第3話 ◯◯病


「っくしゅん! ……埃かな」


 昼を少し過ぎた頃、部屋の整理をしていた和泉は鼻奥のむず痒さでまた換気をしていなかったと気づいた。

 いくら引っ越してきたばかりとはいえ、持ってきた荷物は以前から使っていた物ばかりだ。綺麗にして箱に入れたが、埃も皆無というわけではない。

 和泉は小さく息を吐いて片付けの手を止めた。


(やっぱり、春馬さん達手伝ったほうが良かったかなぁ……)


 朝の一件後、扉を破壊した小鳥遊双子は、仕事の電話を終わらせて出てきた柊にこっぴどく叱られていた。

 横にいた和泉も「俺が止めなかったのもあるから……」と一緒に怒られるべきだと思ったが、柊に「予測し得ないことなのに、やる前に止めろなんて理不尽な怒り方できるかよ」と言われてお咎めはなかった。

 その後、双子は扉の修理を言いつけられていた。

 特にやることがなかった和泉は、昼前まではアパート周辺の散策をし、商店街で軽く買い物をしてから帰宅。昼ご飯を済ませた後から今まではずっと片付けをしていたのだ。

 部屋の片付けも重要だが、朝の現場にいた以上は手伝ったほうが良かったのでは……とぼんやり考えていた和泉は、ふと小さな物音がベランダから聞こえて反射的にそちらを向く。


「…………」

「…………」


 そこには、本来ならばいないはずの人影があった。

 しばし見つめ合って数秒。

 長い前髪に比べて後ろは短く、紫色のカラーコンタクトを入れた目は感情が読みにくい。整った顔立ちは同性の和泉でも目を奪われる。

 相手が昨日の晩に会ったきりである望月彼方だと気づいたと同時に、しゃがんでいた彼は小さく頭を下げた。


「ども」

「ど、どうも」

「…………」

「…………」


 閉めた窓越しでやや声は聞こえにくいが、テレビもつけていなかったので辛うじて聞き取れた。

 平然と軽い挨拶をした彼に同様に返し、また沈黙が訪れる。

 先に口を開いたのは、ベランダにいるままの彼方だった。


「ここ、開けてくれない?」

「あ、すみません」


 状況に頭が追いつかず、思考が停止したままのせいで行動が遅れてしまう。

 彼方に言われて漸く動くことができた和泉は、素直に窓の鍵を開けて彼方を中に入れる。

 ありがとう、と礼を言われたところで、やっとおかしな点に気づいた。


「なんでベランダにいたんですか?」

「そこにベランダがあるから」

「あれ? 俺の質問がおかしかったのかな」


 さらりと、さも和泉の質問がおかしいと言わんばかりに返されれば、和泉のほうが間違っているのかと思ってしまう。

 だが、ここは二階であり、玄関を通らない限りはベランダには出られない。

 そもそも、勝手に人の部屋のベランダに入るのもおかしいのだが。


「えっと……どうやってベランダに入ったんですか?」

「僕の部屋、三〇四なんだ」

「は、はい」


 ここは二〇二号室だ。真上は三〇二号室のはず。彼方の部屋とは距離も開いている上、階が違うなら尚更ベランダには入れないだろう。普通ならば。

 一体、何をしたんだと彼方の言葉を待っていれば、彼は冷静な表情のまま、事の一部始終を話した。


「ベランダを伝って隣の三〇三に行こうとしたら足を滑らせて落ちたから、一旦、下の千鶴のとこに着地したんだけど」

「忍者ですか?」

「それいいな」

「は?」

「いや、僕はそれとは違うんだけど」

「は、はぁ……」


 「忍者」という単語に彼方の表情が一瞬だけ嬉々としたが、すぐに平静へと戻された。

 彼の話を整理すれば、何か用があって隣の部屋に行こうと、玄関からではなくベランダを伝おうとしたものの誤って落下。身体能力が高いのか運が良いのか、真下にある千鶴の部屋のベランダの手すりを掴み、大怪我には至らなかったということだ。

 ただ、隣室である千鶴の部屋のベランダに着いたなら、わざわざこちらに移動しなくてもいいはず。

 何があってまた危険を冒したのかと視線だけで問えば、彼方は深い溜め息を吐いて続きを話した。


「部屋に千鶴がいなかった」

「あー……」


 住人がいなければ、不用心でもない限り鍵も開いていないだろう。

 状況が漸く理解できた和泉は、自分もいなかったらどうする気だったのかと少し怖くなった。

 何せ、さらに隣にある二〇一号室の智佳は仕事で不在だ。

 反対の二〇五号室には光輝がいるはずだが、彼は二日酔いで部屋に戻ったきり姿を見せていない辺り、寝ている可能性が高い。

 だが、和泉がいないという不安は彼方にはなかった。


「一階は下手したら柊さんに見つかるから嫌だったんだ。でも、千鶴の隣が新入りだって事を思い出して、『そうだ。新入りならいるかも。どうせ部屋の片付けしかやることなさそうだし』って……まさか、本当にそうだとは思わなかったけど」

「すいませんねぇ。片付けしかやることなくて」


 ちら、と部屋を一瞥した彼方の瞳に僅かに同情の色が浮かぶ。

 漸く見た感情の変化がそれか、と和泉はわざと苛立ちを込めて返した。

 しかし、彼方は何故和泉が苛立ったのか理解ができなかったようで、きょとんとしていた。


「なんで怒ってるんだ? まぁ、いいけど」

「諦め早っ!」


 他人にあまり興味がないのだろうか。

 共有ルームなどがあるカスミ荘では住人同士の関係も自然と深くなりそうだが、やはり人によって変わってくるのかもしれない。

 すると、彼方はあることを思い出すと少しだけ慌てて言う。


「あ。柊さんには内緒にして。バレたらまた怒られるから」

「でしょうね。って、『また』ってことは前科あるんですか」

「まぁ、それなりに」


 何度かやったことを素直に明かしてくれたが、この人は大丈夫なんだろうかと逆に不安になった。

 勝手に他人の部屋に入れば不法侵入で訴えられる可能性もあるのだ。今まで見つかっても通報されない辺り目的は窃盗などではないのだろうが、理由を知らないと和泉も安心できない。

 入られた以上は理由くらいは聞いてもいいだろうと、和泉は訊ねることにした。


「答えにくかったらすみません。でも、なんでこんな危ないことをしてるんですか?」

「あー……そうだな。部屋に踏み入った手前、それくらいは説明してもいいか」

(なんで上から目線なんだろう……)


 本人にその気はないのだろうが、発言はどこか不遜げに聞こえる。

 口には出さず黙って彼方の答えを待っていると、彼は何故か辺りを見回してから和泉に近寄った。


「いいか? 言いふらすなよ?」

「は、はぁ……」


 未だ辺りを気にしているが、部屋には和泉しかいない上に両隣の住人は不在だ。

 だが、真っ直ぐに和泉を見据えた彼方の目は至って真剣だった。


「千鶴の上の部屋……三〇三には、ある秘密があるんだ」

「秘密?」

「そう。ここ、カスミ荘だからだと思う」

「な、何があるんですか?」


 ただでさえ、ここには半妖という人とは異なる者達が住んでいるのだ。

 ならば、三〇三号室には本物の妖怪でも住んでいるのか。

 段々と和泉にも緊張が走る。

 やがて、彼方の口から告げられた秘密に、和泉はまたもや思考が停止した。


「あの部屋には、『異世界へのゲート』が隠されているんだ」

「…………えっと」


 今、彼は何を言ったのか。

 「異世界」ということは、こことはまた別の世界ということか。

 理解が追いつかない和泉をそっちのけで、彼方は言葉を続ける。


「そう。僕がそれに気づいたのは、年始にここへ帰ってきたときだった」

「望月さん?」


 突然、過去を振り返り始めた彼方に呼びかけるも、彼は既に自身の世界に入り込んでいた。


「あの日、僕は共有ルームでいろんな人にお土産を配ってたんだけど、三〇三号室の人はいなかったんだ。それで部屋に行ったら、荷物も何もなくなってたんだ」

(夜逃げってそれかー!)


