八月四日
今日はあまり眠りが深くなかったようで、いつも以上に頭がぼおっとする。
二度寝しようと思って、時計を見たらちょうど十一時。さすがに起きることにする。
少しだけ、頭の中の思考がクリアになったところで、いつものように枕元に置いてあるノートを手に取る。
八月三日、土曜日。
神社の夏祭りへ。焼きそばを食べたくらいで、他にめぼしい
ものはなし。
小路満さんと出会う。六日に小路家でパーティがあるので、
出席予定。
例の少女はいなかった。
字は上手いほうではないけれども、いつも以上に字が汚い。
急いでいたのか、切羽詰っていたのか。
昨晩の自分がなにを思っていたのかはわからないけど、おおよその推測はつく。
「…………」
そして、その原因も。
「おはようございます、兄さん」
「おはようさん。あれ、母さんは」
「お友達と映画を見に行かれているようです。立岡まで」
立岡は宝瀬から電車で一時間くらいの場所にある地方都市だ。世間一般にいうところの娯楽施設はここまで行かないとない。
「ヤスは今日部活は休みなの」
「それは今日は日曜日ですから」
夏休み中の部活に曜日なんて関係があっただろうか。靖史と違って、夏休み中にも活動するような部活動をしたことがないからわからない。
「そういえば、今日はそんなに暑くないね」
「今日は一日曇りのようです。三十度は超えないみたいですよ」
「わかった。んじゃ、ちょっとふらりと出かけてくる」
「わかりました。……って、兄さん?」
靖史の表情が一瞬で硬くなる。
やっぱり、騙せなかったか。無理だとは思ってたけど。
「兄さんってどちらかといえば出不精な人だったと記憶していますけど。お散歩なんて珍しいですね」
「それはほら、東京へ行って都会の喧騒に疲れたからね。体が田舎を欲してるんだよ」
「いまいちよくわかりませんが……やっぱり、人を探してるんですか?」
ぎくっ。
「ほら、やっぱり! 兄さんってば、動揺するとすぐに顔に出るんですから。どこの雌猫ですか、教えてください。すぐ駆除しにいきますから」
「ナチュラルに物騒なこと言わねーの!」
ぺしっと擬音語を口にしつつ、靖史の頭を軽く叩く。
「ただの散歩だって。さくらい散歩、いいじゃない」
「本当ですかあ。帰ってきてからの兄さん、どこかおかしい気がしますけどね」
「気のせいだって。しばらく会ってなかったから、一挙手一投足がおおげさに見えるんじゃない?」
「そんなもんなんですかね」
どこか納得できないといった表情をしている靖史だけど、これ以上は食いつかないだろう。
「それより、朝ご飯……というより、もう朝昼兼用だね。いただいていいかな」
「あ、はい。今、準備します」
ほんと、普通にしてれば良い子なんだけどなぁ。早くどこかの女の子(この際男の子でもいい。僕以外で)がもらってくれないだろうか。
昨日の夏祭りの屋台は朝のうちには片付けられていたようで、森の中の蓬栄神社はいつものように誰もいなかった。
今の神社は無人らしいから、この空間にいるのは僕一人だけ、ということだ。
拝殿の方角へ一礼だけした後、僕は彼女が来るのを待つ。
話し相手になると約束しただけで、次にいつ会おうとも、どこで会おうとも、具体的なことはなにも決めていない(もし決めていたのなら、間違いなく日記に書き残している)。
そもそも僕は彼女のビジュアルを記憶していない。文通相手に初めて出会うような心境なのだ。
それなのに、なぜか僕は彼女がここにやってくると信じていた。
「もしかして、待たせました?」
時間にしてはそんなに待っていないと思う。声をしたほうへと振り返ると、件の少女がやわらかな笑みを浮かべながら立っていた。
「…………」
彼女の姿を目にして、僕はすぐに声を出すことができなかった。
一昨日の日記に書かれた特徴と完全に一致するその少女を一目見ただけで、僕の胸は高鳴った。彼女の笑顔に見入ってしまう。
「あのー、起きてます?」
「あ、ごめんなさい」
慌てて我に帰る。
「えっと……窪田こまちさん、だったっけ?」
