ジャギー
時間はすこしもどる。
パックとヘロヘロが城の外壁に立っていたころ、ファングはひとり町に出ていた。
タルカスはすでに町のどこかへ出かけていたし、パックも出て行ったのでファングもあてはないまま歩き出していた。とくにどこへと思ったわけではない。
ドーデンの町は城のある高台から、港のある下町までながい坂がつづいている。その坂を彼女は港へ歩いていった。町全体は高い塀でかこまれ、魔物の侵入をこばんでいるが、港だけは別で桟橋に面したところは塀がとぎれていた。海からの魔物の侵入を警戒して、兵士が多数配置されていた。
その港の桟橋からファングは海をぼんやりとながめていた。桟橋には兵士相手の酒場が多数軒をならべている。ときおりどっと酒場から酔漢の笑い声と怒鳴り声がこぼれてくる。
その声にファングは聞き覚えのある声をとらえていた。
あの声!
彼女はさっと立ち上がった。
軒を並べた酒場に近づき、入り口の前に立った。
いた!
カウンターに向かって数人の兵士に、ひとりの背の高い男が熱心に話しかけている。その横顔はファングの兄、ジャギーであった。
兄さん、と思わず声をかけようとしたファングをとどめたのはなんであろうか。
ひさしぶりに見る兄の顔は別人といってよかった。
ファングの知る兄は軽薄ではあるが独特の人の良さというのがあって、それがために何度か他人にだまされることがあったが、彼女はそれが好きでもあった。しかしいまのジャギーの表情にあらわれているそれはひどく狡猾そうな影があり、唇にはりついた笑いは他人を小ばかにしたような線がきざまれている。手には酒瓶を握りしめ、ときおり飲み口を唇におしあて、ぐいとばかりにあおる。かれの顔は酔いのため、真っ赤になっていた。
「だからさっきから言ってるだろう! じきにあのミリィって娘はおれのものになるんだ。信じろよ」
ひひひ……と下卑た笑いをあげる兄は、ファングの知るジャギーではなかった。
そろり、とファングは入り口から身を引き、見守る態勢になった。
まわりの兵士はファングの顔をのぞきこんで話しかけた。
「ミリィってのはあれだろ? 王さまが結婚する相手なんだろ。その娘をお前さんがどうこうするなんて無理な話じゃないのか」
あはははは……、とジャギーは高笑いをした。
「そう思うだろ。だが違うんだなあ! ま、見てろ。おれはかならず、あの娘をものにしてやるさ!」
よろり、とジャギーは立ち上がった。酔いがまわっているのか、足元がふらついている。
外へ出た兄を、ファングは尾行した。
よろり、ふらりと兄はドーデンの町を歩いている。昼日中から酔っ払っているかれを、町の人々は眉をひそめて見ている。
兄さん……かれの背中を見つめるファングの目に涙があふれてきた。
たくましかった兄の背中は、いまはげっそりと肉が落ち、来ている服もだぼだぼになっている。千鳥足で歩くジャギーは、それでもなにか目当てがあるのか裏道を選んで進んでいく。
やがてジャギーはドーデンの町外れにあるちいさな森にきていた。
立ち止まったジャギーは、きょときょととあたりを見回している。
だれかと待ち合わせをしているようである。ファングはあたりの茂みに身を潜めた。
数分後、森の奥から人影が近づいてきた。
全身真っ黒なローブをまとった女だ。ジャギーは彼女が近づいてくるのに気づき、酔いがさめたのか背をのばした。
ファングは息を呑んだ。
近づいてきたその女は、ファングの目から見てもため息がでるほどの美人である。
白い肌は大理石のよう、長くたらした黒髪は歩くたびゆらゆらと揺れ、ローブからのぞく太ももはほっそりとして陽射しをまぶしく反射している。
なにより目を奪うのはその女の唇だった。なんと、緑色の口紅をしていた。ファングはそんな色の口紅など見たこともなかった。
女を待ち受けるジャギーは、なぜか恐怖を感じているようで見つめる目には惧れがある。
「待たせたかしら?」
ふっ、と女は薄く笑い話しかけた。ジャギーは首をふった。
「いや、いまきたばかりだ」
そう……と、女は上目づかいになりジャギーに近づく。
「それで決心はついたの?」
ああ、とジャギーはうなずいた。顔色は真っ青で、びっしりと汗をかいていた。
ほほほほ……! と、女はあおむいて笑った。ジャギーは噛み付くように声をかけた。
「それで、そちらの約束はどうなんだ?」
「ミリィって娘のことね。わかっているわよ、あんたに渡してあげる」
女の言葉にジャギーはそうか、とうなずいた。唇に笑いがうかぶ。女はきっと見つめた。
「たしかにあんたにあの娘は渡してあげる。だけど、それにはあんたがまずこっちの約束を果たしてもらわないとね……」
そう言うと女はいきなり手をあげ、ジャギーの胸に突き刺した。
ファングはびくりとなった。
なんと女の手首はジャギーの胸に深々と埋まっている。ジャギーは驚きのあまり身動きひとつできないでいる。
ずぼり、と女は手をひきぬいた。
と、その手にどくどくと鼓動している心臓が掴まれていた!
