第二話 恋

(零)


 男は夢見ていた。


 午睡にまどろむ赤子のごとき眠りの中で、男は彼が生まれる遙か以前の世界を夢見た。(監視プログラムは脳波の計測のみならず視覚路にも侵入して夢の中身すらも読み取っていた)

 宇宙はまだ若く、原初に生まれた光で満ちていた。


 カオスが光を発出はっしゅつする瞬間。


 男は微笑んだ。

 夢の中で、男はみずから零時間と名付けたこの光景をみるのが何よりも好きだった。

 長く続く衰微の時代に生まれた男が、故郷の辺土にも似た星で幼い頃から夢想していた―――安息日ごとに創造主の怒れる御手みてを振りかざしていた司祭の口から語られる創世記のくだりは、唯一の希望の道標だった。

 男の視覚野の形象を盗み見たメインフレームの中枢部は、その見えざる手で彼を収容する孵卵器インキュベーターの上方に優美に浮かぶ水晶球のディスプレイにオーバーレイするよう指示した。

 夢特有のとりとめなさで、時間はしばしば逆行し円環する。男の意識が揺らぎ、映像は再び巻き戻された。

 再び世界では、カオスがその大きな真空の口をぽっかりと広げている。

 

 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり……


 口を開くたびに合成アルコールの鼻につく匂いを振りまく、故郷の取るに足らぬ警世家けいせいかの声は、やがて男がやはりその地に置いてきた女の声に変わった。誰よりもこの零時間を語るに相応しい声に。


 「光あれ」


 そう女が口にしたとき、雫のような光の球が弾けて、世界には無数の光子フォトンが飛びちった。男の視床下部のシナプスは次々と発火して、その衝撃の波はメインフレームの電子回路を直撃した。

 やがて、女の声が柔らかな音楽となってみどり児の宇宙の端々にまで滲みわたると、世界は万物で満たされた。


 男はた。

 遠い母星の沸きたつ原始の海。天空神の聖なる雷鎚らいついがその苦き酸の海に撃ち込まれる光景を。父なる空と母なる海との結合によって、原核細胞が産み出され、やがて自らエネルギーを生産するパラサイトを取りこむ様を。

 ひかりと視覚器を得た手のひらサイズのモンスターたちが、カンブリア紀の暖かな海という壮大なラボから続々と産み出されて、奇怪な器官で他者をちぎったりちぎられたりを繰りかえしながら、より高機能な形態を獲得していく様を。


 男はた。

 やがて、長く地上を支配した巨大な竜の時代が過ぎて、その後継者たる巨獣の時代に現れた、けたたましい声で咆吼ほうこうする醜悪な猿たちの群れを。

 脆弱ぜいじゃくな肉体で大地に屹立きつりつした彼らが、死肉の味を覚え、血にまみれたハンドアックスを握りしめて、新しい肉食獣に変容していく姿を。かつて姿をかいま見るだけで恐怖に震えた獣たちを狩りたて、地上のあらゆる場所でいにしえの巨神たちを根絶やしにする様を。


 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地をしたがわせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。  


(壱)


 「おい、見ろ」

 ファディシャは壁の狭間の毛皮の覆いの隙間から、禁じられた昼の世界をかいま見ていた。

 谷に住まうものの大半は、瞳の奥に闇を射貫く輝板を得たのみならず、全色盲であるコーダとは違って昼の色を取り戻している。煙霧質エアロゾルを超えてなお大量に降り注ぐ死の光線は、世界を不気味な蛍光色に染め上げていた。

 若者は、五年前に父王が病いに倒れてからは、実質的なウズリン族の支配者だった。

 かたわらに控えた若い女は美しい眉をひそめた。女はドゥルサーラといって、土地の娘ながら絶世の美女と名高い。お互い子どもの頃から知っていた。緘黙かんもくの性向があり自ら口を開くことはまずない、そっけないほど愛想のない娘だったが、ファディシャにとっては気がおけない相手だった。

 「我らが魔術師どのは働き者だ。こんな昼日中陽のもとをうろついている」

 容貌は妹のゲイルとよく似ていたが、血の気のうすい青ざめた相貌で、端正さのうちにつねに剣呑けんのんな表情を浮かべていた。イムナン・サ・リの行先を確認すると、口許に皮肉な笑いを浮かべ、女を抱き寄せた。

 「サイラスも罪なことをする。あの女狐のおかげで奴も余計な仕事が増えた訳だ」

 女は逃げるように体をくねらせると、真に美しい者だけに許されている高慢な笑みを返した。

 古代から続く文明の本拠地であるサイラス。地下の迷宮都市サイラスは二代続けて谷に花嫁を送ってきた。若者は、幼い日に別れた自らの母を思い出した。



 サイラスから送られてきた女など信用ならん。小綺麗な女だが、あの性悪な魔術師にでもくれてやるさ。だが、それにしても……。

 若者は自らに差し向けられた女の瞳の色が気に入らなかった。あの魔術師と同じ漆黒の双眸。やはり、あの呪われた一族の残党なのか。ならば、虫も殺さぬ風情のしとやかな顔をしているが、あれも正真正銘の魔物に違いない。

 「面白くなるぞ」

 腕のなかの女にささやいた。


(弐)


 抱え込むほどの革袋を無造作に手にした黒衣の魔術師は、ルー・シャディラにあてがわれた館を訪れると、躊躇ためらいもなく正面から入った。

 彼の訪れを予期しているように、その鉄の扉にかんぬきは掛けられていなかった。

 ドーム型の石積みの館は表から見るより広かった。サイラスの皇帝からウズリン族の未来の王に下賜かしされた女は、半年近く幽閉の身であった。訪れるのは、世話役の侍女のほかには、昵懇じっこんの自称タルクノエムの商人と彼女の新しい持ち主から監視を命じられたイムナン・サ・リのみ。


 「まだ、お休みにならないのですか」

 「あなたたちと違って、昼間はなかなか寝付けないのよ」

 「冥府サイラスに夜も昼もないでしょう」

 ドレスのような絹の夜着を纏った女は、美しい織物が張られた長椅子に身を投げ出したままだった。

 「こんな時間になんのご用かしら。わざわざ陽の光のもとを歩いてくるなんて、酔狂な人ね」

 女の黒い瞳の凝視を受けて、魔術師は目を伏せた。彼が逃げ続けてきた闇の奥深くに吸い込まれそうになる。だが、今回は決着をつけなければならない。

 「それが手違いがあって、少々まずいことになりました」


 昨夜のことは、正直なところ腹立たしかった。

 最近、彼は夜盗の残党狩りとサイラスの間者の内偵というふたつの問題を抱えていた。夜盗どもの頭目とうもくは夏の初めにからくも討ち取ったのだが、その残党たちがまだこの辺りに跳梁ちょうりょうしていた。おまけに人狼ウルフマンどもの動きも怪しい。

 昨夜は行方がわからないと知って、少女のことを案じていたのに、なんのことはない。あんな若者とじゃれあっていた。おまけに、やっと見つけたときにはあの惨状だった。


 「あら、この状態より悪くなるなんてあるのかしら」

 「昨夜の客人は、残念なことにこのようなお姿になりました」

 革袋をむぞうさに放ると、なかから変わり果てた首級しるしがふたつ転がった。女はそのありがたくない手土産を冷ややかに一瞥すると、眉ひとつ動かさずに言葉を返した。

 「わたしはこのような余興は大嫌いよ。早く片づけてちょうだい」

 「お気に召しませんか」

 手袋で覆った手で、生首しるしをひとつつかむとその死に顔を覗き込んだ。赤毛の少女に喉許を射貫かれた女の首だった。

 「まったく残念です。この方たちは、装備も容貌も、どうやらただの商人という訳ではなさそうですね。あのままお帰りいただければなんの問題もなかったのに」


 イムナン・サ・リが明け方あの場所に戻ると、間者のうち女の方はまだ息があった。人工の銀の肌の下に隠されていた素顔はまだ若く、彼を見つめる目はおびえ、懇願するようだったが、首の付け根に刺さった矢は手の施しようがなかった。

