石垣良子
昔から顔や名前を覚えるのが苦手だった。
本鈴が鳴る少し前に他の先生方と共に職員室を出る。この女子高に赴任して二か月、僕はまだ先生方の顔と名前をほとんど覚えていない。静かな校内に足音だけが響く。
覚えられないのではなく覚える気がないのだ、とはよく言われた。実際その通りだと思う。他人に興味なんてないし、名前や顔なんて所詮記号だ。教師や事務員はみんな同じような事を考えていて、同じような顔をしている。教育に対する熱意なんてものはとうに冷め、窮屈な教育要綱をスムーズにこなしていく事だけを考えている。
先生方がそれぞれの教室へと散っていく。僕もまた授業する教室へと向かい、開いた扉の中が見える前に立ち止まり、ネクタイを少し緩めた。
気付かれない程度に深呼吸して教室へ入る。
「おはようございます」
これは挨拶ではない。誰に向けたものでもない。ただの慣習だ。だから返事もない。
教卓に立ち教科書を開いていると本鈴が鳴った。
「起立、礼、着席」
無意味な慣習を終え、四一人の生徒達が一斉に僕へ目を向ける。
みんな同じ顔だ。まったく見分けが付かない。
すぐに教科書へと目を落とす。
「今日は引き続き川端康成の作品、『女であること』の妙子の心情について考えていきます」
ページを開く音が波のように聞こえる。
「では廊下から三列目一番前の方、二八頁の三行目から読んでください」
「先生、この列は昨日の授業でも当たりました」
そんなはずはない。それぐらいメモしている。
「そうですか。では二列目の一番前の方お願いします」
「先生、この列は前々回の授業で当たりました」
……そうか、からかわれているのか。僕は常に窓側から当てている。一度も例外はない。
「ではどの列でも構いません。一番前の方が読んでください」
「先生、ちゃんと名前で呼んでください」
同じ声をした生徒の誰かが言った。
この一か月、問題のないクラスだと思っていた。しかし、というよりもやはり、どこの学校のどのクラスでも面倒な生徒はいる。
「ではあなたの名前を教えてください」
「石垣良子です」
「では石垣さん、二八頁の三行目から読んでください」
「私達はみんな石垣良子です」
申し合わせていたかのように、おそらくはクラス内すべての生徒が声を揃えた。
思わず顔を上げた。
同じ顔をした生徒達が同じ声でくすくすと嘲笑っている。
「静かにしなさい」
一声告げると生徒達は一斉に黙り、まったく同じ無表情で僕に目を向けていた。
こいつらはのっぺらぼうだ。同じような事しか考えないから――否、きっと何も考えていないから同じ顔をしている。揃えば顔かたちに意味はなく、実際顔かたちなどないに等しい。
指定していた頁を僕が読み、黙って黒板に文字を走らせる。カツカツとチョークが黒板を打つ音だけが静かに響く。
これでいい。彼女らには何も求めない。粛々と授業を終わらせよう。
「先生、先生はどうして私達の名前も覚えてくれないのですか」
カツンと途中で止めた音がやけに大きく聞こえた。
振り返り、生徒達の顔を眺めた。みんな同じ顔だ。同じ目で僕を見ている。
誰が尋ねたのは分からない。最初に石垣良子と名乗った生徒かもしれないし、そうではないかもしれない。別に誰だっていい。どうせみんな同じ、からっぽののっぺらぼうだ。
小さく咳払いをして、僕は教卓に両手をついた。
「あなた方の名前など覚えるつもりはありません。名前や顔など所詮は記号、しかしあなた方は記号ですらないのです。思考せず意味もなく、あなた方はただこの高校に在籍しているから今ここにいるだけなのです。私は現代国語の教師です。現代国語を教える事だけが仕事です。何も描かれていない無意味な記号を覚える義務はありません。あなた方の将来について、生き方について、今について、何についても興味はありませんし、教えるつもりもありません。どの石垣さんでも構いません、反論があるなら述べてください」
のっぺらぼう達は押し黙り、誰も何も言おうとはしなかった。
私は書きかけて止めた文字を消し、続きを書き始めた。
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