第一話 予感

(零)


 男は夢見ていた。この闇の生物たちが蠢動しゅんどうする、凍える廃墟の大地にふさわしい名を持つ星で。


 彼は知っている。赤い空と蒼い太陽を持つこの星が、かつての地球テラのセレンゲティ平原とエバーグレース湿原、イグアスの滝と森、それにシャーク湾をあわせたよりもずっと壮麗で、きらめく生命の壮大なうねりに包まれていた頃を。


 極地の長い夏が終わろうとしていた。


 すべてが死に絶えた大地にそばだつ氷壁のオベリスク。白い闇に閉ざされたこの牢獄が、男が自らに選んだ流刑地だった。

 激しいホワイトアウトがたまゆらに止むその時、瀕死の太陽が顔を出す。半年に渡った夏を惜しむように、地平線をかすめながら。

 やがて、外界は真の闇に閉ざされる。  


 塔の先端のピラミッドには、卵形のインキュベーターが安置されていた。その内部は液化酸素の混合液で満たされ、半透明の被膜の濁りを通して、この白い死が支配する世界と同じ光で男を包んでいた。

 高層部に納められた、両腕に抱えるほどの大きさの球体のメインフレームが、彼のヴァイタルサインと微睡まどろみを息を潜めて見守っている。


 あたかも胎児のように、肺に液体を満たして、膝をかかえて眠る男の姿を垣間見ることができたなら、その凄みある野性の美しさに息を呑むと同時に、その貌に染みついた邪悪さにおののくだろう。


 男は、退化した人類の中では長身といってよかった。システムから筋肉に与えられる絶え間ないパルスによって、肉体は劣化することなく保たれていた。

 しかし、狼の荒々しさと牡鹿の優美さを併せ持つ面差しは、あるがまま感情を表出し多くの男女を惹きつけものだが、今は永遠とも思える苦悩で無惨に歪められていた。


 蛇の性情を持つ軽薄で残忍な詐欺師。


 人類の歴史の最終章で、男はそう決めつけられていた。

 だが、男にとって、歴史の裁定などもはや意味はなかった。

 心の奥深くに隠された臆病で内省的な魂を持ち出して、本来は善良な人間である、と叫ぶつもりはなかった。


 所詮、彼は敗者ルーザーだった。


 そうさ、俺は神と運命を相手にした壮大なゲームに負けちまったのさ。


 彼のむくろは、生かされたまま、氷のサルコファガスに包まれた巨大な棺に眠る。人類のあらゆる叡智えいちを記憶したメインフレーム、老母ラオムーとともに。


(壱)


 西の空の果ての青い夕焼け。

 蒼白なる恒星ソルの残照が血の色をした天蓋てんがいを一瞬だけ清冽せいれつなる青に染め変えると、ダール・ヴィエーラに長く優しい夜がやって来た。

 土地の言葉で「赤く光る河」と呼ばれるダール・ヴィエーラは、かつては本当に潤沢な水が流れていたのかもしれない。だが、今は大陸に網の目のように広がる巨大な凍土の峡谷であり、この星の生命を容赦ない太陽風や頻繁に巻き起こるダストの嵐、昼夜の激しい気温差から庇護してくれる母なる揺籃ようらんだった。


 翳りゆく蒼茫そうぼうの果てで青い残映が最後に揺らぐと、すべては単調な闇の濃淡に沈んでいく。


 やがて、東の空の端に、世界を喰らうと予言されている狼神、ラ・ウの右目と名付けられた、この星をゆっくりと周回する巨大な月が現れるだろう。

 四昼夜かけて東から西へ移動する月は、天上にある間に二度満ち欠けを繰り返す。そして、不在の四夜を経て、また東から昇るのだ。煙霧質の魔法で青く染まった月は世界を凄々と照らし出す。


 四日ぶりの銀光が露霜となって大地をひっそりと湿しとらせるころ、谷底のそこかしこで今まで息を潜めていた生命がうごめき出す。


 「ゲイルさまぁ、今宵は、どこに行かれるのですか」

 背後で、幼い少女の声がした。

 ふっくらとした頬のかわいらしい少女は、館の裏口のかげにこっそり隠れてゲイルを覗いている。

 「カリン、静かに。いつもの狩りだ」

 ゲイルと呼ばれた娘は、その少女の方に振り向いて、指で合図しながら答えた。

 「お気をつけて行ってきてくださいね」

 心得たとばかり、カリンは見送った。

 カリンはゲイルの乳母の末娘だった。言いつけに背いて、ゲイルを黙っていかせたことで、少女は母親に大目玉を喰うことになるだろうが、仕方があるまい。久しぶりの遠出だった。一晩で帰還できなかったら、かなりの騒動になるだろう。

 月の光で、矢筒を背負い、右の腕に短い弓を抱いた赤毛の娘が照らし出された。明るい髪とは対照的に、その肌は闇の色がほのかに溶けこんだ一族のものたちよりもさらに一段暗く、細面にくっきりとした造作の陰翳をつよめていた。

 そして夜にかがやく金のまなこ

 狩りには明るすぎたが、獲物は臆病な齧歯類やライチョウの類ではなく、この夏季の初めに産まれたジャコウ牛の若仔だ。


 巨大な月は、たとえ峡谷の稜線にさえぎられて直接その姿が見えなくとも、日の出近くまでゲイルの道程を照らし、導いてくれるだろう。肩までの長さの明るくかがやく緋色の髪をさやさやと降り注ぐ月光のもとになびかせて、少女は慣れた様子で北をめざして岩の森に分け入っていった。


 狩猟民であるウズリン族が夏のあいだの居住地として定めている北西の狩り場、フィポスメリアの平原は、ダール・ヴィエーラ一の広大な谷床平野であり、その広く深い谷底の中央をゲルムダール街道が縦断していた。南に行けばタルクノエム、サイラスに通じ、北へ進むと北方の蛮族タルー族のテリトリーと境界を接していた。北方にあるジャコウ牛の餌場は遠く、足許は夏の終わりというのにまだ泥濘ぬかるんでいる。


 彼女の装備といえば、ジャコウ牛の夏毛で織られたチェニックとくるぶしまであるびったりとした鞣革なめしがわのパンツ。

 その上から一枚剥いちまいはぎの銀狐の毛皮をベストのようにはおり、腰のベルトで留めている。足許は毛皮の縁取りのついたブーツ。これからむかう湖沼に特有の吸血昆虫対策として、チェニックは虫よけの香草の抽出液に浸しておいたし、肌の露出する部分には同じ香草入りの軟膏を擦り込んである。背中の胚嚢はいのうには、数日分の干し肉と皮の水袋を入れておいた。


