第四話 新王誕生

(零)


 母なる銀河の渦巻く腕の一つから千切ちぎれかけた小さな星雲が、かつて男が属した世界のすべてだった。

 ラグーンズ(環礁地帯)と呼ばれるぼんやりと青くかすむその小世界は、当時第七世代のおそらく最後の移民船に乗ってテラを離れた人々の子孫によって構成されていた。


 彼らの祖先が見た最後のテラは、地上のほとんどが水没していた。老いて狂った太陽に呑み込まれるまで、あと数段階その姿を劇的に変えるのだが、移民船の暗い壁面に投影されたその姿は、あまりにも美しいサファイアの球だったので、その光景は人々の記憶に甘い郷愁とともに世代を越えて記憶された。


 このままテラに残って、しずかに最期の刻を迎えることが、我らの救いだったのではないか。


 その想いを幾度も反芻はんすうしながら、生き抜くという自らの選択への懐疑がその開拓団の歴史の終わり近くまでつきまとった。


 ラグーンズの文明のかつての中心地は、惑星クンルーンを拠点とするアジアの覇者が築いた帝国で、他の大国と比べると後発ながらも大陸が人類の最盛期とそれほど変わらぬ形状を保っているうちに新天地への移住を終えていた。

 当時のヘゲモニー国家がすべての決定権を握る銀河分割会議によって、地球から遙か遠い星域を割り当てられたものの、クンルーンはその名にふさわしい仙境だった。

 この地で帝国は、生身の人間でありプログラムでもある不死の指導者、黄帝を頂点に戴きつつ、あらゆる神秘思想をかき集めたネオ・タオイズムとハイテクノロジーからなる官僚制の管理国家として発展する。

 やがて惑星クンルーンは、圏域の拡大のため周辺の二十ほどの惑星を地球化し、瀕死の地球からの漂流者を寛容に受け入れた。皮肉なことに、これがクンルーンの終焉の遠因となった。


 折しも、終末が身近にあったテラの時代から、宗教的大リヴァイヴァルが到来していた。旧来の信仰とともに新しい教義が日々産み出され、古代の神々さえも召還された。カトリックと社会主義が融合した神秘結社、「解放と救世の騎士団」が、最後の移民船である第七世代の艦隊上で熱心に活動した結果、その初期から植民星のほとんどに彼らの教義が絶やされることなく滲み渡っていた。

 主従の星々の違いすぎる文化の衝突と富の不均衡は、植民星同士を団結させ永続的な反乱を生んだ。やがて、戦乱はクンルーンの消失という不幸な結末を迎えた。

 大規模な掃討作戦を控えた帝国軍が自ら生成した手のひらに乗るほどのブラックホール兵器が暴発し、彼らの母星をその太陽系ごと呑み込んだのだ。


 クンルーンの自滅後、ラグーンズの世界は急速に退行していった。


 男が生まれたのは、衰退するラグーンズでは珍しくもない専制君主が統治する星テオティワカンだった。

 アステカの第六太陽と呼ばれる、ちいさな白色矮星のしらけた陽光が空のすべてを支配する星。この居住不可能とおもわれる地に人々が移住した最大にして唯一の理由は、その兄弟星テノティチトランの地勢にあった。

 テオティワカンの一つ外側の軌道をめぐるこの大気のない小惑星は、ラグーンズの表玄関である宇宙港として機能しており、王国に安定した富をもたらしていた。


 あの無慈悲な太陽は、人々の血を吸い続けながら今も生きながらえているだろうか。それとも―――。

 少なくとも、男が愛した女はもういない。


(壱)


 夜を支配する狼、ラ・ウの右眼、と呼ばれる蒼い月は、地上における一昼夜よりもずっと長い時間をかけて主星のまわりを周回する。瞬きを繰り返しながら長く夜の主役を務めた月は、ゆっくりと西の端へ落ちようとしていた。

 ウズリン族の集落のはずれ。

 この辺りにすでに人家はなく、人の往来も途絶えている。


 林立する天然の岩柱の間に残る廃墟は、かつては天狼を祀った古代の祭殿だった。いにしえの時代、おびただしい犠牲が献げられた最上階の祭壇のまわりには、あらたな供物くもつを誘いこむように篝火が焚かれていた。


