八月七日
「ふわぁ……」
時刻は午前七時。宝瀬村に帰ってきてからは、わりとゆっくりしていたはずなので、こんな時間に起きるのは久しぶりだ。
さて。まずはノートの確認から。
八月六日、火曜日。
小路邸のパーティへ。主な目的は満さんの婚約発表だったよ
うだ。
五日に神社で見かけた青年二人組に声をかけられる。
最近、神社のお告げにまつわる奇妙な出来事がおこっている
のだとか。一応メモ。
僕の日記はいつも必要最低限だけど、これだけじゃなにがなんだかわからない。
ただ、あまり詳しく書かないということは、昨日の僕もそこまで詳しいことは聞かされていないのだろう。それに「あまり深入りするな」という昨日の僕からの言外のメッセージでもある。
「さてと」
ベッドから立ち上がる。今日はここ数日僕が楽しみにしている「佳久とこまちの物語」の続きが見られるのだ。なんとカラオケデートをするらしい。
問題なのは、佳久ってのが僕自身で、こまちって子がどういう子なのか、日記の記述以外は全く知らないということなんだけどね。
宝瀬口駅へは約束の時間の十分前に着いた。
今の僕の心境をどのように表せばいいのだろう。今まで会ったことのない文通相手と初めて会う、といったところか。ただ文通相手の場合、それまで文通したことを通じての感情なり印象なりがあるだろうけど、僕の場合はそれもない。
僕が窪田こまちについて知っているのは日記に書かれていたことだけ。
なぜか僕のことを知っていたこと。
若竹色の着物を着た、黒髪ロングの色白な少女であること。
僕に話し相手になってほしいとお願いし、これまで東京での生活について話したこと。
蓬栄神社の社務所だった建物を秘密基地にしていること。
そして。記憶障害を患っている今の僕がこれだけ繰り返し会っているということ。
ところで、一つひっかかることがある。
少女が着物を着ていたら、立岡ではさぞかし目立つのだろうな、と。
だから今日は着物じゃないかもしれない。村を出たことがない少女が街へ出るというのだから、少々おめかししてくるかもしれない。
だとしたら。
今、僕から少し離れたところで立っている、あの日傘を持った黒髪の少女はもしかして窪田こまちさんなのではなかろうか、と。
「あ!」
向こうがこちらに気付いたようで、手を振りながら近づいてきた。どうやら正解だったようだ。
「なんだ、佳久さん。もう着いていたんじゃないですか。声をかけてくださいよ」
彼女の姿を目にして、僕はすぐに声を出すことができなかった。
今日のこまちさんは、いつもの若竹色の着物(残念ながら僕の中でのイメージはないんだけど)ではなく、薄いピンク色のワンピース姿だ。長い黒髪と白い肌と相まって、なんというか……かわいい。はっきりいって、僕の好みのタイプの女の子だ。
こんな子と仲良くなってくれて、ありがとう、昨日までの僕! そう叫びたくなる。
「あのぉ、佳久さん。いつも、最初に三十秒くらい固まりますよね」
「あぁ、ごめんごめん」
急いで我に帰る。
「今日はいつもと格好が違うでしょ。それでちょっと驚いたというか」
「もう。佳久さんってば、まさか着物じゃないからわからなかったというんですか」
その通りです、はい。
「一瞬迷ったかな。でも」
「でも?」
「率直に言って、かわいいよ、こまちさん」
恥ずかしくなりそうなセリフをストレートに言えてしまった。
「あ、ありがとうございます。その……」
こまちさんは顔をぽっと赤くする。あぁ、かわいいな、こんちくしょう。
「あと、私のことはこまちでいいですよ。前に言いませんでしたっけ?」
「あれ。そうだっけ」
「まぁ、無理強いはしませんけど。それに佳久さんは……」
ぶつぶつと僕に聞こえないような小声でつぶやいた。
「ん?」
「なんでもないです。それよりも、電車は大丈夫なのですか?」
「十三分発だね。そろそろ駅舎の中へ入っておこう」
