第1話 ―音のない蝉時雨―

01


 早朝にもかかわらず、蝉時雨が鳴り響く。しかし、その大合唱は彼の耳には全く届いていなかった。

 強く握られた両こぶしは、薄い布団を掴んでいる。力を緩めるが、麻痺した手のひらには全く感覚が感じられない。呼吸は乱れ、壊れたエンジンのように律動がとれず、繰り返し唸る。

 酸素が脳を駆け巡るにつれ、ぼやけていた視界がはっきりとしたものに変わっていった。現実と非現実とのさかいめが認識できるにつれ、自然と冷静になっていく。安心感と羞恥心の入り混じった感覚は、本人にしかわからない。

 両手で顔を覆い、目をゆっくりと瞑る。


「また、いつものヤツか」


 いつの間にか起こしていた体を、彼はもう一度、放り投げた。


 日高ひだか千隼ちはやは長く伸びた青い髪をかき上げる。感覚の戻った指の隙間からは湿った感触。かなりの汗をかいていたようだ。体を起こし、シャワー室へと向かう。

 夢の内容はほとんど覚えていない。とても暖かい温もりと、どこか懐かしいようなくすぐったいような感覚。そしてそこから突き落とされる絶望。その流れだけは体に染み付いていた。

 その悪夢は、何度も現実と夢の間を彷徨わせる。それは一度や二度ではない、子供の頃から定期的に訪れていた。千隼は、シャワーを頭から受けながらなんとか思い出そうとするが、やはり何も思い出せない。せめて、体にまとわりつく嫌な感覚が流れてしまえばいいのにと思う。

 千隼は首の脊髄の辺りに手を伸ばして摩る。考え事の時や苛立ちを和らげる時の癖だ。そこには幼少期に負った傷が今も薄っすらと残っていた。


 千隼を呼ぶ声が聞こえたような気がする。が、考え事をしていたこともあり、気分が乗らなかったこともあり、勝手に空耳だと決めつけた。たとえ呼ばれていたとしても、自分のこの気持ちを悟り、そっとしておいてくれと願った。しかしもちろん、そんな都合のいいことはおこらない。真下からの振動と共に、棒のようなものでつつく音が聞こえる。


「おい、千隼。いつまで水浴びしとるんじゃバカもん。水が枯れちまう。ウチは水がひけんことくらいわかっとろうが」

「ったあ、うっせーな。こっちが感傷的になってるってーのに。じゃますんじゃねーよ、くそじじい」

「か、かかかか、くそじじいじゃと‼︎ ずっと育ててきてやったに対してそんな口の利き方するなんて。はよっ、おりてきんかーい」


 千隼は無視を決め込んだ。が、天井を叩く音が一向に鳴り止まないため、諦めて蛇口を捻った。


 日高家は、打ちっ放しの二階建てだ。元は三階立てだったが、災害により上部は崩壊。斜めに削れ、金属片がむき出しになっている。そちらは埃でまみれ、ものが散乱、物置小屋と化している。実際の宿は、工場である巨大な倉庫の横にある建物。四階建てのタワー、そういえば聞こえはいいが、弱々しく倉庫に肩を借り、打ちっ放しの本家よりも低い。子供の工作で作ったような塊は、今にも崩れ落ちそうだ。入り口はどこにもない。

 工場内の壁にはあるはずのない穴がある。そこには、左右非対称のカウンター扉。右は紅色がはげかかり、左は完全にはげている。歪な扉が勢いよく口を開けた。


「何回叩いてんだよ、天井抜けたら誰が修理するだよ」

「何を言っておる。ここに優秀なエンジニアがおるだろう」


 腰に手を当て、仁王立ちする老人。綺麗に生え揃った白髪。首からぶら下がった大きなゴーグル。身なりは汚れたティーシャツに膝小僧まで捲られたスラックス。くたびれたベルトは、長いままぶら下がっている。日高ゲンゴロウ、七十九歳。アクセントの顎髭は鋭い剣山のようだ。

 ゲンゴロウの頭上には拳程度の人工衛星に似たものが飛び回っている。第三世代型アンドロイド、AP236「アシストラップ」。サポートタイプのアンドロイドだ。老人が小声で「朝飯」と発すると、待ってましたとばかりにクルクルと回転。すると、汚れたキッチンの横にあるポットにスイッチが入り、トースターに熱が入る。


「そんなことはどうでもいい。電気が枯渇しそうじゃ。予備もいつの間にか尽きておったわい。学校の帰りに山田屋へ寄ってきてくれ」


 ゲンゴロウは筒状のカプセルをカタカタと鳴らす。

 ホルダーと呼ばれるカプセルは、電気を貯める装置だ。中心部には蓄電石エナジーストーンと呼ばれる石があり、特殊な溶液に漬けると電気を溜め込む。主な動力源だ。


「は? 先月補充したばったじゃなかった? いくらうちが修理屋だからっていくらなんでもつかいすぎだろ」

「山田屋のマスターに会ったら言っとけ。次、消費の激しいものよこしたら、純正品で整備してやらんぞとな」

「あーこわい」

「あったりまえじゃ‼︎ 千隼もとっとと目利き出来るようにならんかい、わしの後継はお主しかいないのじゃぞ」


 ゲンゴロウが言い終わる前にいつもの話が出ると察し、キッチンへ向かう。温まりきっていないポットを止め、カップにお湯を注ぐ。


「優秀な母の血を受け継いでおるんじゃ。母親のような研究者にはなれなくとも少なくとも……」


 また始まった、と、千隼はため息をつく。ゲンゴロウは何かにつけて血統の話をするのだ。千隼にしてみれば自分の将来は自分で決めたい。廃れた田舎の外れで機械いじりをするのではなく、もっともっと夢のある仕事を。人に注目されてカッコのいい仕事を。


「いいか、軍人とレーサーだけには絶対になってはならん。ぜったいにじゃぞ」


 ゲンゴロウはいつものように口をすっぱくして話す。ホバーボードレーサー。とても危険な道。そして、誰もが熱狂し憧れる道。

 食パンを一気に頬張り、コーヒーを一気に飲み干す。口の中はいつもよりも苦く感じた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


週一投稿目指します。

手直しでかなり時間くってます_| ̄|○

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