 死にゆく女の心をのぞいてさらなる恐怖を与えるかわりに、彼らのお決まりの聖句をささやいた。

 「良き旅を。オメガ神の御加護を」

 彼女の残した銃器を手に取った。ちいさな護身用のリボルバーだった。これをみても、戦闘は偶発的だったのだろうとおもった。魔術師は銃弾を死にかけた女の額に撃ちこんだ。遠い異郷で命を落としたものたちの目には、昇ったばかりの無慈悲な太陽が反照していた。その瞼を閉じてやると、身体やその廻りに追跡機がないか慎重に調べた。


 それにしても、あの娘の神懸かりとしかいいようのない暴戻ぼうれいさは、どこから来たのか。姿の見えぬ敵への盲目的な恐れか、相手も同じ人間であることに心及ばぬ幼さゆえか。彼女自身の生来の力のなせる技なのか。そう、まるで相手の心理まで読み解く攻撃と防御のシステムが初めから彼女にプログラムされているかのごとく。

 それとも……、イムナン・サ・リの心は重くなった。わたしへのささやかな抗議か。おそらくすべてが正解で、本当のところはあの娘にもわからないことなのだろう。


 ふたつの生首しるしをもとの袋に戻した。イムナン・サ・リは、優雅に血にまみれた手袋を取ると、長椅子から半身を起こしたルー・シャディラの前に片膝をつき、彼女の雪を欺くほどの白く冷たい手を取った。

 「ふたりの素性が知れては、あなたにとっても少しまずいことになりましょう。今日は、少しざっくばらんにお話しませんか」

 「ずいぶん白々しいこと。かれらの正体などとっくにお見通しなのでしょう。そうね。あなた次第よ。まずは、よくお顔をみせてちょうだい」

 女は魔術師の外套マントのフードを押し下げて、その覆面をはぎ取った。魔術師の繊細で優美な美貌があらわになった。 

 「想像していたとおり、素敵よ。イムナン・サ・リ」

 ルー・シャディラは魔術師の唇を求め、男はそれに応じた。お互いの欲望の深さをはかるような冷めた情熱だった。

 「あなたはわたしの何を知りたいのかしら」

 同じ黒い瞳が揺らめいた。


 女は魔術師を長椅子にもたせかけると、からかうようにその指で甘い責め苦を与えた。男は抗わなかった。薄暗い任務のためにその美貌を差し出すことには慣れていた。

 「一体何があったの。何故彼らは命を落としたの」

 「つまらぬ小競り合いに巻きこまれたのです。我々の思惑とはまったく無関係な。そして、当方でのあなたの価値も変わってきます。ここはサイラスから遠くはなれた蛮族の地、あなたひとり消すのは、赤子の腕をねじるよりもたやすい」

 魔術師は彼をもてあそぶ指先を制した。

 「お戯れはそこまでに致しましょう」

 「もはや利用価値がないというのね。なら、さっさと殺せばいいわ」

 艶然と女は笑った。

 「こちらの質問に正直に答えてくだされば自由にして差し上げます。サイラスの間者そのものの素性です。あれは皇宮の手のものではない。皇帝と皇妃はサイラスで孤立しているはず。わざわざこの地に捨てる手駒があるとはおもえない」

 「ご推察のとおりよ。皇帝陛下は北の果ての離宮に隠遁いんとんされて久しいし、皇妃様の身はもうサイラスにはないそうよ。サイラスは、オメガ教徒と司祭ビショップに完全に掌握されている。わたしも彼らと手を組まなければ、地下深く幽閉されたままだった」

 「あのひとがサイラスを出たのですか」

 男の声が心持ち険しくなった。

 「ええ、ごく最近。皇妃様の探索も彼らがわたしのところへやって来るひとつの目的だったわ」

 魔術師はしばらく思案した。あの女の動きは思ったより早かった。

 「あのひとから、わたしになにか言付けは」

 女は微かに眉をあげた。

 「ないわ。本当に久しくお会いしていないのよ」

 「谷へ流れるサイラス製の兵器があまりにも多い。地下工場の動向はどうなのです」

 「さあ、どうかしら。少なくとも、最近軍備を拡充しつつあるタルクノエムへの銃器の需要が多いのは確かよ。けれども、サイラスがダール・ヴィエーラの部族と直接取引しているという話は聞かないわ。それと、……」

