23

「え? 昨晩、何も無かったんですか?」

「あぁ。何を確認しているんだ。馬鹿かお前は……」

「……本当の本当に?」

「当たり前だろう」

 レオポールにと割り振られた一室で、ヴァレッドとレオポールは互いにじっと見つめ合ったまま固まっていた。

 その部屋はヴァレッドとの話し合いもしやすいようにと少し広めに取られている部屋だった。夫婦の寝室と同じように白と金で内装も彩られている。シングルよりは少し大きめなベッドとクローゼット、向かい合ったソファーに小さなローテーブル。少し奥の方に書類整理用の広い机が設置されている。

 その机を挟むようにして二人は固まっていた。お互いの手には、この街に来る途中で一行を襲った者達の調査報告書が握られている。

 レオポールはその手にした書類に皺を刻みながら恐る恐る声を出す。

「もしかして、ヴァレッド様は不の……」

「それ以上言ったら、お前を剣の錆にしてやる」

 とんでもない烙印を押されそうになったヴァレッドは顔に影を作りながらレオポールを睨みつける。しかし、長年の付き合いがあるレオポールにそんな脅しなど通用するはずもなく、彼は頬を引きつらせながら悲痛な声を上げた。

「いやいや! これはちょっと疑われても仕方がない案件ですよ!? ティアナ様は星の数ほどいる女性の中で貴方が唯一普通に触れることの出来る女性じゃないですか!? そんな女性と夫婦になって、あまつさえ褥を共にしたのに何も起こらないなんて! もうこれは不能としか考えられないでしょう!?」

「男女が同衾したら絶対にそういう結果に至るというのが、不埒な考え方なんだ! お前は女と同衾したらそういうことをしようとするのか!?」

「しようとしますよ! しかもそれがちょっと良いなと思っている女性なら当然です!」

「……そうか」

 レオポールのその断言にヴァレッドは思わず口ごもる。

 レオポールはそんな彼をじっとりと見つめて、やがて諦めたように息をついた。

「まぁ、仕方ないのかもしれませんね。ティアナ様は別でしょうが、今まで女性を避けて通っていたヴァレッド様ですもんね。そう簡単に一線は越えませんか。考えてみたら同衾出来ただけでも奇跡のようなものですもんね」

「……馬鹿にしているのか?」

「いいえ、まったく。隣に寝ている女性に指一本触れなくても、ベッドの端と端で寝ているような結果でも、ヴァレッド様なら仕方がないな、と思っただけです。この私が期待をしすぎたのがいけないんです」

 呆れたように首を振って、レオポールはがっくりと肩を落とす。「私の老後は、やはりこの人に振り回されて終わるというわけですか……」なんて呟きも耳を掠めた。

 ヴァレッドはそんなレオポールを目の端に止めながら手に持っていた書類に視線を落とした。そして、少し不服そうな顔で唇を尖らせる。

「別に指一本も触れなかったわけでは……」

「え!? そうなのですか!?」

 弾かれるように顔を上げてレオポールはヴァレッドの詰め寄る。詰め寄られたヴァレッドは急に元気になった彼に若干身を引いた。

「手を繋がれたのですか!? それとも、腕枕!? 抱きしめて寝るなんていうのはまだ早いでしょうから、その辺りですか!? 進歩! 大進歩ですよ! ヴァレッド様!!」

 まさかティアナとヴァレッドが子供を作る約束をしているとは全く思わないレオポールである。ヴァレッドは少しだけ顔を赤くさせて、丸めた書類で彼の額を叩く。

「なんでもいいだろう。それより、この盗賊の話を進めるぞ!」

 ヴァレッドのその言葉にレオポールは面白くなさげに「はいはい」と肩をすくめた。


◆◇◆


 真夏とまではいかないが、肌を焦がす夏の太陽が地面を焼く中、ティアナは貸し切りにしている西棟と東棟の間にある広い庭園のベンチに腰掛けながら本を広げたいた。その本のタイトルはもちろん【魔法使いと異国の姫君】シリーズの新婚旅行編『再会の旅と愛の歌劇場』だ。

 ティアナは太股の上に置いた本をぺらぺらと捲りながらうっとりとした声を漏らす。そうして、最後まで読み終わると、本を胸の中に抱き頬を桃色に染めた。

「うふふ。ヴァレッド様とのオペラ、とっても楽しみですわ! ドレスはやはり藍色でしょうか? 午後までに決めておいた方が良いとカロルは言っていたけれど、やはり決まりそうにないですわね」

