おくら
@yonagahimenokoi
おくら
「ねぇねぇ、ちょっとこれ見て!」
美優ちゃんが、お皿を拭いていた布巾を放り投げて飛んで来る。手にスマホを持って、カウンターの外で拭き掃除をしている私に画面をグイッと近づけた。
「何この動画?」
床をホウキで掃いていた私は、仕方なく画面に目をやる。
「私が行ってる美容院でさ、撮ったの。」
嬉しそうに美優ちゃんが言う。
「この美容師どう思う?」
勢いに逆らえずが手を止めて動画をじっくり見た
「美容師二人いるけど?どっちよ?」
「髭はやしてる方。カッコ良くない?」
そういわれても動画を見ただけてはよくわからない。
「まぁ、それなりに…。」
曖昧な返答でごまかしてしまった。
美優ちゃんは私の芳しくない返事にちょっとテンションが下がった様子だったが、すぐに立ち直り、宣言した。
「私、この人を推してみる!」
若い子は元気だな、と苦笑する。
「美容師ってお客さんと恋愛ご法度じゃないの?それよりこの人歳いくつなの?随分落ち着いた雰囲気だけど。」
心の中で美容師はやめた方がいいのになぁと思いながら一応聞いてみた。
「31歳。」
「へっ?31って私と同い年じゃない。たしかあんたまだ19歳だったよね?」
一回り上というと、一周回ってだろうか同じ干支じゃないだろうか?
「歳は確かにいってるけど、話してたらギャップ感じないもん。」
美優ちゃんは主張する。そりゃ向こうは商売だから話を合わせるだろう。
「まぁ、勇気があるならやってみれば?」
かわいそうなので、私は少しだけ背中を押してあげた。
31歳で19歳の女の子に言い寄られ、手を出したとしたら、私はそいつの人格を疑う。よほど大人びていて考えもしっかりしてる子ならともかく、美優ちゃんはいかにも子どもだ。女子高生とそう変わりはない。
もしこいつがOKしたら、ただのロリコンか、若い彼女を友達に自慢したいか、または相当悪いやつか、そんなところだ。でも美優ちゃんが張り切ってるのに水をさすのも大人げないので、とりあえず大人として影から見守っておくことにした。
数日後、またシフトが一緒になり、美優ちゃんと二人になった。閉店間際のカフェは、お酒を飲んだあとコーヒーでも‥という大人たちでいっぱいなのだが今日は月曜日。客はほとんどいない。
閉店の準備をしながら、
「ねぇ、この間の美容師どうなったの?」
と聞いてみた。すると美優ちゃんはまたスマホを手に近づいてきて、
「告白したんだけどさぁ、ダメだった。妹みたいな存在としてしか見れないってさ。」
と悲しそうに報告しながら相手から来たメールを見せる。
「あの男、わりとまともな神経してるやつだったか。」
と心の中でつぶやいた。
「残念だったね。」
と言ってあげると、美優ちゃんはパッと顔を輝かせて、
「でもね、友達としてならいつでも相談に乗るし、他の子達と一緒に遊びに行くのはOKだって!」
と満足げだ。
しかしなかなか頭のいいヤツだ。自分についてる客を失わない努力も忘れていない。
「そう、良かったじゃん。お兄さんとして色々相談に乗ってもらうといいよ。」
私は大きなごみ袋をエイヤっと持ち上げながら言った。
「そうだよね~。」
ふられたのに嬉しそうな美優ちゃんが何となく可愛く思えてきて、思わず笑った。
次の週、このカフェで働く女の子の中で、一番おとなしく恥ずかしがりやのマリちゃんが私に声をかけてきた。
「美月さん、美優ちゃんが好きになった美容師さんのこと知ってるでしょ?」
「あぁ、動画で見せられた。なかば無理矢理に。顔とかよく見えなかったけどね。」
と私は笑った。
「私、美優ちゃんにあそこの美容院行ってみたらって言われたんだけど、一人で行くのはちょっと…。」
マリちゃんが控えめに言う。マリちゃんなら美容院で初めて会った美容師と話すのが苦手なのも無理はない。まして男の美容師だもんね。
「美月さん、一緒に行かない?この前、新しい美容院探してるって言ってたよね?」
