ポイズン・キス
ふいにガラスの割れる音にミリィは顔を上げた。
窓枠に、ひとりの女が夜空をバックに立っている。背後にドーデンの町が燃え上がり、あかあかと火の手があがっているのが見えた。
彼女は真っ黒なマントを身にまとっている。壊れた窓から吹き込む風で、彼女の長い髪と、ローブの切れ端がゆらゆらと揺れている。燃え上がる町からの熱風が、壊れた窓から室内に吹き込んだ。
真っ白な肌にふたつの瞳があやしく輝いていた。
その唇は、真っ黒な色のルージュで彩られていた。その唇がにやりと歪んで笑いを形作った。
「あんたがミリィっていう娘だね。あたしはラフレシア。あえて嬉しいよ」
ぞくり、とミリィの背筋に寒気がはいのぼる。
ラフレシアと名乗った女はゆっくりと室内に足を踏み入れた。彼女の背中に、蝙蝠のような翼が生えているのをミリィは気づいた。
「あたしに何の用があるの?」
うふふふ……、とラフレシアはふくみ笑いをした。
一歩、一歩ミリィに近づいてくる。ミリィは逃げ出したいのだが、なぜか身体が動かなかった。ラフレシアの瞳に射抜かれ、足が凍りついたみたいだ。
「あんたを魔王のもとへ連れて行きたいと思ってね」
「魔王!」
「そうさ。魔王はあんたをお待ちかねだ。ちょっと手違いがあったけど、それもこれで帳消しにできる……さあ、あたしと一緒に魔王のもとへ行くんだ……」
ミリィの手が素早く動き、鞭が握られていた。洞窟のスライムから渡された鞭だ。
ひゅっ、とミリィは鞭をふりあげ、ラフレシアの顔を狙った。
ぴしりっ!
鋭い音が響き、ラフレシアの頬を鞭の先端が打ち据えた。
うっ、とラフレシアは一瞬ひるんだようだった。
じわりと彼女のしろい大理石のような肌に一筋、あかいみみず腫れがうかぶ。
「やってくれたね……」
手で頬をおさえ、ラフレシアは怒りの表情を見せた。
次の瞬間、ミリィの両手はラフレシアによって押さえつけられていた。いつ近寄ったのかもわからないほどの素早い動きであった。ミリィはラフレシアの押さえつけから逃れようとあがいたが、ほっそりとした彼女の腕のちからは驚くほどつよく、まるで万力のようだった。
「悪い娘だ……こういう悪い娘にはおしおきが必要だねえ……」
くくくく……と笑いながらラフレシアはミリィに顔を近づけた。
濃い、化粧の匂いがミリィの鼻をうつ。香水の匂いは息も詰まりそうだ。
さらにラフレシアの顔が近づいた。彼女のおおきな瞳が、ミリィの視界一杯になる。
!
ラフレシアはミリィの唇に、彼女の唇を押し付けていた。
無理やりキスをされたミリィは驚きに硬直していた。
と、そのミリィの瞳がくるりと白目になり、かくんと膝のちからが抜けていた。
かくり、とミリィは気を失い床に崩れ落ちていた。
ふっ、とラフレシアはため息をついた。
「ポイズン・キス……あたしのくちづけを受けたあんたは、あたしの思いのままになる……」
床に横たわったミリィの身体を、ラフレシアは膝をついて片手で軽々とかかえあげた。まるで重みを感じない、驚くべき腕力である。
と、ばーんと音を立てドアが開き、衛士を先頭にパックとファングが入ってくる。
「ミリィ!」
ラフレシアに抱えられたミリィを見て、パックは叫んだ。
「彼女を離せ!」
衛士は槍を構え、ラフレシアに突きつけた。
「そうはいかないね。この娘は、あたしがもらっていくよ」
ひらり、と彼女はミリィを抱えたまま飛び上がり、窓枠に飛び乗った。ばさり! と、ラフレシアの背中から巨大な翼が広がった。
ばさり、ばさり! と翼が空気を打つ。
ふわり、とラフレシアの身体が宙に浮いた。
「おのれ!」
衛士は槍を構え、突進した。
その穂先を、ラフレシアは片手で掴んだ。ぐいっと捻ると、衛士はわあと叫んでひっくり返った。ひょい、と槍先を反対にすると、彼女は投げ返す。
ぎゃあ!
