二章

亡霊は魔王の娘とサラの日記で揉める

「お帰りなさいませ、ベラナベル様」

 今日も日が登らないうちに、ベラナベル様は青き入り江へと戻られた。しかし、籠の中の食材はいつもより少なく、代わりに一冊の薄い手帳が場所を埋めている。

 古ぼけた手帳だ。表紙は撚れ、花柄模様がくすんで色味を失っている。男よりは女の、特に子供が好みそうな意匠である。


「久々にサラの顔を見てきたのじゃ。相変わらずの美人であったわ」

「ベラナベル様には及びませぬ」

「ほう、おぬしもようやく気の利いたことが言えるようになったか。良いことじゃ」

「して、サラとは誰ですか?」

「ほほう。サラを知らずに、及ばぬとはな。なんとも分かりやすい冗談じゃのう?」

 どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。やはり女心は難しい。


「サラはマーナ協会に属するシスターじゃ。全ての者に等しく注ぐ優しさと、現実から決して目を背けぬ強さを兼ね備えておる」

「まるで、ベラナベル様のようですね」

「くくっ、かもしれぬのう。青き入り江の隠れ家は、元々サラに紹介されたのじゃ。なんでも、マーナ協会が秘密裏に有する神聖な場所らしい」

 青き入り江は海に面した洞窟だが、ベラナベル様や『彼ら』の住まう隠れ家には、止めどなく湧き出る泉がある。そのまま飲用でき、我も料理で使うために樽に汲むのだが、この水は強い魔力を含んでいる。無論、海水などではない。ベラナベル様によれば、水源はどうやら魔界に繋がっているらしい。


 神聖かはともかく、特殊な地には間違いない。サラという人間のシスターは、ベラナベル様よりも早くからこの場所を知っていた、と。

「外部の協力者ですか。それも、人間の」

「今では滅多に会えぬがのう。どうやら人間社会で名が売れたらしい。先の戦の功労者としてな」

 先の戦とは、人間と魔物の大規模戦争のことだ。

 長く続いた戦争によって、両陣営は互いに大きな損失を負った。が、今の我には最早どうでもよい。


 戦の終わりは、魔王城で、かつて我が仕えていた魔王ギール様が勇者と相撃たれることで訪れた。


 主を、斧を振るう意義を失った我は、死に場所を求めて当てもなく彷徨っていた。ここ青き入り江で、魔王の娘を名乗るベラナベル様と出会うまでは。

 我はベラナベル様の為に、再びこの手に斧を握った。

 ベラナベル様や『彼ら』を、敵――人間も亜人も魔物も、こちらに害を成す者は全て――の手から守る為に。



「ときに、バルドスよ」

 ベラナベル様の視線は籠の中に注がれている。

「『にっきちょう』とはなんじゃ?」

「日記を書くため、白紙の紙を本のように束ねたものです」

「なるほど」

 視線はなお、古い手帳へと注がれている。

「ときに、バルドスよ。『にっき』とはなんじゃ?」

「最初からそう訪ねれば良かったのでは?」

「バルドス。おぬし、随分と生意気な口を利くようになったのう?」

「申し訳ございませぬ」

「くくっ、まあよい。それより、わらわの問いに答えよ」

「現物が手元にあるのなら、ベラナベル様自身の目で確かめるのが確実だと思いますが」

 ベラナベル様が抱えている本は、紛れもなく日記帳だ。表紙にはっきりと『にっきちょう』と、サラ、という名前と共に書かれている。なかなか年期が入っており、字も幼い。恐らく幼少期のものだろう。


「読んではならぬと言われてな。そうでなくとも、わらわは人間の文字は苦手じゃ。そこで、バルドスに読んでもらおうと思ったのじゃ」

「読むなと言われたのでは?」

「読ませるなとは言われておらぬ。おぬしが読めば、わらわか読んだことにはなるまい?」

「……屁理屈では?」

「バレなければ問題ないじゃろう」

 なら自分で読んでも構わないのでは、と思ったが。我の脳裏に、ふと別の疑問が浮かんだ。脳裏と言っても、我に脳はないのだが。

「どうして、今になってこんなものを?」

「人には見られたくないが、捨てたくもないので預かってほしい、と言っておったわ。とにかく読めば分かるのではないか?」

「御意」


 釈然としないが、これ以上拒否する意味もない。ベラナベル様は意志の強いお方であらせられる。

 我はサラの日記帳を受け取り、言われるままに一頁目を開いた。

 一行、横に並んだ子供らしい文字が、我の視線を釘付けにする。





 きょう わたしのぱぱとままが死んだ


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