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 ヴァレッド公爵との壮絶な出会いから一夜明け、ティアナは朝から城の庭にある薔薇園に来ていた。片方の手には袋に入った刺繍道具を持って、彼女は薔薇園をふらふらと歩き回る。季節は春。最近は各地で花祭りが開かれるほどの気候の良さなので、園の薔薇も見事に満開だった。

 侍女のカロルはというと、現在、今朝用意された侍女部屋にお引っ越しの真っ最中である。なのでティアナはカロルを今日の夕方まで休みにしたのだ。カロルも長旅で疲れただろうというティアナの配慮である。

 なのでティアナは一人で城の中を散策をしていたのだ。刺繍道具を持っているのは、どこかで景色でも眺めながら刺したいと思っていたからで、ティアナは丁度良さそうな木陰を見つけて、その側に座り込んだ。

「こんな綺麗な場所があるなんて……」

 黒と灰色で統一された城の外観からは考えられないほどの、赤やピンクが視界を埋め尽くす。ティアナは刺繍道具を取り出すと、今回のモチーフを目の前の薔薇にしようと決めた。

 そしてしばらく上機嫌で刺していると、不意に視界の端に黒い影が映る。ティアナは刺繍をしていた手を取め、視線を上げた。

「あ、ヴァレッド様だわ」

 ティアナは少し浮かれた声でそう言うと、片手を振り上げながら「ヴァレッド様ー」と彼を呼んだ。彼はその声でティアナに気づいたらしく、分かり易すぎるぐらい顔を歪めて数歩後ずさる。そして、そのままくるりと踵を返し、元来た道を戻るのかと思えば、そこで彼はティアナに背を向けたまま考え事をしはじめた。ティアナはその後ろ姿に疑問符を浮かべたまま首を傾げる。

 しばらく悩んだ後、彼はまた踵を返して大股でティアナの元へやってきた。そして、人があと二人分座れるだろう距離を置いて、ティアナの側に座り込んだ。これにはさすがのティアナもびっくりして目を瞬かせる。

「……こんなところで何をしている?」

「刺繍をしているのです。どこか景色が良いところで刺したいと思って散策をしていたら、綺麗な薔薇園を見つけましたので。……もしかして、ダメでしたか?」

「もう、書類に目は通し終わったのか?」

「はい」

「そこに薔薇園で刺繍をするなと書いてあったか?」

「いえ」

「なら問題ない。俺がこの屋敷で君に守って貰いたいことは全てアレに書いてある。あの約束を違えなければ、君はこの屋敷で自由にして貰ってかまわない」

「ありがとうございます! ヴァレッド様!」

 弾んだ声でそう返せば、ヴァレッドはようやくティアナの方を見た。しかし、その眉間には皺がよっている。彼の態度は昨日より棘も取れているし、ティアナを呼ぶ時にも“女”と言わずに“君”と言っているが、その声色は固く、やはり女嫌いなのだと実感するような鋭さを孕んでいた。

「ところで、君は先ほどから刺繍をしていると言っていたが、もう書類の内容は全て覚えたのか? 目を通しただけで済ませているとは言うまいな。趣味に興じる時間があるなら、その労力をもっと役立つ方へ使ってくれないか?」

