救世主の二重奏:鋼鉄のバケモノ
伊藤さんが転校してきて三日目、月曜日の朝。
突然俺の前に現れたのは箕面一弥だった。
箕面は、「お前を人間として扱ってやるから、人間なら人間らしく働け。あの女を新しいストレス解消ロボとして徹底的に率先して教育しろ」と俺へ向けて言葉を投げた。
「お前を人間として扱ってやる」と、強く言った。言い放った。
つまり箕面は俺を解放すると言ったのだ。
俺は揺らいだ。このいじめから解放されるのだ。俺が。長きに渡る辛酸と屈辱から解放されるというのだ。
なんだこれは。夢のようだ。信じられない。ありえない。
達観して、悟った風にしていた俺だが、動揺した。
すぐ先に見えた。目と鼻の先の安寧と平和が見えた。
強く思ってしまった。安寧、平和、それが欲しい。
母の一生懸命作ったお弁当を、そして俺の平穏を学校生活を守れるのだ。
会ったばかりの他人を痛めつけるだけ。それだけで俺はなくしたものを取り戻せる。これほど良いことはない。
俺は快諾した。俺は救いが欲しい。この生活をやめたい。俺は平和を手に入れるのだ。
そこに迷いなど、介在する余地はない。
その日のお昼休み。
「やぁ伊藤さん、美味しそうなお弁当だね」
俺はお昼休みに伊藤さんの席の前にいた。
立派な黄色いお弁当箱の中にはエビや玉子焼きや、肉じゃがが入っている。
彼女の好物であるブドウもだ。
どれも見事な出来で、作り手の思いが視覚から、嗅覚から熱いほどに伝わってくる。
伊藤さんは玉子焼きを口へ運びほおばりながら、無表情で整った顔に調和した深く黒い瞳をこちらに向ける。
完全に咀嚼し、飲み込んだあと、
「いいでしょ、お母さんが早起きして作ってくれているんだよ」
優雅な所作で行儀よく、そして相も変わらず淡々と返した。
そうか、君のお母さんががんばって作ったんだね。
真心を込めて、娘である伊藤さんのために腕によりをこめて作ったのか。
心の中でそう、人知れず返事をする。
真心を込めて作ってくれてたのはわかるが、俺の平和のためだ。
俺もあの頃には戻りたくない。あんな地獄にはもう戻りたくないんだ。
だから。だからどうか悪く思わないでくれ。
俺はそうやって言い訳をした。許してくれとは言わない。
ただ俺は言い訳をした。そうでもないととてもやっていられないからだ。
そして一度深呼吸。二度。三度。
心は決まった。
スイッチが入った、切り替えらた。
俺は、俺は心を鬼にした。
「それはそれは、さぞおいしいんだろう、ね!」
右手を大きく振りかぶり、伊藤さんの綺麗なお弁当を机から強引に弾き飛ばした。
黄色いお弁当箱がひっくり返り、中のエビやら白ご飯やら卵やら肉やらが汚い床へと無残にもちらばる。
そして、それらの残骸を踏みつぶす。プチッと何かを潰した感触がした。おそらくブドウだろう。
同時に俺の心の中の何かが潰れた感触がした。
「あ、手が滑った、ごめんね?」
俺の背後でクラスメイト共の笑い声が聞こえる。
「……」
伊藤さんは沈黙のあと、二秒ほど目を閉じる。何を思ったかすぐに椅子を引いて席を立つ。
「なるほどね」
俺の後ろの何かを見てどこか納得したようにつぶやいた。
そして、ポケットからティッシュを取り出し、お弁当の残骸をかき集め、丁寧に包んでゴミ箱へと捨てる。
「ごめんね、ごめんね」
俺にしか聞こえない小さな声でつぶやいたその顔は、相変わらず無表情だった。
この日から毎日毎日、伊藤さんにたくさんの教育をした。
最初は教育するのは俺だけだったが、伊藤さんが誰にもこれを言ってないことを察したのか、徐々に教育に加担する人数が増え、今では俺を含めた三十人全員が彼女に教育を行っていた。
