八月九日(前)


八月九日(前)




「ん……」

 今日もよく眠れた。

 昨日の寝起きなんて僕は覚えていないから、おそらく僕が記憶障害になる前の最後の日はよく眠れたのだろう。眠りが浅い日の僕は、今日「は」あまり眠れなかった、になるのだろうか。

 まぁ、どうでもいいことだ。枕元にあるノートを手に取る。


   八月八日、木曜日。

    出かける前に母さんから神社の噂のことを聞く。

    青年団の人が村中に言い回っているらしい。

    こじつけのような気もするけど、今のところお告げ通りの事

   象は確かに起こっている。要注意。

    今日はこまちと二人で海へ。

    僕の子供の頃の話から脇にそれて、つい真面目な話になって

   しまった。

    その内容はここには書かない。

    明日以降の僕が自分で見つけ、そしてこまちに伝えてあげて

   ほしいから。

    明日はいつもの場所で会う予定。こまちが手料理を振舞って

   くれるそうだ。楽しみ。


 一昨日の日記に引き続き、昨日の日記にも僕の感情の一部が記されていた。

 こまちという子の姿を今思い浮かべることはできないけど、彼女が僕に良い影響を与えてくれていることは確かなのだろう。

 昨日の僕があえて残さなかった言葉も、こまちがいればきっと思い出せる。そんな気がした。

 こまちは今日の僕にとってはまだ見ぬ人だ。けれども、僕は日記の記述を見ただけで、彼女のことを信頼していた。そしてまた、今日も会うなり彼女に一目惚れするのだ。


「おはようございます、兄さん!」

 台所には靖史がいた。

「おはようさん。って、あれ、今日はいるんだ」

 てっきりいないものと思っていた。

「はい。今日は部活は休みなんです。今夜から合宿なんで」

「合宿?」

「秋に中学最後の大会があるので、それに向けてですよ」

「ふうん。ごくろうさん」

 陸上部って熱心だ。休み中に拘束されるとか僕には無理だ。体育会系という時点でお断りだけど。

 だから、村社会で生きていけないんだよ、僕。

「せっかく兄さんが帰ってきているのに」

「じゃぁ行くのやめちゃえば?」

「あはは。そうしたいのはやまやまですけど。でも、せっかく中学最後の大会なんですし、それなりの成績は残したいんです」

 靖史は少し困ったような顔をした。

「それに……僕は兄さんとは違いますから」

「うん。どういうこと?」

「とぼけないでくださいよ。兄さんは特になにもしなくても、東京の一流大学へ行けちゃうような人じゃないですか。僕にはそんな才能はないってことです」

「あぁ……」

 少し返答に困った。この手の言葉をぶつけられたときは本当に困る。なにを答えても嫌味になりそうだから。

「いや、別に兄さんのことを妬んでいるわけじゃないですよ。ただ、僕は普通の人間だから、それ相応の努力をしなくちゃいけないという話で」

「僕も普通の人間のつもりなんだけどね」

「全然普通じゃないですよ、兄さんは」

 靖史のほうをじっと見つめる。

 村の他の人間なら僕を非難する意味合いもあるのだろうけど、靖史にはそんなつもりはなさそうだ。

「どうしたんですか、僕のほうをじっと見て。……はっ、ついに」

「そんなことはありません」

「ちぇ」

 どうやら平常運転のようだ。

 昨日靖史が帰ってきたときは少し様子がおかしかったけど、やっぱり杞憂だったようだ。

「兄さん、ご飯の準備をしていいですか」

「あぁ、それだけど。今日は友達とお昼ご飯の約束をしているから、食パンだけでいいよ」

 間違ったことは言っていないぞ。今の僕にとって、こまちは立派な友達だ。

「わかりました」

 あれ、今日はあっさりと引き下がるんだ。いつもなら「どこへ出かけるんですか。まさか女ですか」とでも言ってきそうなのに。

 確か前にもそんなことが……。


 あれ。

 どうして、数日前の靖史の態度のことを覚えているんだ。それにさっき、昨日の靖史がって……。


 …………。


 ……。


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


