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「フレデリク・バートン。確かにティアナ様の元夫ですね」

 冷静な声音でそう報告する家令を睨め付けながら、ヴァレッドは深く椅子に腰掛けた。机の上の散乱した書類が、彼の心の様を表しているようにも見える。

 ヴァレッドとティアナのために用意された王宮の客間は、寝室の他に執務室、浴室、簡単な食事が取れるダイニング、まで設けられた広いものだった。レオポールとカロルにもそれぞれ一部屋与えられていたが、当然ながらどちらも夫婦の部屋よりは狭い。

 機嫌の悪い主を目の前にしながら、レオポールは臆することなく報告を続ける。

「バートン家は元々は貴族でなくただの商人だったのですが、大きな商会の協力組織を運営していまして、前バートン家当主の代で爵位を承ったということです。爵位としては準男爵ですが、影響力はティアナ様の生家、メレディス侯爵家にもひけは取らないといった感じですね」

「……ティアナはどうしてる?」

「懐かしいからとフレデリクさんと楽しく会話中ですよ。小さなサロンが開いていたので、そこを借りてお茶会を楽しんでいる最中です」

 レオポールの言葉にヴァレッドは頭が重くなるような心地がした。

 つい数ヶ月前の新婚旅行。ヴァレッドはジスとティアナの仲に嫉妬し、酷いことを言って彼女を泣かせてしまった。そういうこともあって冷静にならねばと努めているのだが、どうにも胸のむかつきは収まりそうもなかった。

 目を閉じれば、元夫婦の仲よさげな様子が浮かんでくる。

「大丈夫ですよ。ただ昔話をしているだけでしょう。カロルさんが見張ってますし、何も間違いは起こりませんって」

「起こってたまるか!」

「だから起こらないって言ってるでしょうが!」

 立ち上がりかけていたヴァレッドは再び椅子に沈む。

 そうしてまるで子供のように唇を尖らせた。

「普通、離縁した元夫とあんなに仲良く出来るか? しかも、離縁理由が離縁理由だぞ」

「まぁ、普通の女性ならば考えられないでしょうが、ティアナ様ですしね」

「そうだな。ティアナ、だからな……」

 ティアナだからしょうがない。

 そう思ってしまうのも、また惚れた弱みだろうか。

 先ほどよりも幾分か落ちついた様子のヴァレッドに、レオポールはエドワードから渡された書類を捲りながら、首をかしげた。

「それでどうするんですか?」

「どうするもこうするも、そもそも俺がどうこうして良いのか? 止めたいのは山々だが、別に浮気をしようって話ではないのだし。何かがあればカロルが止めるのだろう? そもそもそんなに余裕のない男だと思われるのは……」

「言っておきますが。ヴァレッド様はティアナのことになると全く余裕はありませんからね。皆無です。皆無! それに、私の『どうするんですか』はティアナ様のことを指しているわけではなく、奪われた玉璽のことを指してます。頭がティアナ様でいっぱいなのはわかりますが、もうちょっとこっちのことも考えないとヤバいですよ。特に今回は!」

 鼻先に書類を突きつけられ、じわりと頬が赤く染まる。

 ティアナのことばかりを考えているつもりはなかったのだが、元夫婦が再会する光景を見てから玉璽のことを全く思い出さなかったのも事実だ。

 主の頭を切り替えさせるように、レオポールは咳払いをする。

「とりあえず、ジスさんにはサミュエル侯爵かナヒド公爵を探らせましょうか。今のところあの二人が最有力候補ですし、その方が手っ取り早いでしょう」

「いや、ジスには俺のことを調べてもらう」

「は? 貴方のことをですか?」

 目を瞬かせるレオポールにヴァレッドは一つ頷いた。

「脅迫文には俺の秘密を知っていると書いてあったんだ。俺には全く心当たりがないが、ああいう輩がはったりでああいうことを書くとは考えにくい」

「つまり、ヴァレッド様にはヴァレッド様が知らない秘密があると?」

「その可能性もある、というだけだ。今のところ相手が勘違いしている可能性が一番高いが、痛くも無い腹を探られるのはあまり良い気分ではないからな」

 このままではまたエリックが何か探りを入れてくるかもしれない。ヴァレッド自らに何か秘密があろうとなかろうと、それを理解しておくのは必要なことのように思えた。

「それでは、他の人の探りはどうしますか?」

「それはこっちにも少し案がある」

「なんですか?」

「口の堅い彫り師を一人用意しろ。それと、エリックとの謁見を用意してくれ」

「何をなさるおつもりで?」

「本当はこういうことはしたくないんだが……夜会を開いて貰う。そこで容疑者に揺さぶりをかけるぞ」


◆◇◆


「本当に久しぶりだね」

「はい! 懐かしいですわ!」

 王宮のサロンでフレデリクとティアナは小さな円卓を囲んでいた。サロンの扉にはフレデリクの従者だろうか、顔を半分布で隠した男がおり、給仕はカロルが仕切っていた。

 王宮の中では小さい部類にはいるサロンとはいえ、その部屋の大きさはシュルドーの城にあるティアナの部屋の二倍以上はあるようだった。部屋の一面はガラス張りになっており、外光が入ってきてずいぶんと明るい。外には温室の青々とした緑が見えた。

