10

 その日の晩、湯浴みを終えたティアナは髪の水気を布で拭きながら寝室を覗いた。そこには難しい顔で書類を見つめるヴァレッドがいる。

 ベッドの縁に腰掛け、ティアナがプレゼントした万年筆の尻で頭を掻きながら、何やらぶつくさ呟いている。眉を寄せながら、考え事をする彼の姿に胸が高鳴った。

 玉璽を盗った犯人に揺さぶりをかけるために、夜会を開くと聞かされたのは先ほどのこと。そのために明日は一緒にドレスを選びに行くという。

 ヴァレッドとの約束に胸を躍らせる反面、昼間のフレデリクの言葉が胸を締め付けた。


『嫌いな対象からの好意って、どうなんだろ……』

『もし、気持ちを隠したまま好きで居続けるんなら、注意した方が良いよ。ティアナは顔に出やすいから……』


(私の気持ちは……)

 迷惑なのだろうか。隠した方が良いのだろうか。

 ヴァレッドが少しでも嫌な思いをするのならば、こんな自己満足の気持ちなど……

「上がったのか」

 ティアナが寝室の前で固まっていることにようやく気がついたのか、ヴァレッドは書類を横に置き、柔和な表情を浮かべた。

 ベッドの真ん中に腰掛けていたのを横にずれて、彼は隣を勧めてくる。ティアナは促されるように彼の隣にちょこんと腰掛けた。

 元気のない彼女の様子に、ヴァレッドは顔をのぞき込んでくる。

「ティアナ、どうかしたのか?」

「えっと……」

 馬鹿正直に言うわけにもいかず、ティアナは言葉を濁した。

「何かあったのか?」

「いえ」

 ティアナは緩く首を振る。

 結婚相手を好きになれた。

 これはティアナにとってとても幸せなことだった。政略結婚は貴族の務めとはいえ、それでも物語の恋愛に憧れなかったわけではない。

 だから、ティアナはヴァレッドを好きになれた、物語のようなドキドキを味わえた、それだけで満足だった。もちろん、ヴァレッドが同じようにティアナを想ってくれればこれ以上ないほど幸福だが、そんな都合の良いことは起こらないと思っている。

 だから、想うだけで良いのだ。

 一人で胸を躍らせているだけで満足なのだ。

 けれど、フレデリクの出した可能性は、それさえも否定する。

 気持ちを打ち明けたら、察せられてしまったら。

 彼に、疎まれてしまうのかもしれない。嫌われてしまうのかもしれない。

 それがティアナにはたまらなく恐ろしかった。

「誰かに何かされたか? それとも、カロルと喧嘩でもしたのか?」

 ヴァレッドは心配そうに声をかけてくれる。

 ティアナは彼に心配させないように笑みを浮かべた。

「……いいえ。何もありませんわ」

「俺には言えないことなのか?」

 その質問にどう答えて良いのか迷った。

 寂しそうな声色に、申し訳なさが募る。

「まぁ、言えないことなら仕方がない。だが、大事になる前には……」

「ヴァレッド様は誰かに気持ちを向けられたことはありますか?」

「は?」

「女性に『慕っています』といわれたことは……?」

 勇気を出して、それだけ聞く。

 ヴァレッドは固まり、しばらくして難しい表情を浮かべた。

「……あるにはあるが、それがどうしたんだ?」

「えっと……」

「まさかフレデリクに『よりを戻そう』とか言われたんじゃないだろうな」

「へ?」

 思わぬ所に火が飛び、ティアナは目を見開いた。

 ヴァレッドは先ほどまで心配で寄せていた眉を、キッとつり上げる。

「君は俺になにか不満があるのか? それとも、やっぱり昔の男は忘れられないとか、そういうやつか? とにかく! アイツは一度不貞を働いた男だぞ! 二度目だって、三度目だってしでかす可能性はある! 君を幸せにできるとは到底思えない」

「あの……」

「それに比べて、俺は元々女が嫌いだからな。不貞はしないし、約束はできるだけ守る。君のことを大切にはするつもりでいるし、幸せにだって――。君がどちらを選ぶかは自由だが、俺は……」

「えっと、フレデリク様からそういうお申し出はないですわ」

 ティアナの言葉に、ヴァレッドは「そ、そうか……」と頬を赤らめ、視線を逸らした。

 そんな彼の表情に、ティアナは少しだけ胸が軽くなる。

 少なくとも今は嫌われてはいない。それが嬉しかった。

「じゃぁ、なんでそんなことを聞いたんだ」

「単なる興味ですわ。ヴァレッド様は女性から気持ちを向けられたらどう思われるのだろう、と……」

「どう思うと聞かれてもな。君は俺が女嫌いだと知っているだろう?」

「はい」

「ならわかると思うが、当然いい気はしなかった。何か裏があるとでも勘ぐりたくなるしな。大体、そういう気持ちは面倒ごとを引き寄せる。向けられたくないというのが正直なところだ」

「……そうですか」

「まぁ、もちろん。例外はあるが……」

 自分がその例外・・であることを知らないティアナは、ヴァレッドの言葉に小さく肩を落とすのだった。

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