八月八日

 私は絶望していた。

 もう自分にはなんの存在意義もないと。


 私は諦めていた。

 もう自分にはなんの力も残されていないと。


 私は覚悟していた。

 もう自分にはなんの未来もないと。


 私はわかっていたはずだった。

 もう自分には誰からも愛される資格はないと。


 なのに。それなのに。


 あなたは私に手を差し伸べてくれた。

 あなたは私を抱きしめてくれた。

 あなたは私に想いを伝えてくれた。


 私は強くない。

 だから、私はまだ自分を信じられないでいる。私はまだ自分に絶望し、そして、諦めている。

 私は愚かだ。

 だから、私は自分を信じられなくなった。私の覚悟は揺らぎ、そして、わからなくなった。


 でも。それでも。

 私は信じたいのだ。

 私はこの目で見たいのだ。


 彼が見せてくれると言ってくれた、幸せな未来を――。


 * * *


「んー……」

 今日もぐっすりと眠れた。宝瀬村に帰ってきてから、よく眠れているのじゃないかと勝手な想像をする。昨日以前の寝起きが良かったか悪かったかなんて、覚えてないから。

「おや」

 ノートを手に取ろうとしたところで、その上にメモ用紙が一枚置かれていることに気付く。

 そこには、「今日の日記は心して読むように!」と書かれていた。もちろん僕の字である。

「んん?」

 なにか重要なことでも書いてあるのだろうか。昨日の僕の指示通り、ひとつ深呼吸をしてから、ノートを開けた。


   八月七日、水曜日。

    今日はこまちと立岡へ。

    以前教えてもらった洋食屋へ案内したら、美味しそうにハヤ

   シライスを食べていた。

    そして目的でもあるカラオケへ。こまちの歌はものすごく上

   手かった。

    最後にAUGUSTの「夏色の未来」を一緒に歌う。

    僕は感極まってしまい、帰り道の電車の中で、自分の病気の

   ことをこまちに話す。

    こまちは……優しい。一緒に楽しい思い出を作ろうって、そ

   う言ってくれた。

    今、この日記を見ている僕は、戸惑うかもしれない。

    でも、どうか、こまちのことを信じてあげてほしい。

    僕は……彼女の想いを無駄にはしたくないんだ。


「…………」

 僕の頭には「ここ数日、窪田こまちという少女と会っている」という事実だけが入っている。その邂逅の詳しい内容はこうやって日記の記述で補うしかないわけだ。もちろん、彼女の姿や声などは、日記でも補うことができず、直接本人とまた会うしかない。

 もう一度、八月一日からの日記を読み直す。

 僕とこまちという名の少女との関係が、会うたびに深まっていることは、日記の記述からも伺うことはできた。記憶が一晩眠るたびになくなっているというのに、また一から出会いをやり直して、その上で昨日よりも今日、今日よりも明日と関係を深めていくなんて、昨日までの僕はとんでもないスキルをお持ちであったようだ。もしくは、こまちさんとやらが相当我慢強いお方なのかもしれない。

 ただ、いくら記憶がリセットされているとはいえ、僕自身のことは僕が一番わかる。

 確かに、こまちという少女との出会いを通じて、僕は変わってきているようだ。

 だって、記憶障害になってから一昨日の日記まで、僕はその日起こった事実しか書かなかった。僕の気持ちは決して記すことはなかった。

 どうして感情を残さなかったか。そう決めた理由さえ、僕は忘れてしまっているけど、おおかた見当はつく。どうせ、残しても無駄だと思っていたからだろう。あるいは、綺麗さっぱりなくなってしまう感情を残してしまうことが、後の自分を苦しめることになる、と判断していたからかもしれない。

 だとしたら。どうして、昨日の僕はもうすぐ消えてしまう気持ちをあえてつづったのか。今日の僕へのメッセージを残したのか。さっきあげた理由をそのまま正反対にひっくり返せばいい。

