八月九日(後)
朝起きて、昼間はテレビで高校野球でも見ながらだらだらとして、夜は読書にうつつをぬかす。
今までの夏はだいたいこんな過ごし方をしてきた。僕はそれを特に退屈だと思ったことはなかった。
そして、僕の中身が同じなのであれば、今年の夏もそうだったはずだ。
なのに。
それなのに。
どうして、こう、胸にぽっかりと穴が開いたような気がするのだろう。
「はぁ……」
全然中身が入ってこない本を閉じ、今夜何度目かのため息をつく。
僕の記憶の中には彼女はいない。なのにどうして、喪失感で押し潰されそうになっているのだろう。
日記の中の僕は、こまちと二人の僕は、もうどこにもいないはずなのに。
そして。この行き場のない喪失感さえも今日の僕と共に、消えていく。
こうして僕は、また同じ日々を繰り返す。
「馬鹿みたい」
いったい僕はなんのために生きているんだ。前に進めないなんて、それは生きているといえるのか。
「ほんと、ばかみたい……」
――どうか自分に絶望しないで。
僕は反射的に飛び上がる。
――どうか自分を諦めないで。
この声は、いったい……。
――あなたは人を幸せにできるし、あなたにだって幸せになる権利はあるのだから。
今の僕の周りには誰もいない。
そう。だからこれは幻聴だ。
それに、聞いたことのない声に、聞いたことのないせりふ。
動揺することなんてなにもない。
僕は疲れているだけなんだ。
僕は――。
僕が立ち上がったのと同時に、先ほどまで読んでいた文庫本は床に落ちた。
そうだ。なにをうじうじと悩んでいたんだ、僕は。
「母さん! ちょっと出かけるね!」
「え、ちょっと!? こんな夜にどこへ出かけるの」
「友達に大至急呼び出されたんだ。家の鍵は持ってるから!」
僕は決めたじゃないか。
彼女を信じるって。彼女の想いを無駄にしないって。決めたんじゃないのか。
彼女が僕を信じてくれるのならば。前を向いて歩いていくって決めたんじゃないのか。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
僕は立ち止まってちゃいけないんだ。
僕は――生きていかなくちゃいけないんだ。
暗い夜道を走る。昼に走った道のりを、僕はもう一度走る。
石鳥居がうっすらと見えてくる。昼の間でも鬱蒼としている蓬栄神社の森は、まるで夢幻の世界への入口のようであった。
蓬栄神社の神様。どうか、お願いします。どうか、彼女に会わせてください。
「こんな夜に一人で出歩くなんて、危ないですよ」
やわらかで、透き通った声が横からした。
夜だから姿はよく見えない。けど、僕はその声だけで、確信した。
「佳久さんってば、遅刻ですよ。……あれ、私、時間の指定はしていませんでしたっけ」
いたずらっぽく笑う彼女の声を聞いただけで、僕は泣き出しそうになる。
彼女の姿も声も、僕の記憶の中にないはずなのに。
「よ、佳久さん……!?」
僕は彼女を抱きしめていた。
「ごめん。ちょっとだけでいいから、こうしていていいかな」
彼女のぬくもりが僕の心を癒していく。
彼女は僕の幻覚でも、夢幻の存在でもない。
こうやって、ちゃんと、ここにいる。
「佳久さん……」
ぎゅっと、彼女は細い手を僕の腰へと回した。
「大丈夫ですよ、佳久さん。私はあなたのそばにいますから」
僕と彼女――こまちの目が会う。
「佳久さん」
「こまち」
そっと、僕らは唇を重ね合わせた。
「んっ、ん……」
昨日までの僕は消えてなんかいなかったんだ。
きっと、今日の僕の心の中のどこかにいる。そして、今日の僕の背中を押してくれている。
だからこそ、こまちのことがこんなにもいとおしくて、こまちのことをこんなにも求めて、こまちとずっと一緒にいたいと思うんだ。
「ふぁ……」
名残を惜しみなら、二人の唇と体は離れる。
「佳久さんって、思ってたよりも大胆なんですね」
「え、あ……」
こまちの一言でようやく我に帰る。
勢いに任せていたとはいえ、いきなり年頃の女の子とキスするなんて、いったいどうなっているんだ、僕は。
ついでに言うと、ファーストキスだったんですよ、今の。
「うふふ」
こまちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
小耳にはさんではいたけど、やっぱり女の子のほうが度胸あるよね、こういうのって。
今の僕の顔はおそらく真っ赤だ。つくづく、夜でよかったと思う。
「いつまでもこんなところで立ち話をしているのもなんですし、いつものところへ寄っていきませんか」
こまちは僕の手を握る。
「行きましょう」
「……うん」
手を取り合って歩く二人を星空だけが見つめていた。
「お茶とお菓子しかないですけど、いいですか」
「あ、うん。ありがとう」
ここに来たことの記憶もないはずなのに、なぜか落ち着いた。
もし記憶があったとしても、まだこれが三度目の訪問だ。それなのに、ずっと前からここで時を過ごしたことがあるような、そんな気がする。
「どうぞ」
「ありがとう」
こまちは終始にこやかな笑みを浮かべながら、僕のほうをじっと見つめていた。
「ん。どうしたの」
「見てるんですよ」
いや、それはわかるんだけど。
「顔になにかついてる?」
「眉と目と鼻と口が」
こまちは視線を逸らさない。
「あのう、じっと見つめられると、ちょっと恥ずかしいというか」
「うふふ」
なんだろう、この妙にくすぐったいこの空間は……。