衛士の腹に槍がふかぶかと突き刺さっている。
両手で突き刺さった槍をかかえ、衛士はがく! と、膝を落とした。恨めしげな目つきでラフレシアの顔を睨むと、そのままうつぶせに倒れこんだ。
絨毯に衛士の血が広がり、吸い込まれていく。衛士は絶命していた。
うわあ! とパックは叫び、ラフレシアへと剣をかざして突進する。
しかしラフレシアの身体はすでに窓枠をこえ、空中に浮かんでいた。あやうくパックは窓から転落しそうになるところを、背後からファングがはっしとパックの襟をつかんで引き戻す。
ほほほほ……ラフレシアはミリィを抱え上げ、ぐんぐん上昇していった。
と、パックにヘロヘロが声をかけた。
「パック、ぼくを投げて!」
「なんだって?」
「いいからあの女にむけて投げてくれ!」
わけがわからないまま、パックは手の平にヘロヘロを乗せ、上昇するラフレシアに狙いをつけ腕をふりあげた。えいっ、とばかりにヘロヘロの身体を投げ上げる。
放物線を描いたヘロヘロはその勢いで身体を紐のように長く伸ばしていく。一本のロープがするするとパックの手から伸びていくようだった。
ぶーん……ヘロヘロは身体の端を長く伸ばし、ついにミリィの身体にふれた! そのまま身体を縮め、ミリィのぐったりしている腕にまきついた。ぐっとヘロヘロは身体にちからをいれ、引き戻そうとする。
その先を握ったパックは、ちからをこめ、必死に耐えていた。
ぎりぎりぎり……ヘロヘロの身体が限界まで引っ張られる。
「ち……ちぎれちゃう!」
ヘロヘロは悲鳴をあげていた。
その端を持つパックも、窓から落ちそうになっている。そんなパックの胴をつかみ、ファングが必死に支えている。
「く……くそ!」
パックはうめいていた。手からヘロヘロの身体が離れそうだ!
すぽん!
ついにヘロヘロの身体が手からすり抜けてしまった。わっ、とパックとファングはその勢いで背中からひっくり返ってしまう。ヘロヘロの身体はミリィの腕に残ってしまった。
ラフレシアはぎろりとヘロヘロを睨んだ。
「お前は……スライムだね? いったいスライム風情が何のようだい?」
「ぼ、ぼ、ぼく……ヘロヘロって言うんだ! ミリィを離せ! ミリィはぼくの友達だ!」
あはははは……!
ラフレシアは顔をあおむけ、高笑いをする。
「面白いことを言うスライムじゃないか。気に入ったよ! よし、それならついておいで。それともここから飛び降りるつもりかい? この高さから落ちて、無事にすむかねえ?」
言われてヘロヘロは地上をのぞきこんだ。いつの間にか、ドーデン城がちいさく見えて、かなり高度があがっている。身体をひろげて空気抵抗を使うことも考えられたが、それでも地上に達するころにはかなりの速度が出ているはずだ。無事ではすまない。
ヘロヘロはぶるぶる震えはじめた。
飛び降りるつもりがないのを見て、ラフレシアはうなずいた。
「そのほうがいい考えだよ。まあ、ついてくるのは勝手だからね」
そう言うと彼女はさらに翼をつよく羽ばたき、高度を上げていく。
「ミリィ……ヘロヘロ……!」
パックはうめいた。
あっという間に彼女の姿はちいさくなっていく。それを見上げるパックは悔しさに唇を噛みしめていた。
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