「うっ!」


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


「あ、が……」


 カーンカーンカーンカーンカーンカーン


 ……。


 ……………。


「兄さん、どうしました!?」

「はっ」

 今のはなんだ。

 頭の中で踏み切りの音が近づいてきて、大音量で鳴り響き、そして遠のいていった。いわゆるドップラー効果だ。

「大丈夫なんですか、兄さん!?」

「あ、うん。大丈夫。急な頭痛だよ」

「全然大丈夫じゃないでしょう!」

「いや、本当に大丈夫。もう治まってるから」

 僕は恐る恐る頭を働かせる。

 昨日の靖史の態度を、続いて数日前と思われるものを思い出そうとする。

 …………。

 ダメだ。思い出せない。

 でも、さっきまでは……。

「ヤス、まだパン焼いてない?」

「いえ、もうトースターに入れちゃいましたけど」

「ちょっと急な用事を思い出したから、しばらく出かけるね」

「え、ちょっと、兄さん!?」

 会わなくちゃ。

 彼女に今すぐ会わなくちゃ。

 そうだ。どうして今まで僕は彼女のことを疑問に思わなかったのだろう。

 僕のことを知っていて。

 どこに住んでいるのかも、今なにをしているのかもわからなくて。

 そしてなによりも。


 僕とそう歳が変わらないはずの女の子が、僕を含め、どうしてこんな狭い村の中で一度も話題に上ったことがないのだ。


 こんなに近い年齢の子なら、僕が東京へ行く前に、既に出会っていてもおかしくないというのに。


「とにかく後はよろしく! あ、合宿行ってらっしゃい!」

「ちょ、兄さんってば! いきなりすぎますよー!」

 こまちなら、きっと僕のなにかを知っている。

 こまちなら、きっと――。


 夏の日差しが降り注ぐ中を、僕は息を切らしながら走る。

「はっ、はっ、はっ……」

 体がなまっているのか、ふくらはぎの痛みがすぐにやってくる。

 それでも僕は走る。

「はぁ、はっ、はっ……」

 蓬栄神社の石鳥居が見えてきた。森の中へと向かって、僕は全速力で駆け出す。

「はぁ、はぁ……はぁ……」

 境内に入り、僕はようやくスピードを緩めた。心臓の音がばくばくとうるさいくらいに響いている。僕は手で軽く胸を押さえた。

「はぁ、はぁ……」

 少し呼吸が落ち着いたところで、僕は視線を上げた。

 拝殿の前に群衆が集っている光景が目に飛び込んできた。

「えっ」

 僕は目を疑った。走りすぎて目がおかしくなったのかと思い、一度深呼吸してみたものの、目の前の光景は変わらない。

 どういうことだ。

「あんたは桜井さんちのぼんじゃねーか」

 後ろからだみ声がした。振り返ると、腰の曲がった老婆が一人、僕のほうを見つめていた。

「あなたは確か、山本さん……? どうしてここに」

「どうしてって、そりゃぁお祈りに来たんだよ。最近おっかねぇことばっか起こっとるからな」

「おっかないことって……」

 もしや。

「神社のお告げ、ですか」

「そうさ。今朝は隣の原田さんちの田んぼの水があふれてしまってなぁ。ありゃぁだめだ」

 それもお告げにあったというのか。

「『生活の糧が水面に沈む』。もしやと思って田んぼをもっとる家は警戒しておったんじゃけどな。あぁ、恐ろしい」

 老婆は拝殿のほうへと向かって歩き出した。

「これも神様の呪いじゃ。わしらがあまりに神社に詣でることがなかったから、神様がお怒りになったのじゃ」

「そんなこと……」

「ぼんも気をつけたほうがええ。そりゃぁ、ぼんの家は昔から神社へはよう来とる。それでもな、ぼん。余計なことを考えるんじゃねえぞ」

 余計なこと、ね。

 長らくこの神社を見捨てていた村の長老連中よりも、僕のほうがよっぽど信仰心があると思うのだけど、決して口にはしない。

 拝殿の前には蒼白い顔をした老人達であふれていた。窃盗、放火と来て、ついに田んぼがダメになったとあっては、ショックも大きかったのだろう。だいたい、こういう地域の神社の神様は、農耕の神様であることが多いのだから、これは神様の怒りに触れたと考えるのもやむをえないのかもしれない。