 「それと、なんなのです」 

 「噂では、かつてキャンディほどの大きさで都市を破壊したという古代の兵器の復元が進められているとか」

 すべてがきな臭い方向へとながれていく。魔術師は暗澹あんたんたる心持ちになった。 

「サイラスの情報は、もうそれで充分です」


 ゲームはここで終わりにすべきだった。

 だが、昨晩からの荒れた心模様から、イムナン・サ・リは欲望にあらがうことをあっさりと放棄した。されるがままだった男は、くるりとその身を反転させた。攻守は逆転した。

 「やはり、せっかくお互いを解りかけてきたのですから」

 冷たい本性をあらわにした男は、女を強く押さえつけると、凄みのある美貌で甘く囁いた。

 「どうせなら、もっと仲良くなりましょう」


 ルー・シャディラは記憶をたぐった。

 切れ長の目をした女は言った。皇妃と呼ばれるその女は、彼女の育ての親だった。ルー・シャディラは、生来の洞察力によって、その女が見かけほど無慈悲ではなく、その神のごとく長い人生が苦悩に満ちていることを知っていた。


 「ダール・ヴィエーラにいけば、お前はお前の片割れに会えるだろう。ケスの一族の血を引き継ぐ最後の生き残りだ。だが、期待するな。お前が求めてやまない男は、その見かけに似合わず、とんだならず者の悪党だ。あの男は、その血を呪い、幼い記憶を切り捨てている。当然ながら、お前のことも覚えていないだろう」


 女は生き残ることで多くのものを失ったが、失ったものに未練はなかった。自らの宿命に対して、恨みや憎しみといったそんな感情を抱くことすら馬鹿らしかった。全てはなるべくしてなったのだ。


 「あの男は記憶と共にその能力の大半を失った。強い力を持つお前は、もはやあの男にとって脅威でしかない」


 ケス。疎まれ、畏れられ、呪われた超能力者サイキックの一族。


 もうすぐ、男は放埒ほうらつなるままに彼女の意識のなかに押し入ってくるだろう。


 いまやイムナン・サ・リは女の瞳の奥を凝視して、その心のうちにすべり込んでいった。その心象の第一の扉を開くと、そこは深い谷の底方そこいだった。むっとするような強い芳香の艶やかな深紅クリムソンの花で埋め尽くされていた。その中心には、宝玉で彩られた美しい聖櫃せいひつが置かれている。


 「記憶が守られている、か」


 無理に押しあけるか思案したが、やめておくことにした。


 「あら、なかなか紳士的じゃない。でも残念。その筺のなかにはあなたが継ぐはずだったケスの王位の御璽みしるしとともに、あなたの失われた記憶が納められていたの。そして、それを開ける鍵はあなた自身だったのよ」

 風に乗って女の声が聞こえたが、イムナン・サ・リは驚かなかった。やはり同族の女なのだろう。

 風が渦巻いて深紅の花を吹き散らすと、聖櫃も消え、一瞬荒涼たる谷底の本来の姿がみえた。

 焦土と化し、いまやどこにあったかもはっきりとは解らない故郷。

 それは魔術師が良く知るものだった。彼の無意識の奥にひそむ紅い紅い闇の底方そこい。残り香のなかにかすかに胸にむかつく腥気せいきが交じっていた。花々は谷に横たわる死臭を覆い隠すものだった。

 それらも消えると、いまや何もない茫漠ぼうばくたる虚空がひろがっていた。


 「では、ヒントをあげるわ」

 虚空の中で風がささやくと第二の扉が現れた。開けると、暗い室内に通じた。ナトリウム灯のセピア色を孕んだすべらかな闇は、谷のものではない。

 「サイラスの記憶か」

 と男が思うと、少年の後ろ姿がみえた。

 ちいさな明かりのもとで、なにやら懸命に書物を読んでいる。ふと気配を感じたのか、少年は振り返った。涼やかな容貌の持ち主だったが、眉間のあたりの物憂ものうい陰が生来の美しさをゆがめていた。