 「来たか、イムナン・サ・リ」

 石積みの祭殿で、背の高い赤毛の若者は振り返った。乾いた声音には、本来の若さを超越した威厳と獣性が秘められていた。

 若者は、毛皮の縁取りのついた鞣革なめしがわの丈長のチェニックをはおった飾らぬ装いだったが、その分恵まれた肉体が誇示ほじされていた。

 従者はすでに帰らせたのか、彼ひとり、他に人影はない。炎を背に鬼神のごとく燃えたつ朱色の髪。冷酷無慈悲な眼差しは、いったんその激情に包まれると、まばゆい精彩を放ちながら、目に触れるものすべてをその峻烈しゅんれつさで射貫くだろう。魅入られたものに、おののきと歓喜を与えつつ。

 その若者、ウズリン族のファディシャは、王座にふさわしい属性すべてをすでに労することなく手に入れていた。


 「お呼びになりましたか、ファディシャ様」

 石段を軽い足取りで登り終えると、彼の魔術師はひざまずいて、つやのある低い声で答えた。

 「俺の前でかしこまるな、サ・リ」

 このウズリン族の実質的な総領そうりょうは、イムナン・サ・リよりもさらに年若だった。筋肉質のしなやかな美しい肢体と、若者らしい不遜ふそんさを持ち合わせていたが、同時にそれらにそぐわない病的な狂気をその魂の奥底に秘めていた。


 十代の半ばで、若者は感興かんきょうおもむくままに黒い瞳の魔術師を拾った。

 少年はすでに人生に倦怠けんたいしていたが、魔術師のほの暗い瞳のなかに彼の心の荒みを焼きつくすような炎をみた。その輝きは少年の魂の欠落けつらくを満たすかのように滲み込み、野心と欲望の放埒ほうらつ渦流かりゅうは新たな息吹を少年に与えた。

 爾来じらい、魔術師は彼の配下の精鋭たちを差し置いて、いかなる序列をも超えた側近中の側近となった。


 「この間のギ・イェクの匪賊ひぞくの件はご苦労だったな。あいつらは疾風しっぷうのごとく押し寄せてきて、後には何も残さない。生けるものは容赦せず殺し、奪い、女たちを掠い犯す。お前が奴らの首領をたおしたおかげで、この夏は無事平穏に過ぎた。あらためて礼を言う。お前とゆっくり話す時間もなかったが、最近の情勢はどうだ」

 ギ・イェクの匪賊ひぞくは、冬の飢餓、夏の熱病とならんで、ここ数年ダール・ヴィエーラで猖獗しょうけつをきわめた災禍さいかだった。ならず者の群れにあやかしの類さえも加わった彼らの毒牙にかかれば、小さな集落など一瞬で消滅してしまう。彼らを統べるのが悪名高き闇の申し子ヤ・バル・クーンだった。