 確か、柾が正月に夜逃げをした人がいると言っていた。

 彼方は夜逃げの事実を聞かされていないのだろうかと言い出すタイミングを見計らっていれば、その事実確認は彼自身の口から明らかになった。


「皆は夜逃げだって言ってたけど、あれは絶対、異世界へのゲートが開いて荷物ごと連れてかれたんだ」

「ええ……」


 関連付けが無理矢理だが、彼の中ではその考えで固まって揺るぎない事実と化しているのだろう。

 彼は俗に言う「中二病」というものか、と和泉は確信しつつ、果たして何と言えば彼に夜逃げだと認めさせることができるのかと言葉に悩んだ。


「あの、なんで異世界へのゲートが開いたって思ったんですか?」

「え? だって、ここには半妖がいるでしょ? そしたら、年末のなんか……年の変わり目的なあれで開きそうじゃない? それに、あの部屋はあの日以降、入居者はいないし」

「紐付けの理由がまさかのアバウトって」


 半妖の存在があるのは大きいだろうが、年の変わり目については関わりがあるようには思えない。

 だが、彼はそのゲートとやらを探して、柊の目を盗んでは空き部屋の三〇三号室に侵入しようとしているようだ。


「柾さんから鍵を借りるとか、部屋を移してもらうとかっていうことはできないんですか? その内怪我しますよ?」

「鍵はもう貸してくれないし、部屋を移るのは費用が掛かるって親に怒られた……」

(現実的なものに阻まれてる……!)


 そう何度も鍵を貸してはくれないだろう。そこは大家としてしっかり仕事はしているようだ。柊が止めた可能性もあるが。

 引っ越しについても、隣の部屋に移るには相応に費用が掛かる。

 思いも寄らぬ障害に、さすがに和泉も同情してしまった。


「だから、暇があれば三〇三に行って様子を見てるんだ」

「……あの、もしかして、望月さんがここに入居したのって、半妖の存在を知ったからですか?」


 中二病というのなら、半妖の存在は自身の考えを肯定するにはいいだろう。

 半妖についてはカスミ荘に住む人しか知らないとはいえ、“元”住人が口を滑らせたなら噂として密かに広まっていてもおかしくはない。

 彼方の表情は相変わらずで感情を読みにくい。ただ、和泉の言葉をしっかりと聞いた上で答えた。


「僕のことは彼方でいい。『名は個を縛る』って言うけど、望月だと僕の家族皆そうだから、個人を特定するためにも名で呼んでもらうのは有りだと思うんだ」

「はぁ、そうですか」

「あと、半妖についてはここに来てあの双子と仲良くなってから知った。それで、二次元は三次元にもなり得ると知った」

「なり得ませんからね?」


 最後は小さく拳を作って力説しているが、どう考えても無理だ。

 だが、彼方には和泉の否定の言葉は聞こえていないのか、時計を見るなり「あ、約束」と言って部屋を出ようと玄関に向かう。

 靴は履いていないため、靴下のまま廊下に出ることになるが、その辺りはあまり気にしないようだ。

 扉に手を掛けた彼方は、「あ」と何かを思い出して振り返ると和泉に念を押すように言った。


「くれぐれも、ゲートについては秘密にして」

「わ、分かりました……」


 秘密も何もゲートというものは恐らく存在しないのだろうが、純粋に信じているのなら、これ以上の否定の言葉は可哀想になってくる。

 頷いたのを見届けてから、彼方は早々に部屋を後にした。

 一人になった部屋で、和泉は閉ざされた扉を見たまま小さく呟く。


「半妖の影響って、意外なとこにも出るんだ……」


 非現実的なものが一つでもあれば、他のものももしかしたら……と思ってしまうのかもしれない。

 ただ話していただけだが、とてつもない疲労感を覚えて深い溜め息を吐いた。

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