八月十二日(前)

「あ、おはようございます、佳久さん」

 目が覚めたときには、こまちは既に起きていた。

「おはよう。一応聞くけど、なにしてるの?」

「佳久さんの寝顔をずっと見ていました」

 だろうなと思ったよ。

「恥ずかしいんですけど」

「うふふ。佳久さんの寝顔ってかわいいですね。あ、起きているときがかわいくないってわけじゃないですよ」

 かっこいいではなく、かわいい、ね。

 いや、よく童顔だって言われるけどさ。

「ちなみに今の時間は」

「午前十時です」

「結構しっかりと寝ちゃったなぁ」

 とにかく起きよう。

「あ、そういえば、今日は着物の色が違うね」

 いつもは若竹色の着物だったが、今日は赤色だった。

 昨日、蓬栄神社へ寄ったときに、こっそりと“秘密基地”へと立ち寄って、着替えや生活必需品を持ってきておいたのだ。

 神様って単語を聞くと仰々しい響きだけど、今までのこまちを見ている限り、人間とまったく同じだった。

「いつもの色は優しい感じですけど、今日は気合いを入れたかったので」

 形容するなら、血のような赤い色だった。戦う色、ということだろうか。

「私は……負けません」

「うん、頑張ろう」

「はいっ」

 僕らは運命に立ち向かう。

 幸せな未来を掴むため。


「知らんねぇ……」

 そう言って、老爺は僕達の前で煙草を吹かした。

「あんたが知ってる情報くらいしかないよ。あの子達は村でも働き者だと評判だったんだがねえ」

 なにか情報が得られないかと、自治会の役員宅をめぐって、これで五件目。しかし、昨日得た以上の情報は得られなかった。

「やっぱり、あの子達も、神様の怒りに触れてしまったのじゃろうか。いたずらにお告げなどを触れて回るから」

「そんなことはないです」

 あるはずあるか。宝瀬村の神様は、あんたらが思っている以上に寛大なんだぞ。

「正直、わしは神様がなに考えてるのかわからん」

 しかし、老爺は僕の話を聞かずに、喋り続けた。

「わしらが神様を信じなくなったから、それでお怒りになったというのか。でも、先にわしらを見捨てたのは神様のほうじゃないか。祈っても祈っても、村の景気はちっともよくならんかった」

「……ごめんなさい」

 横でこまちが頭を下げた。

 そんなこまちの様子を気にすることなく、老爺は会話を続ける。

「どうしてこの村はこんなに寂れてしまったのかのう。あんたの賢い頭でなんとかならんのかね、桜井のぼんや」

 どうせ都会へ出て行ってしまって、この村にとってなんの役にもたたんのだろう。

 そう言いたげな視線に僕は耐え続けた。

 この老爺に言い返せる資格なんて、僕にはなかったから。

 本当は誰が悪いというわけではない。でも、誰かを悪者にしないと、やりきれない感情だってあるんだから。そのことは十分にわかっていた。


「少し休む?」

 僕の横を歩いていたこまちの顔色は明らかに悪かった。

「いえ……大丈夫です」

「ちょうど目の前が神社だし、そこで休もう」

 僕はこまちの手をとる。

「本当に、私さえしっかりしていれば……」

「こまちが悪いんじゃないよ」

「でも……」

 今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「僕もさ、昔はあぁいうお小言が大嫌いでさ。いちいち真に受けてへこんでたの。いや、今でも嫌いだけどさ」

 言われないにこしたことはない。だから、あぁいう人とは極力会わないようにしているわけで。

「でも、あるときから、受け流すことを覚えたんだ。いちいち気にしない。右から左へ流す」

「それで、いいんですか。あの人達の思いを、私は受け止めなくてもいいというんですか……」

 やっぱり、この子は真面目だ。

「いいんじゃない。だって、万人の願いなんて、誰にも叶えられないんだから」

 それを叶えるのが神様か。いや、それは違う。

「誰かが幸せになれば、誰かが不幸になる。残念だけど、広い世の中そういうこともある。あちらが立てば、こちらが立たず、というか」

 僕の失敗を喜ぶ人がいる。僕の不幸で幸せになる人がいる。

 そんなの信じたくないけど、でも、それも事実なのだ。

 もしかしたら、昔は、それこそこまちが神として生まれた頃は、まだそうじゃなかったのかもしれない。

 でも、今の資本主義社会なんて、限られたパイを競争によって奪い合う社会なんだから。その結果、この村の衰退を犠牲にして、もっと大きななにかが栄えているのだ。

「寂しい話ですね」

「僕だって、誰もが幸せになれるほうがいいよ。僕が頑張れば頑張るほど、他のみんなが幸せになれるほうがやりがいだってあるし」

 でも、それは、空想の世界の話だ。

「だから僕はね、思うんだ」

 この村の人達にもまれた中で、僕なりに出した結論だ。


「僕は幸せになる。他の誰になにを言われても、たとえ他の誰かを不幸にすることになってしまっても。でもその代わり、僕はそういった犠牲を全部自分の責任として受け入れて、その上で、ちゃんと幸せにならなくちゃいけないんだ、って」


 他の誰かを傷つけるのがイヤだから、自分は幸せになんかならないなんて。そんなの、やっぱりおかしいから。

「その代わり、僕を踏み台にして幸せになる人がいたら、僕の代わりに頑張れよって応援するけどね。でも、僕は幸せになるのは諦めないよ。そこからまた這い上がればいいだけだから」

 ちょうど高校野球の季節だ。勝ち上がった高校が、倒した高校の分まで頑張る。そんなイメージだ。

 これでも、きっと理想論なんだろうな。世の中みんなわかりきった人で、勝負が一切の不正なしの正々堂々としたものだったら、という条件がつくから。

 僕はズルするつもりはないけどね。あ、神様に死んだはずの命を救ってもらうというのは、他の人から見れば反則かな。

「佳久さんって……強いですね」

「そう? 全然ガラスのハートだけど」

 ガラスを強くするのじゃなくて、ガラスを梱包する箱を分厚くしているだけだ。

「自分の限界や弱さを知った上で、そのうえでどうするかを考える。それは、強くないとできないことです」

 こまちは立ち止まり、僕と向かい合った。

「やっぱり、私、佳久さんと出会えてよかったです。今だってそう。佳久さんのおかげで、私、諦めないでこうやって戦うことができているんですから」

 まっすぐ僕の瞳を見つめてくる。

「だいぶ気が楽になりました。本当にありがとうございます」

「やっぱりね、こまちは笑顔が似合うよ」

 そっと彼女のほほに手を触れた。

「本物の神様に対して失礼かもしれないけど、あくまで僕にとってこまちはどうしようもなく大好きな彼女さんだから。恋人としてできることはなんでもやるから、遠慮しないで頼ってくれていいんだよ」

「……はいっ」

 ようやくこまちは笑ってくれた。

 別にこまちが言うような、強い男じゃないんだよ、僕は。

 僕だって、こまちがこうしてそばにいるおかげで、こうやって前を向いて生きていけるようになったんだから。


「おー! 桜井君じゃないか」

 神社で休憩したところで、昨日お世話になった駐在所の警官さんと出会った。

「お疲れ様です」

「いやぁ、まったく県警の奴らがね」

 いつのまにか僕はこの警官さん(苗字は千葉さん、だそうだ)と仲が良くなってしまっていた。実際に今日だけでも、これで三度目の邂逅だ。

 殺人事件が起こったということで、県警の本部の方から人員が割かれているそうだけど、なにかと大変らしい。

「小路満さんはバルコニーのフェンスの欠陥による事故死で、ここの森の仏さんについては自殺だろうという見方で、ほぼ結論が出掛かっているんだけど、どうも納得がいかなくってね」