 「ギ・イェクの残党どもの後始末もあらかた終わりました。……それと、先日サイラスの間者の件で動きがありました」

 できれば、もう少し見極めてから報告したかったのだが、仕方あるまい。

 「泳がせていたのですが、潜伏中我が部族の血の気の多いものと接触したようで、見つけたときには、もう虫の息でした」

 「ほう、それで始末したのか」

 「ええ」

 遠い氷河から吹き下ろす風が冷たかった。すべてを死で覆いつくす冬は近い。

 「なら良い。ここは俺が統べる凍てる蛮土だ。サイラスのものなど何人殺してもかまわん」

 ファディシャはイムナン・サ・リの伏せた瞳をふかく覗き込んだ。若い魂が成熟を迎える前に衰微すいびするさまを現すかのような空虚な瞳で。

 「ところで、災厄のもとの、あのサイラス女はもう用無しか」

 「はい」

 静かに顔をあげると、主人の目をまっすぐ見つめて答えた。

 「自由にさせても害になることはないかと思います。始末しろ、ということであれば、そのように手配しますが」

 「あの程度の女ならお前にいくらでもくれてやる。好きにするがいい。お前は俺の大切な爪牙そうがだ。せいぜいその爪をみがき、牙を研げ」

 イムナン・サ・リは再びゆっくりと目を伏せた。紅い炎にあおられてその瞳にかかる睫毛が美しかった。

 「これは、ご冗談を。真に受けてしまいますよ。他にお話がなければ、これで失礼させていただきます」

 男は優雅に一礼して立ち去ろうとした。


 「おい、待て」

 彼の主人は、よく引き締まった腕で背後から男を引き寄せると、口許を歪めながら肩越しに顔を寄せた。その肌は冷たく、その腕にあるものを麻痺させる力を秘めていた。

 「匪賊ひぞくの件で妙な噂がある。ギ・イェクの鉄壁の警護をどうやって掻い潜ったのか、詳しく説明してもらおう」

 「……」

 その冷たい腕のなかで、魔術師は若者の心を感じた。ただ虚無と凶悪さが渦巻くのみで思わず引き込まれそうになる。


 「ギ・イェクの匪賊の首領は、街道筋で拾った男娼に寝首を掻かれたそうではないか。ヤ・バル・クーンといったか、なかなかの色男だった。あれはお愉しみの後だったのか」

 腕のなかの細身の男をきしむほど強く締めあげた。

 「お前はいつも取り澄ましているが、その本性はまごうかたなき外道だ。手段を問わぬなら匪賊らと同じだ。ここに身をおく限り、俺の名を汚すな。奴の最期は満身切り刻まれてたいそう無惨だったらしいな」


 「ずいぶん、ひどい言様いいざまですね」

 男はいつもの饒舌じょうぜつさを取り戻した。

 「すべて、あなたのためだったのに。あんな奇襲を旨とする烏合うごうの衆に、あなたの大切な兵を消耗させるのが馬鹿らしかったから、こちらもわざわざ魔窟に乗りこんで、身をていして討ち取ったまでです。あの首魁しゅかいはすさまじい恐怖で夜盗や妖魔どもをたばね、采配さいはいをふるう特異な能力を持っていた。案の定、やつとおもな配下を消せば、雑喉ざこどもは蜘蛛の子を散らしたように霧散したじゃないですか」


 イムナン・サ・リは、思いもかけぬ強い力でするりと腕をはずし、振り返ると、何ものにもまつろわぬ瞳で怒れる主人をまっすぐと見据えた。


 「我が君よ、わたしのは高いのですよ」

 その瞳に妖気をともして薄氷うすらいのように笑うと、ほのかに紅がさした薄い唇がなまめかしく光った。その運命のごときほの白い双手で高慢な若者の頬をそっと包み込む。

 「たいていはお命であがなっていただいておりますが、あなたは特別です。如何いたしましょう」


 ファディシャは、その魔性をはらんだ美しさに思わずひるんだが、その誘惑の手をはらい、次の瞬間にやりと笑った。

 「ふざけるのもそこまでだ。裏切りをものともせぬお前に、わざわざ骨抜きにされることもなかろう」

 イムナン・サ・リは嘆息すると、彼の主人の耳許に甘くささやいた。

 「裏切るなんてとんでもない。わたしはいつでもあなたの忠実なるしもべですよ。ファディシャ様」

 「ふん、食わせ者が。お前の忠心など当てにはならぬ。どうせお前のことだ。俺とヤ・バル・クーンを天秤にかけたのだろう」

 ファディシャは、冷え冷えとした気分で、男がその場を辞すのを許した。


 祭殿から一気に飛び降りると、闇の色をした外套マントがひらりと翻って、魔術師はそのままもと来た闇のなかに消えた。


 再び、若者は崩れかけた祭殿にひとりになった。

 古代の犠牲の血が染みついた祭壇に腰をおろして、谷底にひろがる荒涼たるおのれの領土を睥睨へいげいしたあと、急に力が抜けた様子ですとんと寝転がって天を仰いだ。


 切りたった岩壁のむこうの空は遠い。


 風が渦巻くと、篝火の炎が赤い髪をした女の姿となり、彼を呼んだ。

 「ファディシャよ、ファディシャ。わたしの大切な息子。母のもとに戻っておいで。お前を置いていくのではなかった」

 炎がぱちりと音をたてて弾けるたびに、血潮が蠢いた。


 「さあ、おいで。息子よ、わたしと一緒に狩りにいきましょう」


 いまわしき吸血鬼ヴァンパイアだった母。彼女が出ていくとき、言われるまま共についていけば、今頃闇の中を歓喜のうちに疾走する何ものかになっていただろうか。殺戮の歓びに身を沸き立たせ、苦悶とは無縁の人生だったのか。あの非情な魔術師によって、無惨にほふられた匪賊ひぞくの首領のように。