 ノートを閉じ、僕はベッドから立ち上がる。

 今日の僕がやるべきことは一つだ。


「おはよう」

「あら、おはよう。今日も出かけるの?」

 靖史は今日も部活のために不在で、家には母さんと僕の二人だけだった。

「ん、まぁ、ちょっとね」

「精が出るわねぇ、少年」

「別にそんなんじゃないけどね」

 東京に出るまでの僕は、休み中はほとんど外へと出かけることはなかった。

 東京へ出て、故郷の景色が恋しくなった。そういうことにしておく。

「ま、家に居ても、別にすることはないでしょ?」

「そうなんだよな……あ、そういえば、甲子園は今日からか」

 冷房の効いた部屋で、一日野球三昧という過ごし方も、それはそれで最高だけど、今はそれどころじゃない。

「ま、余計な詮索はしないけどね」

「助かります。ついでに言うと、ヤスには内緒にしていただけると、本当に助かります」

「あの子なら、あんたのことはなんでも気付いてそうだけどね。あ、そうだそうだ」

 突如、母さんはなにかを思い出したかのように、ぽんと手を叩く。

「最近、物騒な事件が起こってるんだって」

「ふうん」

 こんな田舎でも治安が悪くなってきているのだろうか。もっとも、世界的に見れば、日本の治安なんてまだまだ最上級レベルなんだけどね。

「なんとも、家宝が盗まれたとか、倉が燃えたとか、あと……埋蔵金が発掘されたとか」

「一番最後は良いニュースな気がするんだけど。どこの家?」

「県道の向こうの高橋さん」

 埋蔵金は置いておくにしても、確かに窃盗事件や放火事件が続いているとすれば、それは物騒なことだ。

「それがなんでも、神社のお告げ通りに起こっているそうなの」

「神社のお告げ?」

 はて。どこかで聞いたことがあるフレーズだ。

「自治会に青年団ってあるでしょう。その子たちがお告げの内容を村中に伝えているのよ。そしたら数日後にその通りの事件が起こるのだから」

「その青年団の方々はうちの家にも来たことあるの?」

「あんたがいない間にね」

「うーん」

 どうも腑に落ちない。

「そのお告げの内容って覚えてる?」

「確か……『見捨てし宝は主の下を去る』とか、『不正の財に怒りの火が落ちる』とか、『信じる者の足元に幸宿る』とか、そんなことを言ってたわね」

「また、幅のあるお告げだね。一応当たってはいるけど」

 僕でも予言できそうだ。これくらいなら。

「あと、『幸去りし村の灯火消ゆ』というお告げもあったわ」

「……あー、なるほど」

 八月二日の停電のことか。あれは靖史が言うには、変電所のトラブルということだったそうだが。

「なんともうさんくさい話だけど、でも現実にこういう事件が起こっているから、あんたも気をつけなさいね」

「気をつけるって、なにを?」

「むやみに巻き込まれるようなことをするなってことよ。ただでさえあんたは……狙われてもおかしくないんだから」

 別に母さんは「神罰」を信じているわけではない。

 「神罰」にかこつけて悪さをしている奴らがいる。仮にそれがこの村の住人であるとしたら、その村の住人からの評判がよろしくない僕みたいな人間は標的にされやすいということだ。

「うん、わかった。母さんも気をつけて」

 いずれにしても、用心しておくにこしたことはないだろう。

 ただ、今からその渦中の神社へと向かうのはどうなんだろうね。


 蓬栄神社へ足を運ぶのは、三日ぶりのことになる。

 家を出る前にもう一度日記を確認したが、五日の最後にあやしげな二人組の若い男と遭遇している。この男達が母さんが言っていた青年団とやらであろうか。

「…………」

 僕、というより、まっとうな思考を持っている人間ならば、まずはその青年団を疑うだろう。さすがに窃盗や放火となれば、村の警察も動くだろうから、早期の事件解決に期待したい。いくら村の人々が呪いだ天罰だと信じたところで、警察までお付き合いする必要はないのだ。

 蓬栄神社の石鳥居が見えようかという位置まで差し掛かったとき、誰かがこちらへと歩いてくるのを確認した。

 着物を着た、長い黒髪の少女だ。和柄の日傘を手にしている。

 少しずつ、二人の距離が狭まる。少女は僕の姿を目にするや否や、手を振りながら、こちらへと駆け出してきた。

「佳久さん!」

 屈託のない少女の笑顔に僕は心を奪われる。

「佳久さん、来てくださったんですね」

「あぁ……うん」


 どうか、こまちのことを信じてあげてほしい。

 僕は……彼女の想いを無駄にはしたくないんだ。


 日記の中での昨日の僕の訴えが、僕の脳の中をめぐる。

「今日はどうしたの。いつもは神社で待ち合わせているんじゃなかったっけ」

「そうなんですけど……なんだか、今日は居ても立ってもいられなくなって」

 ごめんなさい、とこまちは一言断る。

「本当のところを言うと、不安なんです。今日は佳久さんは来てくれないんじゃないかって。……あはは、それを言うなら、今日だけじゃないんですけどね」

 そうか。今の僕はこまちをも苦しめているんだ。

「ごめん」

「謝ることじゃないです。病気ならしかたがないですし。それに……」

 こまちは右手で僕の左手をつかんだ。

 まるで離さない、と言わんばかりに。

「こうやって来てくれてるんですから。何回忘れてもちゃんと会いに来てくれるなんて、そうそうできないですよ」

 今までの僕は前日までの日記を見たうえで、こまちと会うという選択肢を選び続けた。他の選択だってあったはずだ。

「だから、私はもっと佳久さんのことを信じてあげなくちゃいけないのかもしれませんね。昨日あんなことを言ったのに」

「えっと……」

「あ、ごめんなさい。それは覚えてないんでしたね」

 こまちは苦笑いをした後、「昨日言ったこと」をもう一度僕に語りかけてくれた。

 僕の手を握りながら。

「どうか自分に絶望しないで。どうか自分を諦めないで。あなたは人を幸せにできるし、あなたにだって幸せになる権利はあるのだから」

 神罰だなんて僕は信じない。

 でも、もし本当に神様が居るのだとしたら、その力を人を不幸にするために使うのではなくて、人を幸せにするために使ってほしい。

 そう思うことは、人間のわがままなのだろうか。


 * * *


 そのまま神社へと戻るのもどうだろうということになり、僕達は浜辺へと行くことにした。

 今日は八月八日。学校は夏休みということもあって、浜辺では子供達の姿がちらほらと見られた。

 この地域はお盆をすぎると、一気に水温が下がって、ほとんど海水浴客はいなくなる。泳ぐなら今のうちなのだ。

 子供達が泳いでいる場所から少し離れたところに、僕達二人は腰を下ろした。

「ここに来るなら水着を持ってこればよかったかな」

「そうですね」

「まぁ、持ってないんだけどね」

 だって僕、泳げないもん。小学校、中学校のときのプールの授業はどれほど苦痛だったことか。高校はプール自体がなくて助かった。

 ……でも、漁師の息子が泳げないってのもどうなんだろう。

「それじゃ意味ないじゃないですか」

「言ってみたかっただけ。でも、サンダルくらい持ってきてもよかったかな。足だけでも海に入ると気持ちいいでしょ」

 視線を上げるとちょうといい岩が目に入った。

「あれはちょうどいいかも。ちょっと、ついてきて」

「……? はい」

 僕はその岩に腰掛けると、靴と靴下を脱ぎ捨てた。そして足を海の中へと落とす。

「あー、気持ちいいー」

 思わず顔がほころぶ。

「こまちもやってみなよ。気持ちいいよ」

「それじゃ、お邪魔します」

 こまちは僕の横に座ると、草履と足袋を脱ぎ、白い足を海へと浸した。

「あ、本当ですね。気持ちいいです」

「でしょ。本当に暇なときとか、こうやって海へ来て、ぼおっとしてたんだ」

 ばしゃばしゃと、足を前後させる。

「小さい頃の佳久さんってどんな方だったんですか」

「勉強ができることしかとりえのない、普通の子だったよ」

 ちょっと嫌味っぽい言い方になってしまったけど、こまち相手なら大丈夫だろう。

「面白い話もそんなにないかなぁ……あはは、東京に行ってからといい、エピソードがなさすぎて困ったね」

「でも、不幸じゃなかったのでしょう?」

 こまちは予想外の角度から僕に問いかけてきた。

「嫌な出来事が全くなかったわけじゃないけど……でも、そうだね。不幸ではなかったと思う。数が少ないとはいえ、友人にも恵まれていたし。でも、どうしてそんなことを聞くの?」

「あ、えっと……」

 こまちは少し困ったような表情を浮かべた。

「東京では辛いことばかりだったと前に言っていたでしょう。だから、相対的にこちらにいる頃はそうでもなかったのかなって」

「そうだね。でも、こっちか東京かって問題じゃない気もするんだ、僕は」

「えっと、それはどういうことですか」

「子供か、大人か、ってことだと思う」

 東京の大学へ行くことを決めたとき、最初は周りの友達やクラスメイトは喜んでくれた。桜井は村一番の天才だって、そう持ち上げられたときは、恥ずかしかったけど、でも嬉しかった。

 でも、卒業の時期が近づくにつれて、だんだんと反応が冷淡になっていったのを僕は覚えている。同級生のほとんどは就職するか、進学するにしても近場の大学へ、だった。そんな彼らにとって僕はどう映っていたのだろう。そして、彼らの親や祖父母は、僕のような存在をどう見ていたのだろう。

 それは想像するに難くない。そして、それを知ることが大人になるということなのだろう。

 今の僕は、この村にとっては「いい歳して働きもせず、村のためにもならないようなことを学んでいる輩」なのだ。この村で生きていくためには、僕は余計な知識を身につけてしまっていたらしい。

 思えば、東京で新しく人間関係を広げることに躊躇してしまったのも、この村でのトラウマのせいだったのかもしれない。

「ダメだな、僕は」

「そんな」

「だから僕、頑張るよ」

 こまちがなにかを言いかける前に、僕は言葉をつないだ。

「もう僕は絶望したりしない。諦めたりしない。たとえ村中から嫌われても、たとえ東京で見捨てられても」

 これは僕の口から言わなければいけないことだから。

「一人でも僕を信じてくれる人がいるのなら。僕は前を向いて歩いていかなくちゃいけないんだ」

 そっと、僕はこまちの手に触れた。

「君と出会ってから昨日までの僕も、きっとそう思っていたんじゃないかな。今となってはわからないけどね」

「そうですね。……えぇ、きっと、そうです」

 こまちの視線は水面を見つめたままだった。

「そうです。そうですよ。私だって。私だって……」

 彼女の小さな叫びは僕には届かなかった。


「ごめんなさい」

 浜辺からの帰り際。こまちは僕に頭を下げた。

「楽しい思い出を作ろうって、私言っていたのに。今日はあまり楽しい話はできませんでしたね」

「あぁ」

 確かに会話内容だけとるとそうだったかもしれない。

「僕なりの思いのたけを喋れたからいいよ。って、明日にはまた忘れてしまうけどね」

 日記に書くつもりはない。明日以降の僕が、自分の力で思い出してほしいから。

「それに、僕としては、こまちと二人でいるだけでも楽しいけどね」

「それは……」

 ぽっとこまちの顔が赤くなる。

「私もです」

「でしょ? ならいいじゃん」

 これから何日も会うんだ。今日みたいな静かな日があってもいい。

「あの、佳久さん」

「なに?」

「明日はいつもの場所へ来てください。明日はやりたいことがあるので」

「ん、わかった」

 そういえば、結局今日も蓬栄神社の境内へは立ち入らなかった。

「あと、お腹を空かせてから来ていただだけると嬉しいです」

 これはいわゆるあれか。こまちの手料理を食べることができるというイベントか。

 おおぅ、楽しみだ。

「わかった。楽しみにしてるね」

「はい!」

 こまちは満面の笑顔を浮かべた。


「ふわぁ、疲れたぁ」

 靖史が家に帰ってきたのは、僕の帰宅から十五分後だった。

 結構ぎりぎりだった。今後は気をつけよう。

「あら、汗だくじゃない」

「聞いてよ母さん。今日はもうずっと走りっぱなしで――」

 靖史は今年中学三年生で、今は最後の大会に向けて練習しているのだという。

「帰り道もずっと走っていたわけ?」

「そうなんですよ兄さん。はぁ、疲れた」

 あれ?

「先にお風呂入っちゃいなさい」

「はぁい」

 母さんからバスタオルを受け取ると、そそくさと風呂場へと向かった。

「なんか物足りない」

 いつもなら帰ってくるなり兄さーんと飛びついてきそうなものだけど。

 まぁ、疲れているのだろう。静かなのにこしたことはない。

 靖史が僕を避けているような感じがしたのは気のせいだ。きっと。

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