第5話 カスミ荘の秘密
ひやりとした空気が全身を包んだ。
冷凍庫に放り込まれたかのような寒さに、和泉は思考すら奪われてしまった。
「さ、寒っ……!」
肌を突き刺す冷気に耐えきれず、自身の体を抱きしめながら声を上げる。
先ほどまで共有ルームに他の住人達といたはずなのだが、今は周りに誰もいない。それどころか、真っ白な世界に和泉一人だけが佇んでいる。
これは夢の中か。
そう思った和泉は、直前までの出来事を思い出そうと頭を捻っていると、ただでさえ冷たい空気がさらに冷えた。
「え?」
周囲に粉雪が舞い散りだす。
最初は数えられるくらいだった粉雪は段々と数を増していく。
何が起こるんだ、と夢の中でも危機感を覚えつつ身構えていると、『それ』は真後ろから迫ってきた。
「ずぅっと、このままにしておこうかしら」
女性の柔らかな声と同時に後ろから頬に触れる手。
氷がそのまま触れたかのような冷たさに、背筋がぞわりと粟立った。
後ろにいるのは誰だ。
確認しようとゆっくりと顔を動す。手はあくまでも添えられているだけで、顔を動かすことはできた。
白魚のような手は所々霜がついておりおり、手の主はただの人間ではないと分かる。ただ、夢の世界ならばおかしな話でもない。
顔がほとんど真横を向けば、手がゆっくりと離される。
和泉は奥歯をぐっと噛みしめると、意を決して体ごと振り返った。
「……え? あ、あなたは……!」
そこにいたのは、見覚えのある女性だった。
にっこりと綺麗に微笑んだ彼女は、体の周りで吹雪を起こしながら数歩下がった和泉に歩み寄る。
さらに逃げようと足を動かそうとした和泉だったが、氷が割れた音と同時に足が動かせなくなった。
見れば、真っ白な地面と足が氷で繋がっていた。
「逃がさない」
女性が和泉へと片腕を伸ばせば、足下の氷がどんどんと上ってくる。ただ、恐怖のせいか冷たさはあまり感じない。
ついに胸元まで体が凍り、逃げられなくなった和泉は反射的に女性を見る。
女性は凍っていく和泉を見てうっとりと微笑むだけだ。
「――――」
女性が何かを言った気がした。
だが、それが和泉に届く前に意識は薄れていった。
□■□■□
「っ、うわあぁぁぁ!?」
ようやく叫ぶことができた。が、はっと我に返ると景色が先ほどとは違っていることに気づく。
真っ白な世界にはほど遠い、色のある世界。家具や壁の一部は白いものの、黒や茶色といった色もある。
どうやら、夢から覚めることができたようだ。
心臓の鼓動が早く、額に滲む汗が酷い。
「ここ……俺の、部屋……?」
改めて部屋を見渡した和泉は、まだ見慣れないがここが自身の部屋であると認識した。
昨日、柊の手伝いもあって、ほとんど整理を終えることができた。片隅には畳んだ段ボールが重なっている。
いつの間に部屋に帰ってきたのだろうか。
ベッドから出ながらぼんやりと昨日のことを思い浮かべる。
共有ルームで歓迎会をしてくれて、美味しいご飯を食べて、高所恐怖症が原因で残ったことが公にされた。
問題はその後だ。
「たしか、柾さんが変なこと言いだして、後ろに――」
そこまでを思い出して、顔を覆った柔らかな感触に顔が熱くなった。
酔ったほのかが、何を思ったか後ろから抱きついてきたのだ。
しかも、ほのかが触れた手はやたらと冷たく、それに伴って頬が凍ったような気もする。
「いや、まさか、そんなはずは……」
記憶はそこで途絶えているため、あれが現実か夢かは分からない。
だが、共有ルームから覚えていないということは、誰かがここまで運んでくれたはずだ。服も昨日着ていた服から変わっていない。
ほとんどの住人が一緒にいたため、誰かに聞いたら分かるだろう。
テレビ台に置いた時計を見れば、今はまだ朝の七時だ。共有ルームに行けば誰かいるかもしれない。
学校は春休み期間のため、学生組は寝ている可能性もある。だが、仕事がある人達はそうはいかない。
「……とりあえず、風呂入ってからにしよう」
昨日のまま出るわけにもいかず、また、汗ばんだ体をすっきりさせるためにも、和泉は先に風呂へと向かった。
□■□■□
手早く入浴と着替えを済ませた和泉は、アパートの廊下を進んで一階の共有ルームに足を進める。
途中で誰かに会うこともなく、昨日の騒がしさが嘘のように静かだ。
