八月五日
少し、想像してみてください。
あなたには知り合いの異性が一人います。友達から話を聞くと、あなたとその子はどうやら仲が良いみたいです。
ところが残念なことに、あなたにはその子の記憶がありません。そもそも会ったこともないし、その子の顔、姿、声を知りません。
でも、友達に聞くと、二人は仲が良いのだというのです。あなたもまんざらでもなさそうだったというのです。
それでは。もしその子があなたとお話したいと言ってきたとき、あなたはどうしますか。どのように接しますか。
八月四日、日曜日。
日記に書かれていた窪田こまちさんと神社で会う。
社務所だった建物に案内された。なんでも秘密基地にしてい
るらしい。
東京での話を聞きたいと言われ、今日のところは大学で学ん
だことを話す。
明日も来てくださいと言われた。場所は今日と同じところ。
「…………」
何度見ても、これは自分の文字だ。わざわざ嘘を書くとは考えられないので、間違いなく事実なのだろう。
今の僕の日記は事実しか書かないようにしている。だからこの日記を書いているときの僕の感情はわからない。
でも、おおよそ想像はつく。二日の日記から三日連続でこまちと言う名の少女についての記述がある。そのことがなにを意味するのか、ということくらいは。
ノートを閉じ、僕はベッドから立ち上がる。
ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。どうせ今いろいろと考えたところで、この思考は明日へと残らないのだ。
蓬栄神社の旧社務所前で、僕は大きく深呼吸する。
呼びかければ、若竹色の着物を着た黒髪の少女が姿を現すのであろう。髪の毛の色が変わっていたり、短く切っていたり、洋服を着ていたら、少し戸惑うかもしれないけど。
「ごめんください」
呼び鈴がなかったので、扉の前で声を張り上げた。
「はい。今、出ますから」
どたどたと音がして、その後、扉が開かれる。
「…………」
彼女の姿を目にして、僕はすぐに声を出すことができなかった。
そっか。昨日の僕と、三日前の僕の気持ちが少しだけわかった気がする。
僕はこの少女を一目見ただけで、すごく胸が高鳴っているんだ。普通の人なら「美人も三日見れば飽きる」というところなんだろうけど、今の僕の場合は彼女と会うたびに一目惚れを繰り返していることになる。
「あ、あのー……」
「ごめんごめん。ちょっと見とれてた」
思わず本音を漏らしてしまう。
「えっ」
こまちさんは甲高い声を出して驚く。
「ごめん、なんでもない。お邪魔するね」
上がったところで僕は立ち止まる。
「お部屋は奥へ向かって左手のほうですよ」
「あ、そうだったね。ありがとう」
うっかりしていた。昨日ここに来たはずの僕は部屋の場所を知っているはずなのだ。
一日、二日じゃ忘れてしまうこともあるだろうから、それほど不自然ではなかったかもしれない。
念のために経路はメモしておこう。あと、トイレの場所も。
畳敷きの和室の中は思った以上に整理されていて、綺麗な状態だった。
「お茶を持ってきました」
「ありがとう」
冷たい麦茶が目の前に出される。
お茶っ葉はどこから持ち込んだのだとか、そもそもどうして無人の神社に電気やガスや水道が通っているのかとか。気になったが……おそらく昨日の僕も気になったのだろう。突っ込まないでおく。
「それで」
少しだけお茶を口にしてから話を切り出す。
「大学での話は昨日しちゃったから、東京での他の話ということになるのかな。そうはいっても、なかなか難しいなあ」
なんせ東京では勉強しかしてないから。
「あんまり君の期待にはそえないと思う」
「別になんでもいいですよ。私、東京に特に憧れていたりしていませんし、幻滅するような話でもいいです」
「そうなの?」
なんだか意外だった。
「てっきり都会に憧れているから、僕に話を聞きたがったんだと思ってた」
「私は知らない世界を知りたいだけなんです。知らないものを好きになることも、嫌いになることもできませんよ」
もっとも、自分で経験したのでなければ知ったとはいえないでしょうけど、とこまちさんは付け加えた。
「だから、変に遠慮したりすることはないですよ。佳久さんが見た、聞いたありのままを話してくだされば」
「そうは言っても、その経験の絶対量が少ないから困ってるんだよなあ」
さすがに周囲に対して無関心すぎたのかもしれない。そのことは反省しよう。秋学期はもう少し周りの世界に目を向け、コミュニケーションをとろうと思う。
全部、僕の脳みそが元に戻っていたら、という前提が付くけどね。
「なんだろう。休みの日にしたこといえば、東京ぶらり一人旅ってとこかな。でも東京の観光名所なんて、今さらでしょ」
だいたいはテレビで見られるし。
「東京って高い建物がいっぱいあるんですよね」
「そうだね。タワーに登ったことあるけど、僕、あまり高いところ得意じゃないから」
「そうですか……」
しまった。会話が盛り下がるパターンだ、これ。大学に入学した当初にやらかしてしまったことを今繰り返してどうする。
「東京で僕がすごいと感じたのは……やっぱりコンビニかな」