「こまち、でいいですよ、佳久さん」
そう言って、こまちは手招きする。
「ここで立ち話をするのもなんですし、こちらへいらしてください」
彼女が向かった先の建物を僕は知っている。
「ここは……社務所?」
「はい。今はもう使われていないみたいですけど」
懐から鍵を取り出して扉を開けた。
「どうぞ」
「いや、どうぞって」
不法侵入じゃないのか、これは。いや、住人がもういないのだから、いい……はずがない気がする。
「大丈夫です。この神社には誰もいませんから」
「一応聞くけど、その鍵はどうやって?」
「この近くに埋まっていたので、いただきました。鍵をわざわざ埋めてあるなんて、これはもう拾った人がご自由にお使いください、ということですよね」
悪気のなさそうな顔でからからとこまちは笑った。
「ここ、私の秘密基地なんですよ。……こう言えば、男の子ならわくわくしてくれますか?」
「かなわないな」
お邪魔しますと一応声をかけてから、かつて社務所だった建物へと足を踏み入れた。
畳敷きの和室へと通されたのだが、中は思った以上に整理されていて、綺麗な状態だった。
「少し待っていてくださいね。お茶をお持ちしますので」
「もしかして君、ここに住んでるの?」
「違いますよ。ただの秘密基地ですから」
しばらくして冷たい麦茶が目の前に出された。
お茶っ葉はどこから持ち込んだのだとか、そもそもどうして無人の神社に電気やガスや水道が通っているのかとか。気にはなったが、これ以上は突っ込まないことにした。
「いただきます」
「どうぞ」
今日はそれほど暑くないといっても、渇いた喉を冷たい麦茶で潤すのはなんとも心地いい。
「ぷはぁ」
「美味しいですか」
「うん、とっても」
「よかった。嬉しい」
こまちは顔の前で両手を合わせて、にこっと微笑んだ。
わざとやっているのですか、その所作は。いちいちかわいくてしかたないんですが、こんちくしょう。
「どうかしました?」
「いや、なにも」
慌ててこまちから目を逸らす。ここで「かわいい」だなんて口走ってしまったら、なんだか負けな気がした。
「それで。君は僕に話し相手になってほしいんだったね」
「はい。佳久さんのお話を聞きたいのです」
「僕の?」
「佳久さんは確か東京の大学へ行かれているんですよね。私、生まれてからこの村を出たことがないので」
僕が東京の大学へ行っていることは、この村の住人なら誰でも知っていることだと思う。僕個人としてはこのような個人情報はあまり広がってほしくないのだけれども、ここは田舎だ。進学先や就職先はもちろん、交友関係まであっとういう間に広がってしまう。ましてや、僕みたいな村にとって変わり者とあっては。
「えっと、ごめんなさい。気分を悪くされましたか」
「いや、そんなことはないよ」
慌てながら、僕は湯のみに口をつける。
「でも、そんなに面白い話はないと思うよ」
「いいんです。私はお話が聞けるだけで十分ですから」
「うーん」
そういっても難しい。僕は勉強をしに東京へ行ったから、ほとんど大学と下宿の往復生活しかしていない。
それに――五月の終わりのあの日以降のことになると、難易度は更に高くなる。
「まずは今勉強していることの話でいいかな。まだ一年だからそんなに難しいことはやっていないと思う。あまり面白くないと思うけど」
「いいですよ。私、東京の大学で、佳久さんがどんなことを学ばれているのか興味があります」
「まだ専門課程じゃないんだけどね。それじゃ……」
テストのとき以来の記憶を呼び起こす。不幸中の幸いなのだろう、この手の知識が今でもちゃんと脳に蓄積されているのは本当に助かる。
法学、政治学、地理学、歴史学、地球環境学、ドイツ語……大学で学んだ一般教養知識のさわりだけをかいつまんで話してあげた。
僕の説明は上手くなかったと思う。それでも、こまちはうんうんとうなずきながら僕の話を聞いてくれた。
僕の話の中で、こまちが特に興味を示したのは西洋の社会思想史だった。ホッブズやロックやルソーの社会契約説くらいなら、高校の政経か倫理か世界史の授業のどれかで少しは触れると記憶しているけれど、こまちは熱心に聞き入って、時折僕に質問を投げかけてきた。