あっという間に共有ルームに辿り着いたものの、中から声は聞こえてこない。
まだほとんどの人が寝ているのだろうか? と恐る恐る扉を開けば、部屋には誰もいなかった。
「あ、あれ? 誰もいない……」
常に誰かが必ずいるわけでもないだろうが、昨日の様子からかどうしても誰かいるように思えてしまう。
やや脱力しつつ、ひとまず共有ルームに入る。
昨日の歓迎会は片付けが終わっておらず、飾りがそのままにされていた。さすがに食事類は片づけられており、キッチンを覗けば洗われた食器類がシンクの傍らにあった。
(お礼も言っておかないとな)
せっかくの歓迎会だったというのに、まさか記憶が途絶えることになるとは思わなかった。
残念な気持ちが強いが、これから住人達とは毎日のように会うのだから、交流を深めるのはゆっくりでいいだろう。
朝食を摂る気も起きず、和泉は手近な席に座ろうとキッチンを出る。そこで、奥のソファーやテレビがあるスペースから、誰かの呻き声が微かに上がっていることに気づいた。
「うー……」
「だ、誰かいるんですか……? って、空篠さん?」
部屋に入ったときには声は聞こえなかったため、てっきり誰もいないのかと思っていたが、今まで寝ていたのだろうか。
苦しげな声に和泉がそちらへと足を進めれば、ソファーで横になっている青年――光輝がいた。
彼は和泉の声に気がつくと、うっすらと目を開けて視界に和泉を入れる。
「あー……奈尾君か。おはよう……」
「お、おはようございます。大丈夫ですか? 顔色が……」
仰向けでソファーに寝たまま起きる気配のない光輝は、何故か顔色が悪い。
柊が持ってきたのか毛布を掛けられている辺り、昨日からここで寝ていたのだろう。
光輝はへらりと頼りない笑みを浮かべると、昨日の夜について説明した。
「いやー、それが、奈尾君が倒れたあとも一部の大人組で飲んでたんやけど、ちょっと飲みすぎてしもて……」
「二日酔いですか」
「そう……ごめん。お水あらへん……?」
「すぐ持ってきます!」
少しでも楽になるのなら、と和泉はキッチンへと急いだ。視界の隅で上体を起こす光輝はやはり辛そうだった。
ほのかも飲んでいたように見えるが、姿が見えないところを見ると部屋に戻ったのだろう。もしくは強制的に連れて行かれたか。
適当なグラスを取り、キッチンに置かれていたウォーターサーバーから水を入れる。
光輝のもとへ戻れば、彼は上体を起こしていたものの、背凭れに体を預けていた。
「どうぞ」
「おおきに。……悪いね。なんか入居早々に手間かけさせてしもて」
受け取った水を一口飲んでから申し訳なさそうに謝る光輝に、和泉は首を左右に振った。
「いえ。こちらこそ、昨日は俺のために歓迎会まで開いてくれましたし、これくらいどうってことないですよ」
「うーん。本当やったら、もっと年上らしく、しっかりしたとこ見せたかったんやけどなぁ」
「お酒弱いんですか?」
「普通やけど、ここの住人の中じゃ弱いほうかも。なんだかんだで、一番飲むのは凍条さんかな」
まだほとんど話はしていないが、何となく頷ける。昨日のほのかは酔ってはいたものの、意識ははっきりしていそうだったのだ。
だが、記憶が途絶えているおかげで他の大人達がどれほど飲んでいたかはさっぱり分からないが。
そこで、和泉は昨日、記憶の最後にある光景が現実かどうかを確かめようと訊ねる。
「あ、あの、空篠さんは、俺が倒れたときって覚えてます……?」
「んー……もう凍条さん達と飲んどったしなぁ。なんとなく?」
(うん。この人お酒弱いな)
和泉の記憶がないのは、始まってまだ三十分も経っていない時からだ。スタート直後から飲んでいたとしても、酔って記憶が朧気になるのは早い気がする。
口には出さずに確信しつつ、和泉はほのかに触れられたときについてを訊いてみることにした。
「その凍条さんが、えっと……酔って俺に抱きついてきたとき、触られたとこが凍ったような気がするんですけど、あれって俺の見た夢なんですかね……?」
「あの人、絡み酒やからなぁ」
あはは、と軽く笑いながらも光輝はおよそ半日前を思い出そうと記憶を探る。
静かな室内に光輝の「うーん」と考える声だけが響く。
窓から射し込む朝の光は穏やかで、本来ならば気持ちの良い朝だと思えるのに、昨夜の一件がどうしてもそれらを曇らせてしまう。
