八月三日

「私、楽しいんです」

 女の子の声が聞こえる。やわらかく、透き通った声が。

「佳久さんといるだけで、すごく楽しいんです。私が知らない世界を聞かせてくれるから」

 ぼんやりとしていて姿を見ることはできない。

「私だってそうです。こうやって楽しくお話するのなんて、本当に久しぶりで……」

 でも。女の子はすごく楽しそうだ。つられて僕も幸せな気持ちになる。

「どうか。せめてこの夏だけでもいいですから。私――」


 * * * 


「ん……」

 今日もぐっすり眠れた。なにか夢を見ていた気もするが、夢の内容を覚えていないのはいつものことなので、気にしないことにする。

 時計を見ると十時すぎ。まぁ、こんなものだろう。

 朝早く起きたところで、することなんてなにもないし。

 いつものように“頭の体操”を一分間ほどしたが、結果はいつもと同じだった。もう慣れっこだ。

 つづいて、枕元に置いてあるノートを手に取る。


   八月二日、金曜日。

    急な電気工事による停電の中、炎天下の外を歩くことに。

    蓬栄神社で「窪田こまち」という名の少女と出会う。

    黒髪ロングで、若竹色の着物を着た、色白の大和撫子さん

   だ。

    なんでも彼女は僕のことを知っているらしいが、僕には記憶

   がない。

    彼女の話し相手になることを約束する。

    靖史によると電気工事は変電所のトラブルによるもの。気に

   なったので、メモ。


 なに考えてんだ、昨日の自分。新しく友達を作るなんて、ほんと、今の自分にとって、なんてリスクの高いことを……。

 今まで見知った人間に対しても普通に振舞えているのだから、初めて出会った人物を前に“ごまかす”ことくらいは簡単だろう。

 しかし、そうは言っても……。

(ほんと、なに考えてたんだよ、昨日の僕……)

 久々に今の自分のことをもどかしいと思った。何事もなく暮らしていけると思っていたのに。

 ……まさかと思うけど、気が狂ったあまりの妄想じゃないよな。


「どうです? 兄さん、似合ってますか」

 嬉しそうに靖史はくるりと一回転する。

「はいはい。似合ってる似合ってる」

「今日も冷たいですね、兄さん」

「うん。どこの世界に、弟の浴衣姿を熱心に誉める兄がいるんだ」

 僕の記憶が正しければ、女の子が言うセリフだよね、これ。

「兄さんの浴衣姿もかっこいいですよ」

「そりゃどうも」

 靖史に誉められても嬉しくともなんともないけど、それでも浴衣を着て祭りに繰り出すというのは独特の高揚感がある。

「しかし、年々人減ってるなぁ。子供の頃はもう少し人がいたんじゃないか」

「仕方ないですよ。みんな都会へ出ていっちゃったんですから」

「うーん」

 過疎化が進む我が故郷。時代の流れと言ってしまえばそれまでであるが、その流れに逆らうことができる力をもうこの村は持っていない。

「兄さん、お祭りのときくらい、難しいことを考えるのはやめましょう。あ、僕、あれやりたいです」

「どうせ飼えないよ?」

「そんなことを言っていたらなにもできません。はい、おじさん、一回」

「お兄さんと呼びな」

 止める間もなく靖史は金魚を掬い始めてしまった。毎年掬った金魚を持って帰って、金魚鉢に放り込むのだけれど、夏休みが終わるまでもったためしがない。

 これも風流な夏の風物詩なのだろうか。尊い金魚の命が犠牲になっているが。

 金魚掬いに没頭する靖史を横にして、僕は神社の拝殿の方角を見つめる。ぽつぽつとではあるが、拝殿の前で手を合わせる人が見受けられた。

「話し相手になってください、か」

 日記に書いてあった女の子のことがどうしてもひっかかる。昨日神社で出会ったのであれば、今日もどこかにいるのだろうか。

「ヤス、どれくらい時間かかりそう?」

「待ってください。今終わったところですから」

 既にビニール袋の中には五匹の金魚が入っていた。

「あ、そう」

「どうしたんです?」

「別になにも。腹減ったから、なにか食べよう」

 僕は探しているのだろうか。彼女のことを。

「変な兄さん。あ、満さん」

 靖史が口にした名前を聞いて、僕は慌てて振り返る。スーツを着た男性とちょうど目があった。

「お久しぶりです、満さん」

「こちらこそ久しぶり。帰ってこられていたんですね」

「お仕事のほうはどうですか」

「おかげさまで。そちらは」

「はい。勉学に励ませていただいています」

 しばし社交辞令の応酬が繰り広げられる。

「それでは……じゃなかった、桜井さん」

「はい」

「六日は来られそうですか?」

「六日?」

「大丈夫です! 兄さん暇ですから、ね」

 慌てた様子で靖史が間に割り込んできた。

 ははん、そういうこと。

「僕は大丈夫ですよ」

「そうか。それはよかった。それではまた六日に」

「えぇ」

 満さんが去っていった方向に一礼してから、僕達は歩き出す。

「……事前に言っておいてくれてもよかったんじゃないの」

「だって兄さん、パーティの類って嫌いじゃないですか。なにかと理由をつけて逃げ出しそうですし」

「そもそも逃げられるような相手じゃないでしょうが」

 満さんは宝瀬村の中でも一番の名家である小路家の御曹司様だ。父親は代議士で、満さん本人もまずは次の村議会議員選挙に出馬するのではないかとの噂だ。

「それで、なんのパーティなんだ。って、政治的なものだよね、そりゃ」

「名目はわかりません。ただ……」

「ただ?」

「僕も招待されていますので」

「ヤスも?」

「はい」

 次の村議会議員選っていつだったか。靖史はまだ中学三年生だから、次の選挙の時にはまだ権利はないはずだ。って、そこまで厳密に考えていないのかもしれない。冷静に考えると、僕だって選挙権を得るのは来年のことだ。

「いずれにしても、小路家からご招待されているのですから、あまり嫌な顔をしないでくださいね」

「ん。顔に出さないようにするよ」

 深いことは考えずに、ご飯だけいただいて帰ることにしよう。

「ところで兄さん、なにを食べたいですか」

「じゃぁ、焼きそばいける?」

「焼きそばですね。待っててください。買ってきますんで」

「ん」


 子供の頃は普通に夏祭りを楽しんでいたと思う。その頃の記憶があるから、夏祭りに来るまではわくわくするのだけれど、もうこの歳になると実際に来たところで特にすることがない。金魚掬いは金魚がかわいそうだと思うようになったし、あてものもそんなに良い景品はまずあたらないことに気付いてしまっている。となれば、あとは食べることくらいだけど、祭りの屋台の焼きそばが格別に美味しい、というわけでもない。

 これが世界が広がる、つまり大人になるということなんだろうけれども。少し寂しい気がする。

(スマートボールでもして帰ろうかな)

 神社の境内を見回す。境内はお世辞にも広いといえないものの、それでもさすがに夏祭り会場にいる全員の顔を確認することはできない。

 男の子二人がかき氷を競い合うように食べている。

 今、輪投げをしている子はずっと輪が明後日の方向へと飛んでいる。しまいに泣き出さないだろうか。

「兄さん、どうしたんですか。きょろきょろして」

 焼きそばを持ってきた靖史が不思議そうに尋ねてくる。

「夏祭りの様子を観察してただけ」

「そうですか。なんだか人を探しているように見えましたけど」

「探すような人なんていないよ」

 見透かされたような気がした。靖史から焼きそばの皿をぶんどると、すぐさま彼から目をそらす。

「なにか隠し事してません?」

「してないって。ほら、早く食べないと冷めるよ、焼きそば」

「なんだか帰ってきてからの兄さん、変ですね。東京ってところは人を狂わせるんですか」

 持っていた焼きそばを落としそうになる。

「あながち、間違っていないかもね」

「都会は恐ろしいんですねぇ」

 それ以上は靖史はなにも言ってこなかった。心の中で感謝しつつ、黙々と焼きそばを口に運ぶ。

 そうだ。あの日から、僕にはおかしなことばかりが降りかかってきている。今さら不思議な一人の少女と出会ったくらいで、別にそんなことはたいしたことじゃないのだ。

 それなのに。どうして僕はさっきから彼女の姿を探しているのだろう。


 だっておかしいじゃないか。


 昨日の彼女の姿も。

 昨日の彼女の声も。

 昨日の彼女に対して、僕がどういう感情を抱いたのかも。


 全部、全部、今日の僕の中には残っていないというのに。


 結局、若竹色の着物を着た長い黒髪の少女は、夏祭りの会場では見かけることができなかった。

 今僕が抱いている、文字にできないこのもやもやは、決して明日の僕へと受け継がれることはない。


 それなのに。どうして僕は彼女を追い求めるのだろうか。

 わからない。

 いったい。どうして。僕は――。

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