上目遣いに私を見るマリちゃん。マリちゃんも、あの美容師が一体どんな人なのか見てみたいのだろう。私も興味がないわけではない。
「いいよ。私もいい加減この髪どうにかしなきゃいけないし。」
マリちゃんの目がキラリと輝いた。
「ありがとう。じゃあ私が予約入れとくね。」
マリちゃんは私のスケジュールを確認すると、急いで厨房へ戻っていった。
5日後の金曜日、夕方までカフェで働いた後、マリちゃんと私は連れだって美容院へ出かけた。店の前に着いたのは5時半。すでに辺りは薄暗い。そっと店を覗くと、中には黄身がかった暖かい感じのする照明が灯り、建物はおんぼろ小屋に板切れを打ち付けたような手作りで、一見小粋なケーキ屋さんやパスタの店のようにも見える。
入り口のドアを開けると、奥から
「いらっしゃいませ」
という声がした。ホウキを片手に出てきたのは、確かに私と同い年くらいの男で、鼻の下に髭をはやしている。美優ちゃんの言ってたのは恐らくこの人だろう。
「あのぉ、美優ちゃんの紹介で…」
と切り出すと、
「はいはい、待ってました。どうぞ。」
と奥を手で指し示す。確かによく見ると顔立ちも整っていて服のセンスも悪くない。雰囲気も落ち着いてるし、余計な愛想もない。なるほど、美優ちゃんが憧れるのも無理ないかと私は思った。
まず、門限のあるマリちゃんが先にシャンプーをしてもらうことになった。アシスタントのお姉さんにマリちゃんが奥のシャンプー台で髪を洗ってもらっている間、私はソファーに座って無造作に置かれている雑誌を眺めながらぼんやりしていた。
その美容師は桐谷という名前らしい。美優ちゃんたちは桐ちゃんと呼んでいた。桐ちゃんは私の方へ近づくと、
「で、今日はどういう風にしたいの?」
と声をかけてきた。
私は髪を束ねていたゴムをはずし、
「このまま伸ばすつもりなんだけど、パーマが取れてきてぐちゃぐちゃなんだよね。」
と、後ろを向いて見せた。桐ちゃんは髪を触って、プッと吹き出した。
「これはすごいな。オレ自分の彼女がこんな頭してたら、一緒に歩くのためらうけどな。」
と笑っている。
「失礼だね。そこまでひどくないよ。」
私は笑いながら抗議した。そういえば半年ぐらい美容院へ行くのをサボっていたような…。
この桐ちゃんという男は、初めて会ったのに初めてという気がしないから不思議だ。話していても気を張る必要がない。要するに気楽なのである。美容院へ行くのが面倒な理由のひとつは、無意味な内容のことを話しかけられるってことだ。『仕事は忙しいのか』とか、『休みは旅行に行くのか』とか、放っといてくれと思うのに会話を仕掛けてくる。
でもこの人にはそういう面倒くさいサービス精神を感じない。自然体である。こういうのも美容師の才能のひとつなのかもしれない。
マリちゃんが戻ってきて、さっき私が聞かれたのと同じ質問をされている。マリちゃんは
「うーん、お任せで…。」
と答えていた。桐ちゃんはニヤリと笑うと、
「じゃあ好きなようにしていいの?アフロとかドレッドとか?」
とマリちゃんをからかっている。マリちゃんは
「え、それはちょっと困るけど。」
と言いながらもリラックスした様子で笑っている。
初めての人と話す時、極端に緊張する質のマリちゃんにしてはめずらしい。うちの店でも接客が苦手なので、マリちゃんはずっと厨房で料理を作る仕事をしているくらいなのだから。
楽しげに話しながら髪を切る作業に入ったのを見ながら、私はシャンプー台に上がった。
シャンプー台の向こうには小さな部屋があって、スタッフの控え室になっているようだ。洋服や本が散らかっている。といっても見苦しい感じではなく、かえってくつろぎを与える。左手にはレトロな装飾のトイレがあり、窓から外を覗くと、小さな庭が見えた。木材が転がっていて、何かを作っている途中みたいだ。
美容院なんだけど、まるで工房みたい。まだこれから自分の好みで店の中を改装していくのだろう。側にペンキの缶も置かれていた。
マリちゃんと二人並んで座り、何となく3人で話をしながら作業が進んでいく。
