第2話

 霧はエクスの心を映し出すかのように、暗く、淀んでいた。


 仲間が悪者の手に渡ってしまうのに、自分は何もできなかった。神が引き起こした不可抗力という名の雨に、ただ成すすべがなく天を仰ぎ見るだけの、モブになり果てていた。


 一行の指針はもちろんのこと、タオに向いている。彼を連れ戻さないことには旅は始まらない。唯一無二の仲間を置いて新しい旅を始めるには、彼との関係性は深すぎた。


 しばらく歩くと、沈黙の霧が微かに薄くなっていた。レイナの力でカオステラーを追う一行は、やっとのことでハインリヒがいるであろう想区までやって来ていた。


「ここにタオはいる……」


 重々しく口を開くのは、レイナ。彼女は空白の書を奪われた責任を人一倍感じているのか、表情は硬くなる一方だ。


「それじゃあ行きましょう、姉御、新入りさん」


 シェインもいつになく元気がない。それはエクスも同じで、一歩一歩踏み出す足が、あたかも地面から現れたゾンビに掴まれているみたいに、重く、軋む。


 想区に入ってすぐ目に映り込んできたのは、立派な鉄扉だった。門前には仰々しい鎧を着た騎士が待ち構えていて、三人を確認すると有無も言わさず、鋭利な槍を繰り出される。


「お前たちは一体何者だ? 今すぐ立ち去れ!」


「い、いや、僕たちはその……決して怪しいものではなくてですね」


 エクスの慌てふためきように、レイナはあきれ顔だ。


 そこに、「ハインリヒの招待で来ました。どうか中へ入れてください」と、シェインの気の利いた返し。


「ハインリヒさんの……。お前、どう思う?」


「俺は何も聞いてないぞ。来るものは全て帰せと言われている。例外は無しだ」


「だが……なあ。もし本当に大事なお客様だとしたら、怒られるのは俺達だぞ」


「それもそうだな。昇級に響くのは俺も願い下げだ」


「じゃあどうする?」


「確認を取るよりほか仕方ないな。俺はここで張っておくから、お前が行って来て――」


 押し問答の末起きたのは、爆発音だった。


「な、なんだ?」


「一体何が起きている?」


 騎士たちは門扉の奥、一際高く聳え立つ城を、頭を持ち上げながら見上げている。煙突から漏れる煙のように、長く細長い煙が一本、青い大空に向かって突き刺さっていた。


「きっとカオステラーの仕業ね」レイナが言う。


「お兄は……大丈夫でしょうか?」と心配げなシェイン。


「きっと大丈夫。タオは刺されても死なないタフな人だから」

 シェインの不安を少しでも取り除いてやろうと、エクスが答える。


「そうね。それよりも、早くタオを助け出さないと」レイナの視点は既に次のステップを睨んでいる。


 騎士たちはというと、鎧をがしゃがしゃと動かして、目に見えるほど慌てふためいている。


「城に異常事態だ。姫が危ない! 早く応援を呼ばなければ」


「お前たちはさっさと家に帰れ。構っている暇が無くなった」


 二人の騎士はがしゃんと門扉を閉めると、そそくさと想区の内部へと入っていく。


「あ、ちょっと、僕たちも中へ――」


 扉の奥に逃げ込むように、エクスの声だけが吸い込まれていく。それ以上何事かを発するのは無意味な、愚行に近い行為だった。


「どうしましょう。これじゃあタオを助けに行けない……」


「重火器でこの扉ごと壊しちゃいましょうか、姉御」


「さっきから発想が怖いわよ、シェイン」


「でも他にこの扉を越えていく方法が――」


 寄りかかるようにして門扉に体重を預けたシェインが「へっへっへ」と、不敵な笑顔を浮かべる。まるで悪魔が、いけにえを前にした時のような、卑劣極まりない顔だ。


「これはいけませんねー。鍵が開いちゃってます。これで不法侵入とあれば、あの人たちは打ち首獄門、降格は免れませんねー」


「打ち首なら降格もなにもないんじゃないかな、シェイン」


 エクスの的確なコメントに、

「細かいことは気にしない、気にしない」シェインは城に向けて指を差した。「それじゃあ、お兄を助けに、城内へレッツラゴー!」


 エクスはシェインの小さな背中に、「無理しなくていいんだよ」と小さく投げかけた。


 ――大丈夫、きっとタオは大丈夫だから。 


 あまりに小さい声だったから当の本人であるシェインの耳には届かなかったが、隣を歩いていたレイナには、その優しさが、そっとそよ風が当たるように、耳元をくすぐるのだった。


