第18話 ダンサーへの道 〜 南 琴子
「ごめん。やっぱ琴子ちゃんとは一緒にいられない.....」
「そう.....」
去っていく茜の背中は、迷いのなく遠ざかっていく。また、やってしまった。
友達を作るのも得意。そして、別れるのも得意。得意と言ってしまうほど、私は友達と仲違いすることが多い。
わかっている。私は嘘がつけない。合わせることが出来ないんだ。中身のない、その場だけの陰口ですら許すことが出来ない。それが友達の陰口となるとなおさら。
去る背中を追うことは無い。お互いが居心地悪くなるのに、引き止めて何になる?
私は今どんな顔をしているのだろう。泣いてはいない。慣れてるから。
「あ、こんな時間か.....」
腕時計の針が綺麗な一本線を作っていた。いつの間にかオレンジ色の世界が広がっていたのだ。そろそろ帰らないとピアノのレッスンに遅れる。
学校指定の鞄を背負い直し、駅前の教室に向けてゆっくり歩を進めた。
「そっか。辛かったね」
「辛くないわ。慣れてるもの。それに、あの子も言い出す時に震えてた。きっと凄く緊張して、怖くて、つらかったんだと思うの。彼女を褒めてあげるべきよ」
しおり先生は私の頭を優しく撫でてくれる。誰にでも優しい先生。私も大人になったら先生みたいになりたい。綺麗で、背が高くて、優しくて、全部包み込んでくれるようなふんわりした笑顔。ピアノもそれを表すような優しくて綺麗な音を奏でる。その美しさに引っ張られるように、私はピアノを始めたんだから。
「純粋で優しい子。琴子ちゃんはもっと甘えてもいいのよ。いまは誰もいないから。ね?」
そう言って、しおり先生は私を抱きしめた。いつもの優しい先生からは想像出来ないような力強さで。それは、子供が今にも消えてしまいそうな虹を逃がさないために手を伸ばすような、そんな無駄な事のように思えた。
息が苦しくなった私は、しおり先生の腕の中で足掻いた。
「ちょっと痛いってば。しおり先生。私は悲しくないわ。勘違いしないで」
私の顔が見えるように、少しだけ力が緩んだ。しおり先生は困ったような笑顔で私に笑いかける。
「ばーか。何年一緒にいると思ってるのよ。琴子ちゃんが苦しい事がわからないほど、私は鈍くないわよ」
何よ。何言ってるのよ。
「だから! 私が悪いんだって! いい加減に.....」
頬が濡れた。私は驚いて、自分の顔を触る。
「それでいいのよ。琴子ちゃん。私はあなたが好きよ? 大好き。だから安心して。先生はあなたの味方なの。ずっとね」
「.........」
わからない。悲しくない。でも、涙が止まらない。
急にあの子の顔が浮かぶ。話しながらも、今にも泣きだしそうだったあの顔が。何で、わからない。
静かな教室には私の息遣いだけが聞こえる。まるで自分のものではないみたいに、遠く聞こえた。
しおり先生はずっと抱きしめてくれた。先生の肩がいっぱい濡れたけど、ずっと抱きしめてくれたの。
帰り道。私は泣き過ぎて目のあたりが痒くなった。掻くと荒れそうだったから我慢して家に帰ったけど。家に着いてからすぐに顔を洗うと、洗面台の鏡には目を赤くした知らない人が写っていた。
「.....酷い顔」
部屋に戻ってアニメを観ることにした。ため撮りしてあったアニメを追って観ていたけど、全然頭に入ってこない。
「.....今日はダメね。もう寝ましょう」
制服を脱いでパジャマに着替えた。なんとなく、今日はお風呂に入りたくなかった。明日入れば問題ないから、今日はこのまま寝てしまおう。布団に潜り込んだけど、頭を埋めるのは別れを告げたあの子と、しおり先生の笑顔が半分ずつ。やだ、もう考えたくない。
その日はなかなか寝付けなかった。
翌日の朝。いつの間にか寝ていた私は、お母さんのバタバタした足音で目が覚めた。十時。今日は祝日だから家でゆっくりしよう。
アニメを観る気にはなれず、パソコンを立ち上げて適当に時間を潰していた。この日、何故かいつもは観ないものばかり観ていた。何かが欠け落ちたようにぽっかりした心を別のもので埋めようとしているのかしら。
そして、一つの動画にたどり着いた。
「『洛美大学 学祭』? ここ、私の志望校だ」
家から一番近い大学の学祭は、体育館に舞台を作って軽音部がライブをしていたり、一般生徒が漫才をしたりと楽しそうだった。ただ、やっぱり素人がやることであまり出来の良いものではない。
「つまんないの。もっと練習をしなさいよね」
バーを動かして次々に見世物を摘み食いしていくと、あるところで私の手が止まった。
「ダンス部。リトルマジシャン? チーム名かしら.....」
それは気が向いた程度の小さな興味。
でも、一秒、二秒。それこそ秒単位で、私の心は吸い込まれた。カメラは遠く、画面越しなのに、私は高揚していく身体を止められない。
小さな画面の中で動き回る人達。その中でも一際存在感を放つ女性を目で追ってしまう。凛とした美しい立ち姿。線の細い見た目から繰り出される力強い動き、剛と柔を兼ね揃えたその女性に釘付けとなった。
僅か四分。ただ観ていただけの私の身体は、しっとりと汗ばんでいて、パソコンから目を離したところで、手を強く握り込んでいた事に気付いた。
これは運命だと思った。ここまでの衝撃は生まれて初めてで、ぽっかりと空いていたはずの心を埋める以上の存在となっている。
「ダンス.....か」
その後、私は何度も同じ動画を見返した。なぜ惹かれるのか、なぜこんなに動けるのか。その好奇心は、印象的な彼女を特定するまで止まらなかった。
「『ミキさん』って言うのね」
ファンが多いのか、調べるとすぐにわかった。きっと有名なチームなのだろう。今は二回生。私が入学するときにもまだ卒業はしていない。
彼女に会ってみたい。叶うなら、彼女にダンスを教えてもらいたい。
「あ、でも.....」
私にはピアノがある。憧れのしおり先生のもとで習って、もう六年になる。簡単に辞められるところにはいないのだ。
仕方ないとパソコンの電源を切って、アニメを観ることにした。ダンスが出来ないにしても、心は埋めてもらえた。それだけでも良しとしなければ。
そうこうしてる間に、いつの間にか夕方になっていた。かなり貯めていたアニメはこれで全部観れたので満足だ。
でも、やっぱり気持ちの隅で踊ることを考えてしまう。このオープニングで踊れないかな?
