純白の嘘

「逢わない約束の恋をしない?」

 彼女が言った。っと言っても5㎜程度の文字がスマホ画面の中で、そのように並んだだけで実際には逢った事もない女性。いや、女性かどうかも怪しい。見えていないとは、つまり何でもありの世界。小説や映画ではない現実世界で、ネットの中での恋愛を宣言する愚かさと言うか稚拙な妄想。それでも僕はその申し出になぜかとても惹かれた。

「勿論、良いけど。本当に逢いたくなった時に苦しくないのかな?」

 呟きながら文字を打ち込み、送信ボタンを押す。逢うことのない恋人。心だけが触れ合う為に肉体はどこか別の場所に置いておくつもりなのか。考える間もない程に早い返信が来て、僕は慌ててスマホを握り直した。

「もしも互いに強く必要だと感じても、それでも逢えない。素敵じゃない? そんな約束」

 素敵かどうかと問われれば、確かに映画みたいなものかも知れない。でも、それは映画館の客席に座ってポップコーンを饕りながら緩慢な意識で眺める分には素敵だって事で、実際の欲望がそれを許すとは思えない。

「了解。よろしくね」

 僕は、曖昧に自分を納得させるてなるべく簡単な言葉を返して、この変愛をスタートさせた。


 逢えないと逢わないは酷く違うのだと、たった二週間で僕は思い知らされた。理由なんて単純。言い訳するまでもなく二十五歳の盛んな年頃。悶々とした気持ちのやり場が無い。溜め込んで楽しいのは貯金と近くの釣具店のポイントぐらいだ。居るのか居ないのか分からないような恋人との鬱屈した想いを紛らすのは夜中ゴソゴソと利き腕を動かす自分自身。そして、その悶々としたものを吐き出した後には決まって憐憫の自己嫌悪に陥る。その後、眠りに堕ちて昼前に目覚めても。電車を乗り継いでバイトの定位置に着いても。その感情は消えたりしない。沈殿して静かに滲み、決壊して放出する。

「クソッ! 駄目だ、もう駄目……」

 ひとりごちてカウンターに突っ伏した僕。まだ、誰も客の来ない店内はオーナーが来るまで僕だけのものだし、曲名も分からない有線のジャズが呪詛のような独り言も消し去ってくれる。


 筈だった。


「何が、駄目なの?」

 中野美紀がカウンターに突っ伏して擦り付けた僕の顔を覗き込んでいた。

 彼女は、三年前のバーテンダー協会が主催する大会で優勝し、名実ともに九州で一番の女性バーテンダーになった。若くて、才能のある人を頭の良い金持ち達が放っておく筈がない。関係性は明らかじゃないけど、彼女には数人のパトロンがいて開店から運営までの資金全てを肩代わりしてもらい狙い通り店は繁盛している。つまり、彼女はこの店の店長でオーナーだ。

「美紀さん……いつ来たんですか?」

 僕は突っ伏したまま訊いた。

「さっきから居たけど、雄二君が面白いから奥で見てたの」

「美紀さん、趣味悪い」

 先輩の紹介で、この店でバイトを初めてから半年間。初めこそ緊張したが先輩からのアドバイス通りに彼女に対してフランクに接することを僕は心掛けた。彼女は一度、OLとして昼間の世界で心を病んで夜の仕事に流れて来た。彼女に言わせれば「パワハラする奴は、極死刑」だ。因みに極死刑の極は畳職人が使う針で何億回も刺して死に至らしめる極刑中の極刑らしいが、僕は畳職人が持っているという針がどの程度のものなのか理解できないので極刑の具合が良く分からない。ただ、彼女が上下関係の隔たりを極端に嫌う気持ちは理解しているつもりだ。そして、アドバイスには無かった事だが、僕は何度も目の前に居る美女に本気とも冗談とも取れない夜の誘いをうけていた。ただ、僕はそれを冗談を受け止めるようにして拒んでいた。理由は上手く説明なんて出来ない。単純に拗れれば完全に気に入っているバイト先がなくなる可能性が高いし、彼女を恋愛の対象として考えるのが怖かったからかも知れないし、とにかく上手くは説明出来ない感情の中で僕は、その有り難い申し出を拒み続けている。

