22
翌朝、少しの息苦しさを感じてティアナが目覚めると、目の前には見たことのない壁があった。その壁はティアナの体温よりは少し暖かく、感触も柔らかい。その暖かさに思わず頬をすり寄せると、その壁は少しだけビクリと跳ね上がった。
ティアナはその挙動に目を瞬かせるとゆっくりと顔を上げる。すると、深いアメジスト色の双眸が半開きでティアナを見下ろしていた。
「……起きたのか?」
「ヴァレッドさま?」
あまり呂律の回っていない声でティアナがそう答えると、ヴァレッドは窓の外を一度だけ見て、もう一度彼女を抱え込んだ。
「もう五分だけ……」
まるで甘えるような声色でそう言った後、ヴァレッドはすぐに寝息を立て始めてしまう。
「あの、ヴァレッド様……?」
先に目が覚めたのはティアナの方だった。ヴァレッドの胸板に顔を半分埋めながらきょろきょろと周りを見渡す。
そして、自分がヴァレッドに抱きしめられているのだと確認したあと、まるで爆発するかのように頬を赤く染め上げた。
寝ているヴァレッドはティアナに半分身体を預けるようにして、まるで抱き枕のように彼女を抱えている。
ティアナは赤ら顔のまま首を回して部屋についてある時計に視線を巡らせた。昨晩遅くまで起きていたわけではないのに、朝食の時間はとっくの昔に過ぎている。
二人とも朝には強いはずなのに、完全に寝坊してしまっていた。
いつもなら寝過ぎていたら呼びに来てくれるはずのカロルの姿がないことを、ティアナは少しだけ不思議に思いながら、ヴァレッドの胸板を少しだけ強めに叩く。
「ヴァレッド様、もう朝です! 早く起きられないと朝食がっ! もう下げられているかもしれませんが、食べられなくなってしまいます!」
ぺちぺちと胸板を叩くがヴァレッドはその度に小さく唸るばかりで一向に起きる気配がない。
それでも諦めず、ティアナは何度も呼びかけてはヴァレッドの胸板を叩く。そんな不毛なやりとりが数分続いて、ティアナは諦めたように一つ息を吐いた。
「こうなったら、レオポール様を呼んできましょう」
自分の言葉に頷きながら、ティアナはヴァレッドの腕から抜け出そうと藻掻く。しかし、寝ているはずのヴァレッドの腕はなぜかぴくりとも動かない。むしろティアナが腕から身体を引き離そうとする度に、身体を抱え込まれてしまう始末だ。
しばらくヴァレッドの腕と格闘していると、腰の辺りに回されていた腕がティアナの身体を一段と締め付けてきた。まるで身体に押しつけられるような形になったティアナはやっとの思いで息を吸う。
すると、聞き慣れた低音が耳朶を打った。
「……どこか行くのか?」
見上げる先には半分も開いていない瞳。首は眠たそうに何度もゆらゆらと動いていた。ティアナは今度はヴァレッドの頬に手を当てながら必死に声を出す。
「ヴァレッド様、起きませんと! 朝です! 二人揃って寝坊してしまいました!」
「……馬鹿を言うな。ここ何年も寝坊などしたことがないのに、寝坊なんてするわけがないだろう?」
「本当なのです! 先ほど時計を見て確認しましたわ!」
「それなら、君が見間違えたんじゃないのか? ……俺は……まだ眠い……」
そう言って再び眠りの世界に入りそうになるヴァレッドの顔をティアナは無理矢理時計の方へ向けた。そして、精一杯の声を出す。
「ヴァレッド様! 時計を! 時計を見てください!」
「ん? ……――ん!?」
ヴァレッドの瞳が時計を映した瞬間、彼は飛び起きた。腕に抱かれていたティアナはヴァレッドの側でゆっくりと身体を起こす。
「これは……時計が壊れてるのか!?」
「いえ、太陽の高さから言ってそれはないかと……」
「そう、だな……」
ヴァレッドは時計とティアナを交互に見た後、頭を抱えて深いため息をついた。
「これは十中八九、レオにからかわれるな……」
その言葉にティアナはきょとんと首を傾げた。
◆◇◆
「オペラは明日の夕方分しか席が取れなかったんだが、それでもいいか?」
朝食と昼食の丁度間の食事を取りながら、ヴァレッドは目の前に座るティアナにそう声を掛けた。
ティアナは何のことを言っているのかわかっていないようで、サラダを口に運びながら小さく首を傾げる。
「歌劇場が見たいと言っていたのは君だっただろう? 演目は丁度オペラしかやっていなくてな。バレエや管弦楽団の演奏の方が良かったか?」
「えっ! もしかして連れて行ってくださるのですか!?」
サラダの青菜を飲み込むやいなやティアナは前のめりにそう言った。瞳はこれでもかというぐらいに爛々と輝いていて、頬は桃色に染まっている。
ヴァレッドはそんなティアナの様子に片眉を上げた。
「前に約束をしただろう? まさか君の方が忘れていたのか?」
「いいえ! 忘れてなんて!! 歌劇場を見せてくださるというお話はちゃんと覚えていますわ! ですが、中に入れるだなんて思ってもなくて……」
感激したようにティアナは口元に手を当て、声を震わせた。
「君は俺が外観だけ見せて終わりにさせると思っていたのか? なんというか、君は本当に欲がないな」
「オペラ! しかも、オペラだなんて! 『魔法使いと異国の姫君』のエミリーヌとジェロみたいですわ! 小説の中でエミリーヌは藍色のドレスでしたけれど、私は何色のドレスにいたしましょう! 藍色はあまり着ないのですけれど、ここは勇気と覚悟が必要な時かもしれませんね!」
「聞いてないな……」
興奮するティアナにヴァレッドは困ったように笑う。そして、先に食事を済ませると、いつもゆっくりな彼女に合わせて食後の珈琲を啜った。
「ヴァレッド様、私すごく楽しみにしていますわ!」
「あぁ」
ティアナの弾けるような笑みに、ヴァレッドも笑みを零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます