第2話 林檎の落下

 ガゼルロッサが、若くして側近たり得るのは、その経験の浅さを自覚しデータを片っ端から収集して判断しようとする努力家ぶり(そして魔族が他人のために努力するなど驚天動地である。「愛してます」ということだ)、それを見込んで半ば「育ててやろう」と側に置いているのでもある(こちらも魔族的には気が狂ったような発想だが、魔王たるもの凡百の常識に囚われないことは大切である)。


 つまりガゼルロッサより千年以上も長い魔王の経験が告げたのである、血塗れの拷問部屋で親しみの欠片もない魔物に囲まれて尚けらけら笑う五歳児が、しかも五歳児の癖に何の徳を積んだか凄まじい質の魂で、魔王さえ目が眩んで判別不能な篤い神の加護を受けて、こいつが大物にならなくてどうすると。


「じゃ、転移魔法を準備しましょう」

 側近は少し投げやり。

「おじょうちゃん、おうちは何丁目何番地何号よ」

 首をひねる幼女。致し方ない、五歳児だから。


「俺の感触では、彼女から自宅の場所を聞き出すのはまず無理だと思います」

 言うのは短足気味な悪魔。マリアと今までずっとグー・チョキ・パーでマクスウェルの魔とかラプラスの魔とかの科学派魔のものを作りながら話していたらしいのだが。

「周りがリンゴ畑。名前はマリア。五歳。世話していた女性がエレ。親の名前は分からない。家の周りを離れたことはない。以上」

「フルネームと住所は言えるように躾けておくべきでしょう、真っ先に」

「事故ってテレポートしちゃったんだから仕方ないんじゃないの。真っ当な親がいるかどうかも怪しいしさあ」


「ええい、転移先座標は適当な人間界の適当な都市に設定します」

 投げやりな側近を慌てて止めに入る短足な悪魔、ちなみにもう一人の悪魔はマリアと魔界あやとり中。

「せめてどこの大陸かくらい特定しようよ!」

「適当に決めようとした俺が言うのも難だけどせめて国くらい特定しないと意味ないだろ」

「じゃあしよう、特定しよう」

「飛ばされた転移魔法の痕跡も見つからないのに本人がこれじゃ無理だって!もうどこ飛ばしたって同じ!魔界まで飛んできて命があるだけありがたく思えってんだ!」


「ガゼルロッサ、待て」

 魔王の制止には即座に反応し、

「だってしょうがないじゃないですか」

 と言い訳。

「誰もお前には魔法を頼んでいない、アルメニにやらせようと思っていた。それはそれとして、彼女は転移魔法の件を調べるためにもう少し手元に置く」

 あからさまに呆れ顔。

「転移魔法の痕跡は唯一これのみ。今すぐ帰すなどとは言っていないではないか、お前らの様子がおかしいから少し放っておいたが」

 おかしいから放っておいたとはどういう理屈なのかさっぱり分からない、と思ってから「でもそういうところがすき」と呟いてしまう側近だった。


「では、今すぐの話、どうしますか。マリアちゃん」

 悪魔は側近の様子に怯えながら。魔王は珍しくも小さく嘆息した。

「ガゼルロッサでさえあの反応ならば、他の者に任せては何が起こるか知れたものではない。とりあえずは私の部屋で遊ばせておけ」


 突如として発狂し何事か叫ぶ側近、

「俺でも魔王さまの部屋入ったことないのに!」

「ではお前が付いていろ」

「やったー!」

 側近は幼女と手を取り合って喜んだ。

「俺もマリアちゃんと遊びたい!」

「貴様は自分の持ち場に戻れ。椅子も元の場所に戻せよ」

 悪魔達はしょんぼりした。


 退屈極まりないとはいえ催したのは己であるし、中座した舞踏会に戻らねばなるまい。四代魔王は稀少竜種であり、悪魔であった三代魔王の王座簒奪者である。地獄の貴族たち、そして始祖と呼ぶ魔神もまた悪魔、悪魔たちの流儀に則り典雅な享楽に付き合うも、この魔界の統治者たるに相応しい貴顕であると知らしめておくに必要な退屈である。もっとも、漆黒の玉座に腰を落ち着けているばかりでは何の示しようもないが……。


 魔王は眉間に深く皺を寄せる。うんざりだ。もとより彼は弑逆の末地位を手に入れたのだし、いわば敗者の悪魔文化に摺り寄る必要などあったろうか。華やかな衣装と優美な音楽、そして理知的で諧謔に富んだ会話はそもそも悪魔流の社交であった。社交界の妖魔たちも大半は悪魔の範疇。そして何より魔王は踊るとかいうキャラじゃない。内心、幼女の子守でもしている方がましだと考えていたのだった。……そうもいかない。


 魔王はガゼルロッサに転移魔法の調査とマリアの監視(保育)を指示し、城内に結界魔法を張るよう申し付けていた他の側近即ち悪魔アルメニ・アートス・ウルティナスを代わりに呼んだ。彼女の実力から言って、頼んだ仕事はとうに終わり昼寝でもしている頃合いだったからである。果たして女悪魔は寝起きの声で召喚に応えた。


「舞踏会はあいつの方が向いてるでしょ」

「お前は子守に向いていない」


 違いないわ、とアルメニは伝統的漆黒の雨染めの露出度高めバッスルドレスを手際よく装備。深紅のルビーが嵌め込まれた腕輪をごろごろ着け、駄目押しで赤髪にブラックオニキスを飾って高齢者層を意識した魔界トラディショナルスタイルで戦地入り。(多少色気が足りないが)御令嬢がたを妬かせなければよいのだが、と魔王は要らぬ心配。


 アルメニ嬢が何人の殿方と踊ったかはさておいて、魔王は大きな白斑の入った緋色獅子の毛皮のマントを床に滑らせ、無難に場をやり過ごしていた。魔王には配偶者も近親者もないので、まあこうして子飼いの有望株に貴公子の相手をさせるなどして狙いを拡散させているのである。ガゼルロッサの馬鹿野郎は魔王の側を離れたがらないし(もはや揶揄して側近と言えば彼の渾名である)、アルメニには火の気が多すぎだが、美男美女の効果は偉大だ。魔王は基本的に差し向けられる好意に対して愛想よく応えてやればいいのだが、何しろそれが一番面倒で、気を抜くと今だに手前の娘を紹介されたりするのも輪を掛けて面倒(間違っても竜に半馬半魚の嫁はいらない)――だからガゼルロッサだったのに。


 ガゼルロッサは魔王の自室でよろしくやっていた。幼女マリアを読み聞かせで寝かしつけることに成功したのである。魔王の自室に魔界名作絵本「ぐらしゃ・らぼらす太郎」があったことは奇跡と言うほかない、それともこの奇っ怪な名作をマリアが熱心に聞いていたことこそが奇跡か。素晴らしくふかふかな魔王の自室の椅子の上で静かに寝息を立てはじめた幼女にそっと上掛けを乗せてやり、側近は良からぬことを始めた。なるべく全年齢向けでありたいため多くは語らないが、まず最初に魔王の枕の匂いを嗅いだということだけでも十分であろう。


「くんかくんか、フヒヒ、あー、あ、魔王さま、よだれ垂れる、うふ」


 こんな感じ。


 アルメニが居れば「もっと他にやることあんだろうがよ!」と苛立ちの小火騒ぎになるところだが、だからこそ自室に幼女とふたりでも問題ないと言える。この様子にはこの様子で深刻な問題があるが知らぬがイブリース。


 このように側近は物凄くうつつを抜かしていたので、マリアの身に起きたささやかな奇跡(マリア本人も眠っていたので全く気がついてはいない)をみすみす見逃してしまっていたのであった。とは言え仔細を見ていたところで若い吸血鬼にはそれが何事か分からなかったのは確かだろうが。


 まず始めに空間が揺れた。それは幼女の手元で、蝋燭の火が空気を暖めているような微かで静かな揺らぎである。次に揺らぎの奥から滑らかにせり出した――赤く熟れた林檎であった。宙に現れた林檎は幼女の膝の上に落下した。現象は以上が全て、その頃側近はベットとマットレスの間に挟まっていた。そういう性癖もあるだろう。


 一通り堪能して盛り上がった後賢者の刻に入った側近は、幼女の膝の上に異物があることをようやく知った。よく見た上でそれが人間界の林檎だと分かれば(魔界には林檎は自生していない)、どういう意味かはすぐに導き出された。二度目の転移魔法である。


 まずいな、と側近の蒼白い顔から血の気が更に引いていった。何しろその瞬間を見ていないので、転移してきたのが「林檎だけだったのかどうか」魔王さまに報告できないからである。目を離したこと事態が失態だが、とりあえず何か仕方ないような辻褄を合わせなければ、例えば憎たらしくおぞましいあの虫※と格闘していたとか、吸血鬼にありがちな軽い貧血に見舞われていたとか、いやもうトイレ、トイレでいいか。


 ※あの虫……ゴキブリ


 ガゼルロッサの数ある致命的な欠点の一つに、考えていることが口から洩れているというのがある。魔王が退屈で面倒な宴に色々と理由をつけて早々に引き揚げ、長いマントや豪奢な刺繍の長衣、紅色のスピネルをあしらった頭飾り等の重たく嵩張る衣服を控えの間でさっさと侍従に預け、下着も同然の薄衣一枚で「まあいいか今日はもう湯浴みして寝れば」と思ってから自室に面倒を預けていたことを思い出し、舌打ちしながら部屋の扉(観音開き)を開けた時、側近は「トイレでいいか」と呟いていた。


「貴様の墓場がトイレでいいかって話か」

 何ごとか分からなくとも様子をみればとりあえず「やらかして」いるのは分かる。魔王は眉一つ動かさず冗談を言った。冗談である。側近は飛び上がらんばかりに驚いた。


「魔王さま――魔王さま、汚物をといれにながしちゃえばいいかなって」

「汚物って何だ」

「わたくしめのたいえきとか……」

「お前……」


 嘘とまことが境目をなくし余計に酷い劇薬となった――魔王は軽く目を閉じた。鼻の奥が生臭かったが、それが先ほど熱心に勧められた半馬半魚の御令嬢の御芳香か否か、もはや分からぬ。上半身馬で下半身魚ならまだ「なるほど卵生同士ですからね」と言えなくもなかったが、上半身魚で下半身馬の愛人はさすがに無理がある。魔王の本来は巨大な竜だし、こうしてヒト型の姿をとれるのでヒト型のモノは性的対象に入れてもいいかなって感じだが、魚顔の表情は読めないし馬の身体は上に乗る(実用的な意味で)イメージしか湧かなかった。逆に向こうは中年竜でいいのだろうか、当方火炎・毒・カオスの三種のブレスを吐くのだが、それで息が上がると炎が漏れ出してしまったりするのだが、焼き魚になってしまったりする恐れがある点は考慮されているのか。そもそもあの御令嬢の年齢等全く推し量れなかったのだが、彼女は一体何者なのか。ただ、もう少し詳しく聞いたら縁談が進んでしまいそうな雰囲気があったので多分これで良いのだと思う。そう、仮に、世界におっさん竜のベッドとマットレスの間に挟まりたい性癖の吸血鬼の男と生臭いぬるぬるの半馬半魚のレディしかいなかったとして――魔王は目を開いて現実を見ることにした。幼女の膝の上に林檎が転がっている。


「あれのことなのか、ガゼルロッサよ」

 そうであってくれという気分である。シーツが使い物にならないとかいう話であってくれるなという願いである。

「左様にございます」

 実は枕カバーが使い物にならない。現実は非情である。


 魔王は罰として、側近にこの得体の知れない林檎を検分させることにした。これが何らかの罠で、側近の身に何ごとか起こったとて、業の深さが招いた哀しい宿命であろう。それで赦そうと思うくらいには魔王も側近に情があった。


 ガゼルロッサは林檎を拾い上げ、手の内で転がし、眺めまわし、匂いを嗅ぎ「爽やかな匂いですね」、齧りついた。「もう少し慎重にやる気はないのか」魔王は呆れを通り越して心配そうに言う。

「うっ」

「ガゼル?」


「うまい」

 月並みである。

「普通の林檎のようだな」

「普通ではありません、うまい林檎です」

「そうか。良かったな」

 最悪死んでいたところだ。見計らったようにマリアがぱちりと目を覚ました。

「リンゴだ!」


 そういえば、彼女の家の唯一の手がかりは「リンゴ畑」なのであった。偶然とは思えない、この林檎もおそらく彼女の林檎畑のものなのだろう。幼女一人送り込んで閉じる転移魔法の不可思議さを思えば、不安定にその場に力が留まっているとでも解した方が納得できそうだ、と魔王。魔法の理論には明るくないが、感覚では既知の魔法ではなく新しいものかひどく古い「忘れられた魔法」であろうと推察する。


「食べるか」

「うん」

 側近は躊躇いなく食べかけの林檎を差し出し、幼女も疑いもせず口に運んだ。相も変わらず何ごとも起こらない。


「魔王さま、俺、少し馬鹿みたいなこと考えてしまったんですけど」

「構わん、言ってみろ」

 

 馬鹿みたいではなく馬鹿だから。


「魔界に人間が食べられそうなものってあんまりないですよね」


 正確には「食べられないことはないが進んで食べる気にならないもの」ならある。例えば吸血鬼は赤ワインを好み、当然人間界のワインの定義からは大きく外れないが、魔界産であるからには「葡萄の樹には毎晩新鮮な処女の血を遣っています」というような魔界らしさが申し訳程度でも求められるのだ。


「この林檎は彼女が食べるために送られてきたのかなと思いまして」

「なるほど、馬鹿馬鹿しいな」


 それも今のところは否定できなかった。魔王は魔王で側近以上に馬鹿馬鹿しいことを考えている。転移魔法で送り込んだのがこの幼女と林檎でしかなかったならば、これが『勇者』かもしれない。ふかふかな魔王の椅子の上で、マリアは満足げに林檎を平らげた。

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