまれそうになる。

 ヤ・バル・クーンが膝を立てて起きあがると、身体中の器官につけられた金の輪がつらなったピアスがちりちりと音をたてた。


 「お前、ただの男娼じゃないんだろう。うまく化けても、その黒い瞳に覚えがある。ファディシャの若造のところの妖術使いだ。以前俺たちがウズリン族の一団と邂逅したとき、戯れに俺が奴に投げつけた鉈刀をなぎ払ったのは、お前の長剣だった。麾下きかの戦士どもが手も足も出せんというのに、女のように細身のお前が息を呑む速さで踊り出てきた。覆面では、その瞳は隠せまい」


 ヤ・バル・クーンは気怠げに横たわる魔術師の半身を起こして引き寄せると、その瞳のうえの黒いシャドウで彩られた瞼をなぞった。


 「だったら、どうなのです」


 かがやく闇色の陰影を纏った黒い瞳がまっすぐ見返した。

 何ものにもまつろわぬその瞳には、妖艶さと虚脱、情熱と退廃。エロスタナトスに纏わるあらゆる属性が融合したほの暗い光が灯されていた。

 その男の存在自体が身を滅ぼす毒であることは明白だったが、その不遜さとはかなさを併せ持つ不思議な魂の魅力はさすがの大悪人にも抗いがたかった。是が非にでも手に入れたかった。心ゆくまでその肉体を耽溺し、泣きながら懇願するほどにその精神をいたぶってみたかった。


 「別にどうってことはないさ。今日から俺がお前の新しい主人だ。あの赤毛の若造なんぞにはお前の価値はわかるまい。そのしとやかな見かけとは裏腹に、お前はほんものの淫売だが、可愛いからいつだって俺が愛してやる。お前をもっと美しく飾りたてて、その細い首に銀の鎖をつけていつも俺の傍らに縛りつけておく。それから、お前に俺の王国をくれてやろう」


 ヤ・バル・クーンの強くしなやかな腕のなかに捉えられて、荒々しく唇が奪われたとき、イムナン・サ・リは男がその胸に抱いている王国を垣間見た。


 なんという輝ける悪の世界。


 異形の混合人間ハイブリッドたちの楽園。あるものは空を飛び、あるものは地を這い、またあるものは大地を疾走しながら、歓喜の鯨波ときをあげる。羽が飛び散り、異形の角が、牙が、するどい爪が、鱗が光る。


 よ、翼ある斑毛ぶちげ野生馬ムスタングの背に乗って、闇の貴公子ヤ・バル・クーンが夜を切り裂きながら飛翔する。


 そこではあらゆる罪が赦され、あまたの悪行が跋扈ばっこし、ぜて、ほとばしり、欲望の、渇愛の大いなるうねりのなかに呑み込まれていく。いまだ覚醒せざる無告の者たちは、血を流し、病んで、死に瀕して、祈りながら、無力に狩られ……。


 「そのような闇の支配する世は認めぬ」

 魔術師は目の前の妖鳥を鋭く見据えた。


(五)


