八月十日

 朝起きて、まずノートの日記を見る。これがここのところの僕の日課だ。

 宝瀬村に帰ってきてから、僕の日記の分量は日に日に増えている。昨日の日記もあまり上手くない字でびっしりと書かれていた。


   八月九日、金曜日。

    今日はいろいろなことが起こりすぎて、もしかしたら一部書

   き忘れていることがあるかもしれない。

    朝に記憶が戻る兆候が少し見られる。その後、謎の頭痛に襲

   われる。

    神社へ向かうものの、例のお告げの件で参拝客が多数。今日

   は田んぼが浸水したそうだ。

    お告げを触れて回っている青年団とも遭遇。信仰を利用して

   共同体を復活させるのだそうだ。

    まったく意味がわからない。

    警察によると、彼らにはアリバイがあることは認められてい

   るようだが……。

    昼にはこまちに会えず。夜になって、もう一度訪れたら、会

   うことができた。

    そこから先は……恥ずかしくて、書けない。

    明日は浜辺で花火をしようと約束する。夜の八時に待ち合わ

   せ。


 いろいろなことが書かれていて、頭の中を整理するのに時間がかかる。

 僕の記憶の件、お告げの事件の件、こまちの件……それぞれにどうやら進展があったようだ。

 残念ながら僕の中には記憶がない。この日記の記述を手がかりに、またいろいろな人から話を聞いて、補っていくしかない。

 それだけに、昨日の僕にひとつ注文したい。

(いや、恥ずかしくて書けないって)

 自分のことなのに突っ込んでしまう。

 こまちと出会った昨日の僕が、いったいなにをしでかしたか……それを知るにはこまちに聞くしかないわけで。

 もんもんもん。

(いや、僕のことだ。そう過激なことはしてないだろ……)

 ただ、日記を見る限り、最近の僕は驚くほど積極的なんだよな。そこが怖い。

 日記に書けないような恥ずかしいことって、なんなんだ。いったいどこまで進んじゃってるんだ、僕。

 正直、今日の僕にとっては会ったことがない女の子だというのに――。


 そのとき。

 若竹色の着物をまとった黒髪ロングの色白美少女の姿が、僕の脳によぎった。


「あ……」


 そうだ、こまちは。


 …………。


 ……。


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


「がっ!」


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 まただ。また昨日の頭痛が……。


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 こらえろ、こらえるんだ。


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 僕は――。


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 これ以上、こまちのことを忘れたくない!

 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 忘れてたまるかっ!

