八月十二日(後)

 小路満さんの通夜には村中の人々が駆けつけて、早すぎる別れを惜しんだ。

 生前にそれほど深い付き合いがあったわけではないから、満さんの人柄は僕にはわからないけど、亡くなったばかりの人のことを悪く言わないのは、最低限のマナーだ。

「…………」

 館を後にして、二階のバルコニーのほうへと目をやった。確かに手すりの一部分が欠けていた。

 バルコニーの正面はちょうど満さんの部屋だったという。バルコニーへ出たところで、満さんは転落したのだろう。

「……やっぱりそうか」

 バルコニーの形状を僕はもう一度確認する。

 これなら……。

「どうしたんですか、兄さん。難しい顔をして」

 靖史が心配そうに声をかけてきた。

「もう、帰りましょう。母さんは先に帰ってしまいましたよ」

「あぁ、ごめんごめん」

 僕達は歩き出す。

「そうだ、ヤス。ちょっと寄っていきたいところがあるんだけど」

「いいですよ。僕もついていきます」

 暗い夜道の中、二人の足跡だけが響く。

「兄さんから誘われるなんて、久しぶりですね」

「確かにあまりなかったかもね」

 いつもなら、やった兄さんとのデートだ、とか、ついに兄さんが僕に振り向いてくれた、だなんて言い出しそうだったけど、さすがに通夜の後とあってはそんな気分ではないらしい。

 それとも……。


 石鳥居の前で、僕は一礼する。続いて、靖史も一礼した。

「夜の神社ってちょっと不気味ですね」

「誰もいないからね」

 森を抜け、拝殿が目に飛び込んでくる。

 神社でお願い事をすると叶う。叶った願い事もあれば、叶わなかった願い事もある。

 ただ、ひとつ言えることは。願い事とは人を幸せにするものだ。決して、他人を不幸にするものではない。

 十円玉を賽銭箱へと放り込み、鈴を鳴らし、二礼、二拍手、一礼。


 …………。

 …………。

 …………。


 僕は信じている。

 祈りの先に幸せな未来があることを。

「ずいぶん熱心にお祈りされてるんですね」

 横から靖史の声がした。

「こんなに物騒な事件が続けばね。神にすがりたくもなるよ」

「……そうですね」

 強い風が僕と靖史の間を吹き抜けた。

「でも、もう大丈夫なんじゃないですか。お告げを触れて回っていた青年団の方も、亡くなられたんですし。これ以上は事件は起こらないんじゃないですか」

「うん。それは僕もそう思う」

「だったら、そんなに熱心に祈らなくても――」

「でも、まだひとつだけ事件は残されているんだ」

 僕が乗り越えなくてはいけない、最後の壁だ。

「満さんの転落死だけど、ヤスは不思議に思わないかい」

「手すりに欠陥があって、そこに圧力がかかったことで、転落したんですよね? 別に問題はないと思いますけど」

「手すりから身を乗り出すようにしてなにかを見る。まぁ、ありえないことじゃないと思う」

 でも、そうじゃないんだ。

「あの手すりに欠陥があったことは、既に建築会社のほうから小路家へ連絡があって、近いうちに補修することが予定されていたそうだ」

 通夜の席で、屋敷の使用人に聞いた話だから間違いない。

 だったら、満さんも知らないはずがないだろう。

「それなのに手すりにもたれかかるとはどういうことか。よっぽど切羽詰ったなにかがあったんだろうね」

「なにか不審な物音でも聞こえたんでしょうか」

「だとしても、普通に行動すれば、そんなことはないと思う」

 六日のパーティのときにしっかりと確認しておくんだった。

「だって、あのバルコニーには脇に非常階段がついていたでしょう? 直接降りて確認すると思うんだけどね」

 そもそも満さん自身が足を運ぶとは考えにくい。使用人に行かせるだろう。

「だったら兄さんはなんだというんです。まさか、その非常階段から犯人が忍び込んだとでも」

「そう。ちょうど目の前の部屋が満さんの部屋だ。そして中で満さんを殺害、あるいは昏倒させた後、バルコニーから突き落として転落死を装う。人が来るまでに逃げ切ればおしまいだ」

 たったそれだけのことだったのだ。たまたま欠陥品の手すりがあったこと、請負業者が容疑者の筆頭候補だったこと、そして「堕つ」とのお告げのせいで、僕達は「転落死」という事実にこだわりすぎていたのだ。

「だとすれば、その犯人さんは、よほど器用な人ですね」

「盗みと放火と田んぼへの放水を、誰にも発見されずにやっちゃう人だからね」

「だとしても」

 僕の推理にはまだ穴がある。

「バルコニーへ忍び込んだ犯人が、どうやって満さんの部屋まで、誰にも気付かれることなく忍び込んだんですか。ドンドンと窓ガラスを叩いたとでも言うんですか」

「まさか」

「ですよね。それこそ、泥棒が忍び込んできているのに、普通に考えたら出ませんよ。使用人を呼ぶでしょうね」

 窓ガラスは割られていないから、そういうことになる。

「では、使用人を呼べないような、そういう人物だったらどうだろう」

「……どういうことです?」

 靖史の顔が少し引きつった。

「満さんの知られたくない過去を知っている、あるいは、小路家の闇に葬られた暗部を知っている、そういう人物だとしたら」

「なに言ってるんですか、兄さん」

「ちょうどお告げがどうたらという噂が流行っているんだ。少々オカルトな演出をかませば、相手はさぞ脅えるだろうね」

「言っている意味がわからないです」

「じゃぁ、ちょっと再現してみよう」

 僕は胸の前で手をだらんと下げる。

「うらめしや~。僕は十七年前に死んだあんたの弟だ。開けてくれないと、お前を呪い殺すぞ。ひゅるる~」

「……ふざけてるんですか」

「ふざけてるけど、言わんとしていることはほんと」

 多少ふざけないとやってられないというものだ。

「十七年前に入水自殺した子がいるんですって。その子は父親がいないと村中からいじめられていたそうだ」

「それと、今回の事件がどう関係あるというんです」

「こんな田舎で、それも二十年も前に、父親がわからないってどういうことなんだろうね。余所者かもしれない。でもそうだったら、少しくらい噂になりそうなもんだ」

 それだったら、余所者の子だという理由でいじめられるだろう。

「なぜかって、それは父親が噂にもしてはいけない人物だったから。そんな人物、この村では限られているでしょう?」

「……兄さん。あなたは今、とんでもなく恐ろしい推論を述べようとしていますよ。わかっていますか?」

「わかっているとも」

 時として事実は残酷だ。

「その子の父親は小路先生で、妻以外の女との間にできた私生児だった。もしそうだとしたら、村中がタブーにするのもわかるし、その子がいじめの標的になるのもわかる。小路先生としては、その子が、この村で生きていることは爆弾の種だったろうから、なんらかの手段でイジメをけしかけたんだろうさ」

 まったく反吐が出そうなほど陰湿な話だ。

「満さんもその子の存在くらい知っていただろう。だから、その子が目の前に現れたときは驚いただろうね。なんせ、小路家の闇だ。なんとかして秘密裏のうちに片をつけないといけないと思っただろうね」