「もしかして、書類の内容を覚えないと私が困ると思って、心配して下さってるのですか? ヴァレッド様は本当にお優しいのですね! 感激です!」

「…………」

「ヴァレッド様、大丈夫ですわ! 私こう見えても勉学は得意でしたの。昨日一晩で約束事の内容は全て頭に入っています。でも、本当に嬉しい! ありがとうございます!」

「……全部?」

 疑わしそうな声色を上げて、ヴァレッドがティアナを睨む。

「百二十四項目めは?」

「はい?」

「全部覚えたのなら、そらんじられる筈だ。百二十四項目めは?」

「『その百二十四、夫の私室及び、執務室は勝手に入ってはならない。入室するときは夫と一緒か、事前に許可をもらう必要がある』ですよね?」

「ほぉ」

 感心したようにヴァレッドがそう声を漏らす。視線の鋭さも幾分かゆるみ、まるで珍しいものを見るようにヴァレッドは片眉を上げてティアナを眺めた。

「本当に覚えたみたいだな」

「昔から暗記と刺繍ぐらいしか得意が無かったものですから」

 誉められたことが嬉しいのか、恥ずかしそうにはにかみながらティアナはヴァレッドに微笑みかけた。渋面の彼は更に眉間に皺を寄せて、ティアナから視線をそらす。それと同時にティアナも目線を刺繍の方へ戻し、また機嫌よく刺し始めた。

「ヴァレッド様はそんなに優しいのに、女性嫌いだと勘違いされていて大変ですね」

「は?」

「あら、ご存じないですか? ヴァレッド様はこの界隈では『女嫌い』と有名で……」

「それは知っているし、噂は事実だ。勘違いなどではなく、俺は女が嫌いだ」

「え? でも、こんなにお優しいのに。もしかして、気を使って下さってるんですか?」

「気など使っていないし、俺の事を『お優しい』と評価する女性は君が初めてだ」

「初めて?」

 驚いたように目を瞬かせて、ティアナは改めてヴァレッドを見た。その時、丁度ヴァレッドもティアナの方を見ていたようで、アメジスト色の双眸が彼女の眼鏡に映り込む。

「本来なら会話もしたくないし、側にいたくない。できれば視界にだって入れたくない! しかし、せっっかく嫁いできた奥方なのだから優しくしろとレオが言うから、俺は仕方なくこうしてっ!」

「ヴァレッド様も大変なのですね……」

「解ってくれるか!」

「えぇ、心中お察ししますわ。私も蛇と蛙はどうしても苦手ですの。視界に入れたくもありませんし、側にだってっ!」

 ティアナがぶるりと体を震わせると、ヴァレッドも同意を示すように深く何度も頷いた。

「大体、レオの奴はわかっていないんだ! 女がどんなおぞましい生き物なのか! 世の男達も皆そうだ。何が悲しくて、あんなおぞましい生き物と一生を添い遂げようと思うのか、俺は不思議でならない!」

「あら、お聞かせ願えますか?」

「勿論だ! まず、女は自己中心的でわがままだ。感情の起伏も激しく、ヒステリックを起こしやすい。空気を吐くことと同じように嘘を吐き、男に媚びて、誰にでも足を開く生き物だ!」

「……凄いですわ」

「まだまだあるぞ! 自分の身なりの為なら金を湯水のように使い、自分に傅く人間を、まるで物を見るような目で見るんだ。自分の意に従わなければ暴力に訴えるような凶暴性も持っている!」

「それは怖いですわね……」

「そうだろう? 従って、俺は“女”という生き物の事を一切信用していない! お前も“女”には気をつけることだ。何かあってからでは遅いんだからな」

「わかりましたわ! 十二分に気をつけます!」

「あぁ、それで……」


「こんの! ヴァレッドオォさまあぁぁぁあぁ!!!」


 その時、空気を震わせるような叫び声が薔薇園に木霊した。声のした方を見ると、レオポールが土煙を上げながら凄まじい早さで此方に駆け寄ってくるのが見て取れる。レオポールは二人を隔てるように滑り込み、そして、ヴァレッドの首根っこを掴むとティアナに頭を下げさせた。

