救世主の二重奏:よかった

 雪が降っていたので、終業式は体育館で行われた。

 小太りの校長の長い長い話が繰り広げられる。

 ふと周りを見渡すと伊藤さんが目に入った。

 相変わらず無表情だった。相変わらず何を考えているのかわからない女だ。

 足元に目をやると、体育館用の靴は当然はいていない。なぜなら俺がさっき水浸しにしておいたから。

 だから靴をはいてないどころか素足なのは当然であると言える。

 寒いだろう。冷たいだろう。まぁ許してくれ。俺も俺の平和がかかっているのだ。


 そして、終業式は昼前に滞りなく終了し教室。

 担任の適当な話が終わり、あっさりと解散された。

 今日の日直は箕面なので、担任から箕面へ教室の鍵を手渡される。

 クラス内は、教室から去る者、残って友達と話す者、様々だった。

 廊下は騒がしい。他のクラスの連中が帰っているのだろう。

 他のクラスの連中はあまりこのクラスによってこない。

 まぁどこか不気味な雰囲気でも出ているのだろうか。

 異様というか、異質。関わってはいけないモノのような気がしているのだろうか、わからないが。伊藤さんは一生懸命に何かを書いていた。

 この期に及んで勉強か? つくづく何を考えてるかわからない奴だ。しかし好都合、帰る素振りを見せたら妨害して引きとめようと思ったが妨害する必要はなさそうだ。


 午後一時。廊下が静まり返る。

 どうやら他のクラスの奴らはだいたい帰ったようだ。

 残っているのは、リーダー箕面一弥。その彼女の貝塚愛子。サッカー部の男子・枚方充、ツチやんと呼ばれるバスケ部の自称エース阪南土弘、そして俺、伊藤さんの六人。

 伊藤さんはというと、書いているものを片付け始めている。

 あいも変わらず無表情だが、心の中で彼女は「何もされなかったな。おかしいな」と困惑していることだろう。

 今日の教育実行者を名乗り出たのは俺だ。俺だけだ。もちろん他の奴らには手を出させない。

 俺は事前に水をたくさん入れておいた水筒のフタをあけ、右手に持ち、主犯格グループに

「そんじゃ、行ってくる」

 と告げた。

 クスクスという笑い声をBGMに

「今日は寒いね、伊藤さん!」

 とまるで親しい友だちに話しかけるかのような調子で伊藤さんに話しかける。

 帰る準備をしていた伊藤さんは黒い瞳をこちらに向ける。黒い瞳には俺の笑顔が写っているはずだ。

 そして、俺は笑顔のまま間髪入れずに、右手に持っていた水筒の水を伊藤さんの頭からぶっかける。

「……」

 伊藤さんは黒い瞳で俺の後ろあたりに視線を送ったあと、懐からハンカチを取り出し冷静に顔を拭く。

「あっはははぁ、ゴメンゴメン。ゴメンネ伊藤さん、あまりに寒くて手が滑っちゃったよ」

 俺が形だけで謝る。そこに感情はない。

 後ろから歓声が起きる。ったく、騒がしいなぁ、あいつら。

 伊藤さんは濡れたハンカチをポケットに戻し、何も言わず椅子を引き、立ち上がった。

 伊藤さんの長い黒髪からと制服からは雫がぽたぽたと床に落ちている。

 制服までびちゃびちゃだ。こりゃこたえるだろうな。今日寒いし。

 そんなことを考えていると、突然伊藤さんが口を開く。


「泉くん」

 ん? どうやら俺を呼んでいるようだ。一度も俺に話しかけてこなかったのに何故だろうか。

「何かな? 伊藤舞子さん」

 突然の奇行に対しても俺は冷静に無難な返事をする。

 すると、彼女の無表情はみるみるうちに上品な笑顔に変わっていく。

 それは、初日の時に浮かべたあの笑みと似ていた。

「もういじめられてないんだね、よかったね」

 そして、笑顔でそう言った。

「本当に、よかったね」

 そして、笑顔でそう言った。

 すると彼女は一瞬間をおいて悲しそうな表情を浮かべたがすぐに無表情になり、水浸しのまますたすたと逃げるように教室の出口へ歩き出した。


 決して悲しさなど見せない彼女の表情が崩れた。

 何をされても、何を言われても決して崩れない彼女の表情が崩れた。

 動じなさすぎて内心バケモノ呼ばわりしていた伊藤舞子という人間の表情が崩れた。

 それを実際に垣間見た俺の中で、何かが蠢きだした。何かにヒビが入る音がする。



 そして、彼女の去り際のセリフが脳内再生される。




『本当に、よかったね』




 ………………

 ………………………………………………

 よかったね……?

 よかった。ああ、そうだ。よかった。

 俺はいじめられることがなくなった。

 よかった。俺は、俺はもういじめられていないんだ。

 いじめの対象ではなくなったんだ。よかった。

 あいつらと同じ、いじめる側になったんだ。よかった。

 あいつらと同じ、絶対的な強者になったんだ。よかった、よかった。よかったよ。

 よかった。本当によかった。

 よかった。本当によかった!



 ………よかった?



 本当によかったのか?

 本当によかったのか、泉双太郎。

 一人の女の子を身代わりに、俺だけ助かって本当によかったのか?

 誰かを犠牲に自分だけが助かっておめおめと青春を謳歌して、それで本当によかったのか?


 いや、よくない。


 いいわけねーだろ。


 女の子を盾に辛いことや苦しいことから逃れるなんて最低最悪の所業だろ。

 そんなの、男として、人間として最悪だ。

 かなりかっこ悪いじゃないか、俺。


 俺はすべてを達観して悟っていた気がしていた。

 半年間のいじめに耐え切って今は自由を得ている。

 "一人の女の子を教育する"ということと引き換えの自由だ。

 俺の自由は伊藤さんの平和をぶちこわす形で成り立っている。

 そうだ、俺は最高にかっこ悪い。

 教育ともっともらしいことを言っても、実態はただのいじめだ。

 最高にかっこ悪い。最低にかっこ悪い。

 おまけに必死に耐える彼女をバケモノ呼ばわりし、さらに傷めつけた。

 最高のクズだ。俺はクズ。俺は最低最悪のクソヤローだ。



 でも、でも、でも、



 …仕方ないじゃないか。


 誰だっていじめられるのは辛いさ。誰だって苦しいさ。

 辛さから解放されるなら、容赦なく人は人を売るんだ。

 どれだけ綺麗事を並べても最終的には自分が助かればそれでいい。それが人間ってものの本質だろ。

 ましてや、相手は転校したての知らない奴なんだ。

 言葉は悪いが正直、彼女は俺の中では軽い存在なんだ。

 内心としてはバケモノとさえ感じていたぐらいだ。最早人間としてすら見てなかった節がある。

 彼女には彼女なりの人生があって、これまで順風満帆だったのだろう。

 だからどうした? だからなんなんだ。

 俺には関係ないことじゃないか。俺の人生には全く関係のないことじゃないか。


 これがもし、"妹をいじめてこい"とかだったなら、俺は自分がいじめられることになんの疑問も抱かずいじめられただろう。

 "そんな薄汚れた自由はいらない"

 "大切な人をいじめるぐらいなら俺が犠牲になる"

 そう、胸を張ってかっこ良いセリフを声高々に言えたことだろう。

 堂々と、清々しく、全てを享受し、おとなしく自らを犠牲にし、いじめられただろう。


 だが、相手はなんの思い入れもない転校生だ。

 全く知らない、ただの転校生。真っ赤な他人だ。

 これはもう犠牲になってもらうほかない。

 誰だって自分が一番可愛いからだ。

 人間は誰でも、本当にギリギリまで追い込まれた状況において、助け舟が出されたらそれに乗っていくものだろう。だってそれが人間の本質なんだから。正体なんだから。

 人間なんて皆薄汚れてるもんなんだよ。本質も正体も仕組みも禍々しく、自分本位でドロドロとした面が絶対存在しているんだよ。


 多分彼女は常識人だ。まともだ。良い人だ。

 転校初日から俺をかばってくれていたし、このクラスの異常性についてメスを入れてくれた。一石を投じてくれた。

 なので、どう見ても疑いようもなく、彼女は間違いなく善人だ。


 だが、そんな人を裏切ったのだ俺は。

 彼女は恩人だ。俺をいじめから解放してくれた恩人だ。

 彼女は救世主だ。俺の代わりにいじめられる救世主だ。

 だが、だが、だがだがだが、もう………。もう、遅いんだよ。

 もう何もかも、何もかもが、全部が全部遅すぎたんだよ。

 俺は、後悔するには遅すぎた。

 俺は気付くのが遅すぎた。

 自分の過ちに、自分の愚かさに。


 後戻りはできない。


 俺はいつの間にかあいつらと同じになってしまった。


 後戻りはできない。


 もはや、本当のバケモノは俺だった。


 後戻りはできない。


 後戻りはできないんだ。


 だから、彼女への"教育"は、終わらない。

 決して終わっては、ならない。

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