 若者は思案する。

 俺は後どのくらい持つのか。母さん、俺はあなたのようにはならない。その前に俺はすっぱりと俺の人生に片をつけてやる。


 イムナン・サ・リよ。

 気まぐれで残酷で扱いがたい俺の爪牙そうが。初めてあったときお前は俺を殺してくれる男だと思ったが、期待はずれだった。お前はただ、俺がのたうち回るのを涼しい顔で見ているだけだ。

 だが、いいさ。お前は俺のものだ。この八年、お前の魂の躍動を俺は我がことのように感じてきたのだから。


 若者は想いをめぐらせる。

 戦場いくさばの緩慢を一瞬にしてなぎ払うその神業めいた奇策。その美貌すら百刃の嵐のただなかに惜しげもなく投げうって、敵を討ち取る小気味良さ。血の滴りのなかで妖しく輝く黒い瞳。総じて、その戦法は凄艶せいえんにして無惨。

 かの男のまわりで死と官能はわかちがたく結びつく。まさに、うつくしき夜の獣、ラ・ウの申し子だった。


 お前が俺をその手に掛けないのなら、そうせざるえないよう仕向けてやるまでさ。その貴公子然とした仮面のしたの背徳の素顔を晒して、お前らしい裏切りと流血で俺をぞくぞくさせてみろ。俺が破滅するときは、お前も道連れにしてやるから。地獄の果てまでついてこい。


 炎がまたひとつぜた。


(弐)


 夜はふけていく。

 ルー・シャディラは長椅子の上に趺坐ふざしていた。彼女の意識がトランスの領域にあるかのように目をなかば閉じてあらぬ一点を見据えていた。

 暗い館で、第三の目を行使しているかのように彼女は外界を感じていた。

 ラ・ウの右目が支配する天空。青ざめた光があらゆる事象に降りそそぐ。風が谷をうねる。人々の行き交う広場、その魂のひとつひとつを感じる。闇がどこからともなくにじみ出てくる。彼女の強く輝く意識にふれると、闇の粒子たちはあわててもといた物陰に逃げこんだ。


 闇は光を恐れている。いまや彼女は夜を支配している。


 「来るわ」

 突如、彼女の寓居に危険をはらんだ気配が近づくのを感じた。彼女はその美貌の面をあげると扉のむこうを強く睨んだ。

 「彼がやって来る」


 来るがいいわ、うつろなる者よ。この谷の支配者、金目、銀目の種族の王よ。わたしはお前など、恐れたりしない。


 鉄の戸が重い音を立てて開いた。

 ルー・シャディラは身構えたが、暴戻ぼうれいさが人の形をなしたような赤毛の若者は、入り口から動こうとはしなかった。月光を背にしたその表情は読み取れない。ただ、その双眸だけが夜を生きるものの習性で鋭い光を帯びていた。腕を組んで暗室の中を見渡すと、穏やかな口調で言った。

 「ここは暗いな。来い。村を案内してやる」

 女は目を見開いた。

 「そんな格好じゃ、冷えるぞ。なにかはおってこい」


 若者の足は速かった。彼女はついていくのに、歩みを速めねばならなかった。闇に目がなじんでくる。薄闇の世界は念視したものよりもずっとうつくしかった。往来のにぎわいが、人々の息づかいが、いまそこにある生命の生々しさを感じさせた。

 「ここが広場だ。もう少し早ければ市がたっているが、もうあらかた店じまいだ」

 村人たちはその光る目で遠巻きにふたりをみている。常に剣呑けんのんまとった若き主君を畏怖し、白いドレスのうえに薔薇色のショールをはおった異国の美女に素朴な好奇心を寄せながら。急に気恥ずかしさをおぼえてうつむくと、ファディシャが誘いかけた。

 「あの高台にいけば、集落が一望できる」


 岩場をのぼるとき、皮のサンダルでは足許がおぼつかなかった。ファディシャの手を借りて、崖の中腹にある天然の展望台に到達した。女があれほど憎んでいた世界がうつくしく広がっていた。彼女は常闇とこやみの国を治める王とともにいた。辻風が茫々ぼうぼうと吹きすさび、うずまいて、その触手で女の魂をかすめ取ろうとしている。


