八月六日
「私、嬉しいです」
女の子の声が聞こえる。やわらかく、透き通った声が。
「私の全部を知っても、受け入れてくださるんですね。佳久さんは、やはり優しいです」
ぼんやりとしていて姿を見ることはできない。
「本当はいけないことなのかもしれません。でも、私、自分の気持ちに嘘はつきたくないですから」
女の子の声は真剣だ。つられて僕も身が引き締まる。
「佳久さん。私だって、あなたのこと――」
* * *
「ん……」
寝起きで頭がぼおっとする。なにか夢を見ていた気もする。とても大事な夢を。でも残念ながら、夢の内容は全く覚えていない。
少しだけ思い出そうと頑張ってみたが、無駄だ。昨日実際に経験した出来事すらまともに思い出さえないのだから。
「さて、と」
今日もまずはノートに目を通すことから一日が始まる。
八月五日、月曜日。
今日もこまちさんのいる蓬栄神社の社務所へ。
今日は勉強以外の話。あまりネタはなかったけど、コンビニ
とカラオケの話で盛り上がる。
こまちさんはカラオケへ行ったことがないらしく、それなら
明後日に一緒に行こうということに。
宝瀬口駅に午前十時。
帰り際に怪しげな二人組の青年と遭遇。あまり関わらないほ
うがいい気もするが、一応メモ。
「おっ」
自分でも思わず声をあげてしまう。
最近の朝の楽しみの一つになっている佳久君とこまちさんの物語。関係は順調に進展しているようだ。ついにデートの約束にまでこぎつけたらしい。
これが恋愛小説の主人公なら、こいつなかなかやるなと思いつつ、壁を殴っているところだろう。
ただ、困ったことにこの佳久君とはほかならぬ僕自身のことなのだ。僕が知らないうちに、女の子と出会って一週間経たないうちにデートに誘うというスキルを僕は身につけていたらしい。
そんなスキルが僕にあったら、今頃僕の大学生活はさぞかしバラエティ豊かなものになっていただろう。どうしてこうなった。
(まさか、どうせ忘れてしまうから、その場の勢いで突っ走っているんじゃないだろうな……)
ありえる。僕はお酒を飲んだらモテるタイプなのかもしれない。
……どれだけ仲が深まっても、覚えていなければ意味がないのにね。
「どうです? 兄さん、似合ってますか」
嬉しそうに靖史は胸を張る。
「はいはい。似合ってる似合ってる」
「今日も冷たいですね、兄さん」
「うん。どこの世界に、弟のスーツ姿を熱心に誉める兄がいるんだ」
僕の記憶が正しければ、女の子が言うセリフだよね、これ。
そして僕の記憶にはないけど、たぶん三日前の夏祭りのときもこんなやりとりをしていると思うんだ。僕の経験則からして。
「兄さんのスーツ姿もかっこいいですよ」
「そりゃどうも」
靖史に誉められても嬉しくともなんともない、ってこれも。
「三日前と一語一句同じですよ、兄さん」
「テンプレート化しているんだよ。数学でいうところの公式。便利だよ」
「僕としては、機械処理される前に、もうちょっと考えてほしかったです」
そのテンプレ化のおかげで、記憶に欠陥のある君の兄さんもまっとうに生きていられるんだ。これくらいは勘弁してほしい。
「そう言っているうちにつきましたよ」
「いつ見ても大きいねぇ……」
小路邸は宝瀬村一番の豪邸だ。こんな田舎に洋風の屋敷はあまりにもミスマッチだと思うけど、代議士様一族の御趣味は僕にはわからない。
あの無駄に大きいバルコニーなんて非常階段までついている。代議士様は用心深いんだな……って、さすがにそれはどうでもいいか。
「桜井です。僕が靖史で、こちらが兄の佳久です」
「桜井様ご兄弟ですね。こちらへどうぞ」
受付の紳士に案内されて、館内の広いフロアへと案内された。
「今日は宝瀬村の青年による親睦会となっております。お食事、お飲み物は、全てご自由にお召し上がりください。それではごゆっくり」
紳士はそれだけ告げた後、元の位置へと帰っていった。
「思ったより、インフォーマルな会みたいですね」
