第36話『想いあふれて』

 アサミの唇が近づいてくる。

 その肩は、小刻みに震えていた。

 告白だって、このキスだって、きっと大きな勇気を振り絞っているのだろう。

 アサミは、こんなにも僕を必要としてくれている。


 僕はミサキのことが好きだ。

 だけど、ミサキにとって僕は、取るに足りない存在なのかもしれない。

 叶わぬ恋を追い掛けるより、アサミの気持ちに応えた方が幸せになれるんじゃないか。


 でも……


 心の中を様々な想いが吹き荒れる――

 そのとき、僕の耳に階段を駆け上がる激しい足音が聞こえてきた。


 誰かが来る……?


「ガクッ、いるかっ!?」


 足音は、ノックもせずにいきなり扉を開ける。


「――っ!」


 思わず、弾けるように離れる僕とアサミ。


「お前ら……なにしてんだ?」

「や、やあ、レイジ」


 足音の主、レイジに、僕はベッドの中から平静を装って挨拶をする。

 アサミはそっぽを向いたまま、手櫛てぐしで髪を整えていた。


「『やあ』じゃねーよ! なんで寝てんだよ、お前は!」

「な、なんでって……風邪引いてるからなんだけど……」


 その言葉に、レイジは額に手を当てた。


「そんなの、今日じゃなくたっていいだろ!」

「ちょ……僕が好きで寝込んでるとでも!?」


 その一方的な言い方に、ちょっとむかっ腹が立った。

 でも、そんな僕を無視して、レイジは口を開く。


「お前……

 今、ミサキが何してるのか知ってるのか?」

「大きい荷物持って……旅行に行くんでしょ」


 アサミから聞いた情報だ。


「ちげーよ、馬鹿っ!!」


 だけど、レイジからは怒りの声が飛ぶ。

 こんなにも声を荒げているレイジは、初めてかもしれない。


 レイジは、僕の肩を強くつかんだ。


「良く聞け! ミサキは、手術するんだよ!」

「……えっ!?」


 手術!?

 どういうこと!?


 動揺する僕の肩を乱暴に離すと、レイジは立ち上がる。

 そして、スマホを取り出し、どこかにかけ始めた。


「ね、ねえ、レイジ……」

「……あっ、マキか? 

 ……ああ、今はガクの部屋だぜ」


 僕の呼びかけを無視して話し出すレイジ。

 どうやらマキと話しているらしい。


「……あ、ああ、わかった、任せる」


 しばしの会話の後、レイジは僕を見た。


「おい、ガクッ!」


 言葉と同時にスマホが飛んできた。


「うわっ!」


 咄嗟に受け止める。


「お前に代われって」

「マキが?」


 真剣な顔でうなずくレイジ。

 僕は、そっとスマホを耳に当てた。


「もしもし……」

『もしもし、ガク?』


 電話の向こうから聞こえてくるのは、紛れもなくマキの声だ。


「マキ! ミサキが手術って、どういうこと!?」

『うん……』


 マキは静かに話し出す。


『ミサキ……体育はいつも見学してるじゃない?』

「うん」

『あの子ね……実は心臓が悪いの』

「えっ!?」

『心臓の弁が悪いみたいで……だから激しい運動は出来なくて……』


 心臓が……悪い!?

 だからあのとき……

 赤鬼と青鬼から走って逃げたとき、あんなにも苦しそうにしていたのか……


「そ、それで手術って……?」

『うん……今日、アメリカに渡るみたい』

「アメリカだって!?」


 僕は、思わず立ち上がった。


『主治医さんの紹介だって』


 マキは言う。


『難しい手術だから、万全を期するために心臓外科の第一人者にお願いしたみたい』

「そんな……」


 ミサキがアサミに言った言葉、


“……もしかしたら帰れないかも”


 その言葉が蘇り、今、僕に大きくのしかかってきた。


「マキたちは……このことを知ってたんだよね……」


 思わず声が震える。

 しばしの沈黙の後、マキの声が聞こえてきた。


『うん……ちょっと前にね』

「そっか……」


 僕は、ベッドの端に力無く腰を下ろした。


「僕……全然……知らなかった……」

『でも、このことは一部の人しか知らないし……それに……』

「……それに?」

『う、うん……』


 電話越しにも伝わってくるためらい。

 それが、とてももどかしい。


「もしかして……僕には言わないでって言われた?」


 マキの返事はない。

 だけど、それが答えなのだろう。


「そっか……」


 僕は、短く息を吐いた。


 縮まったと思ってたミサキとの距離。

 だけど、実際は全然そんなことなかったんだな……

 僕がミサキを守るとか、勘違いもはなはだしい。


 そう思ったら、急に可笑しさが込み上げてきた。


『ガク、あのね……』

「……フフフフ……あはははははは!」

『ガ、ガク!?』


 いきなり笑い出した僕に、マキ、そして部屋の2人も驚きを隠せないようだ。


「あはははは……笑っちゃうよね」


 僕は、拳をゆっくりと握り締めた。


「ミサキにとっての僕は、所詮その程度の存在だったんだ」

『ガク、それは違う……』

「違わないよっ!」


 マキの言葉を遮って、僕は叫んだ。


「僕には、言うまでもないってことでしょ!? 」

『違うの、あのね……』

「ミサキの幸せを願うとか、傷つけるやつは許さないとか……」

『だから、それは……』

「僕が言っても、かえって迷惑だったんじゃない?」


 とめどない負の感情。

 これまで抱えていたものが、一気に爆発する。

 自分でも、もう抑えることができなかった。


「あ、もしかして、みんなで僕のことを笑い者にしてたんじゃない?」

『ガク、話を……』

「酷いよね。それならそうと言ってくれればいいのに」

『お願い、話を聞いて!』

「あ~あ! こんなことなら、最初から出会わなければ良かった!!」


 そう言った瞬間――


『ふざけないで!!』


 マキの怒りの声が、僕の耳を貫いた。


『さっきから何よアンタは!! 本気でそんなこと思ってるワケ!?

 わかってない!! アンタは、ミサキのこと全然わかってないよ!!』


 怒りのマキ。

 その迫力に、僕の自暴自棄は薄れていく。


『あの子は話さなかったんじゃない! 話せなかったのよ!』

「え……それはどういうこと?」

『アンタは心臓病のことを知ったら、ミサキに気を遣うでしょ?』

「そりゃあ……」

『それが……嫌だったのよ!』


 マキの声が震えている。

 泣いてる……のか!?


『あの子……ガクにだけは特別扱いされたくないって……』


 聞こえてくる涙声。

 

『ガクと同じ世界を見たいって……必死に頑張ってたの!』


 僕は、思わず下唇を強く噛み締めた。


『だから、そんなこと言わないで……

 出会わなければ良かったなんて、そんな悲しいこと言わないでよ!』


 嗚咽が混じるマキの声。

 その言葉に込められた想いは、胸の奥に深々と突き刺さっていた。


 ミサキ……

 ミサキは、どんなときも明るく振る舞っていた。

 いつでも一生懸命だった。


 そんな彼女だったから、僕は好きになった。


 合宿のときも、僕のことを励ましてくれたり……

 ときには本気で怒ってくれたりもした。


 ミサキにとってのそれは恋愛じゃなくて、ただの友情なのかもしれない。

 だけど、真っ直ぐに僕を見詰めてくれたことに嘘偽りはない。

 僕が、どんなに情けなくても、彼女は目を逸らすことはなかった。

 その想いは……

 その優しさは、いつも感じていたことだったのに……


「ゴメン……

 僕、どうかしてた……」


 僕は目をつぶった。

 ミサキとの思い出が、心の中に蘇る。


 嬉しかったこと、楽しかったこと。

 中には忘れたいことだってある。

 でも、結局忘れられなくて……

 それは今、僕の中で大切な思い出になっている。


 真っ白だった心の中が、ミサキでいっぱいに埋め尽くされていく。


 静かに目を開いた。

 さっきと同じ部屋の中なのに、なぜか世界が変わって見えた。


「マキ……ありがとう。

 僕は、忘れちゃいけないものを、忘れるところだった」

『ガク……』

「もう大丈夫……僕はミサキを信じる」

『うん……うん、ありがとう……』


 マキの声は、嬉しそうな涙声だった。


『ガク……ミサキは今、駅にいるわ。1時の新幹線で空港に向かうの』

「1時だって?」


 僕は時計を見た。

 現在の時刻は12時15分。


「あと45分しかない!」

『お願い、行ってあげて!』

「わかった!」


 僕は電話を切ると、それをジーンズのポケットにしまった。

 そして、レイジとアサミに向き直る。

 2人は、僕の言葉を待つかのように、ジッとこちらを見詰めていた。


 僕の口が動く。


「駅に行ってくる!」

「ああ!」


 レイジは、嬉しそうにうなずいた。


 ミサキ、待ってて!

 彼女への想いを胸に、僕は扉へと向かった。


 だけど――

 その足は、すぐに止まることになる。


 僕の前に、立ち塞がる人。


「アサミ……」

「行かないで!」


 両手を広げたアサミは、にらむような視線を僕に向けてきた。

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