 男ははっとした。自分自身のかおだったからだ。

 二人の記憶が完全に重なりあう。次の瞬間、男は少年自身の目で、少女の頃のルー・シャディラを見た。少女は、強い力を持った目をしていた。少年は瞬時に少女が自分と同じ能力を持っていることを理解した。


 「思い出したぞ。あれは魔女の隠れ家の一つだ。あなたはあの魔女の亭主に連れられていた、あのときの子どもか」

 イムナン・サ・リは夢幻の世界から抜け出て、声をあげた。

 「やっと思い出してくれたのね。あなたが、タルクノエムを放逐されてサイラスの都で皇妃様に飼われていた頃、一度お会いしているわ」

 腕の中の女が答えた。

 「へえ、あなたとわたしはなにやら因縁がありそうですね」

 男は、抑制を取り戻した。

 「知りたい?」

 今度はルー・シャディラが男の瞳を覗き込んだ。

 「別に。わたしはわたしが何ものであるかなんて興味はないんです」

 呪われた一族について考えることも不快だった。

 男は、女の首筋や胸許の柔らかいくぼみに唇をすべらせた。


「そんなことより今この時を楽しみましょう」


 覆い隠された昼の、逆しまな夜のなかで、ほの暗い情熱に導かれながら、記憶の底に沈んだ紅い闇の世界に魔術師の魂は吸い込まれていく。

 紅い花弁は、蜜と毒の芳香を放ちながらはらはらと舞い散り、閉じられた世界を埋め尽くすだろう。その温かな血だまりのなかに身体ごと沈み込んでゆく。

 その極みの果てにあるのは、死の微睡まどろみにも似た退廃と倦怠。


 魔術師は、本質的な部分で忠誠や道義心から自由だったが、それでもこの背徳的な遊戯に痛みと逡巡しゅんじゅんを感じた。その感情が、うちなるものなのか、腕のなかの同族の女のものなのか、もはや峻別しゅんべつがつかなかった。


 息づかいが重なり、吐息が溶けてひとつになるほどに、むつみ合うふたりのまわりに過ぎ去りし時の、失われし血族うからの幻影は廻る。


 ここは、どこだろう。腕のなかにあるのは、懐かしくて、温かくて、柔らかい。わたしの小さな……。


 炎の後ろで影法師たちがバンドを組み、異郷的な音楽を奏でている。炎焔は輪になって踊り、楽しげにゆらめく。イムナン・サ・リは幼い少年となって、祝祭カーニバルの雑踏のなかに迷い込む。


 そうだ、幼い日に死に別れた母の里だ。

 男のなかに、遠い昔に消し去ったはずの記憶の欠片がふいに生々しくよみがえった。

 月なき闇夜。

 炬火トーチを高くかかげ日輪を擬した大きな輪の円周を歩む人々は、黒い瞳をもち、みな美しく盛装している。常闇とこやみに生きながら太陽を奉ずる異端の民。コーダでもヌークでもない第三の種族。

 少年のそばには母親らしき女がいるが、見上げると白いのっぺらぼうの顔しかみえない。傍らで彼よりもちいさな少女が彼を見つめている。炎に照らされて輝く彼女の瞳は、迷いなく真っ直ぐで、彼を捉えてはなさない。


 「この娘の送りこんだ幻か。それともわたし自身の。いずれにしても、わたしとこの娘は近すぎる」

 欲望に総身をゆだねながらも、醒めた部分でそう思案すると、ふいに女の声が流れこんできた。

 「安心なさい。従兄殿。かつてはそういうこともあったわ。兄と妹、母と息子、叔父と姪。魔力を極めるためには、血を濃くする必要があった。代償を払わなければ、力は得られなかった。そう、それは諸刃の剣。繁栄と滅亡は紙一重。けれどもあなたは違う。あなたはタルクノエムの執政官ギランの末子、わたしたちケスの血は半分しか流れていない」


 押し入るのではなく、心地よく流れてくる声。おそらく、この娘の力はとても強い。


 女は知っていた。かつて、ふたりの魂がひとつだったことを。今この瞬間も、互いの白く冷たい滑らかな肌の内側で、流れる血潮が再び混じり合おうとするかのように熱く波打っていることを。

 かりそめの戯れのなかで、すべての禁忌と呪縛から解かれたうつくしい獣たちは、どこまでも互いをむさぼり尽くそうとしていた。

 

 「いい、サ・リ。新しい計画があるのよ。残念だけど、わたしはあなたとは添えない。同じ力を持つもの同士を掛け合わせるのは失敗だった。だから……」

 「やめろ、あの魔女の思惑なぞ吐き気がする」

 胸にわいた感情そのままに、イムナン・サ・リの技巧は加虐性をおびた。

 女の身体がおおきく揺れると、自我を取り巻くあでやかな花々は紅雨こううとなって舞い散り、忘我のうちで声にならない声をあげた。

 

(参)


 谷に再び夜が訪れた。


 人々はその隠れ家から影のように湧き出ててきて、ほそぼそとした煙がのぼり、煮炊きの匂いが満ちる。本格的な冬の訪れの前にして、その猛威を忘れるように、谷をあげてカルダーダ祭の支度にいそがしい。ウズリン族はこの祝祭の熱狂が終わると、フィポスメリアの夏の館を捨てて、越冬のため南に旅立つ。


 集落のはずれの岩場にある石積みの質素な住居は、そんな賑わいとも無縁で、他のものたちが畏怖してめったに近づこうとはしない場所だった。ゲイルはその前にたたずみ、そのあるじを待ちわびながら、目前に広がる昏黒こんこくの闇を凝視していた。彼女の忠実な友であるザックは心配そうに少女の足下にうずくまっている。


 やがて、薄闇うすやみの向こう側からかがやく漆黒をまとったあの男が現れた。

 イムナン・サ・リは少女を見ても驚かない。もう何度かそんなことがあったし、今宵もある程度予期していた。だが、面倒なことに変わりなかった。

 目深にかぶった外套のフードと口許をおおった覆面で、その容貌はあらかた隠されていた。感情を窺い知れるのは、そのうつくしく冷たい双眸そうぼうのみ。その目は吊り上がり、退廃の色を帯びていた。


 「どうしたんです。そんなところで」

 感情のない低い声が問いかけた。

 「夜の訪れとともに戻ってくるお前は、いつも女の匂いを絡みつかせているか、血飛沫ちしぶきにまみれているか、だ」

 泣き顔で少女は続けた。囁きに似た乾いた声音だった。

 「今夜は、わたしの嫌いな女の匂いがする」

 「へえ、ずいぶん鼻が利くんですね。わたしのことなぞ嗅ぎまわって何が楽しいんです」

 突き放した物言いに、少女は消え入るような声で答えた。

 「楽しいわけなどないだろう。苦しくてたまらない」

 「では、わたしのようなだらしのない男を待つのはもうおやめなさい。若いあなたにふさわしいものは他にいるでしょう。それに昨日の今日です。また乳母殿が心配なさる。今晩はあの若者のことでも思いながら、大人しくしているんですね。ああ、そうだ。言い忘れていました。あの仔牛は、厩舎であなたを待っています。はやく行っておあげなさい」

 「わたしはただ礼を言いたかっただけだ。それに、お前があのことの始末で何かに巻きこまれたらと……」

 少女の声が感情のうねりに合わせて細かく揺らいだ。

 やがて、少女は声もなく泣きはじめた。

 さすがに、男はいらだちを少女にぶつけたことを後悔しはじめた。

 「少しきつく言い過ぎました。昨晩は本当に心配したのです。夜半から、あなたの狩り場を捜しまわって……」

 顔の覆いを取り去ると、影のある美貌があらわになった。少女を胸に抱き寄せると、彼女の感情がおさまるのを待った。


 あの夏の夜、男は十代の終わりで馬上にあった。

 故郷を追われて、すべてを捨て去り流れ着いたこの世界の果て。

 月の光を浴びた異郷の旅人を村人たちが遠巻きに眺めている。乳母の大きな背に隠れて、やせた赤毛の少女がはずかしそうに青年を見つめている。

 男の記憶のなかで切り取られた特別な一葉。


 男の腕のなかで、少女もまた同じヴィジョンを見ていた。

 青年はまっすぐと少女を見つめ返す。目が合うと、少し笑った気がした。

 あれからどのくらい時が過ぎたのか。


 「はやく大人になりたかった。大人になればお前がわたしを愛してくれると思っていた」

 嗚咽おえつこらえながら、ゲイルは言葉を吐き出した。

 「でも、そんな日はこない」


 そう、ちいさなあなたが愛おしかった。だから、ずっとそのままでいて、わたしになど恋しなければ良かったのに。あなたにはあの若者くらいがちょうど良い。


 イムナン・サ・リは少女の髪を掻きなぜると、頬にそっと口づけた。

 「そんなことはないですよ。わたしはあなたが大好きです。あなたがもっと世慣れた女になって日々の煩わしさに厭いたら、抱いてさしあげましょう」

戯言たわごととも本音ともつかなかったが、いずれにしても不実で軽薄な言種いいぐさだった。

 「お前はいつだって、そうやってわたしをからかってばかりだ」

 ゲイルはきっと顔をあげた。

 「馬鹿!お前なんか大嫌いだ」

 男の頬を思い切り叩くと、闇の奥に駆けていった。心配そうにあるじを見守っていたザックは、男に向かってひとつ吠えると少女を追いかけていった。


 どうして、こんなふうになってしまったんだろう。

 ゲイルはまだ短い人生のなかのいくつかの大切な記憶をたどった。


 子どもの頃、石切場の跡地で、イムナン・サ・リは彼女の隣に座り、星間世界の歴史を教えてくれた。

 遠い遙かな母星。星々の抗争の歴史。祖先らが渡った、長い、長い航路。

 彼の話があまりにも煌びやかで難しくて、彼の温もりがあまりにも心地よくて、その外套マントのなかで少女が寝入ってしまうと、目を覚ますまでずっと彼女を抱き寄せてくれていた。


 ふたつ前の夏、月の明るい晩に、湿原に水鳥の卵を採りにいくとき、彼の馬に乗せてもらった。彼女が卵を集めているあいだ、彼は平らな岩のうえに寝転び、ただ空を見つめていた。


 月明かりのなか、世界はうつくしく夢のようだった。


 彼女はそのすべてを壊してみたくなって、ちいさな青い卵を彼に投げつけた。額に割れた卵が流れると、彼は怒った顔で起きあがって彼女の腕をつかんだ。

 なんだか訳もなく可笑しかったので、ゲイルはくすくすと笑い出して、それから彼の髪や額に流れる卵の液を残酷な無邪気さで舐め取ろうとした。

 「おやめなさい。くすぐったい」

 イムナン・サ・リの両手が彼女の両頬をすばやく捉えると、その粘液にまみれた唇に乾いた唇を重ねた。少女は、蜜のように溶けて混じりあう感覚を初めて知った。

 何度か繰り返された口づけの後に、彼女のあどけない表情を凝視すると、男は視線をはずしてすげなくいった。

 「もう、帰ります」

 イムナン・サ・リがとても荒く手綱をさばくので、籠のなかの卵が割れないように大切に膝に乗せて帰った。

 それからは、もう二人だけでどこかへ出かけることはなくなった。昔は彼の庵室のなかで魔法めいた不思議なものを見せてくれたのに、今はもう訪れるだけで不機嫌になった。

 彼女は頻繁に狩りに出かけるようになり、無明の野を彷徨っている。あの夜、子ども時代は終わったのだ。



 少女が闇のなかに完全に消えるのを見届けると、イムナン・サ・リは見えない相手に声を荒げた。

 「おい、おばば。そこにいるのだろう。隠れていないで出てこい」

 「なんじゃい。気を利かせておったんだがの」

 岩陰から醜い老婆が現れた。この齢を経た老巫女は、三代前の族長の時代から占いと呪詛じゅそで一族の繁栄を守ってきた。八年前に、ふらりとこの村にやってきたイムナン・サ・リを自らの後継者とひとり勝手に決めこんでその地位をゆずり、隠居生活を送っている。

 「お前もなかなか忙しい男じゃ」

 歯のない歯茎をむき出して醜く笑った。

 「わしに、話があるのじゃろ」

 「あの赤毛の兄妹の母親について教えろ。あの娘が赤子の頃突然消えたそうだが、なぜサイラス出身の女がこの地で失踪したのか。噂では、魔性の者だったとか」

 「ああ、正確にはサイラス出身のヌーク、じゃ。しかも、すでに人ならざる者に変化していた」

 「……。この地で覚醒したのか」

 イムナン・サ・リは、内心の動揺を抑えてきいた。

 「いや、サイラスで人工的につくられた吸血鬼ヴァンパイアじゃった。あの妹御によく似た美しい娘で、虫も殺さぬ風情でごまかしていたが、初めから覚醒していた。あの女が嫁いできてから、月に二、三人犠牲がでた。結局、あれはこの地になじめず、闇の世界に帰った。その血は、お前の知ってのとおり兄の方に不完全に引き継がれておる」

 老婆は、男の顔をじっと凝視しながら、聞き取りにくい声で語った。

 「あの娘もいつか目覚めるのか」

 無意味な質問と思いながらも、訊かずにはいられなかった。

 「さあな、わからん。だが、かわいそうにあの娘は、おのれの血潮にうごめくものに脅えておるだろう。お前だったら、運命さだめから救ってくれると思っておる。若い娘は男をみる目が無いのう」

 「ふん。なんとでも言ってろ」


 「さて、イムナン・サ・リよ」

 なにかを思案するような面持ちで老婆は忠告した。

 「あのサイラスからまたやって来た娘には手を出すなよ。といっても遅いかもしれんが……。なるほど、あの娘は臈長ろうたけてはおるが、お前の軟弱な魂など喰らいつくす魔物だ」

 「いらぬ世話だ。もう、いい。帰ってくれ」

 暗澹あんたんたる気持ちでそう吐き捨てた。


(四)


 暗がりのなかで、ルー・シャディラは、強い意志の力で身体の奥でくすぶる欲望の最後の残り火をうち消そうとしていた。

 「あの悪党。おかげで幻想は消えたわ」

 背中に残された爪痕が、甘い痛みとなって彼女を苛(さいな)んだ。

 「わが恋よ、消え去れ」

 このままでは想いだけが高まり、わたしは焼き焦がれてしまう。わたしは恋などには生きたりはしない。わたしの生まれた意味は、そんなものじゃない。わたしは……。


 官能の波に呑まれながら、彼女はずっと男の意識の中を泳いでいた。心を読む技は、超能力者サイキックとしての彼女の能力のほんの一部だった。男はきっと心をのぞかれたことすら気づかなかっただろう。

 皇妃から聞かされていた通り、ともに過ごした幼い日々の記憶は、彼のなかでぽっかりと抜けていた。彼の心の中心にいたのは、彼女ではなかった。


 あなたが本当に愛しているのは、あの赤毛の小娘、レッド・スワン。残念だけどわたしじゃない。


 イムナン・サ・リよ、わたしはいつもあなたに焦がれていた。でも、百の嘘にまみれたあなたが唯一慈しんでいるのはあの小娘だった。あなたにとってつらい恋のようね。悪いけど、あの小娘はわたしの手のうちにあるのよ。あなたは、あの小娘の役割をまだ知らない。

 いいわ、サ・リ。あの遠い日、あなたは自分の命を削ってまで、わたしを救ってくれた。だから、わたしはあなたに何も求めたりはしない。残されたときをあなたらしく放埒なるままに生きればいい。

 けれども、あなたもレッド・スワンも、いつかわたしの前に服従する日がくるのよ。わたしはこの凍土の女王、この世界の闇をなぎ払う冷たい日輪の女神なのだから。


 ルー・シャディラは、明かり取りの狭間から差し込む青白い光をにらんだ。

 それぞれの思いを絶え間なく姿を変える月が照らしていた。

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