「それ、さっきも聞きましたよ」

「あぁ、そうだった」

 一般人に捜査状況を喋りすぎじゃないか、この人。正直、僕としては助かってるけど。

「どうもあの電話の件が納得できなくてね」

「そうですね。それは僕も同意見です」

 ここまで親しくなったのもなにかの縁だ。ここは利用させてもらおう。

「僕は今日はあの青年団の方々の身元について調べています。が、たいした情報が得られなくて」

「まぁ、この村の人は仲間意識が強いからね。余計なことは喋らんだろう」

 あなたがその村の人に入っていなくてよかったです。

「ただ、長老の元自治会長からは面白い話が聞けた。あまり青年団とやらを良く思っていなかったようでね」

「教えてもらってもいいですか」

「あの男達、子供の頃はえらい粗暴な性格だったそうなんだ。で、そこの森は彼らが子供の頃はイジメの現場だったそうなんだ」

 昼間でもほとんど日が差さなくて、あまり人は近寄らない場所だとこまちは言っていた。

「そこで彼らに近い年齢の子供について漁ってみたんだ。十数年越しのいじめられっ子の復讐、なんてよくあるからな」

 なるほど、そういう線はあるかもしれない。

「それで、どうだったんですか」

「彼らとほぼ同年代で、村中からいじめられていた子が一人いた。そのイジメの中心が彼らだったらしいという証言もなんとか得られてね」

 あれ、もしかして千葉さんって結構有能な方なんじゃ。

「だがなぁ、その子は既に自殺してるんだ。十七年前に」

 がっかりだよと千葉さんはうなだれた。

「ご遺族の方はおられないんですか」

「母親はその子の後を追って自殺。兄弟もいない。父親は不明だ」

「不明?」

「そもそも父親が誰かわからなかったからいじめられてたんだ。ほら、十七年も前で、田舎となれば、シングルマザーなんていないだろ。陰湿な村八分って奴だ」

 父親がいないことを理由に村中からイジメにあい、自殺に追い込まれた。なんて不幸な話だろう。

「かわいそうですね」

「だろう。まだ八歳だぜ? 海に沈んで、死体も見つからなかったんだってさ」

 え?

「ま、それがせめてもの救いだったのかもな。海の底に彼にとっての都があったのかもしれない」

「それは平家物語の安徳天皇です。そうじゃなくて、今、千葉さんが言ったことは本当ですか?」

「間違いないね。一応、元自治会長とその奥さん、息子さんの三人から同じ証言が得られたからね」

 待て待て。

「じゃぁプロの警察の方に聞きますが、水死体が浮かんでこないということはわりとあるんですか?」

「それは君。沖合いで船の上から沈んだというのならともかく、八歳の少年ができる入水自殺なんて、知れているだろう?」

「そう岸からは離れていないでしょうね」

 おかしい。ありえない。

「まぁ、村中の嫌われ者だったから、まともな捜索がなされなかった可能性もある。でもまぁ、距離を考えれば、数日もすればどこかの岸に仏さんが漂着するでしょうな」

 そうなったら警察が動かないはずがない。

「と、いうことは……」

「彼は竜宮城で幸せに暮らしているのだろう」

 あえて、僕は突っ込まないことにした。

「……そうかもしれませんね」

「いや、今のは突っ込みポイントだろう、君」

「いえ。世の中の摩訶不思議な現象に感服していたところです」

 僕は千葉さんに一礼した。

「おっと、そろそろ戻らないと、奴らにまたどやされる。それじゃ」

「それでは。貴重なお話ありがとうございました」

 …………。

「佳久さん」

「うん、こまちが言いたいことはわかる」

 ばらばらだった事実は、今、一本に繋がろうとしている。

 その糸はとてつもなく細い。おそらく普通の人には見えないくらい細い。

 でも、僕にはその糸が見えてしまった。

 論理的じゃない。科学的じゃない。それらの言葉が、その糸を断ち切らないことを、僕は知ってしまっているから。

「家に着くまで、それもできるだけ人がいないところがいいでしょう」

「そうだね」

 僕はさっきこまちに言った。

 他人の犠牲を受け入れてでも、自分は幸せになると。

 どうやら、その覚悟が問われるときが来たようだ。

「…………」

 僕は両のこぶしを握り締めた。

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