第35話『Kiss! Kiss! Kiss!』

 夏の昼下がり。

 庭では、今や盛りとセミが盛大に鳴いている。

 空には、嫌になるくらいに眩しく輝く太陽。

 照り付けられたアスファルトは熱を放ち、光を屈折させて逃げ水という名の蜃気楼を作る。

 おそらく外は、サウナのような状態になっているだろう。


 だけど、僕の部屋にはエアコンがある。

 外がどんなに暑くても、部屋の中は涼しく快適。


 ――の、はずなんだけど……


 僕は今、異常なほど汗をかいていた。

 心拍数が上昇していくのが良くわかる。

 だけど、目の前の委員長――

 アサミは、そんなことお構いなし。

 視線を逸らさず、じっと僕を見詰めていた。


「あ、あの、委員長……」


 そのプレッシャーに耐えられなくなった僕は、恐る恐る口を開く。


「い……いったい、どうしたの?」

「べ、別に!」


 するとアサミは、ぷいっとそっぽを向いた。


「わ、私、梨川くんのこと、嫌いじゃないし……」

「う、うん」

「だ、だから、べ、べ、べ、別に付き合ってあげても……」

「えっ……で、でも……だからって……」


 赤くなるアサミを見ていると、こっちまで恥ずかしくなってくる。


「迷惑……だった?」

「い、いや、迷惑とかじゃないけど……何て言うか、その……」

「も……もう、じれったいわね!」


 バン!

 と、ベッドを叩くアサミ。

 その音に、思わず身をすくめた。


「梨川くんは、私のこと嫌いなの!?」

「き、嫌いじゃないけど……」

「じゃあ、いいじゃない!」

「で、でも……」


 僕は、キュッと唇を噛んだ。

 そして体を起こすと、真っすぐにアサミを見詰める。


「でも……好きな人は……いるんだ」


 絞り出したかのような声。

 アサミは、その言葉に悲しげな表情になる。

 そして、伏し目がちに長い髪を掻き上げた。

 ややあって、アサミの口が小さく開く。


「知ってるよ……」

「えっ!? 知ってる!?」

「うん……気付いてた」


 アサミは、ゆっくりと顔を上げた。


「梨川くんのことなら……なんでもわかるんだ」


 そう言って微笑む顔には、悲しみの色が浮かんでいた。


「ホントはね、今日はまだ言うつもり無かったんだ……」


 アサミは、窓の外の空を見上げる。


「でも……あなたの顔を見てたら、高2の夏は今しかないからって思えて……」


 見上げた青い空では、一筋の飛行機雲が長い尾を引いていた。


 アサミは軽く息を吐く。

 そして、顔を戻すと僕を見た。


「ねぇ……キスしてみない?」

「えっ!?」


 い、い、い、今なんて!?

 キスがどうとか言ってた気がするけど……

 そんなの突然すぎる!

 き、きっと、僕の聞き間違いだよね!

 

「もぅ……何度も言わせないでよ」


 アサミが僕の手を握る。


 き、聞き間違いじゃなかったー!!

 

 頭の中が瞬時に真っ白になり、僕の体は硬直する。

 外のセミの声が一際大きくなった気がした。


 アサミは瞳を閉じる。

 その顔が、唇がゆっくり近づいてくる。

  

 2人の唇が静かに触れ――


 刹那、心の中をよぎるもの。


「――ダメだっ!」


 僕は、直前でアサミの肩を押し戻した。


「な、梨川くん!?」

「ゴメン……」


 目を逸らしながら僕は謝る。


「……どうして?」


 アサミの悲しげな声が、部屋に響いた。


「やっぱり……私が魅力的じゃないから……?」


 今にも消え入りそうな声。


「ち、違うよ!」


 胸がズキンと痛み、思わず大きな声が出た。


「じゃあ……なんで?」


 彼女は、大きな瞳で僕を見詰めてくる。


「僕は……」


 唇と唇が触れ合う直前、心の中を過ぎったもの。

 それは、ミサキの姿だった。

 その瞬間、思い出が走馬灯のように溢れだして……

 それがアサミを拒んだ理由だった。


「……ほ、ほら、まだ恋免を持ってないから!」


 だけど、思わず嘘が出た。

 彼女の表情を見たら、とても本当のことを話すことはできなかったから。


「免許……取りに行ったんじゃないの?」


 アサミは、顔を上げる。


「うん、それが……ちょっとしたアクシデントで……」


 僕は頬をかいた。


「だから……取れなかったわけで……」

「じゃあ……」


 そんな僕の手を、彼女は優しく握る。


「次、取ればいいじゃない」

「え……? あ……うん、まぁ……」


 確かに、恋免は合宿じゃなくても取れる。

 普通に教習所に通えばいいのだ。

 もちろん、合宿より期間はかかることになるけど……


 ジッと僕を見詰めるアサミ。

 目と目が合う。

 そのただならぬ雰囲気に、思わずツバを飲み込んだ。


「だから……」


 アサミの口が、ためらいがちに開く。


「キスの予行練習っていうのは……どう?」

「あ~、予行練習……って、ええええっ!?」


 ちょ――!?

