第三話 魔女
(零)
男はまた別の夢をみた。
夢のなかで、男は故郷の星にいた。
その貧しい星の財政に不釣り合いな宮殿が彼の住居だった。男は、ドーム型庭園で咲き
女は冷酷さで名の知れたこの星の女領主で、男は大多数の住民と同じように農奴の出だった。
男は女に拾われたことを恥じるのと同じくらい、その冷ややかな美貌と魂を愛していた。
男はゲームの敗因を考えてみた。次々と現れるツリー構造の選択肢のなかでその時々に選んだ戦略。どれも最適で最高の出来だったはずだ。
いや、そもそも男の選んだ最初の目的が間違っていたのか。
故郷と自分を愛した女を捨てて、同胞たちと新天地を求めてあてどない旅に出たことが男の誤りだろうか。不死の呪いを一身に受けて、冷たく凍えた銀河をどれほど彷徨しても、衰えゆくアダムの子らにはもはや楽園など残されてはいなかったのだから。
それとも―――彼を暖かく包んでくれた最初の楽園を忘れ得なかったことが、男の不幸だったのか。乳と蜜の川流れるあのちいさな、ガラス球の中の世界を。
記憶の中で、女は永遠に美しかった。
男は女の幻影と向き合った。
男は許しを請わなかった。男は、いまさらその資格はないことを重々承知していたし、狡いことに女がとっくに許していることも知っていた。
もう少しだ。待っていろよ。俺はあと少しでお前の元へ行く。
だが、その前に片をつけなきゃならないことがある。負け犬なら負け犬なりに後始末ってものがあるのさ。
彼は、彼の記憶の海から抜け落ちた、メインフレームのどこかにある鍵を見つけなければならない。
世界を再び開く鍵。
この空間に潜む悪意ある存在によって、痕跡すら消されてしまった答え。
いつのまにか、彼は深く潜りすぎた。敵の姿は見えなかったが、ソースに近づきすぎた。テラコッタの兵士たちに守られた、陰陽のエンブリオが刻印された半透明の防護壁。その向こうには呪術的なアセンブラが垣間見えた。
遠い昔にほろんだ、異質な文明の文字であり数字である、世界の生成と再生を予言する図象。人類最古の二進法である
男は、彼の代わりに世界の鍵を取り戻す誰かを待っていた。
(壱)
冥色が漂う夕べ、西タルー族の若者は夜の到来を待ちきれずにいた。
岩肌には大地の
物見櫓を登り切ると、切り立った岩壁の向こうにのぞく、一瞬だけ青く染まった東の山際の間道をまっすぐ睨んだ。
奴らはいつもそこからやって来る。
タルー族は、氷河地帯を背にダール・ヴィエーラの北方に網の目のようにひろがる、深く狭いイムズ・アルラ峡谷群に居住する部族である。いくつもの支族に分かれ、夏季でも根雪の残る
石と氷の都とよばれるガムザノンは、吹き掠う風によって蝕された
ひときわ風が
長い髪は、ふだんは編みこまれているが、今は手を加えず洗い髪のままだ。眉のあたりに憂いを帯びた若者らしい涼やかな素顔があらわになっていた。
この宇宙を満たすあらゆる森羅万象よ、目にみえぬ精霊どもよ
俺に力をくれ。
タルー族の狩人が斃した鳥獣は、彼らの血肉となった後、二度目の生命を与えられてガムザノンの守り手となる。
精霊の息吹である風は、ガムザノンを囲む天然の城壁、宗教的な造形をみせる奇岩の壁に捉えられ、渦巻き、若者のよく
「ナビヌーン様」
影のように闇に溶け込んだ大男が彼を呼んだ。
「ああ、イーサ。叔父上の機嫌はどうなのだ。あいかわらず、あの女に夢中なのか」
苦々しげな口振りで若者は彼の腹心に問いかけた。
「はい、相変わらずの
「他国のものを容易に入れぬのが我が一門の掟というのに、王自らがそのようでは困る」