「そのことは助かるけどね。……さて」
周りをぐるっと見渡す。
「わざわざ東京の大学へ進学した村一番の変わり者とお話したい人もいるだろうから、ちょっと一周してくる」
「ついていきましょうか?」
「いや、いい。あまり面白くないだろうし」
「兄さんのことを悪く言う人なんて、ぼこぼこにしてやりますよ」
「だからそれはダメだっての」
そう言いつつも、靖史の気持ちは嬉しかった。
「わかりました。僕も挨拶しなければいけない人がいますので、また後で」
「ん」
結論から言うと、そこまで僕は不愉快な思いをしなかった。
ここにいる人たちは若くても高校二、三年生、一番上で三十歳前後といったところか。こんなところに来るくらいだから、当然、大人の付き合い方というものを身につけている。お互いのことを良く思っていなくても、言葉の上では穏便な会話を交わすことくらいはできるだろう。
ただ、言外に悪意を込めることって可能なんだよね。それもお互い様のことだけど。
「ふぅ」
おおかた挨拶は済ませた。そろそろ靖史のもとへ戻ろう。そして、ご飯だけいただいて帰ろう。
「桜井佳久君だね」
後ろから呼びかけられた。振り返ると、がっちりした体格の男が二人いる。見たところ二十代後半といったところか。
「はい」
この二人の顔は見覚えがなかった。いくら村が狭いとはいっても、全員のことを知っているわけではない。同年代の子や、自治会の役員などをしていて頻繁に顔をあわせる大人ならわかるけど、目の前にいる彼らの世代くらいの人が一番僕にはわからないのかもしれない。
「昨日君を蓬栄神社で見かけたのだけど、君だよね」
あ。
今朝読んだ日記の記述を思い出す。「怪しげな二人組の青年」とは目の前の二人のことかもしれない。
ただ、日記には「あまり関わらないほうがいいかもしれない」という注釈があったはずだ。
「昨日は神社に参拝していました」
「そうか」
ごつごつとした体の坊主頭の男が睨むように僕を見つめてくる。神社に参拝することがそんなに悪いことなのだろうか。ものすごい威圧感である。
「あのう」
「君みたいな人間が神社に詣でるなんて思わなかった。あの神社は今はもう見向きもされていないというのに」
この男はなにが言いたいのだろう。
「父が今、遠出の漁に出ていますから。無事に帰ってくることを毎日祈っているんです」
さすがにこまちさんの存在を出すのはまずい気がしたので、適当にごまかした。
「君なら非科学的だと言い出しそうだと思ったのだが」
「僕のことをどう思われているんですか? それに僕、文系なので」
「まぁいい」
今まで喋っていた男とは別のもう一人の男が口を開く。こちらの男は先ほどの男よりはやせているが、目が細く、鋭い。
「君は最近、この神社を巡る噂を耳にしたことはないのか」
「噂?」
なんのことだろう。
「神社のお告げ通りの奇妙な出来事が起こっているという噂だ」
「いえ、聞いたことないですけど」
「よせ」
坊主頭の男が目の細い男を制した。
「いや、知らないならいい。それより、父親の無事を祈るとは殊勝なことだ。お父上の幸運を祈る」
「いえ。ありがとうございます」
父の幸運を祈ってくれた坊主頭の男に対して一礼すると、二人はなにも言わずに僕のもとを去っていった。
「なんだったのだろう」
あの細い目の男は僕になにか言いたげだったけど、なんだろう。
神社のお告げ? 誰もいない無人の神社にお告げなんてあるのか。奇妙な出来事ってなんだ。
僕にとっては、自分の記憶が一日ごとにリセットされることや、なぜか僕のことを知っている少女と出会ったことも、考えようによっては奇妙な出来事だけど、なにか関係があるのだろうか。
「…………」
とりあえず、ノートという名の頭の片隅には置いておこう。深追いしすぎるのはよくなさそうだけど、今僕の身に起こっていることと、なにか関係があるかもしれない。
小路邸でのパーティはつつがなく終わった。