 明日のオペラのために、ティアナとカロルは午後からドレスを見に行く約束をしていた。本来なら仕立屋を呼んで一から仕立てて貰ったほうが良いのだが、今回は急なことなので仕立ててあるものを買いに行くことになったのだ。幸いなことに歌劇場があるこの街にはいい仕立屋が多い。仕立て売りでも十二分に素敵なドレスが揃っていた。

「それにしてもドレスを見に行くなんて久しぶりですわ。なんだかいつもより心が逸りますわね」

 妹のローゼとは違い、ティアナは自分を着飾るものに対して興味が薄かった。人並みに綺麗なものを綺麗だとは思うのだが、基本的に物欲があまりないのである。なので最初、カロルがドレスを見に行きましょうと提案してきたときも断っていた。しかし、『再会の旅と愛の歌劇場』の挿絵にあるエミリーヌが着ているドレスと似通ったデザインのドレスがこの街にあると聞いて気が変わったのだ。

 ティアナは本の背表紙を指で撫でる。そして何かを思い出すかのようにうふふと笑った。

「だめね、嬉しくて頬が緩んでしまうわ」

 ヴァレッドがティアナをオペラに誘ったとき、彼女は心臓が止まるかのような想いを味わっていた。優しいが、いつもぶっきらぼうなヴァレッドがオペラに誘ってくれるなんて、夢にも思わなかったからである。この時ばかりは【魔法使いと異国の姫君】のもう一人の主人公であるジェロとヴァレッドが重なってしまうほどだった。

「それにしても、この本の続きはもう出ないのかしら。最初にこの本が出てからもう一年も経っていますのに……」

 先ほどとは打って変わった声色でティアナは悲しげにそう呟いた。ジスレーヌ・ジャクロエの名で刊行された本は、実はその本が最後である。ジスレーヌは旅をしながら本を書いているともっぱらの噂ではあったが、その刊行ペースは、今まで驚くほどに早かった。同じシリーズものなら三か月に一度、その間に他のシリーズも書いているのでほとんど一ヶ月おきに本が出ているという状態だった。その刊行ペースが『再会の旅と愛の歌劇場』を最後にぷっつりと途切れてしまっていた。

 ティアナがジスレーヌの本を知ったのはつい最近だが、彼女の本にはファンが多く、刊行されなくなったとの話はすぐティアナの耳に入ってきた。

「これからどうなるのか楽しみですのに……」

 そうティアナが零したとき、一陣の風が吹き、辺りの木々を揺らした。ティアナは舞い上がる髪の毛とスカートを押さえる。脇に置いた本はぱらぱらとページを送っていた。

「ちょ、マジでっ! 待って! 待ってくれって!!」

 その時、ティアナの耳朶に男の声が引っかかった。ティアナが声のした方向を見れば、赤い上着を着た男が散らばった紙を必死にかき集めている。

「あの方は……」

 その男はティアナ達がシュルドーを出発して最初に泊まった宿で給仕をしていた男だった。お金がなくて行き倒れていたところを宿屋の女将さんに助けて貰ったというあのサングラス男だ。

 ティアナはその男に近寄り、風で飛ばされた紙を一緒に拾い集めた。それを見止めた男が申し訳なさそうに頭を下げる。

「いやー、すいませんねぇ。風で飛んじゃって! 飯の種なのになくしたら大変だわ。あら……?」

「こんにちは。お久しぶりです」

 ティアナを見た男が一瞬固まる。そして、破顔した。

「いやー、偶然ですね! あの時のお嬢さんじゃないですかー」

 間延びした声を響かせながら、彼はへらりと笑う。

「本当にすごい偶然! ……あ、これ」

 ティアナは笑顔を返しながら手元にある紙を彼に渡そうとした。しかし、その手は途中でぴたりと止まってしまう。ティアナの視線はその手元の紙に注がれていて、じっとその内容を読んでいるようだった。

「あの……?」

 男がティアナの手元にある紙を返してほしそうに視線を向ける。そんな男にティアナは顔を跳ね上げた。そして、手元にある紙と男を交互に見て、恐る恐る声を出した。

「もしかして、貴方はジスレーヌ・ジャクロエという名ではありませんか?」

 そう、ティアナの手元にあったのは『再会の旅と愛の歌劇場』の続きの原稿だったのだ。

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