 ゲイルが渓谷の斜面を昇って地上にたどり着いたとき、ナビヌーンはもう到来しており、人待ち顔でたたずんでいた。

 「馬は崖下の岩屋につないである」


 聖地フレイシア。精霊のすまう天然の神廟みたまや


 あれから数日しか経たないのに、湖沼はもう夏の燦めきを失い、静かに死の季節を迎えようとしていた。

 氷河颪ひょうがおろしの冷たく凍えた手が音もなく大地をなぜて、世界のすべてを粛殺しょうさつしていったのだ。

 七色の苔の絨毯は、いまや赤茶けた紅葉一色に塗りつぶされていた。

 凍て蝶のごとき静寂のなかに、ジャコウ牛の群れの姿はもうみられない。少女は四辺あたりを見渡しても、護衛の気配がないことに気がついた。


 「俺ひとりで来た。いろいろと事情があって、この聖地は放棄することにした」

 「どうして。こんなにうつくしいのに」

 少女は、枯れ果ててもなお神の住まいにふさわしい情景に目をやった。

 「俺にもよくわからん。ひとことで説明がつかないんだ」

 若者は静かに語り始めた。

 「お前のところも不幸があったようだが、こちらも叔父が死んで俺が跡を継いだ。ごたごた続きで、周りがうるさくて、今晩もやっと出てきたところだ」

 「そうか」


 湖沼から吹きつける風が、少女の髪をそよがせてから、冷たくその頬をなぜた。

 「おい、あの丘まで登ってみないか」

 若者が前方の小高い丘を示した。

 「ずっと、行ってみたかったんだ」


 ゲイルはうなずいた。

 そして、地上の道なき道をふたりで歩いた。

夜の女神は、凄々たる夜色の衣を纏い、神韻縹渺しんいんひょうびょうの趣のなかで世界を押し包んでいた。この世に属するすべては夜が孕んだ夢のなかにあった。


 夕凝ゆうごりの大地は、夜気にあたってさらに固く凍りついていた。

 かつてこの地は鬱蒼たる森林だったのだろうか、凍土いてつちのうえには瑪瑙オニキスの模様をもつ木化石がそこかしこに転がっている。化石の森の飴色に包まれた埋もれ木に混じって、谷へ帰還する前に命の尽きた獣の骨が白く光っていた。遠い北の大地に目をやると、青白い氷床が横たわっているのが見えた。


 丘を登るのに、思ったより手間取った。緩い斜面はひと足ごとにサラサラと足許から砂が流れるように滑った。登り切ると地平はずっと下方に退すさっていった。ここは、どこよりもずっと冷えて凍えていた。

 ふたりは、瞬く星群れの微光が驟雨しゅううのように地上に降り注ぐのを共に感じ、大地の際で天と地が交わり静かに溶け込むのを眺めた。


 「地上には、大昔にコーダたちが遺棄した都市がそのまま残っているそうだ。でも、ここからはみえないな」

 世界の果てのその先まで見晴るかす心持ちで、若者が言った。

 「なぜ、我らは谷に閉じこめられているのだ」

 少女は尋ねた。

 「さあな、ただ昔は北の空にオーロラという光の幕がゆらめいていたそうだ。オーロラが消えると同時に、太陽から届く死の風をさえぎる力をこの星は失った」


 「このあたりには、まだわずかにオーロラを起こした磁場が残っている。だから、地表近くでも植物は枯れない。タルクノエムには同じ働きをする人工的な装置があるそうだ」


 ナビヌーンは、彼の部族にいまも留まる招かざる客人から聞いた話を思い出した。

 「その光の幕は取り戻せるのか」

 北の空をみつめながら少女は言った。

 「わからん。お前のところの妖術使いにでも聞いてみるといい」

 若者がそういうと、少女はとたんに無口になってしまった。

 「なあ、もと来たところまでどちらが早くたどりつけるか勝負しないか」

 沈黙にたまりかねて、若者が提案した。

 「いいだろう。置いていかれて、後悔するな」

 そう言ってにやりと笑うと同時に、少女はゆるやかな崖のしたに勢いよく跳躍した。

 「おい、誰がもう飛び出していいって言ったんだ」

 あわててナビヌーンは追いかけた。若者は脚には自信があったが、少女はなにより身軽だった。石塊だらけの荒原をすばしっこく駆け抜けていく。


 湖沼の目と鼻の先まで来て、やっと若者は少女を捕まえた。一方の手で少女の手を荒々しくつかみ、もう一方の手で肩におずおずと触れたとき、少女がぱっとふり返り、そのまま若者の胸に滑り落ちた。お互いの呼吸が荒かった。


 ナビヌーンは少し臆しながらも少女に唇を重ねた。


 「俺はお前とオーロラというものを見てみたい。なによりも南へ帰るお前に雪と氷に閉ざされたうつくしいガムザノンを見せてやりたい。闇から解放された世界でともに生きたい。今は無理でもいつか迎えにいく。待つと約束してくれないか」

 凍て星の冴え冴えとした光の雨に打たれながら、若者の言葉は少女の胸にとても心地よく響いた。


 それもいいかもしれない。わたしの心を乱さない男とともに穏やかに生きる方がずっと楽かもしれない。だが、わたしの道はもう決まっている。わたしの心はあの暗い魂に捕らわれてしまっている。わたしの魂を強く揺さぶるあの孤独な魂に。


 イムナン・サ・リよ。

 お前は、今この時も夜に溶け込んで、闇を狩っているのか。


 「ナビヌーン、そう言ってくれるとありがたいが、わたしは……」

 そう言いかけたとき、奇怪な声をあげながら、異形の生き物が空から現れた。


 いったんふたりの頭上を過ぎゆくと、すぐに緩い弧を描いて引き返してきた。そして、ばさばさと不快な羽音を響かせて、螺旋らせんを描きながら地上のふたり目掛けて降下してくる。


