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「臭い」
ヴァレッド・ドミニエル公爵は出会い頭にそう言った。顔合わせにと用意された部屋で、歓迎の挨拶を述べるでも、長旅を労うでもなく、彼は口元を覆いながら二人に向かってそう言ったのだ。
黒い髪の毛にアメジスト色の双眸。高い身長に軍人のような体躯を持つ彼は、その綺麗な顔を歪めてティアナとカロルを見比べる。
「お前だな、侍女。香水臭い。すぐに体を綺麗にして来い。お前もだ、女、臭いが移っている。二人とも一度湯船に浸かってこい」
「お、女……。臭い……」
カロルが拳をプルプルと振るわせて信じられないような物を見るような目でヴァレッド公爵を見上げる。ひきつった顔を隠すことも忘れて、怒りに耳まで真っ赤にさせていた。それでも怒声を発しないのは、それが許される相手ではないからだ。
その時だった。耳を劈くような甲高い声とともに、一人の男が扉から転がり込んできた。そして、ヴァレッドとティアナ達を隔てるように間に滑り込み、ヴァレッドを壁際まで追いつめた。
「ヴァレッドさまー!? なぁに一人でお会いになってるんですか!! 貴方が一人でお会いになったら禄な事にならないと申し上げたはずです! せっかく来てくれた花嫁を追い返したいんですか!!?」
「二人とも執務室から離れたら仕事が滞るだろう? 俺が一人で会えば済む事だ」
「済まないからこうやって私が来たんでしょうが!」
淡いモスグリーンの髪の毛に片眼鏡を掛けた細長い男がヴァレッド相手に詰め寄る姿を、ティアナとカロルは呆然としたまま見つめる。カロルの怒りも含めたようなその詰め寄り方に、カロルもそれまでの怒りを忘れて、その二人のやり取りを見守っていた。
「馬鹿なんですか、貴方は! またあのお見合い地獄に戻りたいんですか!?」
「……それは嫌だ」
「なら大人しくなさっていてください。貴方がいくら女性がお嫌いでも、言って良いことと悪いことがあります! いえ、間違えました。貴方の女性に対する発言は、決して本人には言ってはならない事ばかりです! あのお見合い地獄に戻りたくなければ、口を噤んでください! 今すぐ!」
「…………」
「よろしい」
あっという間にヴァレッドを言い負かしたその男は、片眼鏡を指で上げ直しながら一息ついた。そして、先ほどとは打って変わった声色でティアナ達に恭しくお辞儀をしてみせる。
「申し遅れました。私、ドミニエル公爵家の家令を務めさせていただいているレオポールと申します。この度は主人が大変失礼いたしました。ティアナ様、その侍女の方におかれましても、この度の長旅で心身共に疲れた事だと思います。夕食の方は後で部屋にまで運ばせますので、どうぞ今夜はゆっくりお休みになって下さい。明日には歓迎の意味を込めた晩餐を用意していますので、それまではご自由にお過ごし下さいませ」
「はい。お気遣い傷み入ります」
そうティアナが返すと、レオポールは満足げににっこりとほほえんだ。その間もヴァレッドはティアナの方を胡乱げに見つめている。まるで文句を言い足りないとでもいうような顔だ。
そして話も終わり、ティアナ達も部屋から出て行こうとした時だった、ヴァレッドは数十枚束になった紙を懐から取り出し、それをティアナに押しつけた。
「この屋敷で生活するのならそれは守ってもらおう。明日の晩餐会までに目を通しておけ」
「ちょ、ヴァレッド様!」
「はい。わかりましたわ!」
そう元気よく返事をしながら、その紙の束を胸元で大事そうに抱えるティアナに、怒声を発しそうになったレオポールも思わず黙る。ヴァレッドも片眉を上げて値踏みするような視線を彼女に寄越した。
「ヴァレッド様の良き妻になれるよう一生懸命頑張りますので、どうかこれからもご指導、よろしくお願い致します」
ティアナが片手で渡された書類を持ちながら、空いている方の手でスカートを持ち上げ淑女の礼を取る。そんな彼女に向けられたのは、恐ろしい程に侮蔑が籠もった視線だった。
「そうやって媚びても、俺は新しいドレスも宝石も買ってやる気はない」
「あら、必要ありませんわ。私、家から必要な物は持ってきてますの。お気遣いありがとうございます。ヴァレッド様はお優しいのですね」
「……その殊勝な態度がいつまで続くか見物だな」
「殊勝だなんて、私にはもったいない言葉ですわ。嬉しいです。ありがとうございます」
「…………阿呆なのか?」
ヴァレッドは思わすティアナの隣にいるカロルに視線を送る。カロルはゆっくりと首を振り、少し呆れたような声を出した。
「いえ、ティアナ様は人より少しだけ、すこーしだけ、前向きすぎるのです」
「そうか」
眉間に皺を寄せて、ヴァレッドは今まで見たこともない生物を見るような目でティアナを眺めた。
◆◇◆
その一、妻は質素倹約に努めるべし。必要以上のドレスや貴金属を夫に強請らない。
その二、室内では香水、その他臭いを発する物を付けない。どうしても必要な場合に限り、夫に許可を求める事。
その三、必要以上に声を荒げ無い事、いかなる時も冷静である事。
その四、夫に嘘はつかない。ついた場合は厳罰をもって対処する。
その五、化粧は必要最低限に留め、薄く仕上げること。
など、その他百以上に及ぶ取り決めをティアナは必死で読み込んでいた。その隣でカロルは呆れ顔である。
部屋は白と金で誂えた上品な一室だった。天涯付きの大きな寝台に大きな丸いテーブルに椅子が二脚。文机や化粧台まで白で統一されている。
二人はその用意された一室で一緒に過ごしていた。というのも、この屋敷に侍女はいないのだ。料理人や給仕をする人は勿論、この城では身の回りを世話する人は全て男性で構成されていた。侍従はいるが、侍女はいない。本来なら侍女とその主が同じ部屋で行動を共にするということは無いのだが、この屋敷に侍女が寝泊まりするような部屋がないので、ひとまず同じ部屋で寝泊まりをすることになったのだ。明日には侍女用の部屋も用意してくれるらしい。
「ティアナ様、よくやりますわね。ヴァレッド公爵にあんな事を言われて悔しくないんですか?」
「あら、カロル。私の夫になって下さるのだから“ヴァレッド公爵”じゃなくて“ご主人様”よ。それに、ヴァレッド様は私の事を考えてあんな風に厳しくして下さったんだわ。だってほら見て『その二』の所、香水がダメって書いてあるわ。最初に指摘して下さったのもヴァレッド様の優しさだったのよ!」
「“ヴァレッド公爵”の事を“ご主人様”と呼ぶのは、ティアナ様と本当にご婚姻されてからにしますわ。この調子だと一ヶ月後の結婚式までに追い出されかねない勢いですもの。……それとヴァレッド公爵の言葉はそのままに受け止めていただいて問題ないと思いますわ」
「そのままにって事は、……やっぱりカロルもヴァレッド様はお優しい方と思ってるのね!」
「……ティアナ様はお幸せですね」
「えぇ! 私はとっても幸せよ」
そう言ったティアナの顔は花のように綻んでいた。
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