「はい」
笑顔のこまちを横にして僕は心拍数の上がった胸を抑える。
日記の記録が正しければ、これで四度目の一目惚れだ。会うたびに僕は彼女に一目惚れして、眠れば全て忘れ、また一目惚れする。
いったい僕は、あと何回、彼女に一目惚れをするのだろう。
この地域では一番の都市である立岡市。宝瀬と比べると圧倒的に都会だけど、東京と比べると圧倒的に田舎であるといっていい。
東京で四ヶ月暮らした僕にとっては(実際は二ヶ月分しか記憶がないけど)、寂れているなぁというのが第一印象だった。大学の地理学の授業でも触れられていたが、近年の地方都市の衰退は目を覆うものがある。
「はぁ……」
ただ、生まれてから宝瀬村を出たことがないというこまちにとっては立岡の景色も新鮮なものだったようだ。僕だって、子供の頃に初めて立岡に来たときは目を丸くした覚えがある。
「すごいですね。文明はここまで発展していたなんて」
「いや、全然発展してないほうだけどね、ここは」
別に文明なんておおげさな話ではない。
「先にご飯にしようと思うけどなにか食べたいものとかある?」
「私、ハタハタが好きです」
「うぉぅ、なんてピンポイントなご注文」
いや、美味しいけどね、ハタハタ。でもちょっと時期はずれだと思う。
「でも、せっかく街まで来たので、普段食べないものを食べたいです。洋食屋さんとかありますか」
「洋食屋さんなら良いお店知ってるよ。じゃぁ、そこ行こっか」
「はいっ!」
高校時代、数少ない友人の一人に教えてもらったお店だ。ありがとう。今度会ったらなにかおごってあげよう。
……覚えてたらね。
「ごちそうさまでした。美味しかったです、ハヤシライス」
うっとりとした表情で美味しそうに食事をしていたこまちを見るだけで、僕も幸せな気分になった。
「うん」
「でも、本当にいいのですか。お食事代を払わなくても」
「今日一日くらいは僕に払わせて。それくらいのお金はあるから」
「ごめんなさい。それでは、今日は甘えさせてもらいますね」
あっさり引き下がってくれて助かる。
「着いたよ」
雑居ビルの前で僕達は立ち止まる。
「ここがカラオケですか」
「正式名称はカラオケボックス、だね。それじゃ、僕に着いてきて」
「はい」
こまちはきょろきょろと周りを見回しながら、僕の後を着いてきた。なんだか微笑ましい。
「ここだよ。飲み物持ってくるから、ちょっと待っててね。お茶でいい?」
「はい。私はなんでも」
最近流行のセルフ式のお店だ。ドリンクバーでウーロン茶を二つ入れて、部屋へ持って帰ったときには、こまちはまだ部屋中をきょろきょろと見渡していた。
「なんだか不思議な空間ですね」
「そうかな?」
さて。ここからが問題だ。
「どうすればいいのでしょう」
「えっとまずは……って、なんじゃこりゃ、最新型かよ」
「はい?」
「今はこの機械で全部操作するんだよ。昔は曲目リストが載ってるでっかい本があったんだけど、その頃とはちょっと変わっていて」
田舎のくせにいっちょうまえに最新設備を用意していたとは。恐るべし。
「操作は僕がやるよ。なんとかなると思う」
そしてしばらく固まる。
「どうかしました?」
「いや、なにから歌おうかなと思いまして」
まずはこまちにお手本を見せるために、僕が歌うべきところなんだけれど、実を言うとあまり歌える曲のレパートリーは多くない。それに、そんなに歌も上手くないし。
そんなわけで、こまちの前で比較的上手く歌える歌を必死にサーチ中なのだ。
「こまちって、どんな曲を知ってるの」
「だいたいテレビで流れている曲でしたら」
「ちょっと古くても大丈夫?」
「はい。古いほうは大丈夫です」
その言葉を信じて、十年位前に流行したバンドのヒット曲をオーダーする。
マイクのスイッチを入れて。あとは――。
「それでは、一曲歌わせていただきます」
なるようになれ、だ!
「……とまぁ、こんな感じ」
まずまずといったところかな。緊張して、手は汗でびっしょりだ。
「お上手ですね!」
「いや、それほどでも」
ほんと、それほどでも。
「でも、人前で歌うのって少し恥ずかしいですね」
「うん。結構緊張する。だから、こまちもやってみよう」
「は、はい」
緊張した面持ちで、小さくガッツポーズを作る。いちいち所作がかわいいです、こんちくしょう。
「では、中川菜緒の『難波船』をお願いできますか」
「うわ、なんて渋いチョイス」
二十年以上前の曲だ。こまちは生まれていないはずだけど。
「もしかして、ご存じないですか」
「いや、母さんがよく聞いてたから知ってる。結構好きだよ」
「よかったぁ。それでは――」
マイクを手にして、こまちの表情が引き締まる。
「忘れてしまえ 恋したことなんて――」
こまちは透き通った声で朗々と悲劇の恋歌を歌い上げる。
上手いなんてレベルではなかった。彼女の歌声、立ち姿、表情に僕は一瞬にして心を奪われた。
まるで、歌詞に乗せられた切々とした想いが、こまちの想いと共に僕に伝えられているような気がして。
「ど、どうですか」
こまちが歌い終わっても、僕はしばらく呆気に取られていた。
「おーい、佳久さーん。帰ってきてくださーい」
「はっ」
ようやく僕は我に帰る。
「それで、その……どうでした?」
「ものすごく上手かった。感動したよ。もしかして、歌手になれるんじゃない?」
「そんな。おだてすぎですよ」
「いや、本当に」
最近のアイドル歌手より、普通に上手いと思う。
「次はもうちょっとテンションの上がる曲にしましょうか」
「僕はなんでもいいよ」
「それでは、もう一曲歌っていいですか」
「あ、うん。何曲でも、時間内だったら別に」
こまちのレパートリーは僕が想像した以上にたくさんあった。
ポップス、アイドル歌謡、ニューミュージック、フォーク、ロック、バラード、演歌――本当にカラオケに行ったことがないの、と聞き返したくなるくらい、いろんな曲を知っていたし、そしてどの曲も上手かった。
歌うことが好きなんだろう。こまちは楽しそうに、気持ちよさそうに歌っていた。そんな彼女の歌声と姿に僕はずっと見とれていた。
「お時間は大丈夫ですか」
「あと一曲くらいはいけそうかな」
「わかりました。あの、後半はほとんど佳久さん、歌っていませんでしたよね」
「あ、ばれた?」
一曲でも多くこまちの歌声を聞きたかったから。
「ダメですよ、もう。ですから、最後は一緒に歌いませんか」
「もしかして、デュエット?」
「デュエットではなくて、女の子のグループの曲なんですけど……」
「キーを合わせられるか自信がないなぁ。ちなみになんて曲?」
「AUGUSTというグループの『夏色の未来』という曲です。私、大好きなんです」
「あぁ、それなら知ってる。いいよ、一緒に歌おう」
『僕は願うよ 何度でも君のもとへ――』
離れ離れになった恋人との再会を願う曲だ。
『あの夏の約束 永久をこえるよ――』
歌っている最中に、ちらっと横目でこまちの表情を見る。その真剣な表情からは、僕は感情を読み取ることはできなかった。
『幸せな未来を 君に見せたい――』
最後のフレーズを歌い上げて、後奏が鳴り響く中、こまちは深々と一礼をした。ライブ会場で満員の客を前に挨拶するアーティストのように。
「佳久さん。私、」
こまちの目は僕ではなく虚空を見つめていた。
「私は……私は、」
それ以上、こまちが言葉を口にすることはなかった。
* * *
「今日はありがとうございました」
立岡から宝瀬へと帰る普通電車に乗る頃には、こまちは元の笑顔を浮かべていた。
「私、人前で歌うのは初めてだったのですけど、ものすごく楽しかったです」
「こまちが楽しんでくれたのなら、こっちは嬉しいよ」
「……佳久さんも楽しんでくれました?」
「もちろん」
楽しいなんて一言では片付けられない。今日一日はまるで夢の中にいたような気分だった。
「佳久さんが言っていたことは本当ですね」
「なんのこと?」
「誰と一緒に行ったか、ということです」
そうか。こまちをこうやって街へと誘い出すことになったのは、二日前の僕のその一言だったんだ。
なにを思ってそんなことを言ったのだろう。きっと、こまちと一緒にカラオケに行ったら楽しいだろうな、とでも思っていたのだろうか。
「…………」
「佳久さん?」
あぁ、楽しかったよ。好みのタイプの女の子と一日デートができて、その子も一日中楽しそうにしてくれて、これ以上の幸せはない。
ほんと、幸せだよ。泣きたくなるくらい。
ずっと……今の時間が続けばいいなって、思うくらい。
でも。
……でも!
「っぐ」
涙が出そうになるのを必死でこらえる。
「佳久、さん……」
もう無理だ。僕はもうこれ以上、今の自分に耐えることはできない。
「……話したいことがあるんだけど、いいかな」
右手を口元へと持っていく。その手の甲を噛むことで僕はしゃっくりを抑えた。
「僕はね、実は病気なんだ」
僕は五月の終わりのある日から、一日の記憶をとどめることができなくなった。その日見た風景、聞いた音、抱いた感情――全てが一眠りした後には僕の中から抜け落ちてしまった。残ったのは歴史の教科書の年表にあるような「○月○日に、どこでなにをした」というたったの一行で書けるような事実のみだ。
かかった医者によると、原因はおそらくストレスだとのことだ。慣れない東京での大学生活に、僕は疲れきってしまったのだろう。まったく、なにも始まっていないというのに。
最初は衝撃を受けたものの、すぐに生活には慣れた。それもそうだろう。東京での僕の生活の中で、きっと覚えておきたい出来事なんてなかったのだ。実際、四月から五月に起こった出来事のほとんどはどちらかといえば忘れてしまいたいようなものだったから。
だから僕はなにも困らなかった。それは故郷に帰る夏休みでも同じだったはずなのに。
「ごめんなさい」
事実を語り終えた後、僕の口から出たのは謝罪の言葉だった。
「僕は君を騙していたんだ。だって、僕にとっては毎回、君とは初対面だったんだから。君がいくら僕に対して想いを募らせても、僕の君への想いは永久に積み重なることはない。それなのに、僕は君のそばに居続けようとしたんだ」
ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
「卑怯なのは……私のほうですよ」
ぎゅっと。僕の震えていた手があたたかさに包まれる。
「本当に謝らなくてはいけないのは私のほうなんです……」
撫でるようにこまちは僕の手を握る。
「私が、馬鹿だったから……」
しばらく無言の時間が続く。その後、先に口を開いたのは、こまちのほうだった。
「佳久さん。奇跡って信じますか」
「奇跡って、神様が起こしてくれるっていう、あの?」
「神様かどうかはわかりませんけど、それです」
冗談を言っているようには思えない。
「私思うんです。佳久さんは東京での生活に絶望した。忘れたいような出来事ばかり起こってしまった。だから、佳久さんの脳……いえ、心が悲鳴をあげて、記憶をすることをやめてしまったと思うんです」
科学的な根拠があるかはわからない。全く荒唐無稽な発想ではないように思うけど、やっぱり現実的ではないなとも思う。
「だから、佳久さん」
ぎゅっと握った僕の両手を、こまちは二人の胸の前まで持ち上げた。
「これから楽しい思い出を作るんです。忘れたくないような、心がまた記憶したいと願うような、そんな幸せな思い出を。私にできることなら、なんだってします」
「こまち……」
「ですから、どうか自分に絶望しないで。どうか自分を諦めないで。あなたは人を幸せにできるし、あなたにだって幸せになる権利はあるのだから」
どうして。
どうしてこの子はこんなに。
僕に対して優しいのだろう。
僕の幸せを願ってくれるのだろう。
「あの、ハンカチ、お貸ししましょうか?」
「え、あ……」
こまちに言われて、ようやく自分の視界が潤んでいることに気付いた。
「ごめん」
「謝らなくていいですよ。私、男の人の綺麗な涙、嫌いじゃないですから」
ハンカチを目元に押し当ててくれた。
「いいよ、それくらい自分でやるから」
こまちからハンカチを受け取って、目元を拭う。
覚えていないから断言はできないけど、今の病気になってから、おそらく初めて涙を流したんだと思う。
泣くことすらできないくらい、僕の心は磨り減ってしまっていたんだ。
「ありがとう、こまち。本当に嬉しい」
「まだですよ」
「えっ」
「私はまだなにもしていません。これからです」
にこっと。日本晴れのような笑みをこまちは浮かべた。
こまちとの出会いは確実に僕を変えた。
これから先、僕達はどうなるかわからない。やっぱり僕の記憶障害は元に戻らないかもしれない。思い出せやしない幸せな記憶が積み重なることは、僕に余計な辛い思いをさせるだけかもしれない。
それでも。
「佳久さん。一緒に見つけましょう」
目の前に居る少女と一緒なら。
「幸せな未来を――」
どんな苦難でも乗り越えていけそうな、そんな気がした。
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