 「みつけたぞ。お前はあの妖術使いの連れだな」

 片脚のない妖鳥ハーピィは、ただひとつの脚に黒い布切れをつかんでいた。それをゲイルの頭上で投げ落とした。ふわりと落ちてくるずたずたになった切れ端を、少女は跳びあがるようにして引っ手繰った。それが切り裂かれたイムナン・サ・リの外套であることを理解するのに時間はかからなかった。

 「妖術使いは、いまにむくろになる。骸になる」

 歌うように満足げに妖鳥は言った。

 「サ・リはどこにいる」

 きっと妖鳥をにらみながら、怒りを抑えた低い声で少女は尋ねた。

 「ギ・イェクの我らが根城。奴は我らが女王、ジルガ・ロンガナンナ様の手におちたのさ」

 あやかしはいまや有頂天になりながら、バタバタと頭上を飛び回った。片脚をうしなってバランスをくずしたためか、はげしく乱高下しながら飛翔する軌道を少女は冷静に見極めた。

 「それを聞けば十分」

 ゲイルは左手でナビヌーンの腰の偃月刀を了解もなく抜き取った。それから、瞬きする間もないほどの速さで跳躍して妖鳥の翼の付け根から斬りつけると、一刀両断、真っ二つに叩き切った。

 妖鳥は何が起きたのかも理解せぬまま、血の海のなかに沈んだ。


 「勝手に借りてすまなかった」

 ゲイルはナビヌーンに血の滴る刀を力無く渡すと、切り裂かれた外套マントの残骸をぎゅっと抱きしめた。

 「済まぬが、用事ができた。馬はどこだ」

 少女は、谷へ続くがれ道を飛ぶように駆け下りていった。

 「おい、目を覚ませ。罠だぞ」

 「罠でもかまわん」

 「ま、待て、俺も行く」

 若者はあわてて少女の後を追った。


(六)


 イムナン・サ・リが目の前の妖鳥を射るようにめつけると、ジルガ・ロンガナンナはおもしろそうに顔をゆがめた。

 「実は、もうひとり客を招待している。もうすぐ、貴様のかわいらしい連れがここにやって来る」

 その言葉を聞くと、男は動揺を気取られぬように少しだけ顎をあげた。

 「なんの話か解らんな」


 なるほど、この連なるほむらはあの娘を引き寄せるための誘い火か。

 あの向こう見ずな娘は、私が捕らわれていると知ったら、確実にやって来るだろう。それより前に決着をつけねば。


 「とぼけていられるのも今のうちだ。貴様の正体を暴いてやる」

 妖鳥は美しい眉をひそめながら吐き捨てた。


 「では、教えてやろう。ヤ・バル・クーンがどのような最期を迎えたか」

 魔術師はその薄い唇に嘲りの笑みを浮かべた。


 「奴は私の腕のなかで死んだ」


 イムナン・サ・リは、ヤ・バル・クーンの腕に抱かれながら、あらゆる悪徳が詰め込まれた彼の王国を垣間見た。漆黒の闇のなかで大いなる悪が燦然さんぜんと輝く世界を。その救い無き救いが絶望の甘美なる陶酔を呼び覚まして、狂おしき官能のうねりとなって幾重にも押し寄せてくる。

 これ以上この男とともに過ごせば、彼の夢見る背徳の楽園に身を沈めてしまいそうだ。


 潮時だ。


 「残念ですが、我が身はひとつ。二君に仕える訳にはいきませぬ」

 相手の腕を解きながら、魔性をおびた黒い瞳が匪賊ひぞく首魁しゅかいを破滅に誘いかけるように見つめた。

 「ファディシャ様は、あなたと違ってこちら側の境界にかろうじて踏みとどまっておられる」


 「ほう。お前のような魔物からそんな言葉を聞くとはな。俺よりあんな堅物を選ぶとはおもしろい」

 ヤ・バル・クーンの目が瞋恚しんいに燃え、金色に光った。

 「だが、俺は一度手に入れたものは手放さないことにしているんだ。さっさと、死んじまうがいい」


 背後の壁にかけてあった鉈刀が独りでにカタカタとなると、ゆらりと宙に浮かんで魔術師の背中にむかってまっすぐ飛んできた。


 「見ろ。これが俺の力だ。お前の生っ白い身体をずたずたに切り細裂いてやる」

 