ナビヌーンはいらだちを隠さずに、言葉を続けた。
「その女、なんとか消せぬ、のか」
「はあ、そうおっしゃられましても。一時のお戯れと、時がたつのを待たれたらいかがでしょう」
若殿の潔癖ぶりも困ったものだと思いながら、影は答えた。
「一時がもうふた月だ。状況は、一刻の猶予もないというのに」
終息のみえぬ東タルー族との抗争にくわえて、突如として村を襲う魔獣の群れ。奴らの襲来は日を追うごとに頻繁になってきている。
東タルー族の頭目は、現在ガスキールとヌイヤックという狡猾な兄弟で、冥府サイラスとも通じており、
一族の分断と反目は五世代前にさかのぼり、血で血を洗う抗争にまで高まっていた。ナビヌーンの父は、また従兄弟である先代の東タルー族の王を倒し、その息子のガスキールらに殺された。
そして、悪夢にしか例えようのない人喰いの魔獣の襲来。
姿を見たものはだれもいない。もっと正確にいえば、魔獣の姿を目撃して生き残ったものはいない。
そのするどい爪と牙で
すでに、魔獣の襲撃で周辺の集落がまるまるひとつ消失している。だが、それはまだほんの序幕にすぎなかった。ここのところ、やつらの標的はあろうことかガムザノンそのものだった。累々とつづく
東タルー族にいま攻めこまれたら、はたしてどれほど持つだろうか。
「もう、良い。叔父上に伝えろ。偉大なる西タルー族の王の御心をそこまで溶かす調べであるというなら、その
影は、ため息に似た同意の言葉を吐いて、その場を辞した。
前年の冬に凍傷がもとで右足を切り落としてから、甥のナビヌーンに万事まかせることが多くなったとはいえ、カムール・ギジェは義にあつく
長らく独身を貫いてきたくせに、このような非常時に女にうつつを抜かすとは、叔父上も堕ちたものだ。そのような
ナビヌーンの胸に、ふと出会ったばかりの炎のようにかがやく髪をもつ少女のことが頭を
愛らしくも寂しげな風情で、どこかつかみどころがなく、人間離れした戦い方をする娘だったが、ウズリン族をこちら側に取り込むために、なんとかつかえぬか。
だめだ。後ろ盾どころか、あの暴戻なる武人ぶりで知られる兄のファディシャにこちらに攻め入る格好の口実を与えるにすぎぬ。
それでは、あの妖術使いはどうか。
イムナン・サ・リといったが、あれも得体のしれない皮肉めいた口調の男だったが、少なくとも気は確かにちがいない。だが、こちらにつく道理も恩義もなかろう。
そうだ、噂によると、ギ・イェクの夜盗の
(弐)
「お呼びになられたか」
もの思いに沈む若者に女としては低い声が呼びかけた。見下ろすと、羅(うすぎぬ)のヴェールを被り、異国の弦楽器を手にした長い黒髪の女がいた。
若者は、櫓を飛び降りるように降下した。
いつのまにか、再び膨らみ始めた月が、
ヴェールから覗くその面は無垢な花のように美しく、月光に照り映える柔肌の驚くほどの白さがその容貌に
少女のようにほっそりとした肢体は、夜の闇と同化した黒の長衣で包まれている。
異相だが類い希なる美貌の持ち主といってよい。
だが、この女が男心を
そんなはずはない。
ナビヌーンは、女の特徴ある頬骨のうえの細く吊り上がった目を凝視した。
その瞳には、凍りつくほどの殺気が沼のような静けさで包み込まれていた。この眼光は、戦士、いや、暗殺者の
「わたしの命が欲しいというのは、そなたか」
凜とした声が尋ねた。
ナビヌーンは内心の動揺を押し隠して、無言で応じた。
「ならば、相手になろう」
女は弦楽器を静かに地に置くと、腰に帯びた細身の剣を抜いた。
ナビヌーンもつられるようにその