同い年ということがわかると、桐谷ちゃんは私に今何をやってるのか、と聞いた。
「今、資格取るのに専門学校に行ってる。」
と答えると
「この歳から?今まで何してたのさ?」
と興味津々だ。実は20代中盤、私は結婚生活を送っていた。専業主婦でパートしかしていなかったのだが、離婚して一人で食っていかなければならなくなり、やむを得ず専門学校へ資格を取りに行くことになった。別に恥じているわけではないが初対面の人にそこまで話す必要もないと思い、簡潔に
「フリーター生活してた。」
と答えておいた。嘘ではないもんね。
「桐谷さんはなんで結婚しないの?」
とこちらから質問してみる。桐ちゃんは
「めんどうくさいから。」
と笑い、
「姉さんはなんで結婚しないの?」
と逆襲してきた。姉さんって…。マリちゃんより大幅に年上なので姉さんというわけか。
「めんどうくさいから。」
同じ答えをそのまま返した。ふふっと桐ちゃんが笑う。隣のマリちゃんを見ると微妙な表情で口元に笑みを浮かべていた。マリちゃんは私がバツイチだということを当然知ってる。私がごまかしているのが面白かったのだろう。
それはともかくとして、桐ちゃんの作業はなぜかとても時間がかかった。見ていて要領が悪いとか手つきが怪しいとかではないのに、なぜここまで時間がかかるのだろう?
夕方5:30から2人にパーマをかける作業を始めたが、夜の8:30になっても終わらない。途中で申し訳ないと思ったのか、となりの店のたこ焼きや、3件隣の店の揚げジャガイモなんかを買ってきて
「まぁ、これでも食べて・・・。」
なんて言っている。美容院でたこ焼き食べたのは初めてだ。変わった店だなと笑いながら、おなかが減っていたのでありがたくいただいた。マリちゃんのおうちは門限がうるさいのでとにかく先に仕上げてほしいと頼んだら9:30にようやく仕上がった。
私はその後もまだまだ時間がかかった。
「ねえ、終電11:45分なんだけど間に合うのかなぁ?」
と言うと
「大丈夫。電車がなくなったらちゃんと家まで送るから。」
と頼もしく請け合う。終電に間に合う見込みはないってことか…。今11:30だからもう5時間ぐらいたってるんだけどなぁ。
すべてが終わったのはなんと深夜0:00だった。初めて会った人に送ってもらうのも微妙だけれど、もはや若い娘でもないし、第一悪い人でもなさそうだしまあいいのではないだろうか。
桐ちゃんは大慌てで店の掃除をし、店を閉めた。手伝おうかと言ったが
「大丈夫、大丈夫」
とニコニコしている。片づけは早いのにパーマかけるのはなぜあんなに遅い?不思議な人だ。
帰りの車の中では楽しく会話が弾んだ。桐ちゃんは、やっぱりいい人で、受け答えも面白かった。思えば同級生の男の子と話をするのはずいぶん久しぶりだ。
「一人暮らしなの?」
私は聞いてみた。
「いや、猫と二人暮らし。」
運転しているので前を見つめたまま桐ちゃんが答える。
「猫?へぇ~。名前は?」
「おくら」
「おくら?おくらってあの野菜のオクラ?」
「そう。」
「変わった名前。なんでそんな名前にしたの?」
「子猫の時拾ってきて、家に連れてきたら台所に落ちてたオクラに飛びついて遊び始めたから。」
「あ、そう。」
この人もちょっと変わってるけど、オクラに飛びつく猫もずいぶん変わっている。
「でも考えようによってはかわいい名前だね。」
そう言うと桐ちゃんはふふっと笑った。
「この間家に帰ったらさ、台所の流し台のシンクの中に入ってたんだ。俺をじーっと見るから覗いたら、中にうんこしててさ。それ見て『かわいい~!』って思った。」
完全に猫バカである。
とりとめのない会話をするうちに、私の住むマンションの前に到着した。私は車を降りると、
「どうもありがと。また行くね。」
と言って手を振った。
「おうっ。」
手を挙げて桐ちゃんは走り去った。
階段を上がりながら、ふと思う。あの人今日初めて会ったんだったよな。なんかそんな気がしない。ずっと前から友達だったみたいな変な感じがする。
家に入って鏡を見たところではなかなかいい仕上がりだった。時間はかかるけど腕はいいんだろうな、そう思った。
美優ちゃんが紹介しまくったおかげでうちのカフェの女の子の間で桐ちゃんブームがおこり、みんなこぞって桐ちゃんの店に通い始めた。
「うちの店の専属スタイリストか?」
とマスターが笑う。
あれから私も何度か通った。それだけでなく、美優ちゃんを中心に店の女の子数人に交じって私も桐ちゃんと夜中に遊ぶようになった。
たいていは桐ちゃんと若者たちが先に集まり、後から『姉さんも呼ぼう』ということになって誘いのメールが来るパターンだ。
桐ちゃんは気まぐれな質らしく、
「麻雀部を作ったから今から集合」
「飯食いに行くから駅まで来い。」
など突然メールが来る。もちろん行かないときもあるけれど、退屈な時は暇つぶしに参加した。バイト仲間はみんな年下なので常に頼られる存在なのだが、こう見えて私は、やることなすこと案外間が抜けている。桐ちゃんにはそれがわかるらしく、私がおかしなことをするたびに間髪入れず突っ込みを入れてくる。それを見た美優ちゃん達は
「美月さんて、しっかりしてるように見えるけど、同級生から見たら天然なんだね。」
と驚いていた。
初めて店へ行った日の翌日、マリちゃんがこっそり私に言った。
「ねぇ、美月さん。桐ちゃんてね、美月さんと同じでバツイチだよ。結婚してた期間も多分同じくらいだと思う。二人ともお互いにそのこと言わないからさ、おもしろいなと思ってちょっと一人で笑っちゃった。」
あの時の微妙な表情と口元のほほえみはこのせいだったのか。確かにお互い隠す必要もないことだったのに、言わなかったな。どっちの事情も知っているマリちゃんから見ればさぞかし滑稽だったに違いない。
いつものようにみんなで遊びに行った時、桐ちゃんに聞いてみた。
「ねぇ、あんたも私とおんなじでバツイチなんだってね。何で別れたのさ?」
桐ちゃんは
「結婚した時から冷めてたから・・。結婚式の俺のつまらなさそうな顔がひどすぎるって友達があきれてた。」
と笑った。
「そんな新郎イヤだなぁ。じゃあなんで結婚したの?」
あきれて尋ねると
「周りがはやし立てるからつい勢いで・・・。」
と答える。
「姉さんはなんで結婚したの?」
今度は桐ちゃんが聞いてくる。
「勢いでつい・・。」
と答えると
「同じじゃんか。」
桐ちゃんは笑った。
後から美憂ちゃんに聞いた話では、桐ちゃんの奥さんは桐ちゃんがあまり相手をしなかったせいか他に好きな人ができて、別れてほしいといったそうだ。桐ちゃんはそっけなくいいよと言い、速攻離婚届を書いたらしい。
つい最近、みんなでご飯を食べている時、桐ちゃんは自分から、元嫁が今度再婚するらしいという話をした。桐ちゃん以外の友人はみんな呼ばれたのに、桐ちゃんには声がかからなかった。常識的に考えると当たり前だと私は思うのだが、桐ちゃんにとっては納得がいかなかったらしい。
「結婚式に呼ばなくてもいいが一言ぐらい挨拶があってもいいだろう。」
と憮然としていた。どうやらそのお相手の男性は桐ちゃんの友人だったらしいこともわかった。
「結婚式に呼んでくれたら、披露宴で大暴れして伝説を作ってやるのに・・。」
と言ってにやりと笑う。そんなこと絶対できないくせに・・・と私は思った。本当はちょっと、いや、大分傷ついてるんだろう。若い女子たちにはあんまりピンとこない話だったらしく、みんなポカンとしていたが、私には何となく桐ちゃんの気持ちがわかるような気がした。
桐ちゃんという人間は、絶対素直に自分の気持ちを表現しない。いやなことも悲しいことも、ついおちゃらけて笑いに変えてしまう。そしてかなりひねくれ者でもあった。
「今度姉さんが働いてる姿を見に店へ行く」
と言うから楽しみにしていたら、わざわざ私が休みの日にカフェへ顔を出し、マスターとカウンターでコーヒーを飲んでいる写メを送り付けてきた。
でも本当は優しい人間だということが、長く付き合えば付き合うほど伝わってきた。