いけない事とわかっていても。知ってしまったのだ。しばらくは頭にこびりついて離れないかもしれない。
もやもやする気持ちを落ち着ける為に、白いインナーの上からお気に入りのジャケットに袖を通し、デニムパンツを合わせて、近くを散歩することにした。
学校で授業を終えた私は、しおり先生のレッスンでピアノを弾いていた。学校では茜と縁を切ったけど、友達は多いのでそれほど苦ではなかった。ただ、彼女とは一度も目が合わなかった。
「ストップ」
しおり先生が止め、私は指を静止させる。しおり先生は迷うように、私の顔をじっと見た。
「琴子ちゃん。何かあったの? どこか上の空だよ?」
「いえ、何も無いです」
そんな筈はない。表に出ないように細心の注意を払ったのだ。いくらしおり先生でも気付くとは思えない。
「何か気になる事があるのよね? それも一日中考えちゃうくらいの 」
聡すぎる先生は、いつも通りの優しい笑顔だ。本当にこの人は.....。頭の中が丸裸にされている気分になる。繊細な彼女だからこそか。
観念した私は、例のダンス動画について説明した。
「そっか。ダンス、やってみたいんだよね?」
「えっと、まぁ、ちょっとだけ.....」
「でしょうね。いいと思うよ。やってみなさい」
「でも、それだとピアノが出来なくなっちゃう。そんなの嫌.....」
心の底からそう思った。ダンスはやりたい。でも、ピアノも続けたい。板挟みなのだ。
「こう言っちゃなんだけど、琴子ちゃん。あなたピアノ弾くの好きじゃないでしょ?」
「そんなわけない!」
有り得ないことを言うしおり先生に、私は怒鳴った。やりたくなければこんなに迷ったりしない。
「ううん。わかるもの。あなたはピアノが好きなんじゃなくて、私が好きなのよ。先生だってプロだよ? 好きか嫌いかなんてすぐわかる」
「.....っ」
言い返せない。気付いたからだ。まさに目から鱗だった。その考え方が、本当にしっくりきた。
弾くのが楽しくないことは無い。でも、ここへくる理由はいつもしおり先生に会うためだった。
「琴子ちゃん。あなたはピアノよりダンスの方が向いていと思うな。身体動かすのも好きだし、緩やかな曲を弾く時いつもモゾモゾしてるもの」
「そうだったんですか.....」
知らなかった。確かにゆるい曲よりも激しい曲の方が好きではあるけど、そんな癖があったなんて。
でも、ダンスを勧めるってことは.....。
「しおり先生。私のこと嫌いなんですか? もう会いたくな.....」
「馬鹿なこと言わないで!」
聞いたこともないしおり先生の怒声に、私は震えてしまった。想像もしたことがないその姿に、初めて先生が怖いと思った。
しおり先生の顔はムスッと膨れていたが、すぐにいつもの顔に戻る。いや、少し悲しそうだ。
「そんなことは絶対にない。先生が言いたいのは、ピアノを辞めてダンスを始めたとしても、たまにはここへ来てほしいなってこと。可愛い妹分なの。嫌いになることなんて絶対にないから」
「先生.....」
「そのかわり、ダンスを始めたら半端に終わっちゃダメよ? 優秀なピアニストを手放すんだから、これくらいのワガママ許されると思うなぁ」
しおり先生の言葉に、頭の中で突っかえていた物が溶かされるように消えていく。
彼女なら、全部わかってくれる。
「はい!」
しおり先生は腕を広げ、私は迷わずそこへ飛び込んだ。この前とは違う優しくて暖かい包容。頭を撫でてもらい、微かにわかる甘い匂いの中で私は目を閉じた。
もう、迷うことはないんだ。
「ねぇ、しおり先生」
「なぁに?」
「しおり姉って呼んでいい?」
「もちろん。私はずっとあなたのこと妹だと思ってたわよ?」
「うん。ありがとう」
一人っ子の私に、お姉ちゃんが出来た。しおり姉のためにも、立派なダンサーにならないと。
それから月日が流れ、色々なことがあった。
無事志望校に合格した私は大手を振ってダンス部に向かった。初日にダンスの基礎を習って、ジャンル紹介の時に憧れのミキさんを見つけた私は、叫びそうな気持ちを押し殺して彼女を目で追った。実際に見た彼女は背がずっと高く、生のダンスの迫力も圧倒的なものだった。