 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


「うぐっ!」


 ……。


 ……………。


「お、治まった……?」

 先ほどまでの頭痛が嘘のように消えている。

 目を閉じ、全神経を脳に集中させる。脳を酷使しているかもしれないけど、そんなの知ったところではない


 思い出せ。

 思い出すんだ。僕に手を差し出してくれた少女のことを。


 ――佳久さん。


 長い黒髪の色白少女が。


 ――一緒に見つけましょう。


 透き通った声で。


 ――幸せな未来を。


 僕に笑いかける。


「こまち!」

 思わず僕は叫ぶ。

 間違いない。今の僕の脳にあるのは、彼女の声、彼女の姿そのものだ。

 何日もの間、映っては消え、また映っては消えた、彼女の残像。

「やった……」

 僕は……僕は、ようやく、彼女のことを覚えていられるんだ。

 もう一目惚れを繰り返すことはない。昨日の彼女の姿の上に、今日の彼女の姿が、そしてその上に、新たに明日の彼女の姿が塗り重ねられていく。

 そんな当たり前の出会いがようやく……。

「やったよ……こまち」

 まだスタートラインに立っただけかもしれない。それでも僕にはこの一歩があまりにも嬉しかった。

 だって、今までの僕は一歩を踏み出すことさえできなかったのだから。


 僕が思い出せた記憶はほんの一部だった。

 改めて日記を最初から最後まで読み直してみたが、ほとんどの記憶は霧がかかったままだ。宝瀬村に帰ってきてからの印象深いと思われる出来事だって、ほとんど思い出せない。

 だけど、それでも僕の足取りは軽やかだった。

 昨日までの僕が一番残したかったものが、ちゃんと思い出せたから。今日のところはこれで十分だ。

 僕はここから歩いていけばいい。こまちと一緒に。

「それじゃ、行ってきます」

「おーい、少年。ちょっと待ちなさい」

 出かけようとしたところで、母さんに呼び止められる。

 どうでもいいけど、僕はまだ「少年」のカテゴリに入るのだろうか。

「なに?」

「念のために今噂になっているお告げを言っておくわ。『ムラノヒカリオツ』だそうよ」

「ムラノヒカリオツ……また停電でも起こるの?」

 前に変電所のトラブルで停電したときにもお告げがあった気がするけど……ダメだ、思い出せない。

「私も噂を耳にしただけだから、よくわからない。でも、一応気をつけてね」

「どう気をつければいいのか全くわからないけど、とりあえず了解」

「あと……一応言っておくか。昼間、あんたが出かけている間に小路さんから電話があってね。あぁ、満さんね」

「満さん?」

 はて、なんの用だ。

「あんたに用があるみたいだった。今晩来てほしいってなことを言ってたけど。今日は晩までいないわよって言ったら、そうですかって電話を切ったわ」

 満さんは村一番の名家の御曹司様だから会えば挨拶する関係ではあるけど、特別親しいわけではない。

 それなのに、僕に用があるって、どういうことだろう。

「大丈夫なの? 小路家からの呼び出しを断っちゃっても」

「じゃああんた、夜の予定をキャンセルして、小路さんのところへ行く?」

「うっ」

 さすが母上。よくわかっていらっしゃる。

「照れるな少年。思いっきり楽しんでこいっ」

「今まで僕、誰と行くとか言ったことないよね」

「そんなの、ここ数日のあんたを見てりゃだいたい想像がつくわよ」

 そんなに僕ってわかりやすいのかな。

「はいはい、行った行った。小路さんから連絡あっても、私がなんとかごまかしとくから」

 ここは甘えさせてもらおう。つくづく、自分のことを理解してくれる母親でよかったと思う。ちょっと、大雑把で抜けたところがあるけど。

「それじゃ、行ってくるね」


 昼の間はフェーン現象や温暖化の影響のせいでかなりの高温になることも多いけど、夜になると東京と違ってここは北国だなと思い知らされる。

 儚く、短い夏を、僕は走り続けている。その先にはなにが待っているのだろう。

「佳久さん」

 日本海の波の音を背に、待ち人の透き通った声が聞こえてきた。

「待たせました?」

「ううん。僕もちょうど今来たところ」

 見慣れたその顔を僕はじっと見つめる。

「えっと、どうしたんですか、佳久さん。さっきから私の顔をじっと見つめて」

「見てるんだよ」

 それはわかってもらえると思うけど。

「顔になにかついてます?」

「眉と目と鼻と口が」

 僕は視線を逸らさない。

「あのう、じっと見つめられると、ちょっと恥ずかしいというか……って、佳久さん?」

「うん」

 僕は笑いながらピースサインを出した。

「ほんのちょっとだけど、思い出せたよ。なんだろう、ようやく、こまちに会えた気がする」

「佳久さん……!」

「え、わ、ちょっと」

 こまちは僕の胸に飛び込んできた。

「佳久さん……佳久さん……!」

 こまちは僕の名前を叫び続ける。

 そりゃ……そうだろう。会うたびに僕は彼女のことを忘れていたのだから。日記のおかげで話を合わすことはできていたけど、彼女の目に今までの僕はどう映っていたのか。

「ごめんなさい。ちょっと、取り乱しちゃいました」

 そっと僕の体から離れる。

「いや、それは無理もないよ。だって、今までの僕は毎日君のことを忘れてたんだから」

「しかたがないことなんです、それは」

 くるりとこまちは後ろを向いた。

「十秒だけ……待っていてくださいね」

 僕にそう告げた後、まるで神様に祈るかのごとく、彼女はぽつぽつとつぶやいた。

「私も……覚悟を決めなくちゃ。佳久さんだけは絶対に――」

 パン! パン!

 こまちは拍手を打ってから、僕のほうへと振り返った。

「それでは始めましょう」

 そこにあった満面の笑顔に僕は吸い込まれそうになる。

 もしかして、記憶があっても、一目惚れはするものかもしれない。


 黄金色の花が激しく光り、そして散っていく。

 花火なんていったい何年ぶりだろう。

「私、この色好きです」

 今こまちが手にしている花火からは、白色と緑色の光があふれ出していた。

「こまちって、いつも緑色の着物を着てるけど、緑が好きなの?」

「はい。落ち着くんですよ」

 でも、とこまちは続けて。

「一番好きなのは空色なんですけどね」

「あ、空色は僕も好き。さわやかでいいよね」

 こまちのイメージともぴったりだ。

「それじゃ、次は空色の着物にしようかな」

「うん、見たい」

 もしかして、今までずっと同じ色の着物を着ていたのは、記憶のない僕に気を使ってのことだったのだろうか。

「でも、この若竹色だって、佳久さんは好きだって言ってましたよ」

「あれ、言ってたっけ」

 僕の記憶にないけど……こまちがそう言うのなら、言っているのだろう。

 確かに緑色も僕は好きだし、やわらかなこまちのイメージと調和している。

「あ、終わっちゃった」

「私もです」

 次の花火に火をつける。

「こう、花火を持ってぐるぐると回転すると、なんだか楽しいよ。あ、人に向けちゃダメだからね」

 童心に返った気分だ。

「あ、本当です」

 ひらり、ひらり、と。蝶のようにこまちと花火が舞う。

「どこへでも飛んでいけそうな、そんな気がしますね」

「飛んでいっちゃえばいいんだよ」

 僕も負けじと体を回す。

「本当は誰でも空高く飛べるんだ。可能性を狭めちゃってるのは、きっと僕ら自身なんだ」

 どうか、空高く届け。

 闇に縛られることのない、自由な未来へ――。

「……ちょっと、調子に乗って回りすぎたかも」

「もう、佳久さんったら。子供みたいですね」

 人は誰でも幸せになる権利があるのだから。


 * * *


 花火のしめには線香花火と決まっている。どこか儚い気持ちになって、楽しいひと時は幕を下ろすのだ。

 子供の頃は地味すぎる線香花火の魅力は全くわからなかったけど、時が経つにつれて「儚さ」なるものが理解できるようになった。

 もっとも。

「あ」

 僕は線香花火の火を持続させるのが昔から下手だ。手をずっと同じポジションのままで保つのが、結構難しい。

「佳久さんってば、手が震えすぎなんですよ。おじいちゃんじゃないんですから」

 対するこまちは、線香花火の扱いは手馴れたものといった感じで、一本あたりでおそらく一分は持っていた。

「ううっ……こうなったら、なんとかしてこまちの線香花火を落としてやる」

「佳久さん。それ、趣旨が変わっていませんか」

「あはは、バレた?」

 こまちが新しい線香花火を手に持つ。

「それじゃ、次の線香花火で、一分持ったらこまちの勝ち、持たなかったら僕の勝ちね」

「誰が計るのでしょう、それは」

「計るまでもないんだよ」

 はぁ、と不思議そうな顔をしながら、こまちは火をつけた。

「…………」

「…………」

 沈黙が続く。

 おかしい。口が動かない。声が出ない。

「えっと……」

 決めたっていうのに。

「もうこれは一分は持ったでしょう」

「そ、そうだね」

 ようやく、火がぽつんと落ちる。

「泣きの一回って、言ったら怒る?」

「どうしてそこまでこだわるんですか」

「えっと、気分?」

 理由になってない。あと語尾が上がってしまった。

 浮ついてるなぁ、僕。

「よし!」

 パン! パン!

 さっき、こまちがしていたように、僕も拍手を二つ打って、覚悟を決める。

「神頼みって、おおげさな……」

 なんとでも言ってくれ。

 今、どれだけ恥をかいても、僕はいい。

 それでこの想いが報われるのならば。


 こまちが最後の線香花火に火をつける。

「ねぇ、こまち。僕の話を聞いてくれないかな。聞いているだけでいいから」

 足が震えているのは、しゃがんでいることからくる疲れ、だけではない。

「ずっと、僕のことを見守ってくれてありがとう。君のおかげで、僕は変わることができた」

 こまちの顔を直視することができなかった。

「それなのに……僕はずっと君のことを忘れ続けた。本当にごめん。それでも……君は僕のことを見守り続けてくれた。信じてくれた」

 忘れるより、忘れられるほうが、きっと辛かったと思う。

「ありがとう」

 意を決して、僕は彼女のほうへと視線を向けた。

 こまちは顔色ひとつ変えず、線香花火の先を見つめていた。

「君のおかげで僕はようやく思い出すことができた。一番大事な、忘れてはいけないものを、ようやく思い出すことができた」

 だから、今から――伝えるよ。

「君のことが好きです。出会ったときから。いや、きっと、その前から――」

 幸せな未来を、

 僕は君に見せたい。


 線香花火の火はとうに落ちていた。それなのに、沈黙が続く。

 まるで永久に続くかのような、長い沈黙。

「佳久さん」

「はいっ」

 声が裏返ってしまう。

「一分経ったか、経ってないのか、結局わからずじまいでした」

「あ、うん、そうだね」

 こまちが立ち上がるのと同時に、僕も立ち上がる。

「ですから、勝負は引き分けですね」

 じっと彼女は僕を見つめてきた。

 そして――。

「んっ……」

 やわらかな唇を僕のそれに押し当ててきた。

「んちゅ……んんっ……んっ……」

 昨日のキスよりも、少しだけ長いキス。

「ん……ふぁ……」

 唇を離すのと同時に、こまちは恥ずかしそうに目を逸らした。

「これが答えじゃ……ダメですか」

 消え入りそうな声だった。

 かわいい。いとおしい。好き。大事にしたい。

 ぎゅっと、僕はこまちを抱きしめる。

「答えの答え」

「くすっ」

 こまちは僕の胸に顔を押し当てた。

「好きですよ。私も」

 本当に小さな声だった。


 それから三十分後。

「ただいま」

「お、お邪魔します」

 ここは僕の家である。

「おやおや……ほほう」

 我が母上様が目を光らせていらっしゃる。

「君が最近噂の彼女君ね」

「えっ、いや、その……」

 一方のこまちさんは照れていらっしゃった。そりゃ、そうだろう。

「あんたみたいな勉強できることしか取り柄がない少年が、どこでこんなかわいい子を捕まえてきたのだか」

 さらっと馬鹿にされているのは置いておくとして。

 そう。こまちはこの村から出たことがないと言っていた。なのに、この村の誰も彼女のことを知らない。

 いったいどうやって――。

「佳久さんとは東京の大学でお世話になりました。それで、その……追いかけてきちゃいました」

「ちょ」

 ぽっと、こまちは顔を赤らめる。

 もしかしてこの子、結構な役者なのか。

「あらそうなの。いいわねぇ、そういうの。私ももともとは街中の出身なんだけど、旦那追いかけてこんなところまで来ちゃったから」

「あら、そうなんですか」

 いろいろと気になるところもあるけれども、うちの母さんと仲良くしてくれることに、こしたことはない。

 うちの場合、最大の関門は母さんじゃなくて、弟の靖史だけど。

「それじゃ、ゆっくりしていって。こんな屁理屈こねの息子でよければ、今後ともよろしく」

「あ、はい。ありがとうございます」

 母さんは満足そうな様子で居間へと去っていった。

「っと、こんな感じでどうですか」

「……たいへん、結構だと思います」

 ところで、母さん。あなたはなぜ東京から来たと主張している目の前の娘さんが着物姿なのに突っ込まないのですか。


 で。どうしてこういうことになったのかと言うと。

 花火を終えて、こまちが「今日は帰りたくない気分です」だなんてことを言ってきたからだ。

 かわいい恋人にそんなことをおねだりされた日には、僕もはいとしか言えないわけで。

 それに、こまちと離れたくないのは僕も一緒だった。

 やはり記憶のことがある。今日になって、ようやく記憶の断片を思い出せつつあったけど、明日起きたときにはまた元の木阿弥になっているかもしれない。そういう不安が無いかと言われれば、それは嘘になるわけで。

 こまちと二人一緒にいれば大丈夫かもしれない。そう思ったのだ。決してやましい目的じゃないですよ、うん。

「ごめんなさい。無理言って押しかけちゃって」

「いや、いいよ。それに、あの秘密基地はしばらく居心地が悪くなりそうなんでしょ」

 あれだけ人が来れば、もはや秘密基地ではない。神社としては、それが喜ばしいことなんだろうけど。

「そうですね。本当は数日くらい、こちらにお世話になれると嬉しいんですけど……」

「やっぱりそれは難しいなぁ。親父はなんとかなると思うけど、ヤスがなぁ」

 正直、彼を説得できる自信が僕にはない。

 ……って、こんなことじゃ、将来どうするんだ。

「佳久さん」

 僕と彼女の目が会う。

「えっと、その……」

「な、なにかな」

 今まで普通に二人でいたはずなのに、なぜか緊張してしまう。

 晴れて想いが通じ合ったからなのか。それとも、こうやって自分の部屋に二人きりでいるからなのか。

「私、人を好きになることって、素敵なことだと思います」

「そうだね。僕もそう思うよ」

 こまちを好きになるまでわからなかった。こんな幸せな感情があるだなんて。

「今夜は……思いっきり甘えていいですか」

 こまちが体を預けるようにしてもたれかかってきた。

 その目に不安の色はない。やわらかな彼女の笑みが、心からいとおしい。

「僕にできることなら……姫が望むところまで」

 僕はそっとこまちの体を抱きとめた。


 このぬくもりを、僕はもう二度と忘れない。

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