二十九人の敵に囲まれていた俺は一転、実に二十九人の味方を得た。人生とは何があるかわからないものだ。
放課後は一人で教室を掃除させ、体育が始まる前の体操服に泥をだらけにし、彼女が立ち上がった隙に、教科書にはみんなで落書きをし、机には虫や土を入れ、女子はつばを吐きつけ、体育館で使うシューズには画鋲を入れた。
豊中いわく、トイレの掃除中に伊藤さんへ向けホースで水をかけるのが楽しいという。
実際に目の当たりにすると、自分でも感じる。この教育の数々は俺がされていた事よりも酷いと。
それは当然だ。俺が立案し、計画し、より効率良く伊藤さんの精神をすりつぶすためにこの半年すべてを詰め込んでいるのだから。
被害者側のノウハウや心構えなら俺が一番知り尽くしている。
なぜなら俺は被害者のスペシャリストだったのだ。
なので、誰よりも効率良く、誰よりも上手く、誰よりも順調に彼女の心を折ることができるはずなのだ。
箕面一弥の人選は確かだった。この教育係にふさわしいのはこのクラスには俺において他に居ない。
だが、彼女の顔はいつまでたっても曇らない。
彼女の心はいつまでたっても折れる素振りを見せない。
彼女はいつも同じ顔をしていた。あの日、初めて会った日と同じ顔をしていた。
まるで動じていないように。精神などすり減っていないかのように。同じ顔をしていた。
教育を受けている最中でさえも、かつての俺のような諦め腐った眼をしていなかった。
黒く深い瞳には屈服の意思など微塵も感じられなかった。彼女はその黒く深い瞳に強く強く自分を持っていたのだ。
彼女は来る日も来る日も、どんな教育を受けても、無表情で淡々としていた。
そして、どんな暴言も皮肉で返すので、その度に貝塚からは平手打ちをされていた。
俺はそれをずっと見ていた。
その光景は不気味だった。ただただ不気味だった。
教育の内容がではない。彼女のその態度だった。心だった。精神だった。
なぜ心が折れない? なぜ喚かない?
なぜ泣かない? なぜ悲鳴を上げない?
なぜ屈しない? なぜ頭をたれない?
何を考えている? こいつは人間じゃないのか?
わからない、正直俺はこいつが。俺は伊藤さんが怖い。とにかく怖い。
俺がいじめ、いや、教育を受けていた頃抱いていた、敵への恐怖をさらに上回る恐怖だ。
この恐怖、間違いない。彼女は人間ではなく、得体のしれない何かだ。こいつは人間じゃない。バケモノだ。
この恐怖を上回る恐怖を、更に彼女へと刻みつける事柄がある。こいつは不気味なことに、ここまでむちゃくちゃにされながらも、テストの成績のすべてがぶっちぎりで学年一位という脅威のスペックを誇っていたのだ。
それに、揺るがないこのメンタル。決して崩れることのない鉄壁の無表情。
……狂っている。
こいつが異常者であることはほぼまちがいなく、もはや疑いようもない事実だ。
俺の中の危険信号が激しく鳴り響いた。杞憂だと思ったので見て見ぬふりをしたがその実、俺は彼女を伊藤さんを得体のしれない生物だと認識することで、己の良心を傷めずに教育を行っていた。
*********
十二月の中頃の終業式。
とうとう彼女は転校してきてから一日も休まず二か月間。そう、二学期間を耐え抜いた。
俺が今年の締めくくりに、いっちょ教育をするか。と、クラスメイトと計画を練っていた。
寒い冬なので帰り際に、彼女の頭から水をぶっかけることにした。
この時期になるともう俺の中にはなんの抵抗も躊躇もなかった。
なぜならこいつは人間じゃない。バケモノだ。
なぜならこいつは俺じゃない。他人だ。
だから、俺は何をしても許される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます