29

 ふわりと柑橘系の香りが鼻腔を掠めた。そして、暖かくて大きな手でゆっくりと頭を撫でられる。ティアナがそのぬくもりに頬をすり寄せれば、あっという間に手のひらは離れていってしまう。ティアナはそのぬくもりが惜しくて、もう少しだけと首を緩く動かすが、あの手のひらはもうどこにも見つからない。

 ゆるゆると瞼を開ける。するといつものように朝日が目に刺さった。そうして、はっと隣をみて、肩を落とす。

「馬鹿みたいね、私」

 そこにはやはりヴァレッドの姿はなかった。


◆◇◆


「貴方、『ティアナには自分から説明する』って言ってましたよねぇ!? なんでちゃんと言ってないんですか! 私があの空気の中、どれだけ居づらかったかわかります!?」

 その声はもちろんレオポールの私室からだった。その怒声を向けられたヴァレッドはソファーに座りながら、迷惑そうな顔で片耳を押さえている。

「俺はオペラには行けないと、ちゃんと言った」

「それだけでしょう! それ以外言ってないでしょう!? ちゃんと説明しましたか? 『歌劇場で闇オークションが行われているとタレコミがあったから、一緒にオペラは見れなくなった』そう言いましたか!?」

 いつになく激しい口調でレオポールはヴァレッドを叱咤する。最初こそ、その声に耳を傾けていたヴァレッドだったが、次第に彼も応戦する形に切り替わっていく。

「それで、それを調査しにいくとティアナに言えば良かったのか!? 十中八九、彼女は首を突っ込んでくるぞ! そうしたら危険なのはティアナだ! 俺はティアナのことを考えて言わなかったんだ!!」

「私はそれも含めて、ちゃんと話し合えって言ってるんですよ! 貴方、“妻”の意味分かっていますか!? ただ側にいる女性のことを“妻”とは言いませんよ! ティアナ様と結婚したのでしょう? 貴方がティアナ様を守りたい気持ちもわからなくもないですが、それ以上にこれからの人生を一緒に歩いていこうという相手に何も言わないまま物事を勝手に進めても良いと思っているんですか!?」

 いつの間にか二人は向かい合わせで、今にも掴みかからんという雰囲気を醸し出していた。

「良いも悪いも! 話せば危険なことになるかもしれないと言ってるんだっ!」

「そんなもの、話してみないとわからないでしょう! ティアナ様だってお人好しではありますが、馬鹿ではないですよ!! 話せば普通に――っ!」

「そんな一か八かの賭けに出れるか!! 第一、ティアナがじっとしていたって、事情を教えてしまえば巻き込まずにはいられない! 狙われる危険性だってある!!」

 気炎を上げていく二人の声は、防音の効いた部屋を突き抜けて、外にまで聞こえてしまいそうなほどだった。

 レオポールは目の前に立つヴァレッドの鼻先に人差し指を突きつけ、いつもの彼ではあまり考えられない低い声を出した。

「じゃぁ、貴方はこのまま一生、大事な事柄をティアナ様には告げず、自分勝手に全て決めてしまうわけですね!! 本当にこの男は自己中心的で最悪な野郎ですね!!」

「そうは言ってないだろうが!!」

 互いに睨み合ったまま、荒い呼吸を整える。その後、じっとりとした睨み合いが続いたが、その睨み合いを終わらせたのは、いち早く冷静になったレオポールだった。

「もう良いです。それより、歌劇場に行った収穫はあったのですか? 貴方があんな女性の多いところにわざわざ出向いたんです。無収穫とは思いたくないのですが……」

 レオポールの冷静な声色にヴァレッドも身を引いていつもの冷静な顔に戻る。

「収穫か。あったと言えばあったし、なかったといえばなかったな」

「どういうことで?」

「歌劇場に潜入をして一つわかったことだが、あの歌劇場は設計図通りに作られていない。正確に言えば、恐らくどこかの段階で改装されている。柱が均等に並んでいない場所があったし、壁が塗り替えられた箇所がいくつもあった。……ちょうどここの部分だ」

 ヴァレッドはそう言いながら、用意していた歌劇場の設計図を机の上に開き、怪しい部分をペンで囲んだ。その設計図はあらかじめファインツフォレストに置いている役人に用意させたものだった。

「結構大きな部分ですね。……で、その部分を調べることは出来たのですか?」

 レオポールの問いかけにヴァレッドは緩く首を振った。

「無理だった。その場所に入るためには、恐らく入り口で何か合い言葉や手形のようなものが必要になるのだろう。」

「つまり、それがないとお手上げってことですね。……はぁ。あのタレコミをしてくださった、とても親切でとても怪しい方がもう一度情報をくれたらいいんですがねぇ」

 レオポールの呟きにヴァレッドは思わず半眼になった。

「あの情報に踊らされるのは危険だぞ。罠かもしれん。第一、軽々と窓から侵入してタレコミを書いた置き手紙を残すというのがどうにも怪しすぎる。直接顔を合わせられない何かがあるのか……」

「まぁ、確かに。ヴァレッド様が公爵だとこの街では知る者が少ないのに、ピンポイントでこの情報を持ってきたところも怪しさ満点ですよね。……しかし、この情報を持ってきた人が敵だとして、その狙いがわかりませんねぇ。そのオークションを取り締まれば、その方に何か利が出るのでしょうか?」

 レオポールのその言葉に、ヴァレッドは思案顔のまま腕を組んだ。そして壁にもたれ掛かりながら小さく唸る。

「……どうだろうな。それよりまずはどうやって侵入するか、だ」

「では、何か入り込める方法がないか、私の方で探ってみます。ヴァレッド様は今日は一日オフということで。午前中は身体を休ませて、午後からあたりでティアナ様を誘ってどこか行かれてはどうですか? 昨日はどうせほとんど徹夜だったんでしょう?」

 レオポールのその提案にヴァレッドは渋い顔をする。

「そうもいかないだろう。俺の領地のことなんだ。俺が……」

「ダメです! 良いですか!? 貴方今新婚旅行中なんですよ!? 領地が大切なのもわかりますが、それと同じぐらいティアナ様のことも大切になさってください! 本当にこのままだと、ティアナ様出て行ってしまいますよ! それでもいいんですか?」

 その言葉にヴァレッドは思わず押し黙る。その隙を突いたのか、レオポールは更に声高に声を上げた。

「良くありませんよね!? それなら私の指示に従ってください! こっちのことは私がしっかりしておきますので、安心してくださいませ!!」

「……わかった」

 渋々といった感じで、ヴァレッドはそう頷いた。

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