私がバイトと勉強で疲れた顔をして美容院のイスに座っていると、さりげなくリポビタンDを鏡の前に置いてくれる。普通のスタッフは、実年齢より少し若い子が読む雑誌を前に置いていくが、桐ちゃん持ってくるのはいわゆる女性週刊誌。
「たまにはこういうの読みたいだろ?」
とさりげなく前に積んでいく。
確かに自分では絶対買わないけど、芸能人のスキャンダルがいっぱい載ってて興味はある。なかなか心憎いサービスだ。
桐ちゃんの店に通い始めて1年くらいたった秋のこと。私は勉強に行き詰り、バイトも忙しく本当につらい時期にさしかかっていた。ある日、桐ちゃんの所へ行ってイスに座ると、桐ちゃんが髪を触って言った。
「髪が痩せてる・・・。」
「え?髪って痩せるの?」
私は驚いた。
「痩せるよ。爪とか髪とかっていうのはさ、一番命にかかわらないだろ?だから最初に弱って回復するのは最後なんだ。」
説明するときの桐ちゃんはいつになくまじめな顔をしていた。本当に心配してくれているみたいだった。慰めの言葉をかけるわけではないのに、私の髪を見て私のピンチに気づいてくれたことが何だか心にしみた。
口ではふざけたことを言っているが、繊細な神経をしている。ストレートな言葉よりもずっと胸に響いた。
季節が冬に向かってすすむ間に、私の不調はどんどんひどくなり、変調が体に現れるようになってきた。
常に頭が痛くて気分が沈む。時々手が震えたり、息が苦しくて部屋でうずくまったりするようになった。家で勉強できないので、喫茶店で参考書を広げたりするのだが、じりじりと何とも言えない不安感がこみ上げてくる。友人から入手した精神安定剤を飲んでも治まらない。
ふと誰かに助けを求めたくなった。参考書の上に突っ伏したまま携帯電話を手にとった。誰に伝えればいい?
思いついたのは桐ちゃんだった。
「私、最近心も身体も調子悪い…。」
それだけうつとメールを送信した。もちろん仕事中だろうからすぐに返事が来るとは思っていない。ところが5分もたたないうちに返事が送られて来た。
「お前さんもかい?」
え?意外な返信に一瞬顔を上げて固まった。お前さんもってどういう意味?
なんと返事を返そうかと携帯を握ったまま、しばらく考えているともう1通メールが届いた。
「無理するな」
『お前さんもかい』、という言葉の真相を確かめたいような気もしたが、なんとなく今はやめようと思った。
「ありがとう」
とだけ返事をする。
桐ちゃんとは今までもなんとなく波長が合うのを感じていたが、もしかするとお互いに人には言えない影みたいなものを抱えているのかもしれない、そう思った。
苦しかった呼吸が少し楽になり、緊張していた体から力が抜けて行った。
カフェでも学校でも、周囲には悟られないように明るく振る舞い、家に帰ってベッドに突っ伏す日が随分長く続いた。
雪がちらつくようになった冬のある朝、私はついにベッドから全く起き上がれなくなった。このまま死んでしまえたら楽だろうな、そんな考えさえ浮かんでくる。自分でもこれはやばい状態だと感じた。
丸2日間、ほとんどベッドの上で過ごした後、鈍い動作で携帯電話を手に取った。
「私、今ほんとにヤバいかも。」
それだけ入力するのがやっとだった。少し迷ってから送信ボタンを押した。受け取った相手がどう思うかと考えると申し訳ない。でも、あまりの苦しさに、助けを求めずにはいられなかった。
返事はなかなか来なかった。期待していたわけではないから、それは別に構わない。返事が来たとしても、
「何を言ってんだ、甘えるな」
と怒られるのがオチだ。私はただただ枕に突っ伏していた。
1時間くらいたっただろうか?時計は真夜中0:00を回っていた。電話が鳴る。
しばらくは電話を取る気になれずそのままにしていたが、着信の表示を見て、ハッとした。桐ちゃんだ。
「もしもし?」
声を絞り出す。
「今、家?」
桐ちゃんの落ち着いた声が聞こえてきた。
「うん。家にいる。」
私は目を閉じたまま答えた。