「このバカ主人が何言ったかは知りませんが、どうかご容赦くださいティアナ様! 出て行くなんて申さないでください!」

「おい!」

「一人でお会いにならないでくださいとあれほどっ! バカですか? バカなんですか!? 貴方のようなおバカな人は、ホント少し黙っていてください!」

「別に変なことは言ってない。彼女も別に気分を害したわけではない!」

 そのヴァレッドの言葉に、レオポールは信じられないという面持ちで、目線をティアナに向けた。ティアナは、その少し縋るような視線を浴びながら小さく頷く。

「はい。楽しくお話をしていただけですわ」

「彼女もそう言っている」

 そう言いながらヴァレッドは自慢げに胸を張った。

「……貴方が、女性と、楽しく、会話? 信じられない。あの、筋金入りの女性嫌いの貴方が?」

「だが、事実だ」

「嗚呼っ! 神よっ!」

 いきなり両手を組み、感涙にむせびだしたレオポールをヴァレッドは少し引き気味にして見つめる。

「ティアナ様、貴女は救世主だ! これであの、国王命令のお見合い地獄から解放される! お見合いが終わった後のヴァレッド様を宥めたり、あちらから届く断りの手紙にいちいち返信をしなくてもいい! 何より政務も滞らない! 最高です! どうか離縁などすることなく、末永くこちらにいてください! その為なら私は何でも致しましょう! えぇ! 私はいつでもティアナ様の味方ですよ!」

「は、い」

 両手を握ったままレオポールはティアナに詰め寄る。その勢いにティアナがたじたじになっていると、ヴァレッドが助け船を出すように、興奮した彼の頭を頭を軽く小突いた。その衝撃で素に戻ったのか、レオポールは慌てたように両手をしまい、咳払いを一つして、ティアナから距離を取った。

「申し訳ございません。私としたことが取り乱してしまいました。ヴァレッド様、執務室にお戻りください。先ほど税についての報告書が上がってきました」

「わかった」

 先ほどよりも声色を少しだけ低くしてそう答えるヴァレッドの顔は、これから仕事に取りかかるという男の顔だ。そんなヴァレッドの顔を嬉しげに見上げて、ティアナは「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。

「あ、あぁ」

 歯切れの悪い返事をしたヴァレッドをレオポールが促して、ティアナを残したまま二人は薔薇園を後にした。


「ところで、お二人で何を話されてたんですか? 貴方が女性を不快にしない話のネタを持っているとは思えませんが」

 執務室に着くなり、レオポールは疑わしげにそう聞いてきた。やはり、この女嫌いの主人が女性とまともな会話をしたという事実が信じられないのだろう。しかも彼女とはまだ会って二日足らずだ。使用人から聞く限り、出会い頭の印象は最悪だったはず。

 そんな訝しげな家令の目線を受け流しつつ、ヴァレッドは執務室の椅子に腰掛けると、至って普通にこう述べた。

「失礼な奴だな。俺はただ彼女に『女性がどれだけおぞましい生き物なのか』を教えていただけだ。彼女も同意を……」

「こんのっ! 馬鹿主人がぁ!!」

 ヴァレッドが言い終わる前に、レオポールの鉄拳が彼の脳天へめり込んだ。そして、その後すかさず胸ぐらを捕みがくがくと揺さぶる。

「貴方わかってますか!? ティアナ様だって女性ですよ!? 女性相手に女性批判とか、何してるんですか! 絶対出て行く! ティアナ様、明日にはこの城から出ていきますよ! この馬鹿主人が!!」

「…………」

 その言葉に驚いたように目を見開いてヴァレッドは固まった。そんな主人の胸ぐらを離して、レオポールはその場で頭を抱えて唸り出す。

「そうか」

「……何か言いましたか?」

「アイツも“女”だったな」

「何を当たり前のことを……」

 そう言ってレオポールは、はっと顔を上げた。口元に手を置き考え込む主人を、穴が空くのではないかと言うぐらい見つめる。この女嫌いの固まりのような主人が警戒を解く相手。コレはもしかして、もしかしなくても……。

「もしかして、ヴァレッド様、ティアナ様のことを……」

「この俺が騙されかけるとは、あの女なかなかやるな」

「なんでそうなるんですかーー!?」

 レオポールの悲痛な叫びは屋敷内に響きわたった。

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