女の動きは今まで見たことがないものだった。それはナビヌーンが学んできたような、しっかりと腰を軸にすえる戦法ではなかった。女の型はそのかぼそい手首を重心としており、剣先と四肢とがまるでバラバラの生き物のように動いた。
女の剣の真髄は、脱力。
その不安定さは見るものの視線を
女はヴェールを纏ったまま、踊るような優美さで歩を進め、その珠散る霜剣は銀光を弾きながら無限に揺らぎ、若者の視界を弄んだ。
その合間に、まるでいたぶるように、柔らかな急所を狙って突いてくる。
相手が女ということで初めから戦意に欠けていたとはいえ、ナビヌーンはかわすのが精一杯だった。
女は花が開くように笑う。
霜剣が冷たく
荒涼たる
北から吹き下ろす風は、辻風となって刃を交えるふたりに
畜生、なんてこった。このざまではこちらの
「北方の雄とはその程度のものか」
その紅い唇から、ふたたび花容の笑みが
笑うと、この
若者は、女の細い剣そのものを力で叩き切る戦法に切り替えた。
横ざまに払うのみだった刀を返すと、みずからも風にすっと乗るように跳躍した。若者の風に巻かれた黒髪が美しく
女の手のなかで絹張りの
女の目が一瞬赤く光り、その口許から靄のように
やはり、こいつは魔物か。
「なんと、小賢しいこと」
女はすばやく形勢を立て直すと、氷の刃が誘い込むように夢幻の弧を描いた。女の軽妙かつ縦横無尽な動きに対して、交わす刀はともかく
とうとう、女の足がすっと踏みこむと同時に、横様に向けられた剣がナビヌーンの利き手の甲をするどく叩き、その手から重い刀が墜ちた。
氷の剣先が、そのままナビヌーンの喉許にすくっと向けられた。
「西タルー族の若殿も、たわいないものだな」
「お前は何ものなんだ」
「ここでは、まだ名はない」
と女が答えた瞬間、断末魔そのものの叫びがガムザノンを駆け抜けた。
この世の終わりを告げるかのような、苦悶の
その
「ちっ、ふた月に渡ってそなたらの王を怪物どもから守ってやったというのに。まるで水の泡か」
女はそう吐き捨てると、軽やかな身のこなしで王の住居に駆けていった。
ナビヌーンもすぐその後を追った。
(参)
すでに騒ぎを聞いて駆けつけた一門の戦士たちが、為す術もなく辺りを取り囲んでいた。もはや怪物の姿はない。
ただ、一双の足跡のみが残されていた。
たった一頭で、闇に乗じて防人たちの防衛線を突破したのか。
それは、人の足跡に似てはいたが前方にひどく傾斜してめりこんでおり、全体の大きさや形状がまるで違っていた。すべての
「ナビヌーン様」
青ざめたイーサが無念そうに声をあげた。
生き残った者たちは底なしの虚脱感に怯え、館のなかでひっそりと身を寄せ合っている。いまや、ガムザノン全体が恐怖に
魔物が侵入した経路にそって累々と、音もなく殺された名だたる強者たちの無惨な死屍が累々と続いていた。あるものは腕をもがれ、またあるものは頸をおとされ、あるいは胸を切り裂かれて。あとに残されたものは、血と骨の道のみだった。
そして、その先には、……。
西タルー族の王、カムール・ギジェは、その館の戸口で夥しい血と腑の海のなかで死に瀕していた。うつぶせの状態でも、彼の腹部が残忍な爪に引きちぎられているのが解った。
「北の地の王よ」
ヴェールをはずしながら、女が死にゆく男に言葉をかけた。
「わたしがおらぬ間は、隠し戸のうちにひそめと言い置いたはずだ」
「もう、逃げることに疲れた。サイラスの皇妃よ」
瀕死の男はやっと言葉を繋いだ。
「奴らの標的はわしだ。わしを倒せば、奴らの襲撃もやむだろう」
女はそれには答えずに、ゆっくりと区切るようにささやいた。