 ヤ・バル・クーンは哄笑した。


 だが、次の刹那その顔が奇妙にゆがんだ。


 イムナン・サ・リがゆっくりと身をかわすと、その刃はまっすぐヤ・バル・クーンの下腹に突き刺さった。男は何が起きたか解せぬまま、その口から苦痛の叫びが漏れた。

 刃はぎりぎりとヤ・バル・クーンの臓腑を割いていく。

 魔術師は膝をついたまま仰向けに倒れていくヤ・バル・クーンのせなを受けとめて、死の苦しみに反り返る身体を抱きあげた。


 「どうです。解りましたか。私も超能力者サイキックなのです。あなたのように物体を操る力(サイコキネシス)はありませんが、人形遣い(マニピュレーター)としてあなたの心を操ることは出来ます。その刃を動かしているのはあなた自身です。その刃が止まるときあなたの命も尽きる」


 魔術師は、薄氷うすらいのようなはかなく冷たい笑みを浮かべて、腕のなかですでに蒼白さを帯びてきた唇にそっと口づけた。

 「私は光がほしいのです。我が身の呪いを解くためにも。あなたとは希求するものがまるで違う」


 そうか、お前は、あの黒い目の一族の残党なのか。皮肉なものだ。この力はもともと俺の親父がお前らの一人から奪ったのさ。

 お前はたしかに俺に惹かれたはずだ。俺の王国に……。そうでなければ、何故俺にその身を投げ与えたのか。死にゆく虚ろな目が問いかけた。


 「簡単なことです。欲望におぼれて、危地に我が身をさらすことが私にとってこのうえなき快楽だからです。官能と流血だけが私自身を解放するすべなのです」


 そう、幼き日の抑制から自由になる。そして、イルラギース、あなたから遠くなる。


 鉈刀の動きが止まった。男は、返り血に染まった白い裸身に初めから身につけてきた黒いヴェールをからめた。


(七)


 「おい、どうしても行くというなら、ギ・イェクまで案内する」

 ナビヌーンはがっしりとした四肢をもつ芦毛に飛び乗ると、ゲイルに声をかけた。

 鐙の上に立ち上がったまま、ほとんど鞍に腰をつけない少女の騎乗姿は美しかった。彼女の細く長い肢体は、あたかも疾走中であるかのように、すでに優美な馬の首から背にかけた曲線とおなじ傾きを保っていて、いまにも飛び出さんばかりだった。若者はあわてて馬の腹を蹴った。


 少女は迷いもなく魔境へ踏みこんでいく。


 かの男の領分へ。

 領域を侵されたことを彼は怒るだろうか。どろどろとした液体のように粘度をもった闇の狭間で、あやかしたちの千の眼が息をひそめて騎上のふたりを凝視している。その邪悪な魂を歓びにうち振るわせながら。


 イムナン・サ・リよ。

 私を見て、お前はその美しい眼を燃えたたせて激するだろうが、どれほど機嫌をそこねようともかまわない。お前を闇の輩ごときには渡しはしない。たとえお前の冥き魂がすでに闇に捕らわれていて、その一部と成しているとしても。


 どれほど駆け抜けただろうか。


 目の前に、幾重もの岩棚そって建てられた石積みの牙城がみえてきた。不気味な静寂さを湛えたその城壁は、ごく最近焼き討ちにあったのか激しく焼けこげてところどころ崩落しており、赤い岩肌に硝薬の煤が血糊のように黒く染みついていた。


 「ここだ」

 若者は少女に声をかけた。

 死の静寂がただよう廃墟に、一か所だけぼうと明るく輝いている場所があり、そこに誘い込むように谷底の登城口から急勾配の石階いしばしがつづいていた。

 「私は岩肌を登る。お前はここで待っていてくれ」

 少女は低い声で言った。

 「おい、策はあるのか」

 若者は愚かな質問だと自覚しながらも、おもわず尋ねた。

 「ある訳ないだろう」

 少女は両手を横にこまかく割れている岩棚にかけると、軽々とその身を持ち上げて、交互に足を大きくあげて器用に登っていく。あっという間にナビヌーンの頭上を超えた。その軽快な動きに内心舌を巻きながら、ナビヌーンも後を追った。少女はもう彼を止めなかった。

