王宮騒動編

1

 テオベルク地方、工業都市フュメ。

 ヴァレッドとティアナの住むシュルドーから、北に馬車で二日ほど。

 長い煙突が何本も立ち並ぶその土地は、テオベルク地方で最も近代的な都市だった。

 自然の多いシュルドーと比べると、全体的に少し煙っぽいその街の大通りを並んで歩くのは、結婚したばかりの公爵夫妻だ。

 季節は巡り、秋の始め。ティアナがヴァレッドの元へ来て、早五か月が経っていた。

「あぁ、もう! 本当に、本当に素晴らしかったですわ! オペラってこんなに興奮するものだったのですね!」

「まぁ、君が楽しんでくれたなら何よりだ」

 興奮したようなティアナとは対照的に、ヴァレッドは少し青い顔をしていた。しかし、そこは新妻を気遣ってか、口元には笑みを浮かべている。

 新婚旅行の騒動から三か月。二人はハチャメチャになってしまった新婚旅行のやり直しにと、歌劇場のあるフュメを訪れていた。

「人ってあんなに大きな声で歌うことが出来るのですね! しかも、すごい美声でしたわ! それに、ドレスもすごく重そうなのに、重さなんて感じられないぐらい激しく踊られていて! オベラに出られる演者の方は本当にすごい訓練をされているのですね! すごく、すごく、尊敬します!」

「今回の歌劇団は当たりらしいからな。演目も今年一番人気のものらしいぞ」

「まぁまぁまぁ! そんな素敵な公演に連れて行ってくださったのですね! ヴァレッド様、ありがとうございます」

 今にもくるくると踊り出しそうなティアナの隣で、ヴァレッドは眦を下げた。

 二人の服装はいつものお忍びの時とは違い、ちゃんとした貴族の夫婦に見える服装だった。華美過ぎはしないが、全体的に高級感が伝わる生地を使っている。

 ティアナの桃色と紫を足して二で割ったような色のドレスはレースがふんだんに使われているし、ヴァレッドも結婚式ほどではないが、きっちりとした正装をしている。

 それでも、公爵という地位には若干足りないぐらいだが、二人ともあまり着飾ることに興味がないので、このぐらいに留まっていた。

 二人がきちんと正装をしている理由は、歌劇場に行くためだけではない。このフュメという都市にはヴァレッドの父であるアンドニと、その奥方のダナが住んでいるのだ。二人は改めて結婚の報告をするために、彼らの元を訪れたのだ。

 この後、宿で待っているレオポール達と合流し、夜にはアンドニの屋敷に行く予定である。

 興奮が少し収まってきたのか、ティアナは隣を歩くヴァレッドの顔をのぞき込む。そして、きょとんと首を傾げた。

「ヴァレッド様、もしかして体調が悪いのですか? 顔が青い気が……」

「ん? あぁ。前に誰が座っていたのか知らないが、椅子に香水と化粧の匂いがついていてな。あと、ファインツフォルストの歌劇場よりこっちの方が規模が大きいだろう? その分女も多くてな。女に酔った」

 げっそりと頬を痩けさせながらヴァレッドは頭を抱え、首を振った。

 二人が取った席は一般の席ではなく、二階に設置してある個室の席だった。それはヴァレッドの女嫌いを気遣ったレオポールの計らいによるものだったのだが、どうやら前の公演でそこに座っていた人物が悪かったらしい。

「俺のことは気にしなくていい。もうだいぶ気分も良くなってきたんだ。今日は買い物にも付き合ってほしかったんだろう? 旅行の時の埋め合わせだからな。いくらでも付き合うぞ」

 そういうヴァレッドの顔色は悪く、やはり本調子ではないようだった。

 ティアナは少し考えた後、彼の袖をついついと引く。そして、数メートル先にある甘味処を指さした。

「それなら、あそこで少し休憩しませんか?」

「休憩? だから、俺のことは気にしなくても良いと……」

「いいえ! 気遣っているわけではありませんわ! 私がヴァレッド様と一緒に甘いものが食べたいだけなのです! ……付き合っていただけませんか、ヴァレッド様」

 いつものような弾けるような笑みに、ヴァレッドは淡く頬を染め、ティアナの頭を一つ撫でた。


◆◇◆


「で、なんでこんなことになっているんだ?」

 入った甘味処のソファーの上で、ヴァレッドは仰向けに寝ころがりながら、そうぼやいた。彼の頭の下にはティアナの太股があり、見上げる先には楽しそうに彼の髪を梳くティアナの姿がある。

 机の上には二人分の紅茶と、ティアナが頼んだケーキがあった。

 入った甘味処には個室があり、二人はそこに通して貰っているので、いわゆる膝枕をしてもらっているヴァレッドの姿は誰にも見られていないのだが、彼は恥ずかしそうに頬を染め、じっと睨むようにティアナを見つめていた。

「えっと、気に入りませんでしたか? ヒルデからヴァレッド様の体調が悪くなったら、こうすると良くなると聞いていたのですが……」

「君たちはまだそんなことを続けていたのか……」

「えっと、お嫌でしたらやめましょうか?」

「いや……」

 ヴァレッドは口ごもり、ティアナから顔を逸らすように横向きになる。

「ヴァレッド様?」

「……別に嫌じゃない」

 誰にも見られていないからだろうか。いつもなら「やめろ!」と騒ぎ出すヴァレッドだが、今回は大人しくティアナの膝枕を受けるようだった。

「じゃぁ、少しの間膝を借りるぞ」

「はいっ!」

 ティアナの元気な声を聞きながらヴァレッドはじっと動けないでいた。

 こういうときにどうすれば良いのかわからないのだろう、頬と耳を染めながら、目の前にあるティアナの腹部をじっと見つめていた。

 その時ふと、ヴァレッドはあることに気がついた。

「ティアナ、ここの装飾が取れてるぞ」

「ひゃっ!」

 取れた飾りを摘まむために伸ばしたヴァレッドの指にティアナはこれでもかと身体をびくつかせた。そして、顔を真っ赤に染めながらおろおろと視線を彷徨わせた。

「す、すみません! その、昔から腹部をくすぐられると弱いんです!」

「……君にも弱点があったんだな」

「私は弱点が多いと――って、あふっ! ふふふっ! ちょ、ヴァレッド様っ! や、やめっ!」

 興味本位でヴァレッドがティアナの腹部を指先でくすぐると、彼女は身体を捩りながら笑い出す。ヴァレッドの頭を落としてはいけないと思ったのか、目尻に涙を溜めながらも、彼女はその場を動けないでいた。

「……本当に弱いんだな」

「ちょっと! ふふふっ! いやっ、はは、ふふふっ!」

 少しいい気になったヴァレッドのくすぐりは少しずつ激しくなっていく。 ティアナは身体をくの字に曲げながら、笑っていた。

 そんなバカップル顔負けな夫婦の雰囲気を壊したのは、ここにいるはずのない男の声だった。

「だーんな! ……って、おぉ。最中でしたか?」

「は?」

「へ?」

 突然聞こえてきた声に顔を上げると、個室にある窓からジスが顔を覗かせていた。そうして軽い身のこなしで部屋に入ると、申し訳なさそうに頬を掻いた。

「いやぁ。まさかこんなところでいちゃついてるとはつゆ知らず、すみませんねぇ」

「なっ! ジ、ジス!? どうしてここが……」

 ヴァレッドはティアナの膝から飛び起きる。

「一応、俺本業は情報屋ですからねぇ。お二人がどこにいるかぐらいはすぐにわかりますよー。でもまさか、こんなところで旦那がティアナさんといちゃついてるのは予想外でしたわ!」

「…………」

 ティアナはきょとんと首をかしげているが、ヴァレッドはジルに知られたことがよほど恥ずかしかったらしく、顔を真っ赤にしたまま金魚のように口を開閉していた。

「えっと、要件ですが。アンドニさんところへ向かう準備が出来たようですよ。まぁ、もう少し時間があるので焦らなくても良いですが、心ゆくまで甘えてたら、こっち戻ってきてくださいな。旦那!」

 いつものようにのんびりとした口調だが、明らかにヴァレッドのことをからかっているとわかる言葉だった。

 ヴァレッドはわなわなと震えると、赤い顔で窓を指さした。

「うるさいっ! もうわかったから出て行けっ!」

「へいへい。お幸せにー」

 来た時と同じようにジスは窓から軽やかに去って行く。その後ろ姿を見ながら、ヴァレッドはこれでもかと顔を真っ赤にしていた。

「ヴァレッド様、どうされますか? もう戻りますか?」

 いつも通りのティアナの言葉に、ヴァレッドは机の上を見る。そこには誰にも手をつけられていない紅茶とケーキがあった。

「もう少し休んでからいく。ケーキ、食べたかったんだろう?」

「はい! ありがとうございます!」

 ヴァレッドが隣に腰掛けると同時に、ティアナは嬉しそうにフォークを手に取った。

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