 それが、悲劇へと繋がった。

「いや、兄さん、自分の考えをぺらぺらと喋るのはいいのですが、とんでもない矛盾点が出ていますよ」

「うん、知ってる」

「知ってる、じゃないです。兄さんさっき言いましたよね。その子は入水自殺したって。兄さんは犯人が幽霊だとでも言うんですか」

 今日の兄さんおかしいですよ、と靖史はつぶやいた。

「その子の死体は発見されていないんだってね」

「じゃぁその子が生きていたとでも?」

「いや、“その子”はやっぱり死んでるよ」

「はぁ?」

 こうは言ってみたけど、果たして死んでいると言っていいのか。生きていると言ったほうがよかったかもしれない。

「ところで、少しだけ脇道にそれていい? また後で戻ってくるから」

「もう、お好きにどうぞ。今日の兄さん、なんだか怖いです」

「ヤスはここ数日間、どこへ行っていたのかな?」

 ぴくりと固まった。

「中学の陸上部の合宿ですよ。前に言いましたよね?」

 言っていた。

「学校で寝泊りしてたんだよね」

「はい」

「練習は?」

「当然、学校のグラウンドです」

「じゃぁ、一昨日の練習内容を教えて」

 九日の晩から合宿だったのならば、合宿の練習初日のはずだ。

「えっと……」

「まさか野球部と一緒に野球をしていた、とでも」

 僕から目を逸らした。

「そういうわけではないのですが……」

「意地悪な質問ごめんなさい。野球部の部員や学校関係者に確認はとったよ。あの日はグラウンドは野球部の練習試合でしか使われていなかったし、そもそも陸上部の合宿なんてなかった」

「だったらなんだっていうんです!?」

 ついに靖史は開き直った。

「僕が嘘をでっち上げてどこかを徘徊するような不良少年だった。そうだとして、兄さんはいったいなにを証明しようとしているんですか! まさか、僕が一連の事件の犯人だというんですか!?」

「……そうだとも」

 もう引き返せない。

「ヤスは今、中学三年生だよね。七年前の夏に海で親父に助けられたときはちょうど八歳だ」

「だからなんですか!」

「さっき言ってた子なんだけど、八歳のときに入水自殺してる。そして死体が見つかっていない」

 自分でもおかしくなりそうだ。

 こんなのただの偶然の一致だ。そうだったらよかったのに。


「そこでひとつの仮説を立てよう。十七年前のその子がタイムリープして、七年前のヤスになった、としたら」


「……っぷくす」

 その瞬間。

「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!」

 靖史は大声を上げて笑い出した。神社の森じゅうに聞こえそうな声で。

「兄さん。あなた、東京の一流大学に通っておられる人でしょう? そんなあなたがどうしてそんなにふざけたことがいえるんですか。それともなんですか、東京の大学ではタイムマシンの開発でもしているんですか」

 当然の反応だと思う。

「村一番の秀才の名が泣きますよ。兄さん。どうしたんですか。頭が良すぎて気でも狂ってしまったんですか」

「残念だけど、僕は気は狂ってない」

 むしろ。

「気が狂っているのは、ヤス、君のほうだと思うよ」

「そうですか。弟を疑うんですか、兄さん。だったら僕にも考えがありますよ」

 その刹那。

 喪服の懐からナイフを取り出した。

 なるほど。あれが、僕を一度は殺したナイフか。

「ようやく本性を現したな」

 信じたくなかったけど、これが現実だ。

「所詮兄さんも恵まれた人ですね。僕の気持ちなんて、あなたにはわからない」

「あぁ、わからないよ」

 わかってたまるか。

「虐げられて、存在すら否定された僕の気持ちなんて、あんたにはわからない」

「だからといって、人殺しという暴力に訴える奴の気持ちはわからないね」

 僕は悲しい。

 君は人生をやり直せたんじゃないのか。辛い過去を捨てて、一から新しい人生を始められたのじゃなかったのか。

 それを――君を助けた神は願っていたのじゃないのか。

「兄さん。正直、僕はあなたのことが嫌いでした。あなたの才能とまばゆい光が、僕は大っ嫌いでした」

 兄さんと僕は違うから。そんなことをいつの日か言っていた。

「僕はまた光の影になったんです。二回も僕はかませ犬の人生を送らされる羽目になったんです。強者に食われる弱者の人生を。わからないでしょうね、満さんやあなたには」

「あんまりなこと言ってると、いい加減、怒るよ」

 別に僕のことを悪く言うのはかまわない。

「うちの親父や母さんがそんな育て方をしたか。実の子と同じように、えこひいきもせずに育ててくれたじゃないか。うちの家での生活は、小路家から捨てられて村中から虐げられたときと同じだったのか」