 谷底から吹きつける冷風が、激情で火照る身体の熱を心地よく奪っていく。この先にあるはずの死闘に備えて、すべての感覚が冴え渡っていくのを少女は感じていた。


 「ヤ・バル・クーンは欲情のさなかに死んだ」

 イムナン・サ・リは妖鳥の冷然たる美貌が怒りでわずかに上気するのをみた。鉈刀はその持ち主の生前とおなじように壁に掛けてあった。

 「貴様の外道ぶりなぞ耳にするのもおぞましい。ヤ・バル・クーンが奸計をもって陥れられたことがわかれば十分だ」

 ジルガ・ロンガナンナの鈎爪が、魔術師の喉首に向けられた。

 「貴様は谷の人間ではないのだろう。タルクノエムの貴人が何故この地をさすらうのだ。貴様とてどうせ故郷を追われてきたクチだろう。何故我ら同族を狩るのだ」


 そのとき、通路に続く戸口の辺りで、からからとつぶてが転がる音がきこえた。

 「客もきたようだな」

 「女の前で、お前の力とやらを見せてみろ。その本性を明かすがよい」

 ジルガ・ロンガナンナは勝ち誇ったように言葉を放った。

 イムナン・サ・リも釣られたように戸口の辺りに目を向けたが、少女が、城壁沿いの窓の向こうに潜んでいることに気がついていた。妖鳥は、よもや少女が小狡い陽動を行うとは思うまい。少女が動き出すまで待つつもりは毛頭なかった。だが、少女が今この瞬間にも予想もつかない行動を取ることも解っていた。


 いや、存在を露見させた時点で、もうすでに少女は仕掛けてきている。


 はたして、どちらが速いか。


 イムナン・サ・リは、すでに頭のなかでなんども繰り返した手順を踏むため、静かに目を閉じた。そして、わずかな隙を見切るとその黒い瞳をふたたび開いた。

 その刹那、注意が散逸した妖鳥の胸許を反動をつけて足先で突き飛ばすと、妖鳥は呻き声をあげてつくばった。

 そのまま驚くべき敏捷さで身体ごと蹴上がり、足を頭上にあげて大鉤を吊り下げている鎖を膝で強く挟んだ。身体の重みから解放された腕を痛みに耐えながらすばやく引き上げて、革紐の手枷を大鉤の返しにひっかけて引きちぎった。


 すべてが瞬くうちの出来事だった。


 これで晴れて自由になった男は、ゆっくりと斜めに反転しながら、片膝をついて着地した。さきほどの蹴爪のひと突きで片方の脚の腱を痛めたようだったがなんとか動けそうだ。そう思った瞬間に、壁にかけてある鉈刀までの距離を計る目がふと止まった。


 「き、貴様、よくも……」

 ジルガ・ロンガナンナは魔術師のわずかな表情の変化に気がつかなかった。だが、衝撃から身を立て直そうとしたとき、背後に気配を感じた。


 「もう、終わりだ」

 裏窓から侵入した赤毛の少女が音もなく忍び寄ると同時に、妖鳥の背中にナイフを突き立てた。


 「ふっ、わざわざ死ににきたか。わざわざ我が蹴爪のおよぶ境界きょうがいにみずから飛び込むとは」

 妖鳥が飛び立とうと羽を広げた瞬間、少女の総身はしなやかなばねとなって、有翼のあやかしよりもすばやく空中に跳躍すると、その異形の肩に腕を絡めると同時に腰に足を廻して、その四肢全体で妖鳥の上半身に抱きついた。妖鳥の巨大なナイフのごとき距爪きょそうは虚しく空を切った。

 「くっ、何をする小娘。離せ」

 冷静さの仮面をぬぐい捨てて、妖鳥は咆哮しながら部屋のなかを激しく乱舞した。


 「お前のような大妖鳥が鳥かごのごとく閉塞した空間を戦いの場に選ぶとはな。ほら、お前なぞこのナイフ一本で斃せる。もはや、手も足も出まい。最初からお前の負けだ」


 ジルガ・ロンガナンナの細腰を脚で締め上げながら、少女が人間離れした軽業で両手を自由にしてそのままナイフで背中越しに心臓を貫こうとするのと、魔術師が鉈刀を手に優美な身のこなしで異形の女王の首を落とそうとするのとどちらが速かったか。


 男の静けさをたもった所作と少女の躍動する魂が交わる。

 ナビヌーンは息を呑んだ。


 (ふっ、最期まで闇の力をつかわないとは、笑止)


 首が刎ねられる瞬間、ジルガ・ロンガナンナの狂気の眼がイムナン・サ・リをあざ笑うかのように語りかけた。


 (貴様が何故我らを憎むかはわかった。貴様は自分自身を何よりも憎んでいるからだろう。だが、どれだけ我らを屠ろうと、その宿命からは逃れられはしない。いや、むしろ我らが流す血を浴びるほど、貴様は闇に染まる……)


 ティアドロップのビーズが飛び散り、絶叫だけが世界を支配した。



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