パーティの目的は、どうやら満さんの婚約発表だったようだ。お相手は隣町の会社経営者の娘さんで、満さんとは幼い頃から面識があって、家族のようなつきあいをしていたそうだ。
満さんにおめでとうございます、と声をかけたら、今まで見たことがないような嬉しそうな顔をしていた。当人の意思を無視した政略結婚じゃなくて、ちゃんと恋愛していたんだろう。僕自身のことではないけど、心から祝うことができた。
「いいなぁ、満さん」
帰り道で靖史はさっきから同じことばかりつぶやいている。
「もしかしてヤスの好みだったとか」
「違いますよ。幸せな結婚ができていいなぁ、ということです」
しようと思えば、靖史でもできると思うけど。相手さえ間違えなければ。
くれぐれも、相手を間違えなければ。
「どうして兄弟って結婚できないんですか?」
「それは優生学的見地からうんぬん……以前に同性は無理だからね、まず」
外国では同性婚ができる国もあるけど、その事実は伏せておく。
別になにも僕は同性愛を否定したいわけじゃない。したい人はすればいいと思う。ただ、僕はいちゃいちゃするなら女の子相手のほうがいいということだけだ。
なので、いくらかわいい弟のお願いといっても、これだけは叶えてあげることはできないのだ。悪いね。
「兄さん」
靖史の足が止まる。
「なに。えらく真剣な顔をしているけど」
「僕が初めて、家に来た日のこと……覚えてますか?」
忘れるはずもない。七年前、漁師の父が家へ帰ってくるなり、「男の子を釣ってきた」とわけのわからないことを言い出したものだから。
その子はぶるぶると震えながら毛布に包まっていた。父によると、記憶を失っているらしく、自分の名前も家も、なにもかもがわからないのだという。それで、しばらくうちで保護することになったのだと。
「あの時、兄さんは笑顔で大丈夫だよ、って僕に言ってくれたんです」
「そうだっけな」
言った気もするけど、なんだかこっぱずかしくなってとぼけてしまった。
「もう。兄さんってば、記憶はばっちりなんじゃないですか」
靖史はまた歩き出す。
あぁ、そっか。靖史もあの日以前の記憶を失っていたんだった。医者に言わせるところの逆向性健忘。僕の前向性健忘とは向きが反対だけど、同じ記憶障害だ。
血が繋がっていないとはいえ、兄弟揃って記憶障害になるとは。なんとも皮肉な話だ。
「なぁ、ヤス」
「なんでしょう」
「その、記憶障害って……やっぱり、辛いのかな」
今まで面と向かって記憶についての話はしたことがなかったはずだ。靖史が普通に生きていくために、意識して避けていたのだから。
「どうなんでしょう。僕にはあの日以前の記憶がありませんから。辛いと思いようがないですけどね」
「それもそうか」
靖史の場合、一度あの時点でゼロにリセットされただけで、そこから七年間日々が積み重なっていっている。ゼロになる前のことさえ気にしなければ、僕が思っているよりも葛藤がなく普通に生きていけるのかもしれない。
一方、僕の場合は、あの日を最後に新しい日々が積み重なることがなくなっているのだ。毎朝リセットされたという事実を目の当たりにしなければいけないだけ、余計に辛いのかもしれない。
「それに」
「うん」
「忘れたということは、きっと忘れなければいけないような出来事がたくさん起こっていたんだと思うんです。僕は感謝しなければいけないのかもしれませんね」
そうじゃないかもしれない、以前の君は幸せだったかもしれないよ、とはとてもじゃないけど言えなかった。
「いいんです。僕は桜井靖史として生きていくんだから」
靖史の足が速くなる。
前向きに生きてくれるのならば、それでいい。僕と違って、靖史にはその権利が十分にある。
ただ。
靖史が強がっているように見えたのはなぜだろう。
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