 「お前は、もうここで自由にしていい。いっておくが、俺はお前に興味はないから、好きに男と会えばいいさ。黒い目の一族のことは親父に聞いたことがある。お前は同族の男を、あの軽薄な魔術師を追ってこの地へ来たのだろう」

 若者は淡々と続けた。

 「サイラスに帰りたければ、そう手配してやる。帰るのであれば、早々に発て。谷の冬はお前には想像がつかないほど厳しく、ばたばたと人死にが出る」


 「なぜ、そこまでやさしくするの。あなた方はサイラスに反旗をひるがえそうとしているのではないの」

 風にたなびく長い髪を抑えながら、女は問い掛けた。

 「お前が危険な女だということは端から解っている。だが、お前ひとり解放してやっても、なにも変わらないさ。お前は、何ものかの駒のひとつなんだろうが、所詮ただの女だ」


 ルー・シャディラは、瞠目してただ若者をみつめた。


 「俺はそれほど慈悲深い男ではない。だが、お前を特別に取りはからってやるのは、お前が俺の母親と同じ境遇だからだ。お前は俺の母親に似ている。暗がりに籠もって、妖気をおびて挑むようなお前は、母親と同じだ」


 女は、自らにかけられた憐れみの情を嫌悪しつつ、男を取り込む唯一の方法を瞬時に理解した。

 「わたしを自由にするというならば、わたしはあなたの側にとどまりたいわ」

 「お前に興味は無いといったろ」

 ファディシャはすげなく言葉を返した。

 「あなたにはわたしが必要よ。あなたのお母様の無念をはらすためにも」


 ねえ、これを見て。

 ルー・シャディラは目を閉じて、若者に未来を写したひとつのヴィジョンを送った。


 まばゆい太陽が輝く別世界。

 エアロゾルの紅い雲も、それを不気味に輝かせる死の光線も消えている。

 あおい、蒼い空。


 異教的なオベリスクや神殿が幾何学的に建ち並ぶ古の都。

 常磐ときわなる翠緑すいりょくの並木が聖蹟せいせきにあらたな息吹を与え、その下陰したかげには柔らかな草がそよぎ、万朶ばんだの花が咲き誇る。清流がここかしこに流れ、広場では滔々とうとうと湧きいでる噴水が人々の心を癒す。


 ここは、世界の中心。

 神聖都市であると同時に交易の要衝ようしょう。ひとつの巨大な神殿であり隊商宿であり市庭いちにわだった。黄衣の僧侶の沈黙、曙色の巫女の祈り。売り子たちの喧騒けんそうに、砂塵を巻き上げて進む隊商の列。

 さまざまな生業なりわい、さまざまな部族のものたちが聖と俗の混在する太陽の都を行き交う。


 その都の中心、アゴラの中央にそびえ立つ階段状のピラミッドに焦点が合うと、その頂上近くに毅然きぜんとしてたたずむ、空を見上げる若い男がいた。

 男は、王と呼ばれるにふさわしい錦繍きんしゅうの衣装を纏っていた。うつくしい宝石が鏤められた銀の鎖帷子くさりかたびらが素肌にきらめく。その腰にびるのは、王権の象徴たる日輪が象眼されたひと振りの大剣。


 熱く乾いた風にあおられ、その豪華なマントが空を舞う。


 まだ、少年といっていいすらりとした体躯。かがやく黄金の肌。その瞳は冷たく怜悧れいりで、神をもおそれぬ不遜な眼差しを持っていた。そして、太陽の光のもとでこそ引き立つ、その炎のように明るく燃えたつ赤毛。


 ほら、これがあなたの息子よ。やがて生まれる太陽の子ども。

 今は無理でも、彼らの世代はこの谷から抜け出せるのよ。この闇からも、このくらき宿命からも逃れて。それは、あなたのお母様の夢でもあるはずよ。


 「そんなくだらないはったりが俺に通じるとおもうか」

 若者の怒りでくぐもった掠れ声は、それ自体恫喝にみちたやいばだったが、女はひるまない。ただ、澄みわたるような透明な眼差しで見つめ返す。若者の心に彼女の存在がかけがえのない何かとして染み入るように。


 若者は女の魔力にみちた視線を難なくはじき返すと、その力強い右手をのばして女のかぼそい首を捉えた。彼の勘気かんきにふれた女をこのまま絞めあげることに躊躇ちゅうちょはなかった。だが、女のあまりの無防備さがかえって気をそいだ。