「家の前にいる。行くから待ってろ。」
桐ちゃんはそれだけ言うと一方的に電話を切った。私はあわてて上半身を起こした。そろそろとベッドから降りる。のろのろと玄関に向かって歩き出すと、チャイムが鳴った。
ゆっくり鍵を開けると、桐ちゃんが立っていた。肩や紙に少し雪がついている。
「来てくれたんだ・・・。」
私は小さくつぶやいた。本当はかなり驚いていたのだけれど、反応する力がなかった。
「今にも川へ飛び込みそうなメールが来たら行かないわけにいかないじゃん。無視したら、俺、人でなしと思われるもん。」
にやりと笑いながら桐ちゃんが言う。こんな状況を冗談に変えてくれることが心底ありがたかった。
「ごめん・・・。上がって。」
私は体を半分よけて桐ちゃんを通した。
桐ちゃんは遠慮する様子もなく部屋へ入ってきた。部屋の中をキョロキョロするでもなく、部屋のど真ん中にドスンとあぐらをかいて座った。私はベッドの端に力なく座り込んだ。
「で?何がどうしたって?」
桐ちゃんがぶっきらぼうに尋ねる。
「私さ、調子が悪いと思ってたら、ついにまったく動けなくなっちゃったんだよね。熱が出たことにして昨日からバイトも学校もさぼってる。」
私は下を向いたままつぶやくように話した。
「お前、何日飯食ってない?顔がげっそりして10歳、いや12歳くらい老けて見えるぞ。」
桐ちゃんの言葉に私は思わず小さく笑った。
「なんか飲み物ない?」
唐突に桐ちゃんが言い出した。食べ物はないけれど飲み物だけはなぜか冷蔵庫にいっぱい入っている。
「冷蔵庫の中にしこたま飲み物が入ってるから勝手にどうぞ。」
私が冷蔵庫を指さすと、桐ちゃんは立って行って冷蔵庫を開けた。
「うおーっ。酒屋みたい。」
桐ちゃんが歓声を上げている。冷蔵庫の中は酒とウーロン茶と水だらけだ。最近酒と水しか飲んでない。今日はそれすら飲む気になれなかった。
桐ちゃんはビールを2本手に取ると戻ってきて1本を私に渡した。私は受け取るとゆっくりプルタブを持ち上げた。
「雪降ってんの?」
私はカーテンを開け、外を眺める。細かい雪が舞い散っているのが見えた。冷気を吸いたくなって窓を開ける。二人で床に座って雪を眺めながら黙ってビールを飲んだ。
「私さぁ、離婚してから生活を立て直そうとし必死でやって来たんだ。何とか一人で生きて行けるように資格を取ろうと思って、バイトしながら勉強もして。バイト仲間もいい子たちばっかりで、学校にも友達はいっぱいいる。充実してるはずなのに、なんか心の中が空っぽなんだよ。なんかグラグラして不安定で、虚しい感じがする。救いがない。」
雪を見つめたまま私は言った。桐ちゃんは黙ってビールを飲んでいる。
「生きてるのがつらい。」
誰にも言えなかった言葉をついに私は口にした。
桐ちゃんはビールの缶を床に置いて冷たく言い放った。
「当たり前じゃん。生きてるのはつらいよ。」
そうだよな、普通はそういうと思う。だからあまり人には言えなかった。
「ねえ、前にメールした時、『お前さんもかい』っていったじゃない?お前さんもの『も』って桐ちゃんのこと?」
私はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「そう俺。」
桐ちゃんがうなずく。
「子供のころから、理由もないのに学校行きたくない日があった。今でも外に出られないで1日中寝てる日がある。」
そういえば私もそうだった。子どものころから、別に嫌なことがあるわけでもないのに学校を休むことがあった。桐ちゃんの誘いが突然なのは気まぐれなんじゃなくて、気が向いた時にしか外へ出られなかったからなんだ。
「桐ちゃんも一人暮らしじゃない?別に今は彼女もいないでしょ?何を支えに毎日生きてんの?虚しくなることない?」
桐ちゃんがちらっとこっちを見た。
「俺はおくらさえいればそれでいい。あいつは絶対俺を裏切らないし、俺も絶対あいつを裏切らない。」
桐ちゃんの目に救いようのない孤独の影が色濃く滲んだ。