ジャギーの胸には傷ひとつない。どころか、着ている服にも穴もなかった。
「これはあんたの心臓……」
そうつぶやくと女は手に持った心臓に唇を押し当てた。
唇が離れると、心臓の表面には緑色のキス・マークがつけられている。それをゆっくりとジャギーの目に焼き付けるように見せびらかすと、女はふたたび心臓をジャギーの胸に戻した。
あまりのことにジャギーはぽかんと口を開け、たちつくすばかりだった。
「いいこと、あんたの心臓にはあたしの印がつけられた。もし裏切ったりしたら、その印のところから引き裂かれることになっているからね!」
がくがくとジャギーはうなずいた。
「わ、わかっている……裏切ったりはしない!」
にやり、と女は笑った。
くい、と片方の腕をあげ、尖ったつま先を見せびらかすようにしてその場でなにかを握りしめる格好をする。ただの空気を掴んでいるようにしか見えないが、途端にジャギーの顔が苦悶に歪んだ。
ぎゃあああ──! と、絶叫を上げ胸を押さえのたうちまわった。
ふ、と女は手の平を開いた。ジャギーは驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、はっはっ、と喘いでいた。顔色が真っ青で、脂汗が浮かんでいた。
「言ったろう、もし裏切ったらどうなるか……これでよく判ったはずだ」
ぶるぶるとジャギーは震えている。
す、とジャギーから離れると空を見上げた。
ばさり、と音がして女の背中から黒い翼が現れた。蝙蝠のような翼である。その翼がばさり、ばさりと羽ばたくと、女の身体がふわりと浮かぶ。
「忘れるんじゃないよ! あんたの命はあたしの手にあるからね!」
女はぐんぐんと高度を上げ、小さくなっていく。
ほほほほ……!
と女は高笑いをあげつつ、消え去った。
がく、とジャギーはその場にすわりこんだ。うつむいたその顔色は死人のような土気色である。ふと顔を上げたジャギーの目がまるく見開かれた。
ファングが茂みから身をあらわしたのだ。
「お前……ファングか?」
よろよろと歩き、近づく。
「兄さん、いまの女はだれ? 約束ってなんなの」
ファングの言葉にジャギーはそっぽをむいた。ファングは兄にせまった。
「ねえ、答えて!」
「うるさいっ!」
ジャギーは叫ぶと、どんとファングを押しのけ急ぎ足に歩き出す。ファングは追いかけた。
「どうしたの、兄さん。いったい、あれからなにがあったの?」
くるりとジャギーはふりむくとファングの顔を見つめた。
「お前、ドーデンの町にいるのか?」
ファングがうなずくとかれの表情がゆがんだ。
「いいか、ファング、すぐ町を離れるんだ! ぐずぐずするんじゃないぞ!」
いいな、わかったなとジャギーは指さすと走り出した。ファングは立ちつくした。
兄に何があったのだろう?
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