和泉の緊迫した面持ちをちら、と一瞥した光輝は、やがて二日酔いで苦しんでいたのが嘘のように爽やかな笑みを浮かべた。
「うん、分からへんね」
「ですよねぇ……」
僅かな可能性に賭けていた分、その回答にがっくりと肩を落としてしまう。
しかし、光輝はコップの水をまた一口飲んでから、最もなことを言った。
「せやけど、人の手が急に物を凍らせるなんてありえへんやろ? きっと、引っ越しの片付けで疲れとって、夢と現実が曖昧になっとるんやないかな?」
「そう、なんですかね……?」
「やと思うよー」
慣れないことばかりで精神的な疲れもあったのは確かだ。そこに引っ越しの片付けが重なっていた。いくら柊が手伝ってくれたとはいえ、疲れていないはずはない。
だが、昨日のほのか絡みの件が途中から夢だったとしても、気になることはまだある。
「うーん……じゃあ、誰が俺を部屋まで運んでくれたんでしょうか?」
「そうやねぇ。昨日はここで寝とったの僕くらいやし」
「誰も運んでくれなかったんですね……」
和泉のことは運べるのに、同じくらいの背格好の光輝を運べないはずがない。
どうせなら光輝も部屋まで運んであげればいいのに、と思った和泉だったが、彼がここで寝ていたのは理由があった。
「僕って、一度寝ると意地でも動かへんらしいから」
「寝てるのに器用ですね」
「僕もそう思う」
どうやって抵抗しているのだろうか。本人すら自覚がないなら尚更気になるところではある。
光輝は和泉と話をして幾分か気が紛れたのか、毛布を畳んで横に置くと、コップを片手にソファーから立ち上がった。まだ頭が痛むのか、立った瞬間には顔を歪めていたが、すぐにそれを消してから和泉を運んだであろう候補を上げる。
「奈尾君を運んだの、腕力的には柊さんか智さんやと思うよ。柊さんは飲んでへんかったし、智さんはお酒飲んでも変わらんから」
「なるほど。ありがとうございます」
「いいえー。こちらこそ、お水ありがとう」
柔らかく笑んだ光輝は、「じゃあ、僕は部屋に戻ってちゃんと寝てくるわ」と言って、キッチンにコップを返してから共有ルームを出る。
入れ違いに入ってきたのは、先ほど光輝が名前を挙げた柊だ。
「おはよう、柊さん」
「おー。目ぇ覚めたか。二日酔いは大丈夫そうか?」
柊は昨夜、酔い潰れた光輝を知っている。
心配の声を掛けてくれた柊に笑みを返しつつ、光輝は奥のソファーにいる和泉を振り返って見た。
「奈尾君がお水くれたけん、なんとか動けるかなぁ。あとは部屋で寝よるよ。毛布おおきに」
「そうか。なんか欲しいもんあったら連絡しろよ」
「はーい」
病人とまではいかないものの、二日酔いも人によっては重さが異なる。動けるまでには回復しても、まだ部屋に戻って休もうとするくらいには辛いのなら、相応に気にしておいたほうがいい。
柊はあとでお粥でも作って行ってやろうと思いつつ、共有ルームの奥にいる和泉に歩み寄った。
「お前も早いな。春休みだからって昼まで寝てるどっかの誰かさんとは大違いだ」
「おはようございます。なんて言うか、変な夢を見ちゃって……」
「変な夢? どんな?」
和泉が座るソファーの斜め向かいに座った柊は、彼が口にした「夢」に興味を持ったのか目を瞬かせながら内容を問う。
笑われないだろうか、と内心で言葉を間違えた自身を叱りつつ、ゆっくりと口を開いた。
「えっと、昨日の晩のこと、俺、途中からよく覚えてなくて……でも、夢で凍条さんが俺に触ったとき、その……手が触れたとこが凍った気がして……」
「…………」
「…………」
柊の表情が僅かに強張った気がした。無言が痛い。
これならいっそ、笑って「そんなことあるわけがない」と言ってくれたほうがマシだった。
しかし、何故か柊の表情は深刻なものへと変わり、落とされた視線はどこか苦しげだ。
住人相手に見た夢にしては些か不謹慎だっただろうか。
様々な不安が満ちていく和泉だが、柊は何も言わずにただテーブルの上を睨んでいるだけだった。
「……あ、あの、柊さん? すみません。俺が変な夢を見たせいで――」
「夢じゃねぇ」
「はい。夢じゃない……え? 夢じゃない?」
柊の言葉に頷いたものの、自身の中で意味を反芻したと同時に驚いて柊を見る。