 フレデリクは苦笑いを浮かべながら、紅茶の入ったカップの縁をゆっくりと撫でる。

「正直、もうティアナには口をきいて貰えないと思った。あんなことした後だし、当然といえば当然だけどね」

「いいえ! そんなわけありませんわ! あれは仕方がないことだったのです。私とローゼをくらべて、フレデリク様がローゼを選ぶのは当然のことですわ!」

 晴れやかな笑顔を浮かべるティアナの後ろで、カロルは射殺さんばがりの強い視線をフレデリクに向けている。それでも一言も発しないのは、ティアナとフレデリクの再会に水を差したくなかったからだ。フレデリクはどうでも良いとして、ティアナはこの再会を喜んでいる。それならば、邪魔する道理はないだろう。それが、カロルの思いだった

「ティアナは相変わらずだね」

「相変わらず?」

「うん。相変わらず優しいなぁって」

 フレデリクは目を細めて笑う。

 聞くところによると、彼はまだ結婚してないようだった。結婚したばかりのティアナに三行半を突きつけただけでなく、妹に乗り換えたと噂されているのだから、当然といえば当然である。

 けれどだからといって、彼はティアナにその種の好意を持っているわけではなさそうだった。

 ティアナを見つめるその目は、幼なじみのそれである。

「何度謝っても足りないと思うけど、あの時は本当にごめんね」

「いいえ! 本当に気にしないでくださいませ! フレデリク様は昔からローゼのことを気にしていましたものね。仕方がないですわ!」

「まぁ、そのローゼにはあっさり捨てられたわけだけどね」

「あら、それはすみません」

「ティアナは謝らないで。わけがわからなくなるから」

 二人はくすくすと笑い合う。

 離縁した元夫婦にしては穏やかすぎる再会だった。

 それをなし得ているのはティアナの前向きすぎる性格だろう。

「……あ、でも、もし私に何か足りないところがあったのでしたらお聞かせ願いますか? 私、ヴァレッド様に嫌われたくありませんの!」

「ヴァレッド様って、ドミニエル公爵のことだよね? ローゼのかわりに嫁いだって聞いたけど、上手くいってるの?」

「はい! ヴァレッド様はとっても優しくて素敵なお方ですわ! それに……」

「それに?」

「私、ヴァレッド様のことを『好き』かもしれなくて……」

 ティアナははにかみ、フレデリクは目を見開いた。

「好き?」

「はい。まだよくわかっていないのですが、ヴァレッド様といると、こうふわぁっとあったかい気持ちになるのです。側にいたらドキドキしてしまいますし。初めてなのでよくわからないのですが、これが『恋』というやつではないのかと……そう思ってしまって」

 ティアナは嬉しそうに頬を引き上げた。その頬は桃色に染まっている。

「ティアナ、嬉しそうだね」

「はい! 貴族の子として生まれ、政略結婚は当たり前だと育てられてきました。特別な想いは知らぬ方が幸せだと言われ、そういった想いを理解することも、願うことも許されませんでした。けれど、たまたま嫁いだ方にこういう想いを向けることが出来るだなんて思わなくて……。私はきっとすごくすごく幸せ者なのです! お母様と同じように好きな方に嫁ぐことが出来たのですから。きっとこれ以上の幸せはないのだと思います」

 胸に手を当て、瞳を閉じる。

 彼女は今与えられている幸せを、噛みしめているようだった。

「だから、出来れば嫌われたくないのです。ヴァレッド様が同じように私のことを想ってくださったらそれが一番ですが、望みすぎても辛いだけでしょうし。――ですからもし、私に足りないところがあるようでしたら、教えてくださいませ、フレデリク様」

 満面の笑みを向けるティアナに、フレデリクは首を振った。

「ティアナに足りないところは何もないよ。強いていうなら、その常人には考えられないほどの前向きさだけどね。でも、それはティアナの美点でもあるから……」

「ふふふ、それなら良かったです」

「でもさ、ドミニエル公爵ってすごい女嫌いで有名な人だよね」

 フレデリクの口調が、ティアナを心配するような重苦しいものへと変わる。

 ティアナは首肯した。

「……はい」

「じゃぁさ、つまりティアナの気持ちってどうなの?」

「へ?」

「ドミニエル公爵にとって、ティアナのその気持ちって迷惑じゃない……?」

「え」

 思わず息を飲んだ。自分の向けるこの気持ちが、ヴァレッドの迷惑になるだなんて少しも思わなかったからだ。

「私の気持ちは、ヴァレッド様にとって迷惑なのでしょうか?」

「それはわからないけど、相手はあの女嫌いのドミニエル公爵だよ? 公爵の女嫌い、治ってないんだよね?」

「……はい」

 呆然とするティアナを目の端に捉えたまま、フレデリクはいいにくそうに俯いた。

「嫌いな対象からの好意って、どうなんだろ……」

「それは……」

「もし、気持ちを隠したまま好きで居続けるんなら、注意した方が良いよ。ティアナは顔に出やすいから……」

 フレデリクのアドバイスに、ティアナは「はい」としか返せなかった。

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