「おくらが死んだら…、その時はおれ本当にヤバいと思う。」
返す言葉が見つからなかった。もしかするとこの人は私よりももっとずっと深く、危険な闇を抱えて生きているのかもしれないと思った。
桐ちゃんは突然そこにあったリモコンを手に取るとテレビの電源をパシッと入れた。深夜枠の映画がやっている。
「俺、映画見てるからお前寝ろ。朝になったら飯食いに行くぞ。」
そう宣言したあと、勝手にごろりと床に寝転がった。
「そうする。」
座っている体力もなかった私は、ベッドに戻って布団にくるまった。桐ちゃんは朝まで一緒にいてくれるつもりなのだ。
恐怖を感じるほど揺れていた不安定な心は少し落ち着きを取り戻していた。眠れるかもしれない。私は目を閉じた。久しぶりにちょっとした安らぎが自分を包んでいた。
翌朝目覚めると、カーテンから日の光が差し込んでいた。雪はすっかり上がり、明るくて青い空が広がっている。桐ちゃんは映画を見終わったらしくそのままマンガに読みふけっていた。
「これ懐かしい。久々に見ると笑える。」
時々声を出して笑っている。何を読んでいるのかと思ったら、私の本棚にあった「オバケのQ太郎」だった。
「私、ドラえもんよりQちゃん派なんだ。」
と言うと、桐ちゃんは
「俺は絶対ドラえもんと暮らしたい。」
と主張した。
「そうかな。私は一緒に暮らすなら絶対Qちゃんがいい。今すぐにでも一緒に暮らしたいよ。そしたら虚しさなんか吹き飛ぶと思うな。」
桐ちゃんは言った。
「それは無理だ。貧乏なお前にQちゃんは養えない。こいつは飯を36杯も食うんだぞ。」
意表を突く言葉に私は笑った。そしてまだ笑える自分にほっとした。
とりあえず顔を洗って着替え、化粧をして出かける準備をする。桐ちゃんは車の中で待っていてくれた。
「何食べたい?」
桐ちゃんが車を走らせながら尋ねる。
「フツーのモーニングが食べたい。トーストだけじゃなくてホットサンドがある店に行きたい。」
と私は主張した。了解、と言って桐ちゃんは、コーヒーが自慢の喫茶店に向かってハンドルを切った。
二人で違う種類のホットサンドを注文する。先に来たコーヒーを一口飲むと、気持ちよく胃の中にしみていくのがわかる。
ホットサンドが運ばれてくると、桐ちゃんは自分のをお皿から一切れ取り上げ私のお皿に置いた。代わりに私のを半分取って自分のお皿に乗せる。
「これで両方の味が楽しめる。」
桐ちゃんはニッコリ笑った。とても優しい笑顔だった。この人、こんな優しい笑い方をすることがあるんだ・・・。胸の辺りがじんわりと暖かくなった。
朝ごはんが終わると桐ちゃんは私を家まで送り届けてくれた。車から降りる私に、
「お前、ちゃんと病院行けよ。」
と一言だけ忠告した。
「わかった。ほんとにありがとうね。」
私がお礼を言うと、軽くうなずき、帰っていった。
翌日、私は言われたとおり病院へ行った。クリニックの先生は女の人で丁寧に私の症状を聞き、薬を出してくれた。
「何もこんなになるまで我慢しなくても良かったのに。大丈夫、ちゃんと良くなるわよ。」
先生は私をおおらかに受け止めてくれた。翌日から私は、もらった薬を飲みながら、学校へ行き、カフェで働く生活を再開した。
その頃から、私は時々ただ勉強するためだけに桐ちゃんの店へ行くようになった。他のスタッフが帰る頃合いに店へ行き、桐ちゃんが仕事をしている間、奥のスタッフの部屋に寝転がって教科書を復習する。桐ちゃんとお客さんの会話や、桐ちゃんが使うリズミカルなハサミの音を聞きながらに静かに過ごした。レトロなストーブの火が燃えるのを時々ぼんやり眺めながら。
3月に入り、いよいよ資格試験が近づいてきた。調子がいいとは言えないが試験だけは何としても突破しなければならない。
試験前の最後の診察で、
「試験会場までたどり着けるかどうかが問題で・・。」
と言うと、先生は
「試験会場までは何とかたどり着いてよ。そればっかりは助けてあげられないから。」
と笑った。
試験が無事に終わると、私は糸が切れたように毎日ふらふらと遊び歩いた。ある夜、友人たちと飲みに出かけた後、ほろ酔い気分で桐ちゃんの店を覗いてみた。
スタッフもお客さんも帰ってしまった店の中で桐ちゃんがせっせと掃除をしている。勝手に鏡の前の椅子に腰かけて、くるくる回りながら後片づけをする姿を見学していた。
「ねえ、好きな人ができたらまた結婚したいと思う?」
桐ちゃんはでっかいごみ袋をドカンと店の入り口に置いた。
「二度とするかっ。あんなもの1回したら十分だ。」
ふうん、私は床を蹴ってくるりと一周回った。桐ちゃんは掃除の手を休めずに言った。
「お前は絶対嫁に行った方がいいぞ。」
「なんでよ?」
私は椅子を止めて桐ちゃんを見た。
「一人で生きていくのに向いてないから。」
桐ちゃんは笑っている。
「俺は一人でも生きていける。でもお前は向いてない。」
そうかもしれないな、と私は思った。孤独に耐えられる人間と耐えられない人間。たしかに2種類の人間がいる。私はきっと、一人では生きていけない。
「帰るぞ。」
店の戸締りを確認し、桐ちゃんは店の電気を消した。私は鏡の前に放り出したカバンを取ると桐ちゃんについて店を出た。駐車場まで歩く道は街頭に照らされてほんのり明るかった。今日は13夜で月あかりも挿している。私は桐ちゃんの腕に自分の腕を絡めて歩いた。桐ちゃんも振り放すことはなかった。
私がつかむ腕は、この腕じゃない。きっと。月を見ながらふとそう感じた。一人で立つことのできない人間はこの人に寄りかかってはいけない。寄りかかってきたものを、この人は振り払うことをしないだろう。だからこそ寄りかかっちゃいけない。そう思う。
4月になると私はカフェのアルバイトをやめて就職した。試験の結果は合格だった。合格証を手に入れ、資格を取っても初めは素人同然。毎日先輩方に叱り飛ばされ、謝り、職場を駆けずり回り、家に帰って今日の仕事を復習し、居眠りをして風呂に沈む、そんな生活が続いている。
やれやれ、一人前になれるのはいつになることやら…。
初めて給料が出た日、桐ちゃんの店へ行った。
「髪をバッサリ切って。ショートカットにする!」
私は宣言した。
「ほんとにいいのかよ?」
と桐ちゃんが確認する。
「10年くらいロングなんじゃないの?切ってから戻せと言われても困るぞ。エクステでもつけるしかなくなるんだから。」
「いいの。悪霊・・いや悪運退散。髪を切って厄払いをする。」
私は高らかに言った。
「わかった。じゃあホントに切るぞ。」
桐ちゃんはジャキジャキと景気よくハサミを入れた。職人のように、長く手になじんだハサミを使って華麗な手つきで髪を切り落としていく。肩にのしかかっていた髪の重みが少しずつ消えていった。余分なものをそぎ落とすって、なんて気持ちがいいのだろう。
「仕事の方はどうだい?」
桐ちゃんが鏡越しに私を見た。
「頑張ってるよ。毎日怒鳴られて、この歳でしゃっくり出るほど号泣してる。」
そういうと桐ちゃんは声を立てて笑った。
「そんなかわいらしいところもあったんだ!」
しばらくして桐ちゃんが力強い声で言った。
「ほら、切ったぞ!」
私の髪を乱暴にくしゃくしゃっとかき回し、切ったあとの髪の毛を払ってくれる。大きな手で頭をなでられたようで気持ちがよかった。
鏡の中には、まるで別人のような自分がいる。
きりちゃんは、
「似合うわ。かわいい!」
と自画自賛している。
「これで明日からはいいことずくめだろう。」
私が満足そうに言うと、桐ちゃんはフンっと鼻で笑った。
お金を払って美容院を出る時、桐ちゃんが小声で言った。
「仕事に慣れたらお前の古巣のカフェへ行って、美優たちの働きぶりを見に行くぞ。」
私は笑顔でうなずいてドアを開けた。気持ちのいい春の風が短くなった髪を軽やかにさらう。軽くなった髪がふわふわと、浮き上がる。私は春陽の中を歩いて行った。
おくら @yonagahimenokoi
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