「父さんや母さんは憎んでいません」

「だったら――」

「僕が嫌いなのは、僕につかめないような幸せを手にしている兄さんと、僕に不幸しか与えてくれなかったここの神ですよ」

 靖史はナイフをこちらに向けて構えた。

「本当は小路邸へ呼び出すつもりだったんですけど、ちょうどいいです。僕が大嫌いな神の前で、兄さんに止めを刺す。それもありですね――」

 靖史が駆け出す。


 * * *


 靖史の怒りが、僕には本当にわからない。

 それだけ、今まで幸せな人生を送ってきたということなのだろう。不満を言ってはいけないのかもしれない。

 僕は未熟だ。弟としてそばにいた子の気持ちすら、慮ってやることができなかったのだから。

 でも。

 たとえどんなに深い怒りや悲しみがあったとしても、僕はやっぱり靖史は間違っていると思う。

 なぁ、ヤス。どうして君は立ち止まって考えることができなかったんだい。

 人を殺しても、誰も幸せになれないということに――。


 だから――僕は生き抜いてみせる。


 * * *


 キィン!

「――!」

 ナイフの一刺しを銀の鏡が受け止める。

「佳久さん、今ですっ!」

 鋭い金属音がするのと同時に、僕は体を右へとそらす。

「この――」

 そして。

「おおばかやろおおぉぉっっ!!」

 体の横から靖史の脇腹へ蹴りを入れた。

「がっ!」

 衝撃に耐えかねて、靖史はナイフを手から離した。

「そこまでです!」

 落ちたナイフを右手に取ると、声の主は靖史のほうにナイフの切っ先を向けた。

「あなたが……北蓮衛(ほくれんまもる)さんですね」

 何人もの返り血を受けたかのような、そんな赤い衣を身にまとい、何人もの想いを受け止めたであろう銀の鏡を左手に持って、蓬栄神社の主は立ちはだかった。

「見覚えがあったんだ。溺れてもう死ぬかって時に、あんたの姿が目に浮かんだ。そして気付いたら僕は漁師に助けられていたんだ」

 はは、と靖史、いや、衛は力なく笑った。

「やっぱり兄さんは幸せ者だね。神様まで味方につけちゃうなんて」

 僕達を見つめる衛の目は虚ろだった。

「兄さんの推理は全部当たってる。恐ろしいくらいにね。やっぱ、僕ついてないや」

 そして、静かに衛は語り始めた。

「本当は記憶障害なんて負っていないんだ。僕は以前のことを全部覚えてた。でも、僕はとっさに思いついたんだ。もしかしたら、人生をやり直せるんじゃないかって。だから、記憶がないふりをした」

 記憶障害を負っていたのに、あたかもそれがないように振舞っていた僕と、正反対だった。

「僕も最初は桜井靖史として生きていくつもりだったよ。父さんも、母さんも、兄さんも、みんないい人だったから」

 でも、歯車は狂ってしまった。

 いや、もともと狂っていた歯車が、一度リセットするだけでは元に戻らなかった、と言ったほうがいい。

「僕の知っている世界と十年のずれがあること、そして僕の母が僕の後を追って自殺したことはすぐに知った。僕の本当の父や兄、僕をいじめていた奴らが十年経っても生きていることもわかった」

 だから、復讐を決意したというのか。

「過去を忘れたいと思った。あんな忌々しい過去さえ忘れてしまえば、僕は桜井靖史として生きていける。人生をやり直すことができる。そう思って、心の底から湧き出しそうな復讐心をなんとか抑えてた」

 でも、と言って、衛は恨めしそうに僕を見つめた。

「兄さんが過去のことを思い出させたんだ。出来のいい兄さんと、不出来な僕。実の子として愛情を受ける兄さんと、所詮は養子の僕。幸せをつかめる兄さんと、不幸にとらわれる僕」

 小路家の嫡男として光を受け続けた満さんと、私生児として虐げられた衛。

 その辛い過去を僕の存在が思い出させたというのか。

「そして、兄さんは東京の大学に無事受かって進学した。そこで僕は決意したんだ。僕を虐げる光への復讐を。そして僕を貶めたこの村への復讐を」

 間違っている。こんなの、絶対間違ってる。

 でも衛に僕の声は届きそうになかった。

「神社のお告げを利用することはまず最初に思いついた。それがここの神への復讐になると思ったから。そして、僕の手足として、あいつらを利用することもすぐに決まった。お前らに殺された衛だけどって言ったときのあいつらの顔、忘れられないなぁ」