先ほどまで暗い顔をしていた柊だったが、今は真剣な面持ちへと変わっていた。それはどこか覚悟を決めたようなもので、和泉は思わず姿勢を正して柊に向き直った。
「隠すと厄介になりそうだし、お前には言ってもいいか」
まるで自身に言い聞かせるように、今から明かすことは決して誤った選択肢ではないと言っているかのようだった。
柊はやや表情を和らげてから言葉を続けた。
「ここに来たとき、ルールを聞いただろ?」
「は、はい」
「あれな、ここの住人の一部に、『ちょっと特殊な奴』がいるからなんだよ」
「特殊……」
最近はいろんな趣味やら性癖やらを持つ人は多いが、柊の言う雰囲気からはそういったものとはまた別の意味がありそうだ。
ただ、それが何を指すのかは分からず、唖然としていた和泉に柊は具体例を出した。
「まぁ、所謂、妖怪と人間のハーフとか、妖怪みてーなモンを連れてる奴とか」
「…………」
「お前、よく『感情が顔に出やすい』って言われねーか?」
「言われます」
唖然としていた和泉の顔が一気に渋面へと変わった。
その変貌に、具体例を出した柊は「自分に虚言癖があるのでは?」という疑いを持たれた気がして、内心で少しだけ傷ついた。口には出さないが。
しかし、和泉の気持ちも分からなくはない。なにせ、ここに来る前の柊も、それを聞いたときは和泉と同じような反応をしたからだ。
「でも、妖怪とか妖怪みたいなものとか、実際に見たことないですし……」
「だろうな。今や妖怪は人の目には映らないらしいし、あいつらもあくまでもハーフだから、見た目は人間だしな」
オカルト番組などで妖怪の特集が組まれることはよくあるが、実物が出たことはほとんどない。ミイラなどはともかく。
それに関わるものが、まさかこんな身近に現れるとは思いもしなかった。
「人の世の中に紛れて生きているあいつらにとって、ここは同族が暮らしている場所だから、ちょっとは気が楽なんだそうだ。ま、たまーに問題は起こすがな」
「問題……ってことは、昨日の凍条さんのって……」
「そうだな。ルール上、誰が何のハーフかは言えないが、ほのかは自分で明かしたようなもんだし言ってもいいか」
妖怪、氷、と繋げて出るものは限られてくる。
そして、柊が口にした妖怪の名前は、予想どおりのものだった。
「あいつは『雪女』のハーフだ。気に入った奴がいたら凍らせようとするけど、ストライクゾーンは十八から五十までだから、それ以外には手出しはしねーよ」
「ストライクゾーン広っ! というか、俺、まだ十六なんですけど……」
今年で十七にはなるが、それでも対象範囲にはギリギリで入っていない。
すると、柊は秘密を明らかにしたおかげか、どこかすっきりした様子で言ってのけた。
「知らなかったんだろ。千鶴と同年ってのも、酔ってて忘れてた可能性が高いし……まぁ、今度会ったら、念のため年齢は伝えといた方がいいぞ。これも保身だ」
「そうします」
気に入られるのは気分が悪い話ではないが、凍らされるのは遠慮したい。
和泉はほのかに会ったときに平静を保てるか、また、他の妖怪と人間のハーフが誰か分からない不安に押し潰されそうになりつつも、ここでなんとかやって行くしかない、と無理やり腹を括った。
「あと、半妖がいるってのは、光輝は知らない……というか認めてないから、不用意に自分から言わないことだな」
「『認めてない』?」
「知ってそうなんだが、毎度毎度『夢』で片づけるんだよ。理由は知らねぇけど」
柊の言い方から察するに、光輝は何度か半妖である彼女達の「人間ではあり得ないもの」を見たことがあるようだ。だが、それを彼は現実として受け入れていない。
理由については、問えば半妖の存在を明確にさせてしまう上、受け入れないのが「あえて」のことならば聞かないほうがいい。
そこでふと、ここへの入居を条件に出した両親はこの事実を知っているのかと気になり、柊に訊ねてみることにした。
「空篠さんについては分かりましたけど、ちなみに、俺の親ってこの事は……」
「さすがに話してるぞ。『貴重な経験を積ませる良い環境だ』って喜んでたな」
(今度会ったら怒っていいよな、これ)
せめて、一言くらいは事前に伝えておいて欲しかった、と海外にいる両親を少しだけ恨んだ和泉だった。
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