 「ファディシャ」

 女は彼になつかしい口調で呼びかけた。その瞳は、最後にみた母と同じように孤独で気高かった。

 「選ぶのはあなたよ」


 したたかな女だ。だが、利用されてやってもいいか。

 彼は気を変えた。


 「よかろう。お前の夢をみせてくれ」

 若者の腕が手荒く彼女の肩を抱くと、薄闇うすやみの世界はきえて、ふたたび静止画のような太陽の都が出現した。

 彼の口許に、女の妖艶な息づかいが近づいてくる。

 

 どうやら、俺はとんでもない魔物に見込まれたらしい。それでこそ俺の人生だ。


 唇が重なりあい、幻想の世界は、生命を得たかのように精彩をはなちながら動き出した。市中の景色を一巡りすると、再びピラミッドの少年に焦点があう。


 幻影のなかの少年王は、なにものかの気配を感じて振り向く。幼さの残るその顔立ちに怪訝そうな表情をみせていたが、そのうち不敵ににやりと笑うと視線をもとに戻した。


 その目にはらむ隠微かすかな狂気と超絶なる意志の力。


 まさに神ともみまがう超越者の風格だった。


 ごうと不気味な音をたてる陰風が、すべてのものを巻きこんで渦巻く。

 今まさに赤と黒、光と闇の王家が入り交じり、古代の神殿に浮き彫りされたアラベスクのようにもつれて絡みあって、新しい王朝の夢を紡ぎ出す。ふたりはその中心にいた。


 「ファディシャ」

 腕のなかで女はいった。

 「早速、あなたの父上にお会いしたいわ」

 「どうしてだ。親父は倒れてから、意識すらおぼつかない」

 「お命を、ちょうだいするわ。カルダーダ祭をまえに、名実ともにあなたはこの地の覇者となる。あなただって、冬にそなえて身軽になりたいでしょ」

 艶やかな声が耳許であまくささやいた。


(参)


 イムナン・サ・リは、彼の庵居の裏手にある岩場で、大きな岩に寄りかかって、ぼんやりとたたずんでいた。

 その誕生を祝って父から与えられた短剣を手にして、鞘口の抜き差しの具合を確かめるようにかちりと鳴らしながら弄んでいた。


 鞘にはタルクノエムでも指折りの名家の紋章である六花雪紋りっかせつもん、スノウクリスタルが象眼されていた。生家ではすでに父は他界して、長兄の代になっているが、庶子である彼にとってはどうでもいいことだ。


 空気が重い。

 谷を吹き抜ける風が例年になく湿り気をおびている。


 これまで、ダール・ヴィエーラでは薄雪うすゆきが舞う程度で、冷たく乾いた冬が続いていた。だが、今年の冬は空前の暖かさで、かつてないほどの豪雪となろう。

 未曾有みぞうの積雪は人や獣の足を奪い、長い冬の間彼らを死の檻に閉じこめ、夏の訪れとともに根雪は溶けて、融雪と泥流が谷底のすべてを洗い流すだろう。この永続的な温かさは、やがて北方の大地に横たわる巨大な氷河すら溶かして、この星の姿さえ変えていく。


 あと十年、いや早くて数年で、渓谷のすべてが融けた氷河の濁流に呑まれるだろう。だが、空の封印はまだ解けてはいない。いずれにしても、このままでは大雪以前に、闇に呑まれるか、日に灼かれるかだ。空の封印は、北の果てに隠遁いんとんした皇帝の半分壊れた機械の頭脳のなかにある。

 その封印を解く鍵をみつけることが彼の使命だった。だが、もはやすべては遅いのかもしれない。


 ふと、ルー・シャディラを思い起こした。あの女はなにを企んでいるのか。

 女の遺した残像を、紅い花弁が漂零ひょうれいする窈窕ようちょうたる世界を記憶の指がなぞると、ふいに女の柔らかい感触が呼び起こされ、ほの暗い想いが一陣の魔風まかぜとなってひやりと身体を駆け抜けた。


(四)


 薄暗い王の住居で、その老人は怯えていた。

 病に倒れてから、言葉と身体の自由をうしない、かつて峡谷の覇者としての威厳はもはやなかった。この部屋に閉じ込められてから、息をつくごとに彼の内部からはき出される死臭が辺りに満ちた。彼はいつも彼自身のうちから染みだす死に怯えていた。


 だが、今この時彼が対面している圧倒的な恐怖と比べれば、今までの苦しみなど取るに足りないことのように思われた。彼の息子によって追い払われていたので、恐怖に震えるたびに、すがりつく侍女の手もなかった。


 その代わりに、目の前にいる黒い瞳の美しい女は、彼の心臓のうえにたおやかな白い手を伸ばした。彼は知っていた。その治世を通じて彼をなやませた黒い瞳の民を。


 「アルムントよ」

 女は念じた。

 「もはや老人の時代は過ぎたわ。お前はかつてサイラスの犬どもと通じてケスの民を無残に葬った。裏切りの報いを受けるがいい」


 老いたる魂よ、朽ちよ。


 老人の命は凍りついた。


 王の息子は、たいして気にとめていない様子で、父親の命が奪われる瞬間を眺めていた。すでに父王に対する感情は鈍磨していた。

 次はどんな非情さで、この女は俺の心を沸き立たせるのだろう。


(五)


 「また、来たか」

 イムナン・サ・リは、突然の来訪者の気配を感じた。


 「イムナン・サ・リ、いないのか。サ・リ」

 少女が、先代の庵の主である老巫女の時代からある、されこうべと金の鈴をいくつも連ねた呼び鈴をカラカラと鳴らしている。イムナン・サ・リが岩陰にひそんだまま居留守をきめこんだとき、運悪く、その老巫女があらわれた。

 「おや、姫様。今晩は一段と神々しいのう」

 老婆は、ゲイルの姿に目を細めてから、姿の見えぬ男に声をかけた。

 「こら、サ・リ。客じゃぞ」

 お婆の放ったつぶてが、正確にイムナン・サ・リの居所に飛んできた。


 やれやれと、しかたなく男が隠れ場からあらわれて、苦々しげにお婆をひと睨みすると、狼を引き連れて盛装した少女がはずむ息で駆け寄ってきた。

 「サ・リ、カルダーダ祭の衣装ができたぞ。どうだ?」

 羽冠をかぶった少女は先日とは打って変わって上機嫌で、、紅い羽と色とりどりのビーズが縫いつけられた豪華な装束を得意げに披露した。腕をひろげると本物の翼のように長い袖がひらめく。


 彼女は今年もまた舞台で白鳥の娘、レッド・スワンを演じる。矢にうがたれた手負いの白鳥。伝説によると、世界が終わるそのとき、聖なる白き双翼を血に染めて、苛烈なる太陽の怒りをしずめるため、その身を燃えさかる日輪にささげるのだ。

 「あなたは、また今年も懲りずに踊るんですか」

 男がすげなく訊いた。

 「どういう意味だ」

 かちんときて、少女は問い返した。

 「いや、年少の従妹君たちが後につまっているでしょう。そろそろ後進に道をゆずられた方が……」

 少女の姿を横目でみながら、男は皮肉っぽく言葉を続けた。羽冠のしたのむくれた顔がかわいらしかった。

 「気に召されるな、姫巫女。この男は呪物じゅぶつの扱いもようできんくせに、若いおなごをからかうのが好きでの」

 お婆が横から口をはさんだ。お婆いうところの彼女の不肖の弟子にじろりとにらまれると、

 「さて、邪魔者は去るかの」

 と、にやりと笑いながら退散していった。


 「冗談ですよ。よく似合ってます。今年はさぞや練習に励まれたのでしょう。当日が楽しみです」

 ふくれっ面が泣きべそになるまえに、男は前言をひるがえして少女をほめた。

 少女は、両手をひろげてひらりとひと回りした。紅く染められた無数の羽が風を切る。彼女の細くて長い四肢は伝説のレッド・スワンそのままで、さぞかし舞台の篝火のまえでは映えるだろう。