 あの青年団の男達が言っていた、共同体の復活をという苦し紛れの言い訳はそういうことだったのか。背後に衛がいることを隠すための。

「あの男達はそれぞれ小路家に対して弱みを握られていたし、満さんを殺すという点では利害が一致していたけどね」

「それであの男達にお告げを触れて回らせて、お告げ通りの犯罪をあんたが実行したということか」

「そうです。意外に村民は無用心でね。全部簡単だった」

 原田さんの田んぼが水没した日、靖史はびしょ濡れになって帰ってきていたのを思い出す。

 初めから部活にも行ってなかったんだ。

「あとは兄さんの推理通り。あの男達は満さんを殺した後に、森で処分した。奴らが僕を散々痛めつけた、あの森でね」

「なぁ、ヤス。ここまで言ってまだ気付かない? 自分が狂ってるってこと」

 こんなにも淡々と自分の犯罪を語るこの男のことが、あまりに不気味で怖かった。

「そんなことは兄さんに言われなくてもわかってるよ。だって僕は――」

 あまりに痛々しい言葉を僕に放った。


「生まれちゃいけない、生きてちゃいけない人間だったんだから」


 僕はその場を動くことも、声を出すこともできなかった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 僕になにかできなかったのか。僕は彼を救えなかったのか。

 僕は――僕はその存在だけで、彼を不幸にしたというのか。


「詭弁ですね」

 そのとき。凛とした声が響いた。

「あなたが言っていることは全部嘘です。生まれてはいけない、生きていてはいけない人間なんているはずがありません。あなたは自分で自分の首を絞めたのです」

「……まだあんた、そんな理想論を言うの? あんたのお節介が僕を犯罪者にし、三人が死ぬことになったんだよ」

「違います! 絶対に違いますっ!」

 ナイフと鏡を捨て、こまちは衛に詰め寄った。

「確かにあなたは不幸な身の上だったでしょう。私はそれを哀れみました。だから、あの時、あなたが自殺したときに、あなたを十年先の世界へと飛ばしました。そこで、新しい人生をやり直せばいいと」

 人は誰でも幸せになる権利がある。

 そのチャンスは、確かに衛にもあった。本来はなかったはずだけれども、それでも、神がラストチャンスを与えてくれた。

 でも、衛は――。

「それがなんですか、あなたは! 過去のせいにして! 村のせいにして! 佳久さんのせいにして! 私のせいにして! 新しい一歩を踏み出せたはずなのに。幸せになるために人生をやり直すことができたはずなのに。それをしなかったのは自分だということが、どうしてわからないんですか!」

 自分でそのチャンスを手放したのだ。

「見る目がなかったんです……私は」

 こまちは顔を覆った。

「僕が狂っているなんて。僕が馬鹿だったなんて。そんなことはわかってるんですよ……」

 衛は再び僕のほうへと向いた。

「兄さん、あなたはいい人すぎました。兄さんはどんな困難な目にあっても全てを受け入れ、誰のせいにもしないお人よしでした。それでも、兄さんは地頭が良かったから、乗り越えましたもんね」

「そんなことないよ」

 僕だって……自分の不幸を誰かのせいにしたくなることはあるよ。

 でも。それで自分が幸せになれるわけじゃないから、我慢するけど。

「いいえ」

 衛は首を横に振る。

「だって兄さん。口では僕のことを非難はしていますけど、それでもまだ僕のことをかわいそうと思っているでしょう。なんとかして、助けてあげたかったと思っているでしょう。僕はあなたのことを殺そうとしたんですよ?」

「そんなの……弟だから当たり前じゃん」

 今でも目の前にある真実が嘘だったら、って思う。

「それでも……いい人すぎますよ、兄さんは」

 最後に一つだけ聞きたいことがあった。

「なぁ、ヤス。ヤスが僕にうざったいくらいに、気持ち悪いくらいにまとわりついていたのも、嘘だったのかな」

「兄さんと仲良くしないと家を追い出されるかもしれない。そういう恐怖はありました」

 そうだったのか。

「でも、気付けば兄さんのことを好きになっていました。頭もいいし、性格もすごくいい人だし。僕にとって自慢の兄でした」

「そっか」

「大好きだからこそ、大嫌いなんですよ。兄さんは」

 衛は、いや、靖史は、久々に笑みを浮かべた。

 狂った笑いではない、いつも見慣れていた――。

「僕は全てを受け入れるつもりです。でも、どうか、最後に僕のわがままを聞いてほしいんです」

「……それは、私ですか」

 顔を上げたこまちの目は真っ赤だった。

「僕は死ぬ前から、何度も神社へお参りしていました。結局そのときの願いは叶わずに、最後の最後にああいうことになったんだけどね」

「あなた、あれが誰の願いだったかわかっているんですか。あなたに生きていてほしいと願った、母の願いだったんですよ」

「でも……結局母さんは死んじゃったじゃんか」

 寂しそうに靖史は笑った。

「僕はもう疲れたんだ。あるべきところに帰ろうと思うんです」

「それは――十七年前に戻してくれ、ということですか」

 こくりと靖史はうなずいた。

「それは、今目の前にある罰から逃げていることになりますよ」

「僕がこの世から消えることが、最大の罰だよ」

 それに、と靖史は付け加えた。

「あなた、この村の神ならわかりませんか。このあと僕は犯罪者として裁きを受ける。僕だけならいいけど、桜井家の人たちも犯罪者の家族としての視線を村中から受けることになるんだ」