基礎が終わってからすぐに彼女のところへ行き、彼女に教えてもらう為にここへ来たと言うと、嬉しさと困惑が半々の顔でこう答えた。
「それはありがとう。でも、今すぐは教えられないかなぁ。ちゃんと基礎組と一緒に練習を積んできたら教えてあげるね?」
当たり前だけど、ミキさんのチームはファンが出来るほどレベルが高い。いつ辞めるかわからない新人に手を掛けていられるほど暇ではないのだ。
その日は大人しく帰って、ミキさんのやっているガールズヒップホップの動画を少しだけ調べた。感想だけ言うと、よくわからなかったけど。その後はアニメを観ていた。これは日課だから外せない。
別の日、基礎練のグループの中で、一人だけ男の子が混じっているのに気が付いた。彼は背が低くく(それでも私と同じくらい。多分160センチ?)、ダサい服に手入れのされていない所々跳ねた髪。デザイン無視の安そうな細型フレーム眼鏡を掛けており、どこから見てもオタクだ。何故ダンスを始めたのか気になって話しかけたところ。
「アニメ好きだけど、別にいいだろ.....」
と、リクくんと言う名前の彼は、はめちゃくちゃ膨れてしまった。その顔は子供っぽくて可愛いと思ったが、気を悪くしてしまったので慌てて謝った。
今までアニメ好きの友達がいなかったせいか、少し饒舌に話してしまい、軽く引かれたのは少し後悔した。
その日の内にマサヤくんという男の子とも仲良くなったが、彼には何故か対抗心が湧いてくる。どうしたんだろ私.....。
とりあえず二人を、『リクっち』『マサやん』と名付けた。いい名前だ。
ある日、基礎練を積んでいた私のところにミキさんが来て、一緒にやろうと言ってくれた。本当に嬉しくて、帰りにしおり姉のところに報告に行った。喜ぶ私の手を取って、良かったねと何度も言ってくれた優しいお姉ちゃん。これで、一歩進んだ気がしたのだ。
いつの間にか三人で行動することが多くなった私と男子二人は、大学対抗バトルの一回生選抜戦の話で持ちきりだった。その前にダンス部全体のショーケースイベントがあったのに、リクっちは辞退してバトルに備えると聞いた。
ずるい!
選抜戦当日。一回戦を軽く突破した私は、二回戦でリクっちに当たった。彼は運動が苦手で、勝ち抜けるとは思っていなかったのでびっくりしたけど、まぁ負けることはないだろう。私にはミキさんにも言ってない隠し玉があるのだ。ここで出して、みんなをアッと驚かせてあげよう。楽しみだ。
リクっちとの戦いが始まって、私は後悔した。格下だと思っていた彼が、しつこく粘ってくる。延長に次ぐ延長。もう隠し玉のワックを見せてしまった私には何も無い。想像よりずっと強くなっていた彼が恐ろしく思えた。あとは気持ちしかない。喰い殺す勢いで、全力のムーブを彼に叩きつけた。
次の日、リクっちに完全敗北をしてしまった私は、一人学校の屋上で練習をしていた。初めての敗北感。友達を侮った罪悪感。頭がぐるぐるしながら練習をしていたら、なんと本人が来てしまった。もう隠せない。そう思った私は、彼に胸の内を語った。
しかし、彼はひとつも責めることなく笑っている。どうしてそんな顔ができるの? 私はまた少し後悔した。
何故かマサやんも来て、三人揃ってしまった。美味しいところだけ持っていったマサやんには、いつか痛い目を見させてやろう。
そんな決意をしていたら、リクっちがチームに誘ってくれた。日本代表を目指す初心者チーム。私は二つ返事で了承した。だってそうじゃない。上を目指すって決めていたんだから。
チーム結成を決めたいま、私はリクっちとマサやんと一緒にいつもの屋上で練習をしている。
「おいミナミ! そんなんじゃルーティーンにならねぇだろ!」
「うっさいわね! だったらアンタが合わせなさいよ!」
「二人とも喧嘩しないでよ.....」
いつもの練習。いつものやり取り。私はこの二人となら日本どころか、世界だって取れると信じている。まだまだ初心者だけど、伸び代は計り知れないし、やる気だってすごく高い。
見ててねしおり姉。私、一番になるから。
私は口うるさいマサやんを軽く殴って、必死に練習したのである。
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