31
「ヴァレッド様、おはよ……」
「ティアナ、あの男と何をしていた?」
ティアナの言葉をかき消すようにヴァレッドはそう言った。彼の顔は険しく、眉間には海溝のような深い溝が刻まれている。その静かな声には僅かな怒りと焦りが聞いて取れた。
ティアナはそんな彼の様子に目を瞬かせて、小さく首を捻った。
「あの男とは……?」
「君がさっきまで話していた、あのジスとか言う男だ! ずいぶん親しそうにしていたが、君はああいう男が良いのか? あんな、ふらふらとした根無し草のような男が!」
ヴァレッドはティアナの胸元にある緑色のブローチを一瞥してから、苦々しい表情を浮かべる。
ティアナはそのジスを貶すような物言いに、少しだけ眉を寄せた。
「ヴァレッド様、ジスさんは素敵な方です。訳あって言えませんが、とても素敵なご職業に就かれていて、私もそれを応援しているのです。確かにご自由な方ですが、根無し草というのは表現として良くありませんわ!」
「『素敵な方』か……」
「ヴァレッド様?」
「そうだな、君の想い人にそういう表現は適切ではなかったな」
まるで半ばやけくそのようにそう言って、ヴァレッドは身を翻した。そして、ティアナに背を向けたまま声を張る。
「もういい、俺は部屋で寝る。君はアイツと思うように過ごせば良い! 俺だってこんな仮初めの結婚で君を縛るつもりは毛頭ないからな!」
「仮初め……」
「そうだ! 最初からそうだっただろう? 俺も君も結婚する相手は誰でも良かった」
「……そう、ですわね」
ティアナはヴァレッドの言葉に小さく俯いた。その大きな瞳には薄く涙の膜が張っている。背を向けているヴァレッドに気付かれないようその涙の膜を袖で拭うと、ティアナはいつも通りの元気な声を無理矢理出した。
「でも、私はヴァレッド様と結婚できてとても幸せですわ! あの、これ、もし良かったら受け取っていただけませんか? 前に指輪をくださったお礼です」
その言葉にヴァレッドはもう一度振り返った。そして、差し出してきた箱とティアナを見比べて、苛々したように頭を掻く。
そして、冷たい声をティアナの上に落とした。
「……必要ない」
その冷え切った声にティアナは息を飲む。呼吸が一瞬だけ止まり、笑顔を作っていた唇は真一文字に結ばれた。恐る恐る顔を上げれば、苦悶に歪むヴァレッドの顔が目に入った。
「そんなものはいらないと言っている。処分に困っているなら、俺に渡そうとせずとも自分で捨てれば良いだろう?」
「……はい。そう、……ですね」
ティアナはなんとか震える声でそう答えた。手に力が入ってしまったためか、万年筆の箱が小さく歪む。
小刻みに震える手を抱き寄せて、胸元に箱を抱えると、ティアナは今できうる限りの一番良い笑顔を浮かべた。
「余計なことをしてしまって、すみませんでした」
その瞬間、瞳からぽろりと水の玉が転がり落ちた。
それが涙だと気付くのにあまり時間はかからなくて、ティアナはその止めどなく落ちてくる涙を自身の手で隠しながら、ヴァレッドの横をまるで逃げるように通り過ぎる。
「ティアナ!?」
ヴァレッドの焦ったような声を背中で聞きながら、ティアナは駆け足でその場を後にするのだった。
◆◇◆
「ティアナ様?」
その声はティアナの背に投げかけられた。振り返ればシーツを抱えたカロルの姿が目に入る。幸いなことに涙はもう止まっていて、ティアナはいつも通りにカロルに向き合うことが出来た。
カロルはシーツを抱えたままティアナの側にやってくるとティアナの抱えている箱に目を留める。
「その万年筆、もしかして今からヴァレッド様にお渡しにいかれるんですか?」
「えっと……」
カロルの苦々しい声にティアナは困ったように笑う。そしてしばらく視線を彷徨わせた後、やがて諦めたように微笑んだ。
「先ほどいらないと、断られてしまいました。このまま捨てるのも忍びないと思っていたところなの。カロル、もし良かったら貰ってくれないかしら?」
「あんのっ!!」
ティアナの言葉にカロルの顔が真っ赤に染まった。どこからどう見ても怒りを抱えているその顔はまさしく般若のよう。
そんなカロルにティアナはゆっくりと首を振った。
「きっと私が怒らせることをしてしまったのよ。だからヴァレッド様は悪くないわ。それに、他に想ってらっしゃる方が居られるなら、ヴァレッド様が私からの贈り物を受け取らないのは当然だもの」
「ティアナ様……」
「少しだけ寂しいし、苦しいけれど、きっと大丈夫よ。なんとかなるわ!」
そんなティアナのほほえみに、しばらく難しい顔をしていたカロルも諦めたように息をついた。そして、ティアナの手を引くと、少しだけ困ったように微笑んだ。
「ティアナ様、少し私の部屋で話しませんか? それと、もし良かったら今日から私の部屋で泊まりましょう。ベッドもそれなりに広い部屋を用意していただいているのでティアナ様と二人でも十分寝れますわ」
「まぁ、嬉しい! 久々にカロルとゆっくり話が出来るのね!?」
「旅行の道中も一緒に寝たじゃないですか」
「カロルとはどれだけ一緒にいても足りないの! ふふふ昨日買ったとっておきの茶菓子を出して、今日は今からお茶にしましょう! 夜も今から楽しみだわ!」
そう弾けた声に、カロルもふっと笑みを零した。
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