 ただ、それでもひっかかることがある。

 伝統にうるさいはずの長老連中が、どうして蓬栄神社を遠ざけていたのだろう。神社信仰って地域の伝統の最たるものではないのか。

「って、こんなことしてる場合じゃないや」

 お告げの件も気になるが、今は――。

「どうした。君は参拝しないのか」

 またも後ろから声をかけられる。

「……少し人がはけてからにしようかと思いまして」

 坊主頭の男と目の細い男。たとえるなら熊と狐だ。

 初対面だったけど、きっとそうではないのだろう。おそらく五日と六日の日記に登場していた男達だ。

「もうしばらくは時間がかかりそうだが、大丈夫なのか」

 坊主頭のほうが口を開く。

「かまいませんよ。それより、あなた方はいったいどういうつもりなのですか?」

「どういうつもりとは?」

 男は表情を変えない。

「あなた方は確か自治会の青年団の方々ですよね」

「そうだが」

 カマをかけたが当たりだった。

 ということは――。

「あなた方が村中に蓬栄神社のお告げを触れて回っている。そして、現にお告げ通りの事象が起こっている」

「そういうことか。警察の取調べなら既に受けている」

 坊主頭の男は先回りして答えた。

「当然君が言ったようなことを言ってきた。だが、全ての事件について俺達にはアリバイがある。今回の原田家の田への放水についても、先ほどまで取調べを受けていたが、やはりアリバイがあるんだ」

 だからなにか、とでも言いたげな表情で僕を睨んでくる。

「いえ。警察が動いていて、そのアリバイを警察も認めているのでしたら、そうなんでしょう。疑ってすみませんでした」

 事件の捜査は警察の仕事だ。僕はその職域を侵すつもりはない。

 ただ。

「でしたら、あなた方も、神罰を信じていらっしゃるのですか」

「それは――」

 坊主頭の男が言いよどんだ。

「そんなことはどうでもいいのだ」

 今度は狐目の男が僕と相対する。

「どうでもいいって、こうして事件が起こっているんですよ」

「お告げ通りに事件が起こる」

 狐目の男は、ちらっと拝殿の方角を見やった。

「そして、こうしてまた神社に人が集う。重要なのはそれだけだ」

「あなたは神社の関係者ですか?」

「そうだとも。本来、村民は全て神社の関係者であったはずだ」

 狐目の男が言わんとしていることに、僕はようやく気付いた。

「まさか――神社の信仰を取り戻すために、こんなことを?」

「そうだ。高齢化と過疎化が進み、宝瀬村の人々の連帯感は薄れてしまった。古き良き共同体が壊された結果、さらに村はおかしなほうへと転げ落ちてしまった」

「だから、神社の信仰を利用するというんですか」

 懐古主義に陥りがちな高齢者ならともかく、二十代の青年の主張とは思えなかった。

「あなた方の主張の是非は今は問いません。どうせ私と議論をしても平行線でしょうから。ただ、仮にあなた方の主張が正しかったとしても、それは犯罪を免責する理由にはなりませんよ」

「――木を見て森を見ず」

「なんですって!?」

 頭に血がのぼりそうになるのを、僕はぐっとこらえる。

 個人は集団の付属物じゃないんですよ、このお馬鹿! と叫びたいところだったけど、それをやってしまった日には僕の負けなので、こぶしを握り締めてなんとかこらえた。

「さっきも言ったろう。俺達のアリバイは証明されている。事件のことは知らん」

 坊主頭の男が間に入るように口を開いた。正直助かった。

「そうですね。先ほども言いましたけど、警察の方がそうおっしゃってるのでしたら、僕はそれでいいんです」

「そうだ。余計なことに首を突っ込むな」

 坊主頭の男は、狐目の男を促して拝殿のほうへと歩いていった。

「――死にたくなかったらな」

 かすかに聞こえた坊主頭の男の声は震えていたような気がした。


 拝殿の前では青年団の男が老人達に囲まれていた。間違いなくお告げのことでだろう。

 僕は拝殿のほうへ一礼だけした後、横道をそれ、社務所へと向かう。

 ただ、薄々僕は感じていた。おそらく、こまちはここにいない、と。

 四日の日記には、彼女がここを「秘密基地」にしているとの記述があった。社務所の鍵をどのように入手したかについては覚えていないけど、神社に誰もいないからこそ出入りが可能だったのだろう。