 主の不安を感じとったのか、相棒のザックが鼻を鳴らした。

 ザックは灰色の背をもつ狼で一昨年の夏に産まれた。まだ仔獣のころからゲイルが育てていて、彼女にしかなつかない。

 「大丈夫」

 自分に言い聞かせると、凍て解けの大地に足を踏み入れながら、ゲイルは一族の古老の巫女シャーマンから幾度も聞かされた神話を思い出した。



 太古のむかし、空にはふたつの月があった。

 ふたつの月は、ときと終わりをつかさどる深遠なる神、ラ・ウの両のまなこじゃった。

 八昼夜かけて主星をゆっくりと巡る巨大な右目。

 太陽とは逆方向に、一晩に二度も昇ることがあるひしゃげた楕円体の左目。

 酷いほどに冷たく燃えるその両の眼は、やがてこの大地と生きとし生けるものすべてを呑み込もうと眈々たんたんと狙っておった。

 ウズリン族の始祖、ククスル・カルダーダは稀代の強弓つよゆみ、遠矢の名手で、あるとき天を振り仰ぐと、ラ・ウの魔力の源である左目を射落とした。

 爆音がとどろき、火の雨が地上に降り注いだ。

 左目を奪われたラ・ウは怒り狂い、次第に薄れゆく魔力をふりしぼって、地上の生命をおのれの眷属、すなわち夜の子らに変える呪いをかけた。

 闇と炎の百年が終わると、天は割け、大地は凍りつき、海洋うなばらは消失した。

 新たに創世されたのは、赤い空に蒼い太陽が浮かぶさかしまな世界。

 やがて、死の光線から世界を守る光の天幕も失われ、我らはもはや太陽のもとでは生きられなくなった。

 冬の白みかかった陽光でさえ、我らの肌を焼き尽くすのに充分だ。世界を破局から救った代償として、この谷で、闇をあがめ、夜に隷属れいぞくする種族として生きることとなった。



 夜の子ら。


 一体何の呪いだろう、とゲイルは思った。谷に住む多様な属性をもつ者たちは、夜を生き抜くため、闇に輝く金目や銀目の瞳をもっていた。太古の人類のすえであるコーダたちは、我らを魔性の血が流れる交雑者ハイブリッド、ヌークと呼ぶという。


 ヌーク、呪われた言葉。


 ヌークのなかでも闇の血が強く出たものたちは、古来からおそれられた怪物に、ヴァンパイアやウルフマンに変化して、闇をさまよう孤児として人里を離れ永遠の夜を歩むしかない。

 事実、谷には、奇怪な獣人、魔物、あるいは獣そのものが徘徊していた。

 どのような罪を犯したら、このような罰を与えられるのか。どんな正当な理由をもってしても、人々から光明を奪い、未来永劫にわたってこの大地の裂け目に閉じ込めることは理に適わない。無明むみょうの闇は、人も獣も、そこに住まう者すべての内面に少しずつ感作かんさし、確かな機序きじょでもって彼らの血潮に流れ込み、やがて、本当にその一部に変えてしまうだろう。


 無慈悲な太陽の光を照り返す、巨大な銀の鏡。その青ざめた月光は、それでも暗闇の国を歩む少女の唯一の導き手だった。


 ゲイルの左手は無意識に腰にげたナイフを求めた。

 強靱なはがねでできたとても良い細工で、ともがねの柄には、手になじむよう革紐が巻き付けられており、よく鍛錬たんれんされた刃は革のさやに納められている。ウズリン族の熟練した鍛冶かじの手によるものだ。

 本来は仕留めた鳥獣を解体する狩猟用のナイフで、柄にも鞘にも黒い血が染みついていたが、今晩は護身用にしかつかわないだろう。北の地にはおそろしい魔獣や人狼ウルフマンが出没するという。この辺りを跋扈ばっこする夜盗どもの噂も絶えない。出来ることなら出番が無いことを祈るように、そして不本意ながらも研ぎ具合を確かめるように、少女は氷のようにきらめく刃にそっと口づけた。


 夏の狩りでは、その場で血と内臓を供物としてラ・ウにささげる。一方、冬の血と臓腑ぞうふは人間のものだ。ラ・ウへの献げものは、獲物を倒すときに流れる凍れる大地に染みついた一滴の血痕のみで、あとは油脂から骨の髄まで余すところなく人間が喰らう。腐臭ある凍肉無しにダール・ヴィエーラの長い冬を超えることは不可能だろう。

 

 気がつけば、フィポスメリアの平原を抜け出していた。迷路のように入り組んだ渓谷の道なき道をどのくらい歩いただろうか。


 赤い岩肌はうつくしい瑪瑙オニキスの縞模様。

 風にしょくされた尖塔岩とがりいわの神秘の造形。


 いつのまにか景色は一変していた。少女は、時の流れすら異なる超自然の空間に迷い込んでいた。


 風向きがかわるとザックが短く一つほえた。

 彼のあとについて岩陰に隠された枝道に入り込むと、とうとうジャコウ牛の痕跡を見つけた。踏み荒らされた足跡はまだ新しく、過酷な昼をやり過ごしたと思われる洞の岩肌には彼らの和毛にこげが張り付いていた。その特長ある金毛を見るとゲイルの胸は高鳴った。

 ジャコウ牛の織物は、タルクノエムの混血種族、強欲な商人たちも高値をつけざるを得ない稀少な凍土の産物だ。

 湿気をはらんだ谷風が、かすかに沼沢の匂いを運んできた。ジャコウ牛の餌場はそう遠くないはずだ。

 導顔しるべがおのラ・ウの瞳に招かれるまま、少女と獣が急勾配の道を疲れを知らない若い身体で登り切ると、予告なく視界が開けた。


 「うゎああ、なんて広大な世界なんだろう。これが外の世界なのか。すごいなあ、ザック」


 ゲイルは息を呑んだ。

 いつのまにか、ダール・ヴィエーラの慣れ親しんだ谷底の揺籃を抜け出していたのだ。

 外界の大地は果てしなく、どこまでもどこまでも不規則な起伏を繰り返しながら円盤状にひろがり、地の果ての際は弧を描いて宇宙の深淵に呑み込まれていた。

 ゲイルはこの夜の一部になって、星辰のとばりの只中にいるような感覚にとらわれた。


 空にはブルームーン。

 目前には、菫、雛罌粟ひなげし竜胆りんどう、ルピナス、岩桔梗、トリカブト、勿忘草わすれなぐさ、ジキタリス。七色の花と苔と茅草かやぐさのカーペットに覆われた広大な湿原が出現していた。

 灌木で縁取られた湿原の中央の黒い湖面には、中天に達したラ・ウの右目が浮かんでいる。水面みなもには数種類の水鳥の影が映り、ウズリン族のハンターの主要な獲物であるカリブーが群れなしていた。夏の一時、ダール・ヴィエーラには凍土が融けた小規模な湿地が出現し、夏の終わりを待たずに消失していくが、このような大湿原は見たことがなかった。

 何故、空を遮断するものが何もない地表で、草木は陽に焼かれないのか。


 ゲイルは、このすり鉢状の湿原のはるか下方にジャコウ牛の一群を見つけた。


 「ゆくぞ、ザック」

 少女と獣は息をぴったり合わせ、風下を選んで標的に近づいていく。

 世界は静寂で満たされ、ジャコウ牛たちは尾で虻を払いながら、ゆったりと苔や水草を食んでいる。湿原のすべては、唸りをあげながらあちらこちらに光る蚊柱さえも、うつくしく夢のようだった。


 片膝をつくと、すばやく矢をつがえ、幼獣の後脚を狙って弓を引いた。

 放たれた矢が唸りをあげると、箱庭の静謐せいひつはかき乱され、まわりの鳥獣たちが波紋をえがくように散っていった。

 小さなジャコウ牛は恐怖で身をすくめて動けない。矢が狙いどおり大腿部を突き刺すと、あわれな声をあげて膝を折ったまま動かなくなった。もとより致命傷をあたえるつもりはない。ザックが飛び出そうとしたとき、ゲイルはふいに異変を感じた。


 仕舞った、囲まれた!


 すぐ後ろにまずひとり。ゲイルより頭ふたつ大きながっしりとした体格の猛者が、彼女を生け捕りにするため、今にも手を伸ばして飛びかかろうとしている。


 「ザック!」

 ふりむくと、少女と獣は一瞬のうちに弾けた。

 まず、ザックが男の右足に食らいついた。

 次の刹那、大男の左脇をすり抜けざまに、ゲイルは少女とは思えない力と正確さで腎臓に左肘を打ち込んだ。

 強烈な一撃に男が呻いて前のめりになると、少女はすばやく正面に立ち返って、鳩尾みぞおちを見事な跳躍力で蹴り上げた。鼓動が高鳴り、ぞくぞくする血流を感じながらも、少女の心は月を映す湖面のように静かに冴えていった。

 仰向けに倒れた男に馬乗りになって、まるで獣を仕留める時のように頸動脈けいどうみゃくに狩猟ナイフを押し当てると、刹那のうちに勝敗は決まった。

 人間を殺したことはなかったが、このまま切り裂けばこの男は助かるまい。血の海のなかでのたうち回って死ぬだろう。


 だが、気配を感じる限りでは、敵はあと七人。おそらくみな屈強な戦士たちだ。ゲイルがどんなに優れた身体能力の持ち主であっても、所詮はまだ少女で、体格にも実戦経験にもハンデがありすぎた。全員を倒すなんて不可能だ。

 ザックはうなり声をあげて主人から離れようとしない。何よりもこんなことでザックを失うのは馬鹿らしい。

 正体不明の敵の押し殺した呼気こきを数えながら、交渉の糸口を探った。今制圧下にある相手は、取引に値するだろうか。おそらく首領格ではない。


 首領は、……。

 いつのまにか正面から一人の男が近づいてきた。

 「そこまでだ、娘。おまえらも退け。俺は前回のカルダーダ祭で殿に随行して大ウズリンのアルムント公に拝謁したおり、礼服を着てとりすましたこの娘を見たことがある。恐れ多くもウズリン族の姫君だ。コーダの血が混じっているこの赤毛がなによりの証拠さ」

 コーダの血、その言葉は闇の血とおなじくらい、ゲイルの心を暗くする。

 「さて、姫君、ダール・ヴィエーラの覇者の家系に生まれたあなたでも、精霊の御前では無礼は許されぬ。ここはタルー族の聖地フレイシア。いかなる殺生も差し控えていただかねば」


 首領格の男の声は、思ったより若く、ある種の冷ややかさが含まれていた。

 ゲイルは顔を上げた。まわりの大男たちに比べると痩せているが、むしろ身の丈は恵まれたほうだ。しなやかでよく叩き込まれたはがねのような体躯たいくをしている。長い髪は耳より下の位置からそり込まれ、後ろで一つに結ばれていた。


 佩刀はいとうするのは、北部の部族たちが愛用している、野蛮さと優美さを併せもった偃月刀えんげつとう

 夜の静寂をたたえた暗褐色の頬には、タルー族の戦士階級のしるしである青い刺青がほどこされており、端正だがこれといった特徴のない顔立ちをまるで仮面のようにみせていた。ただ、両のまなこだけが、この谷に生きるものの宿命で金色に輝いていた。


 差し伸べられた手に、そのまま抗うことなく引き寄せられると、ゲイルはあっという間に若者の腕のなかに確保された。

 北の部族の要であるタルー族が東西に分かれて激しく抗争していることは子どもでも知っていた。どちらの側にしても、族長の随行としてアルムントに謁見を許されるということはそれなりの身分のはずだ。


 「きさまは何ものなのだ」

 柔らかく乾いた声がたずねた。

 「西タルー族のナビヌーンだ。まずは、あんたの連れを大人しくさせてくれないか」

 西タルー族は、ダール・ヴィエーラの諸部族の盟主たらんとするウズリン族に対し、敵対的とまではいわなくとも、孤立主義をつらぬいていた。

 ナビヌーン、覚えのない名前だ。

 もっともゲイルはそういった外交関係にまるで疎かったが。

 「……。ザック、もういい。退がれ」

 ザックは唸るのをやめて、ゲイルの足許へ退却すると、あっけないほどすぐにゲイルは自由にされた。


 「ここが神聖な地だとは知らなかった。すまない」

 「まあ、いい。だが、ジャコウ牛はおれたちの守護精霊だ。傷つけてもらっては困る」

 ナビヌーンは、傷ついたジャコウ牛のほうへむかった。

 「待ってくれ」

 ゲイルもあちこちに散乱した荷物を拾って、あわてて後を追った。

 ナビヌーンが矢を抜くために近づこうとしたが、ジャコウ牛の仔は怯えてしまいうまくいかなかった。ゲイルは背中の胚嚢はいのうからひとかけの岩塩を取り出すと、右手にのせてジャコウ牛の前に差し出した。やがてジャコウ牛がおとなしく舐めはじめた。

 「よし、いい子だ」

 もう一方の手で頭や体を優しくさすっていくと、ジャコウ牛はすこしずつ安心しはじめた。ゲイルがゆっくりと手を伸ばして矢を抜いたときも、ジャコウ牛は一瞬ぴくりと身を固くしただけだった。

 鏃についた血を毛皮のベストで無造作に拭い、破片が欠けていないか確かめてから、矢を矢筒に戻した。つぎに、ベルトに括りつけた薬入れを開けて、獣脂と薬草を練り込んだ軟膏を指ですくい、手際よく矢傷に塗りつけた。


 「お前、呪術医ヒーラーなのか。おい、だったら、まずお前が倒した相手を癒してくれないか」

 ナビヌーンは感心しながら尋ねた。

 「呪術医ヒーラーなどではない。単なる狩人だ。ただし、最近はカルダーダ祭の舞い手としての稽古の方がいそがしいが……」

 カルダーダ祭のことを考えるとゲイルはとたんに憂鬱になった。

 「第一、先ほどの男にはずいぶん手加減してある。他の部族とのもめ事はごめんだからな」

 「手加減ねえ。まあ、いい。それよりこの前のカルダーダ祭の血染めの白鳥(レツド・スワン)を演じたのはお前だったのか」

 「……。そうだが」

 少女は怪訝そうな顔になった。

 「いや、完璧すぎる女だとおもったが、人間にはやはり苦手なものがないとなあ」

 初めて、若者はくすりと笑った。

 「どういう意味だ」

 少女の頬が赤らんだ。

 「それより、ジャコウ牛をどうするつもりだったんだ。生け捕りにする気だったのか。儀式かなにかで使うのか」

 ナビヌーンは率直に尋ねた。

 「つれて帰って飼うつもりだった。馬ならもう祖父の時代から、タルクノエムから氷馬アイスホースを調達している。馬以外でも都やタルクノエムでは動物を飼い慣らして、家畜というものにしていると聞いた。猟をするよりも容易く肉が手に入る。また、殺さなくともジャコウ牛の毛は季節がかわると抜けかわる。それを梳いてあつめれば良い収益になる」

 「へえ、お前、おもしろいこと考えるな。それにしても、なぜ狼を手なずけるんだ。ウズリン族は犬は飼わないのか」

 北の地では犬橇なしに冬の生活は成り立たない。若者は素直に感じたままのことを尋ねた。

 「犬は嫌いだ。子どもの時分山犬の群れに追われたことがあってな」


 本当に面白い少女だとナビヌーンは思った。めっぽう腕がたつ割には、躰つきはあくまでしなやかで、華奢な部類に入るだろう。細面ほそおもてで小づくりな顔立ちから、子鹿のような大きな瞳がいまにもこぼれそうだ。残念ながら、こんな女は陽気だが丸顔でふとじしぞろいの西タルー族の娘たちにはみかけない。

 ただし、あの冷血漢をもって知られるウズリン族の若き指導者、ファディシャの妹というのは気にかかるが。


 「いま、時代は動いている。このところの暖冬つづきでダール・ヴィエーラの民草もこれからどんどん増えるだろう。土地は限られている。食料も無限ではない。環境は劣悪化するばかりだ。疫病でも流行ればひとたまりもない。我々も生き方を変えねばならない」

 ゲイルは大真面目に答えた。

 「……。まあ、いい。この仔牛はお前にやろう」

 ナビヌーンはあっさりと言った。

 「ナビヌーン様、それでは……」

 配下のひとりが叫んだ。

 「良いではないか、イーサ。かよわき女の身でありながら、西タルー族の戦士を倒したのだから。ただし、ここで見た一切を口外しないことが条件だ」

 「本当にいいのか」

 うれしそうにゲイルは尋ねた。

 「ああ、つれて帰れるものならば、な」

 にやりと笑いながら、ナビヌーンは言った。

 ゲイルは革ひもで編んだ引き綱を取りだすと、ちいさなジャコウ牛の首にそっとかけた。

 仔牛の頭をなぜながら、ゆっくりと引き綱をひいた。遠くで母牛がみじかく啼いた。別れの合図だった。足もとでザックが要領よく追いたてる。

 ナビヌーンは、ヒューッと口笛を吹いて賞賛した。

 「まあ、みごとな手並みだな。これで文句はなかろう」

 配下のものを見まわす。異論はなかった。

 「決まりだ。それでは、お送りしよう。獣使いの姫君」

 「かまわぬ。来た道だ。ひとりで帰れよう」

 ゲイルが断ると、ナビヌーンはゲイルの顔をまっすぐ覗き込んだ。

 「なに、恩には着せぬさ。この辺りには人狼の巣がある。ウズリン族の姫君が西タルー族の領地で行方知れずになったとなると大事だからな。責任を持って送り届けよう」


 夜半を幾ばくか過ぎても、ラ・ウの瞳は目を眇めながら東の空にあった。

 ふたりは、ウズリン族の集落をめざした。この西タルー族の若者は見た目よりも親切で、崖を下る時にはゲイルに手を貸してくれた。


 「姫君がひとりで出歩いて、里の者は心配しないのか」

 岩壁沿いの桟道さんどうを歩きながら、若者が尋ねた。

 「さあな」

 と答えて、どれほどの騒ぎになっていることか容易に想像できた。兄の耳に入らねばよいが。

 「誰かと、男とでも喧嘩したのか」

 ナビヌーンの鎌をかけるような問いに、ゲイルはまっすぐに答えた。

 「喧嘩というほどのことでもない」

 「ほう」

 少女のもの思いに沈んでいるような横顔をみて、それ以上問うのはやめた。晴れわたった夜空を仰ぎながら、ナビヌーンは別のことを尋ねた。

 「お前、俺たちがどこからやってきたか知っているか」

 「知っている。空から来た」

 少女は乾いた声で淡々と答えた。

 「故郷の星を逃れて、気の遠くなるほどの長い星霜を経て、星の船で空を渡ってきたのだ」

 「なんだ、つまらん。俺たちはみな霧を含んだ白い冷気が土塊つちくれの肉体を得て生まれたなどというに違いないと思ったのに。誰にきいたのだ。田舎者のウズリン族にそんな気が利いたことを知っているものがいるのか」


 ゲイルは時と宇宙そらを渡る星船のことを教えてくれた男を思い出した。

 彼を想うときは、いつも切なく胸が痛む。


 押し黙ってしまった少女に、ナビヌーンがつくづく間が悪い質問をしてしまったと思ったとき、少女は口を開いた。

 「わたしたちは罪人だ」

 そう、彼は言ったのだ。

 「宇宙そらで大罪を犯してきたのだ。だから、わたしたちはみなこの地の獄に閉じこめられている」

 「それが本当ならなんだか納得がいかないな」

 若者はまじめに返した。そして、少女をちらりと見た。

 「遠いご先祖さまの罪をなんで俺たちが被らなきゃならんのだ」

 「解らない」

 少女はただそう答えた。そのことについて、彼はなにも教えてくれなかったから。

 もうひとつ。

 その人は、交雑者、ヌークという言葉を教えてくれた。

 星船でやって来た最初の人たちとわたしたち谷に暮らすものは最早違う生き物なのだ、わたしたちの血には闇に感応かんのうする別の生き物の血が流れているのだ、と。


 「俺たちが難しい話をしても仕様が無い。ほら、これでもどうだ」


 ナビヌーンが彼の背嚢から取りだしたものは、苔桃こけももの実だった。手のひらに乗せられた実は少し堅くて、口にするとやっぱり酸っぱかった。


 その時になって、少女は傍らの若者が彼女に苦痛を与えないことに気がついた。若者には、彼女の心を乱さない穏やかな心地よさがあった。

 彼女の想い人は、そばにいようがいまいが、いつだって彼女を不安にさせるのだ。

 「礼だ」

 ゲイルは干し肉を取りだすと、若者にひと握り渡し、ザックにもほうってやった。そして、少女もひと切れ口にした。乾いた血と塩の味がした。

 「空の旅の話、お前は誰から聞いたのだ」

 少女はふと思い出したように尋ねた。

 「我らの王だ」

 ナビヌーンは短く答えた。


 西タルー族の王、カムール・ギジェ。その名はゲイルも聞いたことがあった。今は病いに伏している彼女の父アルムントは謀略に長け、部族間の紛争を巧みに泳ぎ渡り、自らを肥やしてきた男だったが、カムール・ギジェは度量の広い義人として知られていた。

 ナビヌーンは、最近の叔父の変化を思い出してため息をひとつ吐いた。凍傷がもとで右足を失ってから、少しずつ弱気になってきたのだが、彼の部族がある危機に直面してからのあの変わり様はどうなのだ。


 「さきほどは、お前に恐ろしい思いをさせて悪かったな」

 ナビヌーンは、考えこみながら言葉をつないだ。

 「俺たちは今やっかい事を抱えているんだ」

 「かまわぬ。お相子だ。それに紛争はダール・ヴィエーラの常だ。よく知りもせず、立ち入って悪かった」

 たしかにあの聖地は美しかった。奪い合いになるのも解らなくもなかった。

 「いや、違うんだ。今俺たちが闘っているのは……」

 ナビヌーンが続けようとしたとき、ダール・ヴィエーラにあらざるべき閃光がふたりの間を引き裂いた。


(弐)


 「ゴーシェ、やめろ」

 その直前、若いコーダの兵士は絶叫した。その相棒はダール・ヴィエーラでの任務の途上で精神に変調をきたしつつあった。もうすぐこのいまいましい間諜の任は終わり、彼らの属する前衛部隊の飛行船が彼らを迎えにくるはずだったのに。


 無駄だ、ウルダ。前にもいっただろ。闇が溶けてどろどろになって俺たちを呑み込むんだ。飛行船なんて間に合いはしない。ほら見ろ、あのにやにや笑うのっぺりとした顔を。


 彼らの大部分は、色覚を一切持たない。地球テラを離れたのちの宇宙船時代に失われたのだ。船内に灯されたナトリウム灯の暖かなセピア色の中で、遺伝子の汚染は密やかに進行した。ヌークのように瞳に輝板を持たなくとも、闇は色調のノイズを取り除かれ、繊細な奥行きをもって彼らの目に映る。装着したナイトヴィジョンがその効果を底上げする。


 一、二、三、四……あそこにも、三匹いやがる。ここにも……併せていくつだ。目の錯覚、いや岩陰や光の加減なんてもんじゃない。あれは谷の悪意だ。谷は俺たちを呑みこむんだ。その前に殺らなけりゃ。

 ほら、金目や銀目の化け物、ヌークどもがやって来た。俺たちをなぶり殺すために。


 ゴーシェは発作的に走り出した。


 彼らの身体にぴったりと合ったクロム合金のジャンプスーツは、頭からつま先までを覆いかくし、それ自体が銀の皮膚のようだった。

 太古の大探査時代に開発されたもので、内蔵が飛び出すくらい気圧が低くとも、生命を維持できるよう造られていたが、この地上の汚染地域での用途は、昼の死の放射線を帯びた太陽風や夜間の想像を絶する寒気、空気中に漂う有害なダスト、それにさまざまな病原体や吸血昆虫から身を守るためだった。彼らの目があるべき場所にはナイトヴィジョンが装着されており、その銀色に輝く異形の風体はさらに長い外套で包み込まれていた。

 レーザー銃から閃光が走った。極限まで高まった緊張のなかで放たれた光線は大きく標的を逸れた。男はやみくもに連射する。


 ゲイルは最初の一撃で、地面にふせた。

 「大丈夫か」

 ナビヌーンは大きな岩陰にうまく身体を隠している。

 「お前も早く来い」

 少女に向かって手をのばした。少女は後ろを振り返った。

 「ザック」

 ザックは岩陰に仔牛を誘導した。


 光線が再びゲイルとナビヌーンの間に放たれた。

 ゲイルはそのままナビヌーンの方へ転がり、彼の手で引き上げられると、そのまま勢いよく立ち上がり、若者が静止する間もなく頭上よりも高いところにある岩の柱の天辺に飛び乗った。

 狂気にとらわれたコーダはもう目の前だった。


 ナイトヴィジョンの向こうでゴーシェは恐怖し、立ちすくんだ。岩の上に銀の目を爛々と光らせた長い四肢をもつヌークがしなやかに立ちはだかっている。震える手でレーザーの照準を合わせた。


 そのとき、少女は両手を広げてひらりと宙を飛んだ。

 少女は自在に宙を泳いだ。あたかも、冷たい大気それ自体が粘度をまして時間や重力のくびきから少女を切り離したかのように。


 少女は弧を描きながら胸から落ちていく。そして、膝をかかえながら身を丸くしてゆっくりと一回転すると、左足を廻してレーザー銃を持つ手を弾き、そのまま右膝を相手の胸許に沈めた。もともと戦闘用ではないクロムのよろいが衝撃で押しつぶされた。


 少女がレーザーの眼球のついた銀の仮面を継ぎ目にナイフをあててもぎ取ると、生身の人間の顔が現れた。生白いぶよぶよした顔で、恐怖と激痛とでなかば白目をむいていた。肋骨が折れた衝撃で、ひと息つくごとに男は青ざめていった。


 「やはり、お前か」

 ゲイルはつぶやいた。と、いうことはもうひとりいる。そもそもサイラス兵は谷では単独で行動しない。


 そう思った瞬間に、左肩に衝撃が走った。

 あとから銃声がついてきた。

 今度は、金属の弾丸だった。幸いなことに肩胛骨けんこうこつをそれて、その細く長い筋肉の表層を少しえぐり取った程度で済んだ。

 焼きつけるような痛みにわずかに精神の昂揚を感じながら、ゲイルは瞳孔をさらに開いて、敵を暗視した。その瞳はひらめく炎。金光を放つその目は、サイラス兵にとってはもはや恐ろしい獣にしかおもえない。少女にとっても岩陰に潜む銀の皮膚にレーザーの瞳の兵士は、異形の怪物以外何ものでもなかった。


 敵は思ったよりも遠かった。

 肺が損傷したのか、組み敷いだ男の呼吸が浅く速くなってきた。さきほどのレーザー銃の原理などはゲイルには皆目検討もつかなかったが、連射後三度瞬くほどの時間がかかることは解った。この実弾の銃はどの程度の性能なのか。今度の敵は冷静だ。よく抑制されていて、無駄に銃弾をつかってその能力の限界を暴露することはあるまい。

 だが、ひとつ解っていることがある。

 敵は、狂気に陥った仲間を見捨てて逃げ出したりはしなかった。できれば救いたいと思っているはずだ。

 少女は背後の気配を読んだ。ナビヌーンの押し殺した息。好意的に考えて、飛び出す間合いを計っているとみて良いだろう。


 これでは、三竦さんすくみの状態だ。では、動けばよい。口火を切るのはわたしだ。コーダなどとは交渉の余地すらない。ただ、この場を、この時を制するのみ。


 デッドロックを打破するために、少女は腰に帯びたナイフをゆっくりと取り出した。シルエットがよく解るよう両手で高くあげた。よく研がれた刃が月光を反射してきらりと光る。罠だと解っていても、敵はこれで動かざるをえまい。

 まさに組み敷しいだ男の喉許に振り下ろさんとしたとき、悲鳴に近い制止の声をあげながら、敵は岩陰から踊り出した。二発目が発射された。

 思ったとおり、後ろの岩陰から偃月刀えんげつとうを手にした若者が少女をかばうように飛び出してきた。

 それらの動きより早く、少女は脇に飛びのき一回転した。片ひざを立てて背に負った弓をすばやく構えると、電撃ともおもえる速さで矢をつがえた。銃弾の三発目はナビヌーンに向けられるだろう。

 「ナビヌーン、ふせろ」

 と叫ぶと同時に、少女は充分にしなった弓を引いた。


 弦音が空を切る。


 ウルダはそのとき痛みを感じなかった。十分な速度を得た鉄のやじりに対して、薄ぺらなクロム合金の鎧は無力だった。首と胴との継ぎ目の部分を貫通し、鎖骨のうえの柔らかい部分をつらぬき、気道に達した。自分が身体をふたつに折りながら倒れたことも解らなかった。

 ただ、ダール・ヴィエーラでの任期を満了して、ふたりでサイラスに帰還することはもはや無いのだということだけは解った。

 オメガの天使に導かれて、魂は帰る。はるかなるテオティワカンへ。

 白色矮星をその主星に抱く彼らの母星。地球テラなきあとの第二の地球テラ衰微すいびそのままの白くはかない光は死せる魂をやわらかく包んでくれるはずだ。どのくらいかかるのだろう。祖先らが星の船で費やした時間と同じほどかかるのか。ゴーシェとともに行けるのだろうか。


 ゲイルは第二の敵が倒れているところまで走っていった。

 矢は喉を貫いており、苦しげな喘鳴ぜんめいが聞こえた。銀のジャンプスーツのうえからも女であることが解った。

 ナイトヴィジョンの仮面を剥がすと柔らかな若い女の顔が現れた。その白いおもては蒼白さを増して、その目にはもうなにも映っていないようだった。その顔を一瞥すると、少女は倒した男の身体を引きずっていき、岩陰に瀕死ひんしのふたりを並べた。

 「こいつらはタルクノエムの商人をかたって、我らの集落に出入りしていた」

 フードを目深に被った二人組のすがたを思い起こした。その場を後にしながら、少女はなにかに想いを馳せている様子だった。少女のやわらかな嗄れ声は、さらに乾いて囁きに近くなっていた。

 「おい、とどめを刺さなくていいのか」

 むしろ慈悲の気持ちから若者は尋ねた。

 「こいつらを追っていた男を知っている。やつが始末をするだろう。下手に手を出せばおこられる」

 「こいつら恋人同士だったのか」

 今一度振り返ると、あわれむように若者は言った。

 「さあな。どうであろうが、この女には非情さがたりなかった。それでは、このダール・ヴィエーラでは戦えない」

 ゲイルは、顔色も変えなかった。

 ナビヌーンは、寒々とした気持ちになった。なるほどアルムントの娘でファディシャの妹だ。

 「お前、俺を囮にしただろう」

 「そんなことはない。大局に立てば当然の成り行きだ。それぞれが役割に徹しないと」

 平然と少女は答えた。

 「おい、味方もひっかけやがってなんていう言いぐさだ」

 かちんときて、若者はおもわず言った。

 「前方ですべての状況を把握していたのは、わたしだ。わたしにしたがうのは当たり前だろう。それにさきほどあれだけの武人もののふたちを引き連れていたのだから、お前にそれなりの技量があると信頼したのだ」

 少女はひかなかった。

 「勝手に飛び出していったくせに」

 若者はもはやあきれ顔だ。

 「言ったはずだ。わたしは狩人で踊り手だ」

 少女は若者の方へ振りかえった。

 「兵士でも戦闘士でもない。戦場になんて出たこともない。少しは良くやったとほめてくれてもいいだろう」


 ナビヌーンは、あきれて二の句が継げなかった。踊り手と自称するのはどうかと思うという言葉は呑みこんだ。


(参)


 しばらくふたりは無言で歩いた。人里の匂いとともに、集落の明かりが見えてきた。ウズリン族の居住地はもう目と鼻の先だった。

 「この辺りなら、もう大丈夫だろう」

 ナビヌーンは最後に、背嚢からなにかを取り出してかたわらの少女に手渡した。

 「土産だ。さすがに腹が減っただろう」

 革袋のなかには苔桃の実がつまっていて、ずしりと重い。


 ふいに、ゲイルの右手がナビヌーンの肩に触れた。

 「おまえは心地よい」

 向かい合うと、もうひとつの手が頬をなぜた。灰緑の目が金色に光った。

 「また、会えるか」

 「……。ああ」

 若者は、とまどいを隠しつつ答えた。

 「では、さくの最後の晩だ。この夜は舞いの稽古がないゆえ。忘れるな」


 若者がまさに去ろうときびすを返したその時だった。

 唐突に、ばさり、と何かを踏みつけたような物音がした。

 もしや先ほどのコーダの残党かと振り向くと、馬のいななきとともに鬼火に導かれた黒い影が突として現れた。

 影は夜の闇をそのまま切り取ったような黒い外套マントを細身の躰に巻きつけたしなやかな身ごなしの男で、青白い炎を浮かべた灯明皿を片方の掌にのせて、もう片方の手でこれもまた闇から産み出されたような青毛の馬をきながら、悪びれた様子もなくやって来た。


 ゲイルは男に気づくと、不機嫌な声で呼びかけた。

 「イムナン・サ・リ!」

 「これはゲイル様、ご無事でなによりです。あなた様のいつもの気まぐれな放浪癖に、乳母殿が卒倒なさらんばかりで、もうすぐ活きのよい猛者たちからなる捜索隊が結成されるところでした」

 どこか芝居がかった仕草で鬼火を操るかのように灯明皿とうみょうざらかざしながら、男は深く艶のある声で軽妙に語った。


 その男は、ナビヌーンの鼻先に達するほどの幾分小柄な上背だった。

 外套のフードを目深に被っていたが、手にした灯りのおかげでダール・ヴィエーラでは決して見ることのない光を吸い込むような黒い双眸とそれに見合ったどこか異国的で整った顔立ちをしていることがわかった。

 少年のようにほっそりとした体つきをしているためずいぶん若く思えるが、その物腰には老獪ろうかいさが透けて見えた。若くても二十代半ばから後半にかけて、といったところだろうか。


 「もう明け方が近い。どなたかは存じませんが、連れのお方、お帰りになられるのであれば、馬をお貸ししましょうか。お貸しするといっても、わたしのではなくその姫君の馬ですが」

 「どうしてお前がここにいるのだ」

 憮然とした表情で、ゲイルがたずねた。

 「そういわれましても、乳母殿から姫を探してくるように泣きつかれたのです。おや、これは失礼いたしました。お連れは、西タルー族のカムール・ギジェ王の甥ご様の、ナビヌーン様ですね。事情はよく解りませんが、姫君をお送りいただきありがとうございます」

 淀みなく話をつないだが、黒い外套の男はナビヌーンの素性など端から承知している様子であった。

 「いや、礼には及ばぬことだが、馬があれば助かる。もうすぐ日が昇る。どうせどこかで足止めを食わされるだろうが、夜明け前に少しでも進んでおきたい」

 「……失礼ながら、貴公はウズリン族のものなのか」

 男の洒脱な物腰やその黒い瞳がとても蛮族のものとはみえず、ナビヌーンはおもわず訊いた。

 男はやっと自ら名乗る気になったのか、外套のフードをふわりと取り払った。黒い巻き毛がこぼれると、繊細な容貌にはっとするほどの優艶さが加わった。誰よりも当人がその魅力を熟知しているらしく艶然えんぜんと笑った。

 「いいえ、生まれは商人の都タルクノエムでございます。申し遅れましたが、先ほど姫君がお呼びになったとおり、イムナン・サ・リと申します。ラ・ウの右目に導かれるまま諸国をさすらっておりましたが、漂泊の身をファディシャ様に拾っていただきました。以後、微力ながらお仕えしております」

 気品さえ感じる柔らかな挙措きょそだったが、唇の端にかすかに悪意が滲んでいた。


 ナビヌーンは、アルムントの嫡男で冷酷無慈悲な性質たちと噂されるファディシャの腹心に、商人の都タルクノエム出身の怜悧れいりな頭脳と人ならざる能力をもつ妖術使いがおり、その冷徹さはあるじをしのぐという噂をおもいだした。

 滅多に表舞台には現れないが、兵事においてはすぐれた参謀であり、ここ数年のウズリン族台頭の陰の立役者だという。また、いかなる幻術をもちいるのか、この男の手にかかれば魔物から夜盗に至るまでことごと鏖殺おうさつの憂き目に遭うとの話だった。

 この優男やさおとこが、といぶかしく思ったが、侮れない何かを感じた。


 「この黒駒は、」

 男の顔がおもしろそうに歪んだ。ナビヌーンの胸に息づいて間もない恋心を見透かすかのように。

 「自由闊達なるまま野にいきるわが姫君に似て、手をつけられない悍馬かんばですが、あなた様なら自在に乗りこなせましょう」


 夜明けが迫ってきた。

 まもなく、無慈悲な太陽が致死的な光の矢を地上に射掛けるだろう。谷にすまうすべての者が帰還する時間だった。 


 「では、朔の晩に返すのでいいか。じゃあな」


 ナビヌーンの呼びかけにも、少女は憮然ぶぜんとしたままそっぽを向いている。

 若者は少女の愛馬に軽々と飛び乗ると、朝の到来と競うように未明の闇を疾走していった。振り向き様に、赤毛の少女の姿を脳裏に焼き付けて。


 若者を見送ると、ゲイルは魔術師の言葉を待った。

 寡黙かもくにして饒舌じょうぜつ。冷静沈着にみえて、気まぐれでつかみどころのない男だった。

 憂いを帯びた少年そのままの容姿ながら、その本質は妖にして艶、時に背徳的。商都の高貴なる家の出自だという天性の優雅さと放蕩のなかで身についたと思われる女衒ぜげんのような厚顔ぶりが男のなかで同居していた。

 その黒い瞳にかわるがわる映る虚脱と激情は、見るものをいつも不安にさせる。うっとりするほど優しげでありながら、敵をほふるその手口は残忍そのもの。そして、まつわりつく悪徳の噂の数々。

 ファディシャはよくこの男を飼い慣らしておけるものだと思う。

 いつもの不機嫌さでくどくどと嫌みをいわれると思ったが、男は沼のような静けさを保ったままだ。常夜とこよの闇のごとき黒い瞳を伏せたままその薄い唇の端をかすかにつりあげて、微笑とも冷笑ともつかぬ表情を浮かべている。

 むしろ、腹立ちの度合いがいつもより深いのかもしれない。


 「お前、いつからいた」

 沈黙に堪りかねて、ゲイルが不機嫌な声をあげた。

 「いつからって、先ほど到着したばかりですが。見ていたでしょう」

 男は目をあげてゆっくりと答えた。高く繊細な鼻梁びりょうを挟んできらめく切れ長の双眸は、大きく見開かれたりすがめられたりするたびにまるで違った印象をあたえる。

 「あの、サイラスの間者どもはお前の監視下にあったはずだ。あれは、そもそもタルクノエムの商人を騙って兄嫁のところに出入りしていた」

 「……」

 ため息をひとつ吐いて、イムナン・サ・リは答えた。

 「ええ、気づいたときはもう手を出せない状況になってました。サイラスの圧倒的な性能をもつ武器を相手に、そのナイフと弓矢で闘おうなんていう気概がそもそも想像を絶してます。彼らはもともと戦闘要員ではないし、あなた方には地の利がある。逃れようとおもえば、逃れることができたでしょう。ところで、わたしの獲物とわかっていてったんですか」

 あっさりと前言をひるがえすと、イムナン・サ・リは反対に問いかけてきた。

 「殺ってはいない。それに顔を見るまではわからなかった」

 少女は反論した。

 「あのままじゃ、なぶり殺しも同然でしょう。おかげで、わたしの半年の内探が水の泡です」

 内心は計りかねたが、さほど気落ちしていなさそうな口振りだった。

 「では、貸し借りは無しだ。兄には黙ってろよ」

 「貸し借りは無しって、お言葉ですが、この状況ではわたしの側が一方的に貸し出し超過ではありませんか。はなから、あなたの恋と冒険のことをとやかくいうほど、わたしは無粋ではありませんよ」

 ゲイルの言い草にあきれたのか、男の声に少し感情が戻ってきた。口達者で皮肉っぽい口調はいつものことだ。

 「うるさい。どうせ面白がって見ていたんだろう。お相子だ」

 仔牛の手綱をイムナン・サ・リに渡すと、ゲイルはザックを連れて駆けていってしまった。

 「ちょっと、どこへ連れていけばいいんですか。厩舎きゅうしゃですか。あなたの馬の代わりにつないでおけばいいんですか」


 少女の姿が完全にみえなくなると、男の飄々ひょうひょうとした雰囲気はふたたび消えた。

 (ほら、ごらん)

 手綱を解くと、男はジャコウ牛の仔に優しく囁いた。

 (あの角を曲がったところに厩舎がある。わたしにはちょいと野暮用があってね。そこまで、一人で行ってくれないか)

 (ほかの馬たちは怖そうだけれども、本当はちっとも怖くないから、空いているところに入っていってごらん。かいばや水がたっぷりある。日の光も入ってこないし、いつも過ごしている岩室のように快適だから、そこで昼間のあいだおとなしくしておいで。明日の夜には気まぐれなお前の主人が様子を見にやってくるだろうから)

 ジャコウ牛の仔には厩舎へいたる道筋がぼうっと輝いてみえた。仔牛は低く啼くとひとりで歩いていった。


 「さてと、」

 再び振り返ったとき、幼な子をあやすような優しげな風情は消え失せ、男の面には禍々しくも退廃的な表情が浮かんだ。だがそれは、灯りが吹き消されるまでのほんの一瞬のうちに垣間見えただけで、その直後には灯明皿が地に叩きつけられたのか、ガチャリという音がした。

 「この野暮用は、日の出後までかかろう。ラ・ウの御加護を。と、とりあえず祈っておくとするか」

 薄手のスカーフで口許を隠し、外套のフードを目深に被ると、若き魔術師は本来あるべき姿に戻り、夜明け前の深い夜の底に溶け込んでいった。


(四)


 ウズリン族の夏の居住区は、一万を越える世帯が数百戸からなる集落ごとにまとまり、扇状にひらけたフィポスメリアの谷底の一面に広がっていた。

 苔むした石積みの小さな家があちらこちらに点在する。

 貴人の館はそれにくらべるとやや大がかりで、半分地下に埋もれた円錐状の石積みの大小の小部屋をアーチ型の通路でつなげたものだ。最小限の開口部は陽射しをさけるため厚い毛皮のカーテンで覆われていた。


 さて、ジャコウ牛の孔をイムナン・サ・リに押しつけたゲイルは、乳母のいる控えの間に続く表口を避けると、居間の窓からひそかに潜り込んだ。

 しかし、敵もさるもので、乳母スーラははじめからその進入口に網を張って、放蕩娘の帰還を今や遅しと待っていた。彼女の上三人の娘はもうとっくにかたづき、ただひとり手許に残っている末娘のカリンは泣きべそで共にゲイルの帰りを案じていた。

 夫は良き狩人だったが、夏の猟期の最中に野兎病やとびょうで亡くなってずいぶん経つ。亡き夫は幼いゲイルの狩猟の師でもあった。そのことが今となってはうらめしい。

 「ずいぶんとごゆっくりなお帰りですこと。もう空も白みかけております」

 スーラは怒りをため込んだ声で呼びかけた。

 「まあ、な。いろいろと予想外なことがあってな。お前もあまり怒ると癪をおこすぞ」

 乳母の腹立ちなど、毎度のことでゲイルは歯牙にもかけない。

 「そもそも、こたびの御夜行こそ予想外でございます。まあ、どうしたんです。その腕の傷」

 スーラは大仰な声をあげた。

 「いつものことだ。ほら、お前ごのみの土産もある」

 ナビヌーンからもらった苔桃の袋を渡しながら、ゲイルはスーラの小太りの短躯の脇をすり抜けた。

 「疲れたから、もう寝る。小言は明日の夜にしてくれ」

 さきほどの泣き顔もどこへやら、わあっと喜ぶカリンの頭をなぜて部屋を出ると、後ろからスーラの声が追いかけてきた。

 「なにかお食べにならないと」

 「いらん」

 「夜半過ぎからイムナン・サ・リ様にお迎えを頼んだのですが、お会いになったんですか」

 「……ああ、会った。出かけたようだ」

 感情を抑えてゲイルは答えた。スーラも余計なことをしてくれる。

 「出かけるって、もう日が昇るじゃありませんか」

 スーラは驚きの声をあげた。


 寝床に潜り込むと、一夜の冒険譚をもう一度夢の中に紡ぎだそうとしたが、うつくしい光景も出会った若者も靄がかかったようでうまく思い出せない。コーダとの遭遇戦にいたっては、おのれの行動とはおもえずぼんやりと霞んでいく。

 ただ、イムナン・サ・リの黒い瞳の輝き、皮肉なその口許ばかりが浮かんでくる。

 「よりによって、最悪なやつに会ってしまった」

 いまさらながら腹立たしい。

 口に出した言葉とは裏腹に、想いは不誠実で捉えどころのない男へとむかう。暗いほうへ、あの男が属する深い闇のなかへと沈み込む。生きる世界が違うのは端から承知だった。所詮、かなわぬ恋だと思う。


 それでも、少女は、イムナン・サ・リの少年のように憂愁を帯びた眼差しを強く、強く想った。

 都会人らしいその痩躯。それを包む黒い立て襟のシャツの典雅な紋様は、タルクノエムの商家の驕奢きょうしゃをそのままウズリン族の鄙俗ひぞくな集落に持ち込んでいた。イムナン・サ・リの洒脱な物腰のすべて、とりわけ無造作を装っている黒い髪のしたで、よくうごく黒い瞳がきらめくのを見るのが好きだった。

 あの果てなきそらに連なる蒼黒の瞳を。


 そう、この夏の初めに、都から世にも美しい兄嫁、彼とおなじ黒い瞳を持つルー・シャディラが嫁いでくるまでは……。

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