 門扉を通り過ぎ、兵隊のように統制の取れたレンガ道を歩いていく。緑葉樹林も一行を見下ろすように鎮座して、一本道を色鮮やかに飾っている。


 城は現在進行形で煙を放出しており、その量は一歩進むごとに増えていく。その内、また城内で爆発音が響き渡る。このままでは目を離した隙に城が無くなっているのではないかと、エクスは不必要な危惧さえしていた。


「それにしても、どうしてタオの導きの栞だけ外れなかったのかな?」


 口火を切ったのはエクスだった。


 うーんと、レイナが頭を傾げる。


「カオステラーが魔法を使ってタオの空白の書に細工をしたとしか考えられない」


「そうすると、どうしてカオステラーはお兄だけを狙ったんでしょう?」


「それは――」レイナの言葉が詰まってしまう。だが次の刹那には、「直接聞いた方がよさそうね。あの城で」と、覚悟の座った瞳で崩壊していく城を睨む。


「ねえ、二人とも、あれ見て」


 エクスがふいに声を上げた。その声に二人は城に向けられた目を、下方に向ける。


 そこには先程門扉の前にいた騎士が、見るも無残に地面に突っ伏する姿があった。


「一体何があったんだろう?」と、まずエクスが駆け出して、その背中を追うようにシェインとレイナが続く。


 騎士二人はかすかに息をしていた。だが呂律は怪しく、その灯は誰かがふっと弱く息を吹きかけるだけで消えてしまうような、微かなものだった。


「……この奥に……凶暴な怪物が」


 騎士が言葉を一つ発するごとに、誰かが息を吐く。エクスは見るに耐えかねて、騎士の口を閉ざさせた。


「もう喋らないで。シェイン、助けを呼んできてくれないかな」


「らじゃー。今すぐに」


 エクスはシェインの背中を見送り、抱えていた騎士をそっと地面に戻す。その瞬間、どうしようもなく自分が無力に感じて、エクスは顔を歪ませた。


 ――こんなこと、あっちゃいけないんだ。


 惨事は不可抗力であると、容易に納得できるほどエクスは器用ではない。もっと早く到着していれば、逃げられる前にカオステラーをやっつけておけば、もっと自分が強ければ……。


 たらればを考えて、すぐにそんなことを了見しても何も変わらないと、自らを叱る。


 ――今は目の前だけを、きちんと見据えなくちゃ。


 耳をつんざく爆発音。今までとは異なり、音はすぐ近くで発生している。音と共に二人の前に現れたのは、固い鎧を纏ったメガヴィランだった。


「ギルァぁぁぁぁああああアアアア!!!」


 鉄と鉄が擦れるときのような不快な叫び声に、エクスとレイナは耳を塞がるを得ない。両手が使えないこのときを、メガヴィランは逃してはくれなかった。


 メガヴィランの槍が、容赦なくエクスの顔面を襲う。変身前のエクスは反応することもままならず、潜在意識として残っていた生存本能だけが彼をつき動かしていた。だがそれでも、頬を伝う激痛は避けられなかった。


「エクス!」


「大丈夫、ちょっと頬を掠めただけだから。それよりレイナも変身を!」


 ぽたぽたと地面に落ちる血を拭いながら、エクスも空白の書を取り出す。


 ――ジャック、君の出番だ。


 全身が光を帯びる。エクスの意識はだんだんと遠退いていく。ジャックが早く出せと言わんばかりに、大きく飛び跳ねて、大登場。


 ――まかせておけ、相棒!