「あの、二十四時間ずっとやっているというコンビニですか。本当にそうなんですか」
「それが、本当にそうなんだよね。夜中の一時くらいにお腹がすくとするじゃない。で、菓子パンでも食べたくなって、外へ出たら徒歩五分圏内でお店がやってるの。そこで、お夜食が買えちゃうんだから、やっぱ便利だよ」
「それってすごいですね!」
田舎ものまるだしの会話だけど、実際コンビニを始めて利用したときの衝撃はすごかった。カルチャーショックといっていい。
おかず、お弁当、文房具、新聞、週刊誌、葉書や切手。今は公共料金の支払や、チケットの予約だってできる。とにかくコンビニがあればだいたいのものは買える。
「コンビニがある生活に慣れちゃったら、田舎暮らしは不便に感じるかもね」
古い人から言わせれば、それが現在の生活様式に毒されるということなのだろう。どちらがいいかなんて、一概に比較できるものではないと思うけど。
「でも、よく考えたら、コンビニくらいは立岡にいけばあるね。あんまり東京関係なかった」
それにあんまり大学生活とも関係ないし。
「ひとつ気になったことがあるのですが」
「なに?」
「夜中の一時まで起きてなにをしているんですか」
「……そこはあまりつっこまないでくれると嬉しいな」
大学生は一番生活リズムがめちゃくちゃな人種なのである。
うん。話を変えよう。
こまちさんはありのまま感じたことを話してくれたらいいと言ってくれた。
だからといって、こまちさんを愚痴のはけ口にするつもりは僕はなかった。
東京へ行って環境の変化に戸惑ったこと、大学生活は一見自由なようで実は意外と選択肢が限られている窮屈なものだったこと、上辺だけの希薄な付き合いに幻滅したこと、腹を割って話すことのできる信頼できる人がここにはいなかったこと――そんな家族にさえ漏らしていない愚痴を、こまちさんに対して吐くつもりはなかった。
大学へ行ってまだ半年も経っていない。僕はまだ本当の大学生活の楽しみ方を知らないだけなのかもしれない。そうだったらいいんだけど……。
「あと、なにかあったっけなぁ」
そういうわけで、僕の会話のレパートリーにはおのずと限界がある。
「ここは、アレのお世話になりますか」
横に置いてあったかばんを開けて、念のためにと持ってきていたノートを取り出す。ここ二ヶ月以内のことなら、僕よりコイツに聞いたほうが確実だ。
「それは?」
「ん。日記帳……というよりメモみたいなものかな」
ざっと目を通していくが、たいしたことは書かれていない。それもそうだ。この日記を書くようになってからは、むやみな行動は慎んでいたはずなのだから。
「あれ」
六月十五日のページで手が止まる。
「こんな時期にカラオケなんか行ってたっけ、僕」
全く記憶になかった。
いや、今の僕にとってはそのことは普通なのだけど、さすがに「六月にカラオケに行った」という一行の事実くらいはこうやって日記にも書いているのだから、頭の片隅に置いておくことができる。でも、それすらないということは……。
「よっぽど印象に残らなかったんだろうね」
きっと、大学のクラスメイトとの付き合いで行ったのだろう。
「カラオケってつまらないものなのですか?」
「いや、そんなことはないと思うけど……って、カラオケって行ったことない?」
「たしか、機械から音楽だけが流れてきて、それにあわせて歌うんですよね。テレビでは見たことありますけど……」
もしかしたらこまちさんはカラオケに行ったこともないのかもしれない。僕は家族や高校での友人と立岡に遊びに行ったときに、カラオケに行ったことがあるけど、宝瀬村から出たことがないというのであれば、そういうこともありえるかもしれない。
「佳久さんはカラオケはあまり好きじゃないのですか」
「そんなことはないかな。というより、カラオケ自体はただ歌っているだけだから、楽しいもつまらないもないんじゃないかな」
「どういうことですか」
「誰と一緒に行ったか、ということなんだよ。きっと」
実際、高校時代に文化祭の打ち上げでカラオケ大会をやったときは楽しかった。でも、この六月のカラオケは僕にとってきっと楽しくなかったのだろうし、会社で上司に無理やり誘われて行くカラオケも、歌うこと自体は好きだとしてもあまり楽しくないと思う。
「でしたら……」
こまちさんは少し顔を赤らめた。
「佳久さんと一緒に行けば、きっと楽しいのでしょうね」
「えっ」
こまちさんのその表情と言葉に、僕はどきっとさせられる。
「ごめんなさい。いきなり、そんなこと言われても困りますよね」
「いや、」
こんなところで迷っている場合じゃない。尻込みして、一歩を踏み出す勇気を持たなかったから、こんなことになってしまっているのだ。
それを目の前の少女に対して繰り返してはいけない。
せめて、彼女に対しては。
「君さえよければ、行こうよ。立岡までなら電車で一時間ほどだから。たまには村を出て遊びに行くのもいいことだと思う」
「本当ですかっ!」
こまちさんは飛び上がるように喜んでくれた。しかし一瞬で興奮の色は消して、穏やかな表情に戻る。