「それは……」

「自分の恋人がそんな目にあうこと、耐えられます?」

 ぐっとこまちは唇をかんだ。

「僕が十七年前に死んでいたことになれば、満さんもあの男達も死んでいなかったことになる。それでいいじゃん。誰も困る人はいないよ」

「ヤスも口達者になったねぇ。その頭の回転のよさをもっと生かしてほしかったよ」

 ぽんぽんと、僕は靖史の頭を撫でた。

「これでも兄さんには全然叶わないけどね」

「勉強なんて、高校の三年間で伸ばそうと思えばいくらでも伸ばせるの。今度生まれ変わったら、死に物狂いになってうちの大学へ来な」

「そのときに兄さんはいますか?」

「OBとして飯くらいおごってあげよう」

 兄弟の会話が続く。

 七年間、ずっとこの村で繰り広げられた光景だった。

「……わかりました。元はといえば、私に非がないわけでもありません。靖史さんのお願いを聞き入れましょう」

 そんな中で、こまちは重い口を開いた。

「僕を戻したら、桜井靖史は存在しなかったことになるんだよね」

「そうです」

「それじゃ、誰も僕のことを覚えていないことになるんだね」

「私は覚えていますけど……そうですね。あ、でも」

 こまちは困惑した表情を浮かべた。

「佳久さんは、もしかしたら記憶が残っちゃうかも……」

「え。僕? やっぱり兄弟としていろいろ思い出があったから」

「いえ、その、佳久さんは――」

 こまちは顔を赤らめた。

「その、私と……からだを交えたでしょう……。それで、もしかしたら、その」

 え、なにそれ。

「ちょっとどういうことですか、兄さん! 僕が悲しみの復讐を遂げている間に、兄さんは神様といちゃいちゃしてたっていうんですか、この泥棒猫!」

「悲しみの復讐は遂げなくてよかったから」

 ぺしりと靖史の頭を叩く。そしてごまかす。

 なに、神様とえっちするといろいろ不具合を起こすの? まさか僕の記憶障害も、前の世界の僕がこまちとそういうことしたから……いや、まさかね。

「でも、それならちょうどよかったかもね」

「え、どうしてですか。僕のことなんて忘れたほうが」

「いくら犯罪者でも弟は弟なの。それにヤスは僕のせいで苦しんだんだろ? だったら、僕はヤスの苦しみをも受け入れて、ちゃんと幸せになんなきゃいけない」

 今はまだわからない。でも、この先何年も生きていけば、靖史の苦悩が理解できる日が来るかもしれない。

 そして、靖史が見つけることができなかった、正しい対処法をきっと見つけてみせる。

「それに、こんなヘビーな思い出、こまちだけには背負わせられないよ。僕と一緒に分かちあえるなら、大丈夫でしょ」

「佳久さん……」

「はいはい。おあついことで」

 靖史は観念したとでも言いたげだった。

「ねぇ、神様。わがままだけどもう一つだけ、僕の願い事を聞いてもらってもいいかな」

 靖史は僕の右手とこまちの右手を握らせ、そこに自分の右手を重ねた。

「絶対に、兄さんを幸せにしてください。もし兄さんを不幸な目にあわせたら、僕、あの世から呪いますよ」

「転生してうちの大学へ来るんじゃなかったっけ」

「困ったなぁ。じゃぁ分裂しちゃおうかな」

 からからと笑う兄弟を横に、こまちは目を細めながら静かにうなずいた。

「約束します。佳久さんを……いえ、佳久さんと幸せになってみせますから」

「神様だけど、人間と恋愛しても大丈夫なんですか?」

「それは……なんとかします。今回のことは始末書ものですけど、なんとか」

 もしかして、神の世界にも上司とかいるんだろうか。

「そっか。じゃぁ、兄さんのことをよろしくお願いします」

「……はい」

 そして。

「お二方とも、このまま目をつむっていただけませんか」

 弟との別離の時間がやってきた。

「そうですね……お二人で過ごした時間を思い出してください。できるだけ楽しかった思い出を」

「じゃぁ、兄さんと初めて一夜を明かした――」

「そんな事実ないから!」

「……もしかして、佳久さん、私とは初めてじゃなかったのですか」

「違うからね! ほら、あの時、僕たどたどしかったでしょ、ってなにを言わせてるんだああ!」

「兄さん最低。不潔。女好き」

「男なんだから女の子のほうが好きなのは当たり前です!」

「今度もし生まれ変わったら……僕の兄弟は同性愛に理解があると嬉しいです」

「どうせなら普通になれよ! あと、僕も一応理解はしているからね! 相手が僕以外だったらだけど!」

「あ、でもダメですね。僕は大学の先輩である兄さんと既に約束していたんでした」

「飯の約束はしたけど、恋人の約束はしていない!」

「別に肉体関係だけでもいいんですよ?」

「兄として最後に言わせてもらおう。今度こそ気持ちを入れ替えて人生やり直しなさい!」

「あはは……最後まで、兄さんは僕の気持ちをわかってくれませんでしたね」

「うん、それだけはわかってたまるか」

「いつかはわかってくれると信じてます」

「それだけは……来ないと思うよ」

「それじゃ兄さん


 ――またお会いしましょう」


 一人分の手の重みが消えた。

 そして、目を開ける。既に視界は潤んでいるけど、そこにはやはりこまちしかいなかった。

「最後まで本当に……あの馬鹿は……」

 立っていられなくなるようなふらつきを覚えたところで、体全体があたたかさに包まれた。

「佳久さん……」

 ずいぶんとこまちにはかっこいいことを言ってしまったね。

 全ての犠牲を受け入れて、僕は幸せになる、だなんて。

 こんなにも、胸が痛いというのに。

「佳久さんは……よく戦いましたよ」

 願わくば。救われぬ少年に少しばかりの安息の眠りを。

 そして。今度生を受けるときは、ありったけの幸せを。

「すごく、心が痛いです。でも、これが生きているということなんですね……」

「……うん」

 なんとか自分の足でこの地を踏みしめて。

「でも、ここで、くじけてちゃダメなんですよね。ここから私達は前を向いて……」

「そうだね」

 あふれる涙をぬぐって。

「幸せな未来を君に見せてあげないといけない。そうだよね」

「……はい」

 僕達は。

「少し歩きませんか。家へ帰る気分でもないですし」

「うん。どこへ行きたい?」

 互いの手を取り合う。

「海へ行きたいです。そこで、静かに祈りたいと思います」

「僕もそう思っていたんだ。それじゃ」

 そして。

「行きましょう」

「うん」

 幸せな未来へ向かって歩き出す――。

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