 早速メガヴィランの頭上から一太刀を浴びせる。体重と重力が合わさって繰り出される一撃に手ごたえを感じるジャックであったが、肝心のメガヴィランはというと、蚊に刺された程度の痛みしか感じていないようだ。


「か、かたい」


 痺れが手を伝って、心臓まで震えそうなほどだ。


「シェリー、このメガヴィランに打撃攻撃はほとんど無意味だよ。僕が囮になる。君はこいつの背後から魔法を放ってくれ」


 シェリーはやる気のなさそうな瞳を、ジャックからメガヴィランに向ける。


「面倒くさいけど、オッケー」


 重々しいメガヴィランの槍がジャックを襲う。振り下ろされた槍は地面を深くえぐって、爆弾が爆発したような異常な音を残す。斬撃とはほど遠く、打撃以外の何物でもない。


「ひゃあ、あぶないなー。こりゃあ一発当たっただけでもやばいかも」


 だが生憎メガヴィランの動きは俊敏とは言えなかった。ジャックの身軽な体であれば、一太刀も浴びることなく戦いを終えることも可能だ。


 地面に突き刺さった槍を引き抜くメガヴィラン。動作は亀のようにのんびりと。その間にジャックは二太刀ほど浴びせるが、自分の骨が震えるだけで一向に手ごたえがない。


 その時、「離れて!」と、シェリーの叫ぶ声がする。


 と同時に、メガヴィランから、その図体と比例するほど巨大な光が出現する。その光に押されて膝がかくりと力を失くす。


「いいぞ、効いてる効いてる!」


「ヴぉおおおおおおオオオオオ!!!」


 しかしメガヴィランが地面に倒れることはなかった。力を振り絞って踏ん張ると、シェリーのいる後方を睨む。


「お前の敵はこっちだ、メガヴィラン!」


 有無も言わせず、メガヴィランの無機質な背中に斬撃を浴びせる。標的がシェリーから再びジャックに戻り、大きな身振りで槍を繰り出してきた。


「戦いは体の大きさが全てじゃないよ。……とっ!」


 メガヴィランの攻撃によってえぐれる地面。アッと驚くジャック。地響きが地面を伝って、空気も震わせる。


「訂正。体がデカいと有利なときもある……かも」


 再度、メガヴィランの背中が光に押される。ジャックから見るとそれは光に照らされた神々しい存在のようにも思えるが、ひとたび皮をむけば邪悪な塊でしかない。


 二回目の攻撃が成功したそのとき、ジャックはメガヴィランの微妙な変化を感じとることができなかった。気付いた時には既に遅し。


「シェリー、逃げろ!」と声を上げることしか叶わなかった。


 メガヴィランはジャックには目もくれない。その先にいるのは、次の魔法を繰り出そうと本に集中しているシェリーただ一人。


「きゃああああ!!」


 断末魔が、そこだけをくっきり切り抜いたかのように、大きく響いた。心臓がえぐり取られる感覚に襲われて、何が起きたのか確認しなければいけないのにジャックは目を瞑ってしまった。


 強い意識を持って、ジャックは目を開ける。


 想像していた以上の世界がそこにあった。地面にシェリーの見るも無残な姿と、その小さくか弱い身体を、親の仇のように何度も何度も踏みつけるメガヴィランの姿が。


 怒りが、次第にジャックの心を、そして体全体を覆い隠していく。右手が不自然に力んで、剣がメキメキと情けない音を奏でている。


 ――絶対に倒す!


 がむしゃらに剣を振り回しながら、メガヴィランに突進していく。右から左へ、左から右へ力いっぱい腕を動かす。切るという表現より殴るという表現のほうが正しいかもしれなかった。


 メガヴィランはそんな攻撃を受けても、少しだけ体をよろけさせるだけで、全く効き目がないようだ。


「うらあああああああああ!!」


 ジャックの攻撃はメガヴィランの鎧に付いている錆びを取る程度にしか意味を成していない。力は剣の勢いとは裏腹に分散され続け、ジャックが肩で息をするようになると、今までの攻撃を一括で仕返しするような手痛い一撃を喰らわされる。


 ――こんなところで、僕達は……。


 宙を待っている瞬間、数々の戦いを思い出す。その走馬灯は永遠とも思える長い間続き、地面に顔面がぶたれるまで途切れることはなかった。


 のそり、のそりとメガヴィランの重い足音が聞こえる。だんだんと大きくなっていくその足音は、ジャックにとって死の宣告に違いなかった。


 首元に氷のような冷ややかなものが当てられた。鋭くとがったそれが大きく振り上げられ、空気を震わせると、ジャックの頭上に――。

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