「――とまぁ、ごくごく大枠だけを説明すると、今のような感じになるのかな。法学はもちろんだけど、だいたいの社会科学は西洋が起源だから、今のような社会契約の考え方が根底にあったりする」
「でも、不思議な感じですよね」
だって、とこまちは続ける。
「これってフィクションですよね。その、人々が自分達の権利を守るために契約で国家を作ったという説明自体が」
「うん」
「それって、王様が神様から権力を与えられたというフィクションと同じじゃないですか」
「同じかもしれない。昔信じていたフィクションではダメだということになって、今は別のフィクションを信じているだけなのかもしれない」
少し熱心に喋りすぎているかも。
「でも、フィクションでもこういう説明をしておくことで、今ある社会のシステムを正当化できるんだ。民主主義とか。基本的人権とか。根底の思想を取っ払ってしまうと、近代社会では当たり前のように思っている権利や自由が、当たり前じゃなくなるかもしれない」
当たり前といってもそれは“僕達”にとってだけどね、と自嘲気味に付け加えておいた。
「今の話はあまり得意げに外で話さないほうがいいよ。なに言っているんだお前、って顔をされると思うから」
きっと、ガリレオやダーヴィンの気分を味わうことができるだろう。ただ残念なことに、彼らの場合は科学的に正しいことが立証されているけど、こちらは自分達の立場の根底にあるものが科学でもなんでもないフィクションなのだ。
「わかりました。でも、私は少しだけわかった気がします」
「そ、そう」
僕の下手な説明でどこまでわかってもらえたかはわからない。
「えぇ。頭の片隅に置いておきますね」
こまちにとってこんな頭でっかちな知識が役に立つ日が来るのだろうか。
「おっと。今、何時頃かな」
腕時計を見ると、五時を回っていた。都合、四時間弱は無駄にご高説をたれていたことになる。思っていた以上に時間の進みが速かった。
「そろそろ帰らないと、ヤスに怪しまれるな」
「ご家族の方ですか」
「僕のことが大好きでしかたない弟君だよ。まったくもう……」
湯飲みに残っていた麦茶をぐいっと飲み干した。
「お茶、ごちそうさま」
「どういたしまして。それで、あの……」
「うん」
「明日もまた、来てくださいますか」
顔を少し赤らめて、上目遣いでそんなことを言われたら、いいえと言う男はいないだろう。
「いいよ。ここでいいんだね」
ぱぁっとこまちは笑顔になった。
「はい。私はここで待っていますから」
今日の僕の話のどこが楽しかったのかわからないけど、こまちは明日も僕と会うことを望んでくれた。
もしかしたら、本当にかつて彼女と会ったことがあるのかもしれない。それくらい、僕とこまちは一緒にいることが自然であるかのように思えた。
でも。
「それではまた明日」
「はい。また明日」
僕の胸に今ある、高ぶったこの淡い感情は――明日には、ない。
「いったい、こんな遅くまでどこをほっつき歩いていたんですか、兄さん!」
家に帰るなり、靖史に質問攻めにあった。あと、お言葉だけど、真夏の六時はそんなに遅くないと思う。
「だから散歩だって。いやぁ、有意義だった」
「じー……」
「じっと見つめられてもなにも出てこないよ」
「今日の兄さんは、なかなか表情が読みづらいですね。嬉しいような、悲しいような、わからない顔です」
いちいち、僕の感情を的確に読み取るのはやめてほしい。エスパーか、こいつは。
「読心術でも身につけるつもりなの?」
「そんなもの使わなくても、兄さんは感情が表情に出やすいんですよ。僕は別にかまいませんけど、あまり他の人を騙すことは考えないほうがいいですよ」
「ご忠告どうも」
感情が表情に出やすい、ねえ。
こんなところで簡単に出てしまうから、記憶に残らないんだよ。なんてね。
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