 「それでは、ご褒美をあげましょう。ほら、目をつむって」

 少女が素直にぎゅっと固く目をつぶったのをおかしくおもいながら、懐から包みをとりだすとそのなかのひとつを少女の口に押しこんだ。

 その甘くて、まるくて、ざらざらして固い感触におどろいて、目をあけると、イムナン・サ・リがいたずらっぽく笑っていた。

 「タルクノエムの砂糖菓子ですよ。子どものころ好きだったでしょ」

 少女の頬がかっとあかく染まった。

 「もう、いい。全部よこせ」

 ゲイルは男に飛びついた。

 「今はダメですよ。カルダーダ祭でちゃんと踊れたらさしあげましょう」


 ふたつの影はもつれあい、少女の服に縫いつけられた数百の風切り羽がさわさわと揺れて、無数のかわいた音をたてた。

 少女はおもわず均衡をくずして、男の胸にたおれこんだ。

 「転べば、せっかくのお召し物が台無しになりますよ」

 イムナン・サ・リは少女の細い肩を受けとめながら言った。ゲイルの責めるような怒った視線が、なんともいえず愛らしかった。

 「では、特別におまけです」

 砂糖菓子を口に含むと、口移しに少女の口のなかへ押しこんだ。

 さきほどと同じ砂糖菓子の感触のほかに、一瞬彼のやわらかな唇が彼女のおなじ部分にふれたのを感じだ。せつない想いが、流れる血潮に溶けて、激しく脈打ちながら身体中を駆けまわってゆく。

 しがみついた胸の鼓動を感じながら、彼もまた同じ情熱をうちに秘めているのだと確信すると、少女は急にはずかしくなって、さらにぎゅっとその胸に抱きついて上気した顔を沈めた。


 いまや山の端になかば隠れながらも、ラ・ウの瞳は息をひそめて凝視する。この地上にうまれるはずのもうひとつの赤と黒の王朝の予兆しるしを。


 「ほら、そんなふうにすると、羽かざりがぜんぶ取れてしまう。にぎやかなところまでお送りしますから、いきましょう」

 少女は胸のなかで素直にうなずいた。


 イムナン・サ・リ、お前は、やさしくて、嘘つきで、いじわるだ。わたしをからかっているだけなのか。わたしの恋はいつか叶うのか。


 銀の光が照らす道を少女は大好きな男のかたわらでしずかに歩いた。

 歩くたび、彼女の羽かざりにさやさやと夜風がまとわりつく。

 自分でも気づかずに涙が流れた。心配そうにザックが鼻をならした。

 「どうしました」

 男がふり返った。

 「なんでもない」

 少女は、そのときの感情をうまく言葉にできなかった。

 ただ、この時間が過ぎていくことが悲しかった。

 イムナン・サ・リは少女の涙を指でぬぐい、そのまま抱き寄せた。やがて、身体をはなすとささやいた。

 「もう、ここまでです。気をつけてお帰りください」

 その言葉が終わらぬうちに、男ははっとする気配を感じて、ゆっくりと振り向いた。


 「なんだ、ファディシャか」

 ゲイルが兄の姿をみとめてぼんやりとした声をあげたが、その隣にいる女をみて目をみはった。その野性的な金のひかりが闇のなかでつよく反射する。

 「おい、サ・リ。どこの女を泣かせているのかとおもったら、俺の妹じゃないか」

 にやりと笑いながら、剣呑さをまとった若者が声をかけてきた。

 魔術師は目をふせたまま答えない。はたして、その瞳にどのような感情を宿しているのか。

 「泣いてなんかいない」

 少女の方が反論した。

 足許の狼をけしかけそうなほどの勢いで。

 「あら、ずいぶんとかわいい人ね」

 女がゲイルに近づいてきた。肝心のザックは女からちらりと一瞥されると、急におびえて少女の後ろに隠れてしまった。

「せっかく髪を結いあげたのに、くずれてしまっているわ」

 その白い手は素早く少女の髪の乱れをなおした。少女は異国めいた花の香りを否応なしに嗅ぎとった。あのときの残り香とやはりおなじものだった。絶望が胸にひろがっていく。


 そのとき、王の館の周辺が急にさわがしくなった。

 「たいへんな急事にございます」

 一行のもとに異変を告げる侍従が駆けつけてきた。

 「アルムント様が先刻ご逝去されました」

 「父上」

 凶報を耳にするやいなや、ゲイルはアルムントの館の方角へ駆けだした。

 魔術師は、彼の主君の顔色のわずかな変容を見過ごさなかった。男の鋭い視線は、少女の後ろ姿を見送りながら、もうひとりの妖艶に笑う女を捉えた。

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