「その悶えかたは、恋の悩みでしょ? 面白そうだな。私にも、聞かせて」

 向かいのスツールに腰掛け、彼女が微笑む。

「美紀さんの奢りで飲んでも良いなら」

 僕は、店で一番高価なウィスキーをカウンターに置いて訊いた。

「マジで?」

 身を乗り出す彼女。僕はゆっくりと頷いてから答える。

「ええ、マジです。しかも、僕と同い歳の25年」




僕は無意識の内に。いや、殆んど確信的決断を持って彼女を腕の中に包み込んだ。


押し付けた唇を優しく受け止めてくれる彼女にコントロール不能の暴走車のエンジンが始動する。

激しく爆発を繰り返すそれは理性なんてカーブを気にせず最高速で突っ込んで行く。

ブレーキなんて踏む意味さえ無いのだ。

曲がりきれずに壁に激突すれば爆発炎上は必至だ。

それでも関係無いと僕はアクセルを底まで踏み込む。

彼女の甘く柔らかい路面を最高速で走り抜ける。

でも、もう後少しで秘密の花園って所まで来て、店に設置してある固定電話が嫌味な笑い声で叫んで僕を現実に引き戻した。

「美紀さん電話が」

僕が言うと彼女は頷いて僕から離れた。

「ねぇ、本当は逢わない恋愛なんて成立しない。って思ってる」

「どうかな?でも、逢いたいのは事実かな?」

「やっぱりね」

「やっぱり。って美紀は逢いたいとは思わないの?」

「逢いたいよ」

「じゃあ、何故逢えないのかな?」

「さぁ、何故だろ。本当は初めに決めた約束なんて今は、どうでも良いなんて思ってるよ」

「だったら」

「でも駄目。」

「だから何故?」

「雄二は死なない?」

「何だよ突然」

「だから雄二は死なない?」

「何だよ、それ。」

「死なない?」

「死ぬよ、いつかね」

「でしょ?」

「当たり前だろ?いつか皆死ぬよ」

「嫌なの」

「はぁ?何が?」

「雄二が死ぬのは」

「俺だって死にたく無いよ。でも、それと逢わない事に何か関係あるの?」

「あるよ」

「説明してくれよ」

「私は雄二を永遠に私のものにしたいの。だから」

「意味が分からないよ」

「分からなくても良いの」

「良いのって、俺の気持ちは関係無いの?」

「雄二はどうしたいの?」

「どうしたいって、逢わないと、美紀に触れないと、美紀を感じないと、本当に美紀を好きなのか分からなくなるよ。現に俺だって」

「俺だって?」

「美紀以外にも女は沢山居るって事さ」

言って電話を切った。

壁に寄りかかり読みかけていた雑誌を開いたが、それを閉じて携帯を開いた。

「どうしたの雄二君?」

「今から店出ます」

僕が言うと暫く沈黙してから、もう一人の美紀は狡い子ねと呟いた。

「ブルドック」

静かに囁かれた言葉に心臓が一瞬止まった。

「ブルドックですね」

僕は動揺を隠す為に、彼女を視線から外して聞き返した。

「そぅ、尻尾の無い奴」

その女性は優しく微笑みながら頷いた。

ソルティ-ドッグ。

ウォッカベースのカクテルの中でも有名なものだ。

そのカクテルのスノ-スタイルを取り外したものがブルドック。

つまり、グラスの縁に塩が着いていないものだ。

「待ち合わせですか?」

一瞬、ロックグラスとカクテルグラスどちらで出すのか迷ってロックグラスをカウターに並べた。

「一人よ。何故?」

言って僕の指先を見詰める彼女の黒く大きな瞳に吸い込まれる。

「綺麗な方だから気になって」

月並みな台詞を吐く自分に嫌気がさした。

「ありがとう」

小さく笑う彼女に救われてグラスにウォッカとグレープフルーツ果汁を注ぐ。

慎重にステアしてから彼女に差し出した。

「バーテンダーの仕草って何だか素敵よね」

彼女は出されたカクテルを一口舐めてから呟いた。

「別に格好つけてる訳じゃ無いんです。カクテルは繊細な飲み物だから。分量とか、加減が巧くいかないと美味しく出来ないからバーテンダーは細心の注意を払って一杯のカクテルを作るんです。そして、単純な工程のカクテル程難しいんです。だから自然に無駄の無い繊細な動きを心掛けるように成るんです」

言ってから恥ずかしさが込み上げてきた。

「そうなんだ。アナタも真剣にカクテルを作ってるのね。」

彼女の笑顔に僕は何故か酷く安心して彼女が席を立つまでの間、夢中で話し掛けていた。

目を閉じる彼女を見詰めた。

まだ、名前しか知らない。

でも僕が欲しかったのは彼女の記号化したデータでは無く生きた秘密。

甘い喘ぎ声と、切ない吐息。

潤う場所と、そうでない場所。

導く場所と、辿り着く場所。

僕は朝が来るまで彼女の秘密を暴き続けた。

乳白色の天井に間接照明が淡い陰影をつけていた.

僕はその影を無意味に見詰めて次に出すべき問いを考えていた。

彼女から、まともな返答を引き出す問いを考えていた。

「何をしてる人?」

「さぁ…」

僕の問いを無視して彼女はシーツを手繰り寄せる。

「彼氏は?」

「さぁ…」

僕は生きた秘密を手に入れても記号化されたデータと馬鹿にしたものを入手出来ずに半時間以上を過ごしていた。

「今日、これから時間ある?」

「これから?」

「まだ早いけど、お腹すいた。朝御飯食べたい。」

言ってから無防備に成った自分に気付いて慌てて彼女を見ると薄く笑った顔がシーツから覗いていた。

「パンが良い」

言って吹き出した彼女を僕はもう一度抱き締めた。


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