「古き知己よ、さらばだ」
苦痛のなかで死にゆく男は、若き日を思い出した。彼がまだその甥と同じように若さに思い上がっていた頃、この女は今と変わらぬ姿で彼の前に現れた。
光に滲み、闇に溶け込む
その時々によって印象を変える切れ長の瞳。
冷たく光る氷雪の肌。
転生の呪いによって、永遠の闇を生きる女。
かなわぬ恋だったからこそ、その晩年に、若き日の想い出にこれ以上守られることは耐えがたかった。
苦悶のなかで、王は甥であり後継者あるナビヌーンを仰ぎ見ると、次の瞬間、その両目は光を失い、カムール・ギジェの魂はその身体を離れた。そして、魂は憂いを知らぬ若者の姿になって、かつて恋した女を一瞥すると、風に乗った目に見えぬ精霊たちに導かれて、静かに天に連なる虚空へと吸い込まれていった。
「おい、待ってくれ。いったい何があったんだ。話してくれ」
ナビヌーンはその場を離れようとする女を追った。
「そなたもわかっているはずだ。夜ごとの怪物どもの正体は
こともなげに女は答えた。
「人狼だと。奴らは、人里離れたところに住み、滅多に人を襲わない。このように集団で襲撃すること考えられない」
それにこの辺りの人狼は、元々我らのうちの変異者たちのなれの果て……。ナビヌーンは絶句した。
「正しくは、人狼の軍隊だ。良く訓練された、な」
女は横目でぎろりと若者をみた。女の目はどのような偉丈夫も威圧するような底なしの強さを秘めている。
「……」
いったいどういうことなのか。なにがこの地で起きているのか。
「馬鹿な。誰がそんなことを」
「考えるまでもないことだろう。そなたはそなたの敵がそなたの半分も信義に厚いと信じているのか。だとしたら、めでたいことだ」
女はナビヌーンを見据えた。
「そして、次の標的はそなただ」
女の目がまた赤く光った。
(四)
夜半には、毛皮でつくられた天幕の
一門の戦士たちが、死者の
天幕のなか、王の遺体の傍らにナビヌーンは控えた。女もそばに座している。
お前は何ものなんだ。サイラスの皇妃がなぜここにいるのか。
若者の無言の問いに、女が異国の楽器を奏でた。
小ぶりな楕円の胴と長い優美な棹からなるその楽器を爪に取り付けたピックで四本の弦をはじいていく。死者を追悼する調べが物憂げにつま弾かれたのち、歌うように女は自らを語った。今はもう失われた古き言葉で。
わが名は
わが母星の空のいろ。この星のように赤茶けてはおらず、お前たちのまずしい母星の白色矮星の陽のしたのしらけた空いろとも違う。
紺碧のあお。
とおい、われらが父祖の地、
神々のすまう国の名に相応しい、
われらは造られた種族。
星間戦争の申し子。故国の美しい種族をアーキタイプとして造られた帝国の
だが、われらの献身にもかかわらず帝国の命運は尽き、
いずれにしても、縁あってわたしは、お前たちの箱船に水先案内人として乗りあわせることとなった。お前たちの機械の頭脳をもつ皇帝の伴侶として。
人はわたしを魔女と呼ぶ。
転生はわが
闇に生きる異形の者どもを統べる者として、かれらの庇護者として……。そう、これからも。
若者には、女の言葉は皆目解らなかったし、たとえ通じたとしても意味など半分も理解できなかっただろうが、女の悲しみは彼の心に深く滲みわたり、意識が身体ごと何百光年ものかなたの外宇宙のなかに投げ出されてゆくのを感じた。
そして彼はみた。今は女の記憶のなかにしか存在しない、難攻不落の、美しい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます