第17話 半妖の姿
「……?」
遠くの方から、和泉の声が聞こえた気がした。
少し前に近くの様子を見てくる、と言っていた和泉だが、光輝からスマホの連絡アプリで聞いた蛇と遭遇したのかもしれない。
(大丈夫かな……)
見に行くべきか、と腰を上げたところで、蛇に遭ったならすぐに帰って来るかと再びシートに座る。
しかし、聞こえた声は悲鳴のようにも思えて、ただ蛇に遭っただけではない気がするのだ。
どうしようかと迷っていると、天文台に挨拶に行っていた光輝がやって来た。
「あれ? 結城さん一人なん?」
「奈尾君は、さっき、周りを見てくるって言ってこの奥に……」
「え。あの奥行ったん?」
和泉が向かった先を指せば、光輝は珍しく驚いたように目を見開いた。
「あっちの方、前に、蛇に驚いた人が落ちた事故があったとこなんよ」
「もしかして、さっきの声は……」
その二の舞になっているのかもしれない。
危険を促す看板はまだ対応が追いついていないため、光輝は天文台の人に聞いてすぐに連絡したのだ。
光輝は和泉のスマホに電話を掛けてみたが、出る気配はない。
「……ごめん。連絡遅かったんやね」
「い、いえ! 私も、止めておけば……」
「とりあえず、はよ探しに行こか。蛇に驚いただけやったらええけど、落ちとったらあかんし」
「はい」
反省は後でもできる。しかし、最悪の事態になっているかもしれない和泉の安否を確認するのが先だ。
念のため、連絡アプリで他の人にも「奈尾君に緊急事態が起こったかもしれんくて、今から探しに行くけん、一時間経っても連絡なかったら警察に連絡してや」と送ってから、光輝は千鶴と共に和泉が入って行った道へと足を踏み入れた。
「……まぁ、連絡するん警察で合ってるかは知らんけど」
「えっ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(やってしまった……)
地面に寝転んで青く晴れた空を見上げて、和泉は数分前の自身の行動を振り返る。正確には、斜面を転がり落ちた態勢のままなのだが。
蛇に驚いて避けたものの、足場が悪く斜面を転がり落ちたのが数分前。立ち上がろうとして右足に力を入れるも激痛が走ったのがつい先ほどだ。
まだじんじんと痛む足に、眉間に皺が寄るのを感じた。
「スマホどこ行ったんだろ……」
一番近い千鶴か光輝に助けを求めようとスマホを探したが、近くには落ちていなかった。
落ちた場所は数メートル上にあり、急な斜面はケガをした片足では登れそうにない。
深い溜め息を吐いて大声を出すべきかと思案する。どのくらいの距離があるのか分からないため、果たしてここで体力を消耗してもいいものか。
「待ってたら探しに来てくれるかな……」
千鶴に行き先は伝えている。また、光輝はこの辺りのことにまだ詳しい。
忠告してくれた件もあるため、帰りが遅ければ探しに来てくれるはずだ。
「蛇がまた出てこないといいけど……」
踏んだ蛇が毒蛇かどうかの判断はできないが、山であれば蛇はまた出る可能性はある。違う種類がいてもおかしくはない。
(こんな事なら、頑張って一緒にいれば良かったな)
片腕を額に当てながら、あの場を離れたことを悔やんだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
山道に入り、和泉の名前を呼びながら歩いたが、姿はおろか返事すらなかった。
そう奥までは行っていないはず、と思ったのだが、周りの景色に釣られて予想より先に進んだのかもしれない。
「んー……けど、返事がないんはおかしいなぁ」
「まさか……」
「……あっ。ごめん。そんな悪いことを想像……してないとは言えんか」
何気なく口から出た言葉に、千鶴の顔色が青ざめた。
慌てて弁解しようとしたが、先ほどの言い方では最悪の状況を想定したと捉えられても仕方がない。
「わ、私が、もっとうまく話とかできてたら……」
「こらこら。まだそうと決まったわけやないし、なんか珍しいもんでも見つけて夢中になっとるだけかもしれんし。な?」
泣きそうな千鶴を宥めつつ、もう一度スマホに電話を掛けてみようと取り出す。柊から『大丈夫か?』とメッセージが入っていたが、返信は後だ。
履歴の一番上にあった名前を押せば、呼び出し音が鳴る。
壊れたり電池切れを起こしていないだけ良かった、と思っていると、千鶴が何かに気がついた。
「……あれ?」
「どないしたん?」
「電話の音が聞こえる」
「え?」
千鶴が音の発信源を探そうと辺りを見回す。
光輝もスマホから耳を離して音を捉えようとしたが、木の葉の擦れる音や鳥の囀りで混じってうまく聞き取れない。
「…………よう聞こえるね」
「……あった!」
千鶴の耳の良さに感心した矢先、彼女は何かを見つけて駆け出した。足場はあまり良くはないが、平坦な道と変わりなく走れている。
光輝も足もとに気をつけながら追えば、千鶴は道に近い斜面に落ちていたそれを拾い上げた。
「これ、奈尾君の……!」
「ってことは……」
斜面の下を覗き込む。急な勾配は、見ようとしなければ下の様子が見えないほどだ。
木の合間に、斜面で横たわったままの和泉の姿があった。
「な――」
「奈尾君!」
「っ、びっくりしたぁ」
光輝が呼び掛けるよりも早く、スマホを強く握りしめた千鶴が叫んだ。
咄嗟のことに驚きながら彼女を見たが、すぐに視線を和泉に戻す。
大きな外傷は見受けられないが、距離があるせいで見えていないだけの可能性もある。
何度か呼び掛けていると、和泉の顔に被さっていた腕がゆっくりと動き、上体を捻って肘をつく形で体を起こした。
「っ、たたた……」
「奈尾君、ケガはー? 大丈夫ー?」
「ちょっと足を挫いたみたいで、登れそうにないです!」
転がり落ちたせいか頬から血は出ているが、大量出血というほどでもない。
光輝は不安げに見下ろす千鶴に言った。
「結城さん、ここおって。天文台からなんか借りてくるわ」
「は、はい!」
元来た道を走って行く光輝を見てから、また和泉へと視線を戻す。
地面がまだ柔らかいのか、大きなケガがないのが不幸中の幸いだ。
しかし、ケガをしている和泉を目の前にして、ただじっと光輝の帰りを待っていることもできなかった。
(奈尾君は、知ってるから大丈夫……)
そう内心で呟いて、千鶴はそっと目を閉じて息を吐く。
柔らかな風が周りを包むように吹き、耳と腰の辺りに違和感を覚えた。
ただ、その違和感も千鶴からすれば慣れたもので、気にすることなくゆっくりと目を開く。
風が止むと同時に、千鶴は斜面の下へと身を投げた。
光輝が去ってから、和泉は残された千鶴の不安そうな顔に胸が苦しくなった。
あのとき、離れなければ……という後悔と足を滑らせた自分への羞恥心で一杯だ。
(もー……。これ絶対、春斗さんとかに笑われるやつだ……)
がっくりと項垂れた和泉は、合流予定の春斗達を思い浮かべて溜め息を吐いた。
ふと、柔らかな風が吹いてきたことに気づき、顔を上げる。
斜面の上にいた千鶴が地面を蹴った。
「……え!?」
その行為が何を意味しているのか少し遅れて気づいたときには、彼女は和泉の横に着地していた。転がり落ちるようなものではなく、きちんとバランスを取って。
身軽な動きに唖然として彼女を見たが、その耳とスカートの裾から覗く今までなかったものにまた驚いた。
「その耳と尻尾って……」
千鶴の耳は黒い猫のような形に変わっており、スカートからは先が二つに分かれた黒い尻尾が出ている。
花菜が千鶴も半妖だと言っていたが、てっきり小鳥遊双子のように特殊な力を扱えるのだと思っていた。
だが、今の千鶴はまるで妖が人に化けているようだ。
固まっている和泉に、千鶴は視線を落としながら小さく言った。
「……ごめんなさい」
「え?」
「私が、もっとちゃんと出来たら、こんなことにはならなかったのに……!」
我慢が限界を迎えたのか、謝る千鶴の目から大粒の涙が流れた。
突然のことに頭がついていかず、かといって泣いている千鶴をただ見ているだけにもいかない。
どうすれば……と思考を必死に働かせた和泉は、「こうなればやけだ!」とそっと千鶴の頭を撫でた。
「……?」
「……大丈夫。ここに入ったのは俺の意思だし、周りを見てみたかったのも本当なんだ」
「…………」
居づらかったこともあるが、それだけで山道には踏み入らない。
千鶴が気に病むことはないという気持ちを込めて頭を撫でていると、驚きで涙が止まっていた千鶴が少しずつ視線を下げていった。
頬が少し赤いのを見て、和泉は小さく笑みを零した。
「来てくれてありがとう」
「……!」
礼を口にすれば、言われるとは思っていなかったのか、赤い顔を上げた千鶴はあたふたしている。
言われたことに対して何と返せばいいのか分からないのだろう。
和泉はそんな千鶴の反応を可愛いと思いつつ、彼女の外見を改めて見直した。
「結城さんは、猫の何か?」
「えっ……あ……う、うん。猫又の……」
「どうりで、猫の耳と尻尾があるわけだ。それに身軽だったし」
外見に現れるタイプの半妖もいるのか、とまじまじと見てしまう。
「私の場合、妖の血が他の半妖の人より、少し濃いみたいで……。……だから、妖の力を使おうとすると、こうして出るの」
「へぇ。なんかすごいね」
どんな仕組みかは聞いても理解できないだろう。
感情がダイレクトに出るのか、先ほどから耳は下がったままで、状況に戸惑っているようだ。
すると、千鶴はまた視線を下げ、和泉の反応を窺うように上目遣いで見た。
「……変、だよね」
「そんなことないよ。可愛いと思うけどな」
「かっ……! ……可愛く、ない」
元々、顔立ちは整っているため、「可愛い子」という印象はあった。また、仕草ひとつを取ってもかなり可愛く思える。
拗ねたのかそっぽを向いた千鶴だったが、何かを思い出すとすぐに視線を和泉に戻した。
「足、大丈夫?」
「え? ……ああ、これ? 大丈夫だと思うけど、これを登るのは難しいかな……」
千鶴の反応に集中していたせいか、足の痛みを忘れていた。
思い出せばまた鈍く痛みだすが、体育の授業で捻ったのとよく似た痛みだ。
「東屋さんなら、抱えて登れたかもしれないのに……」
「え!? いや……うん、そうかもしれないけど、さすがに力があっても女の子に運ばれるのはちょっと……」
光輝を抱えた柊を思い出したが、自分が運ばれるところは想像したくない。花菜が聞けば喜ぶかもしれないが。さらに、それが柊ではなく異性なら、男としてはもっと避けたい。
千鶴が不思議そうに小首を傾げている辺り、腕力があれば本当に運ばれそうだ。
それから、間を開けながらも他愛ない話をしていると、天文台に向かった光輝が職員と共に帰ってきた。
「あれ? 結城さんまで下におるん?」
「あ……えっと……」
「俺のこと心配して、下りてきてくれたんです」
確かに、和泉は何か止血をしなければならないケガをしていたわけではなく、下りる必要はなかった。
咄嗟に下りてしまったと今さら気づいた千鶴が戸惑うのを見て、和泉が助け船を出す。
そして、持ってきてくれた梯子で何とか上まで戻ると、簡単に手当てをしてくれた。山の上ということもあり、救急セットは万が一に備えて置いているようだ。
捻挫した足に湿布を貼ってくれた男性職員は、前回の事故の件もあるせいか和泉の様子を窺いながら訊ねた。
「何かあったら大変だし、念のため病院行く?」
「い、いえ! そんな大したケガじゃないので大丈夫です!」
「んー……見えないケガが一番怖いんだけど……」
「あはは……。まぁ、今日、様子を見て、ちょっとでも気分が悪くなったりしたら行きます」
病院に行くほど事を大きくしたくないのもある。頭を打っていればそうはいかないだろうが、本当に足首と頬以外は大丈夫だ。
男性職員はまだ不安そうだが、ケガをした本人が言うのなら……といった様子で引き下がった。
「そう? じゃあ、空篠君。あとは私のほうで片付けておくから、彼をよく見ておくように」
「はい。ありがとうございました」
「看板の設置、もっと急がせるよ」
そう言って、男性職員は梯子を持って一足先に帰って行く。
光輝は千鶴が和泉に「大丈夫?」と訊き、和泉も「平気」と返しているのを見て、最初より打ち解けた様子に内心で安堵した。そして、千鶴の手を渋々借りて立ち上がった和泉に訊ねる。
「けど、奈尾君はなんで落ちたん?」
「えっ」
濁点が付きそうな声を上げて固まった和泉の反応と、落ちていたスマホ……その画面に出ていたメッセージから辿り着いた答えに、光輝はにっこりと笑みを浮かべた。
「歩きスマホはあかんよ?」
「うっ……。……はい。気をつけます」
返す言葉もない。
項垂れた和泉に「分かればよろしい」と言ってから、集合場所に戻るために歩き出した。
「肩、貸そうか?」
「いや、でも……」
「手」
「……はい」
千鶴は人見知りで和泉を避けていたのが嘘のように、自分から歩きにくそうな和泉を手助けしている。ただ、肩に腕を回すのは和泉が耐えられなかったようで、千鶴の肩に手を伸せるだけに留まった。
二人の前を歩きながら、光輝は微笑ましい光景に「結果オーライってやつやなぁ」と小さく呟いた。
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