「ごめんください」

 扉の前で声を張り上げてみたが、反応はなかった。

 しばらく僕はそこで立ち尽くす。待てども待てども、いつまでも待ち人が来ない。時間にしてはわずかであったけれども、僕は何日もの間そこでただ一人待っていたかのような感覚がした。

 帰ろう。僕は力ない足取りで、社務所の前を後にした。

 一応、拝殿の前まで足を運んで、お参りはしておいたが、心ここにあらず、だった。周りの老人達がなにか騒いでいたような気もするが、僕の耳には一言も入ってこなかった。


「お帰りなさい。早かったんですね……って、どうしたんですか、兄さん」

 僕の顔を見るなり、靖史が心配そうに声をかけてきた。

「あはは、ちょっとドタキャン食らっちゃって」

「そうなんですか……それじゃ、昼食は食べてきてないんですね」

「軽くでいいや。あんまり食欲ないから」

「……本当に今日の兄さん、大丈夫ですか? この世の終わりみたいな顔してますよ」

 そんなに酷い顔をしているのか。今の僕は。

「ううん。ちょっと疲れただけ。それよりご飯お願い。とっとと食べて、部屋でゆっくりしたいから」

「はぁ……わかりました」

 僕に対していつもはベタベタしてくる靖史だけど、こういうときは自然と距離をとってくれる。その心遣いがありがたかった。

「兄さん心配だなぁ……合宿行くのやめちゃおうかな」

「いや、本当に大丈夫だから。それに中学最後の思い出なんでしょ。後で後悔するよ」

「兄さん……」

 だからこそ。靖史は僕のことで余計な心配はしてほしくなかった。

「ちなみに合宿ってどこに行くの?」

「いや、どこへ行くとかじゃないです。ただ単に学校に泊まるだけですよ」

「なんだそりゃ」

 確かにそれでも「合宿」か。

 もしかしてチームとしての連帯感を高めるためうんぬん、ってところかな。

「はぁ」

 さっきの狐目の男の不愉快な言葉を思い出した。あぁいうものこそ、早急に忘れてしまったほうがいい。心配しなくても、今の僕なら明日起きたときには忘れている。

 ……いや、でも、一応メモくらいはしておくべきか。いつ我が身に災難が降りかかってくるかわからないし、なにかあったときのために証拠くらい残しておいたほうがいいかもしれない。

「そうだ、ヤス」

「なんですか」

「ヤスって神様のお告げとか信じるほう?」

 正直見当がつかなかった。学校や村の中でも靖史は上手くやっているし、かといって僕の考え方を否定するようなこともない。まだ中学生だし、確固たる自分の意見はもっていないのかもしれないけど。

「もしかして、最近話題のお告げの呪いとかってやつですか?」

「そうそう」

「そんなのありえるわけないじゃないですか。いずれ、事件の犯人も捕まりますよ」

「まぁ、そうだよね」

 普通に考えたらそうなるか。

「泥棒に、放火に、浸水ですか……物騒ですね」

「あ、浸水のことも聞いてるんだ」

「朝から噂になっていますから。確か、原田さんのところですよね。近くの農業用水の堰が切られていたのが原因らしいですけど」

「じゃぁ、切った奴が犯人じゃん」

「そうなんですけど、目撃者がいないらしいです。まぁ、犯人もそこを狙ったのでしょう」

 それにしても、仮にいずれも同一犯だとしたら。村社会の監視の目を潜り抜けて犯行に及ぶだなんて、犯罪のプロだとしか思えない。

 それでも、捜査する側もプロだから、そこはなんとかしてくれるだろう。警察がきちんと捜査すれば、という条件はつくけれども。

「兄さん、鮭フレークとちりめんじゃこ、どちらがいいですか」

「両方の気分」

「はい」

 いずれにしても。僕には関係ない……はずだ。

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