「やっぱり、佳久さんは何度でも私の手を取ってくださるんですね……」
あまりに小さな声で僕には聞き取れなかった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「いえ、こちらこそ」
こまちさんのテンションの急激な変化に戸惑ったけど、余計な詮索はしないことにした。
「いつにしましょう。なるべく早いほうがいいですか」
「そうだね。明日――は、ちょっと用事があるから、明後日はどうかな。駅はわかるよね」
「はい」
「それじゃ、駅に朝の十時でどうかな。お昼前に向こうに着くことになるから、そんな感じで」
「わかりました」
あれ。これってもしかして。
「どうかしました?」
「いや……」
デートじゃないですか。いわゆるリア充と呼ばれる僕とは無縁な人達がやっているという、あの。
いつの間に僕はそんな立場になっていたんだ……。
「楽しみにしていますね、佳久さん」
「うん。こちらこそ。よろしく」
ここのところの僕の人生は乱高下が激しすぎる。
* * *
こまちさんの秘密基地を辞したのはちょうど五時をすぎたくらいであった。靖史が部活から帰ってくるのが六時前後らしいから、それまでには家に帰らないといけない。女の子の知り合いがいると知られた日には、とてつもなく面倒なことになりそうだから。
「ん?」
帰り道につこうとした僕の横を二人組の男が過ぎ去っていった。顔はよく見えなかったが、がっちりした体つきの青年二人だ。
今の蓬栄神社は初詣の時期か祭りの時期を除いて、めったに参拝客はやってこない。厄払いや七五三だって、そもそも神主がいないのだから、やりようがない。
村の自治会が時折手入れをしているという話を聞いたことはあるが、彼らもそのためにやってきたのだろうか。若い男二人ということは、力仕事でもあるのだろうか。
拝殿の前から鈴の鳴る音がする。男二人組は拝殿の前で一礼した後、あたりを見回しながら――このとき、一瞬僕と目があったように思う――右手の森の中へと姿を消した。
「なんだろう」
森の奥になにかあるのだろうか。人目を気にしているように思えたが、かといって、僕の存在は目で確認しただけで、向こうからアプローチをかけてくるようなことはなかった。
「まぁいいや」
君子危うきに近寄らず。今日のところはこのまま退散しよう。靖史が帰ってくるまでに帰宅しないといけないし。自治会のやることには変に巻き込まれるのも嫌だから、あまり深入りしないように心がけている。
「よしっ」
寝る前の日記を書き終えた。確認のために、帰ってきてから五日間の日記をもう一度黙読する。
五月の終わりのあの日から、僕の脳は狂ってしまった。今の僕の状態を一言で説明するのは難しいのだけど、脳の記憶作用に重大なエラーが発生していることは間違いない。医者によると、前向性健忘の一種ということらしい。
結論から先に言ってしまえば、今日の僕がいくら頑張ったところで、今日僕が感じたこと、思ったことは明日の僕は覚えていない。五感で感じたことだから、見たこと、聞いたこと、触ったこと、全部。
でも、「衆議院の議員定数は四百八十人です」とか「水を電気分解すると水素と酸素に分かれます」だとか、そういう教科書的な事実は覚えていられる。だから春学期のテスト勉強には困らなかった。記憶障害になっても試験人間のままなのか、と自分でも呆れそうになる。
同じ塩梅で、「八月二日に、窪田こまちという名の女の子と出会った」という事実だけは覚えていることができる。でも、その事実と不可分なはずの情報、たとえば彼女の容姿であるとか、声、そしてなにより、彼女とどういう内容のやりとりをして、どういう感情を僕が抱いたのか、彼女がどんな表情をしたのか、といったことが、僕の場合、一晩寝れば抜け落ちてしまうのだ。いわば、「一八六七年に徳川慶喜が二条城で大政奉還をした」といった自分の目では見たこともない歴史的な事実と、自分が生身で経験したはずの「今年の八月に宝瀬村で窪田こまちと出会った」という事実が僕の中では同じレベルになってしまっているのである。
さて。この日記を見る限り、僕とこまちさんの仲は日に日に親密になっていっている。明後日にはデートの約束もした。
でも、今日までは本当に奇跡が重なったといっていい。人の関係というのは少しずつ積み重なっていくものだ。それなのに、僕の場合、どれだけ積み上げても、一日でまたリセットされてしまう。一から積み上げる量が、二日よりは昨日が、昨日よりは今日がたまたま多かっただけだ。
出会ってまだ三回しか会っていないのに、僕の中では毎回毎回初対面を繰り返しているというのに、ずっと昔から彼女のことを知っていたような、そんな錯覚に陥りそうになる。彼女のことを意識していないのかと言われれば、それは嘘になる。
ただ、僕は不安なのだ。今日までのような二人の関係を、いつまで続けることができるのだろうか、と。
未来へと歩いていく彼女の手を、同じところを回り続ける僕はいつまで握っていられるのだろう。
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