 そ、そんな予行練習が存在するの!?


「や……で、でも、僕……は、初めてだし……!」

「私だって……初めてだよ」


 伏し目がちのアサミ。

 その潤んだ瞳に、体の中が熱くなる。


 一度は乗り切ったキスへの誘惑。

 だけど、まさかの再戦!


 僕が積み上げた心の城壁を、委員長軍はいとも容易たやすく破壊する。

 キャーキャー逃げ惑う僕の軍勢。


 で、で、でも、まだ大丈夫だ!

 僕には“理性”という強い味方がいるんだ!


 そんな僕の軍勢にトドメを刺そうと、アサミは僕の頬にそっと手を当てた。


『と、殿! 理性大将軍でも受け止められそうにありません!!』

『このままでは、我が軍は全滅です!』

『どうか! どうか、殿だけでもお逃げください!!』


 心の家臣たちが口々に叫ぶ。


 くぅぅ、こ、このままじゃ!!


 そのとき、ふとアサミの動きが止まった。

  

「……後藤さんでしょ」

「えっ!?」


 アサミの不意なる言葉に、思わず驚きの声が漏れた。


「梨川くん、後藤さんのことを考えているんでしょ」

「な、なんで……」 

「私……梨川くんのことなら、なんでもわかるって言ったじゃない」


 委員長は、悲しげに言う。


「さっきね……後藤さんに会ったよ」

「ミサキに!?」


 その言葉に、僕は目を見開いた。


「後藤さんとは、本当に偶然だったんだけど……」


 ミサキとは、本当に偶然……?

 じゃあ、僕とは……!?


 そんな疑問が頭に浮かんだけど、それは口にしない。

 アサミの言葉が続く。


「後藤さん、少し丈の短いピンクのワンピース着てて、隣りに大きな荷物持ってた」

「大きな……荷物?」

「『旅行?』って聞いたら、『そんなとこ……かな』って」


 え……

 そんなこと、合宿中には一言も言ってなかった!


 僕は、思わず拳を握り締める。


「それでね、『帰りはいつ頃?』って聞いてみたの。

 そしたら……」

「そ、そしたら……?」

「少し間があって、『……もしかしたら帰れないかも』って……」

「えっ!?」


 どういうこと!?

 言い忘れてたのか……?


 ――いや、違う!

 そんな大切なことを、忘れるわけがない……!


 ミサキ……

 一緒に過ごしたときの中で、心を通わせ合えたと思っていたけれど……

 それは、僕の一方的な想いで、ミサキはそうじゃなかったということか……

 会えなくなっても構わないっていう――

 ミサキにとっての僕は、そんな存在だったんだね……

 

 握り締めた拳は、激しく震えていた。


「ううっ……」


 息が詰まる。

 胸が苦しい。

 目の前が、次第に暗くなっていく。

 まるで魂が抜けてしまいそうな……

 気が遠くなるような感覚が、僕を襲う。


「ちょ、ちょっと、梨川くん! 顔色が悪いわよ!?」


 慌ててアサミが僕を支える。


「だ、大丈夫?」

「うん……ありがとう」


 アサミの温もりが伝わってくる。


「梨川くん……」


 アサミは僕を静かに寝かせると、静かに口を開いた。


「私……梨川くんの支えになりたい」


 そう言って、僕の手を握り締める。


「私じゃ……ダメかな……?」


 伝わる優しい温もり。

 僕の手に、次第に感覚が戻ってくる。


「委員長……」

「アサミって呼んでよ……」


 そして、彼女は再び瞳を閉じた。


 このままアサミを受け入れたら、僕は楽になれるのかな……

 ミサキにとって僕は……


 唇が、ゆっくり近付いてくる。

 柔らかそうなその唇は、リップグロスでも塗っているのか、つややかに輝いていた。


「緊張しないで……」


 アサミの声。

 吐息が、僕をくすぐった。


 このまま流れに身を任せちゃえば、きっと楽になる……

 でも……

 だけど……


 想いが心の中を駆け巡る。

 晴れた空とは裏腹に、様々な感情が嵐のように吹き荒れていた。

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