「それで」「あの」
二人の声が同時に重なった。
「あ、いや、そちらから先にどうぞ」
「いえ。佳久さんが先でいいですよ」
「え、でも」
「たぶん同じだと思いますから」
こまちはなおやわらかな笑みを浮かべているが、少し場の空気が引き締まった気がした。
「えっと、正直、今日はいろんなことが起こりすぎて、僕の頭の中もまだ整理できてないんだけど……」
もう一度、今日起きてからの出来事を頭の中で振り返る。
しっかりと覚えているうちに。
「まず朝起きてヤスと会ったときに、一瞬なんだけどここ数日の記憶が頭をよぎったんだよね」
「ほ、本当ですかっ!」
こまちが身を乗り出してきた。
「あ、でも、ほんの一瞬。あれ、どうして覚えてるんだってなったところで、急に頭痛がして……踏切の音が大音量で鳴り響いたかと思えば、次の瞬間にはもう記憶がなくなってた」
「そう……ですか」
しばらくこまちは考え込む。
「だとしたら、少し希望はあるのかもしれません。そうだとするとあるいは――」
そして、小声でぶつぶつとつぶやく。
「こまち?」
「佳久さん。記憶のプロセスってご存知ですか」
「えっと、脳に記憶して、それを呼び出す、とかいうやつ?」
おおかたは想像がつく。
「はい、それです。記銘、保持、想起です。今の話を聞く限り、佳久さんの脳で問題があるのは、想起の部分なのでしょう。記憶は一応されて脳の中に保存されているけど、一日経つと呼び出すことができなくなる」
「それじゃ、今壊れている想起機能が、もしかして回復する見込みがあるということ」
「そうですね……おそらく、そういうことになると思います。でも……」
「でも?」
こまちは少し辛そうな顔をした。
「……いえ、なんでもないです。よかったじゃないですか、佳久さん」
「まだわかんないけどね」
こまちは苦笑いを浮かべていた。
なんでだろう。僕の記憶が戻ったら、一番に喜んでくれそうなのに。
「ところで佳久さん。話にはまだ続きがあるんじゃないですか」
「そうだった。それで、僕はこまちに会わなくちゃって思ったんだ」
「私に、ですか。もしかして記憶が戻るかもしれないということを報告しに?」
「いや、そういうことじゃなくて――」
この先を話すのを躊躇してしまう。
それは、僕が先ほど抱いたぬくもりを否定してしまうようで。
「無理に言わなくてもいいです」
僕が考えていることを悟ったのか、こまちが気を利かせてくれた。
「佳久さんが疑問に思っていること、私にはわかります。それは当然のことだと思います。でも、ごめんなさい。今はまだ、あなたにお話しするべきときじゃないんです」
「そう……」
いずれ負うべき債務を先延ばしにするだけかもしれない。
でも。
「佳久さん、さっき私を抱きしめてくれましたね」
「うん」
「キスも……してくださいました」
少しこまちは顔を赤らめる。
「う、うん」
「それじゃ、ダメですか」
ぎゅっと、僕の背中に彼女は抱きつく。
あたたかい。彼女の体温が、僕にじわっと伝わってくる。
「このぬくもりじゃ、あなたを救えませんか」
「そんなことない」
こまちのぬくもりが、僕を救ってくれたんだ。
絶望と諦めの支配する世界から、僕を――。
「佳久さんの体もあったかいですね」
今、こまちはどんな表情をしているのだろう。
「ねぇ、佳久さん。これだけは覚えておいてくださいね」
すぅ、と小さく息を吸う音がした。
「あなたのぬくもりだって、私を救っているってことを。今は意味がわからなくてもいいですから」
ゆっくりと、ゆっくりと、時が流れた。
「あのう、本当に大丈夫ですか」
時刻はもうすぐ日付が変わるかというころだった。
「大丈夫だって。これくらいの時間に外を出歩くことは慣れているから」
「それは東京でのお話でしょう。人さらいにあったらどうするんです」
「人の気配がしたらすぐに気付くって」
物騒な事件が続いて起こっているし、こまちが心配するのも無理はない。
「むしろ君のほうが心配だけどね」
「私は大丈夫です。今晩はここで寝泊りしますから。夜が明けるまでに退散するつもりですけど」
「う、うん」
今日のところはこれ以上足を踏み入れないと決めた。
「それで、明日ですけれども」
「うん、わかってる」
当分の間は、お告げ騒動の影響で蓬栄神社に参拝客が押し寄せることが予想されるため、昼の間は旧社務所は使えないかもしれないとのことだった。
そこで、こまちが提案したのは……。
「花火は僕のほうで調達するから」
「お手数おかけします」
「いいって。どうせ昼の間は暇だしさ」
夜の砂浜で花火をやろうということだった。
なんだか、夏の青春の一ページって感じがすごくする。
「それじゃ、例の砂浜に夜の八時ね」
「はい。忘れないでくださいね、佳久さん」
「あはは、大丈夫大丈夫」
ちゃんと寝る前に日記を書いておかないと。
「…………」
夜ももう遅いけど、なんとなく別れるのが名残惜しい。
「あの……佳久さん」
そんな空気を察知したのか、こまちは少し照れながら僕にこう言ってくれた。
「今日はありがとうございました。嬉しかったです、私」
どうして彼女が僕に礼を言ってくれるのだろう。礼を言わなくちゃいけないのは僕のほうなのに。
「僕も嬉しかったよ。ありがとう、こまち」
「……はい」
僕が家路に着くまで、もう少しだけ時間がかかった。
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